胡壷・KOKOの最近のブログ記事

2017年2月 8日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「約束」ひわきゆりこ】
 狭山というかつての祖母の家を訪れる。そこから子供の頃から大人になりまでの祖母の記憶と、過疎地的な山村の変わらぬように見える風景が、時の移ろいのなかに、語られる。
 祖母の記憶が昔の家庭の形の崩壊を暗示しながら、徐々に人が時間のなかに存在する儚さをじわりと感じさせる。そのなかで純郎と出会うことになる。この二人の愛の姿を言葉で迫るのであるが、そこに人生の経験を通じて獲得したと思わせる愛情感覚がいろどりである。さりげなさと独特の味わいが出ている。
 作品の背景には、常に死を意識した視線が感じられるが、それは死の影ではなく、死の光ともいうべき色合いもっている。タイトルの「約束」は恋人との死後の約束であり、主人公はその約束の日をひたすら待つのである。これまで、物語は人の死によって終わることになっていたが、現代文学では死後の世界と生の世界が広がっていくことの一例がここに示されているように思う。
【「河口に漂う」桑村勝士】
 主人公はシラウオの生態研究で、現在は無給だが、大学院で博士号取得に向けて有望なポジションにいる。結婚していて、子どもいる。妻が生活を支えているのだろう。研究生活のなかで、シラウオについて、やや詳しく知ることができる。
 同じ大学院生の中山という男は、博士号をとれる見込みはなく、物語の世界に行くといって姿を消す。この作品も異界との接点をほのめかして終わる。この作品のあとに、作者の「雑感」というエッセイがある。そこで、小説には関数化できる法則があるかもしれないと思ったことがあるという。そして、書くものと書かないものの判断が大切だとある。
 こうした問題は、読者層をどこに向けたものかによって、異なるが、非日常性を好む大衆小説向けには確かにそうしたものはある。ハーレクレインという米国の官能小説は、コンピューターの作った流れと要素を採用しているといわれている。
 また、大塚英志の「物語の体操」で、その構造の共通性をもとに、物語化の基本構造を解説している。ところが文芸作品には物語のないものもあるので、一概に法則的なものが存在するとは言えないのであろう。
【「緑の手綱」雨宮浩二】
 なぜ人は、小説を読むかというと、暇つぶしであり、現実からの離脱、認識力の高度化により、意識の豊かさを楽しむなどの要件がある。この小説は、非日常的な異界物語であり、設定事態はライトノベルに近い、架空世界ものである。映画「アバター」を見るような森の中の描写が楽しめる。
【「三人の母」井上元義】
 産みの母と育ての母、義理の母とそれぞれの事情から、生活のなかで、そうなった経緯を語る。ひとの生活や身の上話は、人間の興味の原点である。テレビ番組でも一般人や、かつての有名人のその後など、身の上情報が人気である。
 その意味で、文学通のこなれた文章での身の上を話なので、興味深く読んだ。自分の人生と比較してしまうからかもしれない。サルトルだったと思うが、人間の「実存は目的に先行する」とかいって、目的をもって作られた道具や商品と人間が基本的に異なる存在であるとする。故に、人の人生行路は興味をもって読まれるのであろう。
発行所=〒811-2114福岡県粕屋郡須惠町678?3、樋脇方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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<2014年 1月18日(土)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

【渓と釣りを巡る短編?(桑村勝士)】
「山桜」
 私は今まで一度も釣りをしたことがない。況して渓流釣りなど全く想像もできなかった。しかしこの作者の作品を読み始めてから、釣りの世界が身近になった。この作品は、「ぼく」が携わっている仕事(漁協の合併)が上手くいかなくて前夜に酒を飲み、二日酔いの状態のところ、妻から「ひさびさに自由にしたら」といわれる。結局、いつもの椎葉村の耳川の源流に向かうことにする。釣り場へ行くまで、釣り場の描写はいつもながら上手いと思う。釣り場を移動し、そこで挑戦するがうまくいかない。帰ろうと思って最後の一投を試みる。この一投に尺もののヤマメがかかる。釣り上げてしばらく愛でてから、また渓流に放した。家に帰りつくのは夜中になる。帰路、ダムの周回路を車を走らせていると闇に沈んだ山陰に山桜が見える。最後の部分(闇の中に山桜が見えるのだろうか。)にちょっと無理があるように感じたが、作者が何とか大きなヤマメを釣り上げた満足感は表現されていると思った。

「神楽、ふたたび春」
 単協の漁協を統括する組織に勤めている小野さんが、漁協の合併に関する不手際の責任を取って辞めるのだが、なかなかタイミングが合わず、会うことができない。しばらくするうちに連絡も取れなくなる。小野さんとは長年仕事を一緒にし、本音で話し合える仲だった。そのうえ、小野さんは九州山地の殆どの渓流を踏破しており、「ぼく」に椎葉村の耳川源流に初めて案内してくれた。小野さんの連絡先は手をまわして見つけていたが、時間が経つうちに、単なる仕事の関係での付き合いだったような感じになっている自分に驚く。
小野さんが職場を辞めたのは新年度になってからだが、8か月ほど経った12月に入るとすぐに、椎葉村の民宿榎之葉荘の若大将の孝太郎君から神楽を見に来ないかという話が来る。妻と息子のター坊連れてくるようにとのことだ。神楽は重要無形民俗文化財に指定されている伝統行事で、夜を徹して舞いが披露されるらしい。勤務の関係でちょっと無理があったが、強引に行くことにする。神楽を見て、夜が明けるころ民宿に帰る。
年が明け、ヤマメの解禁日が巡ってきた。今年のシーズンは耳川支流M谷奥部にある淵で釣りそこなった大物に挑戦することにした。3月下旬の連休にその渓に入った。その淵は険しい渓をいくつか越えて行かなければならない。苦労して淵の入口にある岩棚にたどり着く。岩棚の上から淵を眺めると先行者が1人いる。それは小野さんだった。岩棚から小野さんを見ていると大物が食いついたようだが、最後は失敗する。しばらくすると小野さんは4、5年前に止めたはずの煙草を吸いだした。
ストーリーは、以上のように神楽の見学と耳川支流の誰も行かないような淵で小野さんを見かけるという2つが載っているが、「渓と釣りを巡る短編」を読んでいる私にはすべて繋がっている。作者が書きたい渓流釣りの世界と作者の周りの人物をうまく描いいると思う。「ぼく」の家族、小野さん、孝太郎君の民宿榎之葉荘などが椎葉村の耳川の源流で今後どのように展開していくのか、楽しみである。

【「終の場所」ひわきゆりこ】
 貴絵は18歳まで過ごした家に終の棲家のつもりでやってきた。この家は昭和30年代の初めに貴絵の父が中学校教諭として赴任した時に、海を臨む半農半漁のこの地が気に入って建てた家だ。集落の外れだったが、今では別荘地区に線引きをされ景観条例が制定され、いろいろな面に厳しい決まりができている。父はこの地で停年を迎えたが、貴絵は越境入学をして福岡市内の中学校に通った。父はこの地では「大石先生」と呼ばれ、いろいろな相談を受けていたらしい。
 母は父が70歳半ばの頃くも膜下出血で亡くなり、几帳面な父は、80歳になったら老人施設に入ると自分で決め、実行する。貴絵は結婚をして神奈川に住んでいるが子供はいない。時どき神奈川から福岡まで父の入所先である施設を訪ねてきた。
 そんな生活の中、夫はすい臓がんと診断され半年でほどで亡くなる。夫の死を父に知らせると、葬式には行けないと電話で悲しげな声で話す。それから3か月後父に会いに行くと父は貴絵が誰か分からない状態になっていた。
 こういった背景を背負いながら貴絵はこの家に来たのである。
 少しづつ家の片づけをする傍ら、散歩がてらに古くからの集落に向かうと、畑仕事をしている老婆と会う。老婆は貴絵を大石先生の娘だろうと当てる。この老婆はハナエといい最初に会うのだが、その後少しづつ、トキオという息子、小学校で一緒だったユミ、ユミの息子のハルヒコ、野菜のセロリを知らない河津ショウタなど付き合いが広がっていく。
このような付き合いができても、貴絵には、心の中から土地に馴染むことができない何かがあり、貴絵自身ももがいている感じがうまく描き込まれている。
 貴絵が夫を失って3か月後に父に会いに行ったとき、施設の事務所から受け取った、遺書(「澤村貴絵様」ではなく「大石貴絵様」と書かれおり、父が夫が死亡した翌日に書いたもだった。)の内容から貴絵の両親の本音、父の貴絵に対する思いなどが推測され、心の中いろいろな思いが走り、終の場所での心が上手く整理されないでいる。
 そんな時子供の頃よくいっていた月の浦に行き、河津ショウタに会い、夢の話をすることによって、貴絵が心の中で整理できなかったことがなんとなく整理できた感じになっていく。
 この作品を読んで作者の今までの作風と全く違うものを感じた。今までの作品はどれも明るく、読んですぐに心の中に入り、心に染み付く感じだった。しかし、この作品はストーリーに起伏はなく、心理描写が主になっており、読者に感情移入させるものがない。勿論、作品の中での細部の描写、心の描写などは素晴らしい。私はこの読後感を書くために3回読んでみた。文章、構成、描写どれも非の打ちどころはなく、いい作品であることは間違いないが、いつまでも私の記憶に残る作品になるかはよくわからない。

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「胡壷・KOKO」12号(福岡県)

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2014年1月16日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「渓と釣を巡る短編?」桑村勝士】
 渓流釣りを趣味にする「ぼく」の仕事と生活を描く。釣りの話となると、いろいろな土地の釣り場を巡る話のスタイルができているが、定住者が地域の釣り場を、季節や生活事情を挟んで描いたものは、珍しい。それぞれ面白く読める。連載の始めには、新鮮な緊張感があったが、それが回を重ねるうちに、余裕がでてきて円熟しているのが、連載過程の変化で納得できる。渓流の場面は、現場の雰囲気が良く出ていて、読みどころになっている。
 「山桜」と「神楽、ふたたび春」の2編だが、後者の方で、職場の元同僚が「ぼく」と同じ場所の獲物を狙っている姿を描き、その後に声をかけずに去る。釣りという遊びのディレッタンティズムの本質が孤独な自己完結型のものであることを示して良い味になっている。
【「終(つい)の場所」樋脇由利子】
 夫を亡くし、子供もいない貴絵は、還暦を迎え、故郷の亡き父の家に戻って住む。育った土地ではあるが、昔馴染みも老いて、故郷は見知らぬ世界となっている。ありふれた状況といえば、そうであるが、陰翳礼讃の感覚による筆の運びが、日本人特有の人生観を投影していて、それを納得できる人生のあり方として説得されてしまう。今はニーチェ哲学的な人生観が流行っていて、毎日が祝祭日として過ごすことを良しとし、輝く人生を礼賛している。明日こそ、前向きにドラマチックに、ワグナーの曲のように生きるーー。しかし、貴絵のような境遇の描き方は、ニーチェ思想に向けて、そうはいかないこと示して見せているように思える。ごくささやかな小さな感情の起伏のなかに、全人生が存在している。
紹介者「詩人回廊」編集者・伊藤昭一。

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胡壷・KOKO 11号

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 感想が遅くなりました。

「渓と釣りを巡る短編? 隠れ沢」桑村勝史
 これまで黙っていたが、この作者の渓流釣り小説をひそかに愛読してきている。
 小説というのは人間を描くものだと思っている者から見ると、この「渓と釣りを巡る短編」では、渓流や岩魚や滝つぼやらの自然を描くことに精力が費やされていて、人間はその背景のように書かれている。最初はそのことに違和感を感じていた。
 しかし、小説が必ずしも人間のみに焦点を合わせる必要はない。人間も岩魚も渓流も滝つぼも民宿のおじさんも、存在としては等価なのである。むしろ人間描写だけに囚われずに存在するものを並べて描こうとする作者の姿勢をよしとし、渓流のせせらぎ、岩魚の魚影を楽しめばよいのだと気づいた。この作者の才能は狭い視野の中に見える人間を描くことより、世界全体として、あるいはその一部としての渓流や釣りをみごとに描くことにあった。と、今回の「?」でようやく思い知った。

「女子会をいたしましょう」 ひわきゆりこ
 日帰りバスツアーで知り合った、珠代、萌絵、私の三人が、その後集まって食事会をする、すなわち「女子会」をする様子が描かれている。その内容自体はいかにも現代風でよくある話になってしまうのだが、この作品の語り手というか視点となっている「私」だけでなく、珠代、萌絵の個性や生の来歴、そして今後をもきちんと提示するように描かれており、それがこの小説をしっかりと支えている。三人はもう多分二度と「女子会」で会うことはないだろうし、それぞれが個々の生を生きてゆく。
 先に評した桑村さんは、渓流や岩魚を描写することで逆に人間とは何か考えさせる。ひわきさんはその反対で人間そのものに視点を置いて直截的に描こうとしている。それも肯定的視点からである。

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  季刊「遠近」kitaohiさん(「文芸同人誌案内」掲示板より転載

 題名を見たとき、霞が関や丸の内のキャリア女性の女子会が頭に浮かんだ。ところが読んでみたら全く違う。

 珠代さん(亀田珠代、67歳)、萌絵ちゃん(南萌絵、20歳)、私(岩倉千沙、43歳)の3人は、商店街の福引の景品で当選した日帰りバスツアーで、偶然一緒になった1人参加の仲間で、昼食の焼き肉を食べたり、バスが案内する貸工場などで試食したりしているうちに打ち解けて親しくなる。帰り際に珠代さんから、よかったらこれからまた会わないか、という提案があった。3人は、お互いの携帯に名前、番号、アドレスを登録する。私は携帯に登録したが、彼女たちから連絡が来ない確率が高いと思っていた。

 私は、旅行社に勤務しており、父、母と住んでいるが、最近は母も結婚を勧めなくなった。そんな時、旅行社の客で、建築デザイン会社を経営している佐野さんと知り合う。彼は、奥さんと高校生、中学生の4人家族だ。私も彼も、お互い「都合のいい相手」として付き合っている感じだ。

 今まで携帯にメールや電話が入るのは佐野貴之だけだったが、珠代さんから初めてメールが入ってきた。萌絵ちゃんも来るので珠代さんの家に来ないかという。珠代さんに案内された家は、正面玄関の両開きガラスドアに擦れた金文字で「亀田醫院」と書かれているお化け屋敷のような家だった。珠代さんの家はお父さんが医者だったが心筋梗塞で亡くなり、母親も10年前に亡くなったという。珠代さんは、食事を用意しながら、こんなのが女子会っていうんでしょうと、とても嬉しそうだ。萌絵ちゃんは酔うと「努力しなくちゃ」と繰り返す。

 萌絵ちゃんは、高校生の時、バイト先の30歳の男性と付き合うようになり、妊娠する。彼の家に住むようになったが、DVで階段から蹴り落とされて流産し、家を追い出される。現在はコンビニの店員で、ワンルームマンションに住んでいる。萌絵ちゃんは、自分が人並でないので男ともうまくいかなかったと思い込んでいる。

 3人が打ち解けて親しくなったころ、萌絵ちゃんから、遠い街に彼と一緒に行くからというメールを最後に携帯が繋がらなくなった。萌絵ちゃんの新しい彼氏は、サラ金で借金をしているので、温泉旅館に住み込んで返すことにしたらしい。

 萌絵ちゃんは努力家だから大丈夫だと信じ、これからは珠代さんと2人で女子会をしながら萌絵ちゃんが帰ってくるのを待つことにする。私は佐野さんの電話を携帯に受信拒否の設定をした。

 この作者の作品を多く読んでいるが、どれも全く違う感じの作品で、作者の発想の豊かさ、才能の奥行の深さを感じさせられる。構成もしっかりしており、読後感がいい。題名の現代性から受ける感じと作品の内容の意外性がうまく溶け合っている。珠代さんは、神社の前で手を合わせる女性だと本人にいわせ、ガンに罹っているとしているが、作者が一番書きたかった女性ではないか。若い萌絵ちゃんが古い考え方の女性として書かれているのも面白い。「私」は傍観者だが、珠代さんの生き方に共鳴している感じだ。この作者の作品は、いつ読んでもいい。私の好きな作者だ。これからもどんどん作品を発表してほしい。

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2012年4月18日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「彗星観測」桑村勝士】
 大学の入学試験を終えて、その合否の結果待ちの高校生たち。ハレー彗星を見ようと友達仲間と望遠鏡で待ち構えるが、天候の都合が悪く、なかなかみることが出来ない。彗星は学生たちの青春時代の未来の指標のように、雲間に隠れて透視することができない。彗星を見るのに熱心だった友人は受験を失敗し、主人公は、大学受験に合格し、内でマドンナ的な彼女との交際の機会を手にする。彼の心の星はまたたいたのか。
 明確な描写力で、青春期のロマンと不安の同居したどこか傾きのある精神状態を描く。
【「女子会をいたしましょう」ひわきゆりこ】
 商店街の籤びきの景品に日帰りバスツアーがあり、それぞれの事情でそれに乗り合わせた3人の孤独感をもつ女性3人。主人公は両親と同居した40代、知り合ったのは、60代と20代の世代の異なる女性。それぞれの世代での女性のかかえる現代的な課題を、ソフトな文体で差し出す。物語の軸になるのは主人公が交際中の男性との関係。話の合間にそれとなく問題提起し、主人公が男性との関係にもちはじめた不毛感を暗示。、彼女が男性との関係を清算するところで終わる。
 これはこれでこの作者ならではの人間の生き方の表現法が発揮されている。商業性の追及なき純文学表現の独自追究の姿勢になりつつあるのかなと、なんとなく「グループ桂」の宇田本次郎氏の創作態度を意識させるものがある。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

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2011年8月25日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「散文詩三題」井本元義】
 散文詩というと叙情的なものを根底に置くのだが、これらの作品は、どれもそのなかに、ぴりっとした刺激、小さな火器のような爆発物を内臓している。欧州の影響をうけた近代文学の伝統的な味も籠めている。「春の光、病めり」では、死にゆくものの視線。若い牧師と未亡人の心中という伝説。現実の人生の幻想性と芸術の永続性を浮き彫りにしているようだ。「図書館」も、現実の人生から乖離した男が、それを読破して、膨大な現実の残滓、抽象化に浸る、その源である現実はどこにあるのか、男の意思を描く。「顔」も図書館で読書にひたる男の現実の幻影性と芸術について想いめぐらされるものがある。

【「プライド」ひわきゆりこ】
 姉と妹の性格と人生感のちがいを、姉妹という立場で描く。母親の介護をという子供の課題を透して、具体的に書き上げていく。親から絶大な信頼を無条件に得ている姉と、二の次にされてきてために、姉に比べて客観的に、バランスをとってみる妹に描く。母親を介護し、母親をどれだけ大切にしているかという誠意を軸に姉妹のライバル心が交錯するところが面白く読める。これを書く立場から見ると、視点のちがいを明確にし、章分けをした書き方である。これは分かりやすく、読みやすいので娯楽物に多く使われる。細かい神経質なやりとりが面白いが、文章的に「......たのだろう」という推察的なものが多用する癖がある。その分示す意図をぼやかしてしまい、効果をそぐところが気になる。たとえば「なぜ泰則はあんな向上心も自尊心ない男になってしまったのだろう」とあるところは、「なってしまった」と断定しないと、読者に陽子の性格がはっきり伝わらない。それが、月子のイメージづくりを曖昧にしていると感じた。同時に、姉妹の思いとは別に認知症状態になった母親は、それをどう思っているのか。月子がよくやってくれるので、月子に頼る心理ならば、月子の価値感の勝ち。あくまで長女の陽子に信頼を寄せるようなら、月子のプライドも傷つく。そこまで書き込む余地はあったように思う。

【「渓と釣りを巡る短編?」桑村勝士】
 自然と人物のなかに失われた日本の原型。炭鉱の事件があるが、何か人間がうごめいて文明と富を築いてきた過程を思い起す。

 納富さんのあとがきには、ひとごとに読めず。なにかを言うと、同病相哀れむになりそう。納富さんや、病と闘うみなさん、自分にも向けて、大事にしましょう。

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「胡壷・KOKO」9号(福岡市)

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<2011年4月10日 (日)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:「クレーン」和田伸一郎>

【「小倉まで」ひわきゆりこ】
これは奇妙な小説だ。50代の「私」が小倉の叔母に会いに行くというだけの話だからだ。このシンプルな物語の中に作者は現在の日本社会の病的な表情とその奥に潜んでいる縁がか細くなった、ほとんど無縁状態になっている人の孤独、孤立感から来る不安をたくみにあぶりだしている。
 小倉の叔母は、私が不幸に陥ったのはあんたの一族のためだと難癖を言うために、「私」を呼び出したことを知り、「私」は憤慨する。
「私」は小倉駅付近で見た奇声を発しながら走り去った青年のことが念頭から離れない。理屈に合わない感情をもてあましている叔母とこの青年がどこかでつながっていることを暗示している。
 小倉の叔母の書き込みがいまひとつ浅く、その与える印象が一般的なところに不満が残るが、現在という時代の病的な断面をなにげない日常から描いた好短編というべきだろう。

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「胡壷・KOKO」9号(福岡市)

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「季刊遠近」kitaohiさんの評をHP「文芸同人誌案内」掲示板より転載いたします。

今回は「渓と釣りを巡る短編」(胡壷第9号、桑村勝士)から感想を書いてみることにする。

作者は、胡壷第7号に宮崎県臼杵郡椎葉村を流れる耳川源流のX谷を題材にして、「鍵」(キーとルビがある。)という題名で作品を載せている。この「渓と釣りを巡る短編」も同じ場所を題材にして書いている。

「峠越え」は「ぼく」(県庁農林水産部勤務)と小野さん(漁協関連の団体に勤務)は勤務先は異なるが、「ぼく」はその団体の監督する立場にあるらしいことがほのめかされており、ある事件の関連で、「ぼく」と小野さんが一緒に釣行するのは憚られるような立場らしい。

その小野さんと偶然耳川源流のS谷で一緒になってしまう。渓流での釣果あったものの雨が強くなり、遭難しそうになる。しかし、小野さんの判断でうまく帰ることがことができるようになった。

簡単に書いたが、内容は素晴らしく、釣りを全く知らない私がぐんぐん引き込まれてしまった。

「夫婦ヤマセミ」も耳川源流の渓谷に小野さんといった話である。大物を釣り上げようとして失敗したが、そこにヤマセミの話をからませて爽やかな作品に仕上げている。文章も凝っておらず、作者が書きたいことをしっかり書いていることが強く感じられた。作者のこの世界(渓流釣り)の奥行きの深さを感じさせてくれる作品である。

私はこの世界は全くわからないので、インターネットで日本渓流JP翠渓会のサイトで耳川源流を調べてみた。耳川源流の渓流を遡る動画も載っていた。本当に大雨に会ったら帰れないだろうと思う。

作者がこの舞台で、人間関係、或いは釣りと川魚を狙う動物などをつかって書こうとしたものに十分迫れなかったが、また日を改めてそのことに触れてみたいと思う。

今回は駆け足で読み、書いてしまったのでお許しを願いたい。

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6月28日付「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載。

【「パートタイム」納富泰子】
 主婦がパートタイムで働きに出ようと、面接にいく。古美術商の事務所とかで、なんとなく怪しげな会社。いや、会社という建物ではなく、民家のようなところに机と電話を置いたようなもの。大勢の面接者がいたのに何故か主人公が選ばれる。仕事は留守番だが、誰もやってこない。そこで、パート勤務の様子が逐一語られるのだが、怪しげな社長とその振る舞い。そこに脇役で出てくる足に障害のある若者。それらがみんな面白い。作者の名を見れば当然かも知れないが、とにかく小説が上手い。書きっぷりに惚れていても仕方がないので、すこし理屈を言おう。
 まず、「私」の夫は海外に出張が多い。日本のビジネスは海外に舞台を移している。国内で仕事を探すと空洞化で、ろくな仕事がない。自動車関連工場は閉鎖されている。「私」が出会ったパートタイムの仕事も、実業には程遠い虚業。留守番を頼まれた家からは、隣のアパートの老老介護の現場の生活状況が見える。しまいには、お金を稼ぎに行った会社が自己破産で、金を借りて欲しいとまで言われ、ただ働きどころか、大損をしそうだ。辞めるしかない。一年経ってみれば、その民家も壊され跡形もない。日本の社会を現在進行形で見事に凝縮してある。現在、過去、未来と、どんづまり社会の倦怠を描く視線が鋭い。

【「運河」ひわきゆりこ】
 これは流れの遅い運河の話であった。時間ものんびりして悠長に流れる。納富さんと住んでいる場所と空間が違うのがわかる。それで内容が人間の澱んだ意識かと思えば、なんと愛情物語のようなもの。描かれた倦怠も相当なもので、次に何かが起こるのをじっと待つ女心の不思議さは伝わってくる。幾重にも折り重なった下にある女性の欲望の厄介さのようなものを感じさせる。

【「松林の径」桑村勝士】
 「私」は剣道の先生でもある兄が再度、入院手術をするというので、妻と共に福岡に飛行機で向かう。兄が体調を崩したのは45歳の時、胃を3分の2きり取った。それから、また再発したらしい。兄の死の予感のする見舞いをし、その後、妻から妊娠を告げられる。死と生のコントラストを効かした作品。同人雑誌的には文句はない。悪くはないけれど、どうもまとまりというか、イメージがはっきりしないところがある。
 書き出しの飛行機の不安感、後半での釣り場での海へ漂流するイメージ、寒々とした故郷の気候。きちんと書いてあるのだけれども、いまひとつ彫が浅いのではなかろうか。純文学を意識して、同人雑誌的な雰囲気に合わせようとしすぎのような気がした。読者としては、前作の出来からして、道場破りをする時の「たのもう」と声をかける緊張感のある気分が欲しいところ。

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