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「砂」第123号(東京)

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2013年10月 6日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「九蓮宝燈」木下隆】
 サラリーマンの村田幸治は、会社帰りに職場の仲間と麻雀の最中から小説が始まる。3年ほどの経験であるが、なんと「九蓮宝燈」をテンぱってしまうのだ。手が震え、動作がロボットのようにぎこちなくなる。この書き出しは素晴らしい。スリルと緊張感がたっぷりだ。そして、見事ロン牌が出た。あがりだ。これで、社内でやや軽んじられていた同僚の間で、一目置かれるようになる。高揚感にひたる。しかし、麻雀で同僚から大勝ちして金を巻き上げていることが課長に知られててしまう。やや不安になる。落ち込み感。そして、友人から「九蓮宝燈」をやった人は間もなく死ぬという都市伝説がある事を教えられる。阿佐田哲也も「麻雀放浪記」でその例を書いいている。えっ、となってがーんである。また緊張感。道を歩くにも、信号を渡るにも、細心の注意が必要だ。そんなある日、麻雀で夜遅く帰ると、駅の改札で赤ん坊を抱いた女が立っている。それは、アパートの鍵を失くした妻が、部屋に入れず寒空の下2時間も夫の帰りを待ち続けていたのだ。おお、なんという愛しくも切ない女心だ。しかも、彼女は家計をを切りまわすお金を紛失してしまっていた。村田は麻雀で得た金をそれに充当することにする――。めでたし、めでたしである。これは予想もしない予定調和の結末で、またびっくり。
 じつは私は、この「砂」の形ばかりの同人で、久しぶりに合評会に出たことがある。木下さんの前作を「よくできた作文」と評した。それというのも、彼が文芸作品を書きたいと言ったように思えたからである。それなら、これは作文で文芸ではない、と感想を述べたのである(実にへそまがりな自分である。友達ができないのが当然だ)。すると彼は不当な評価だと怒ってしまった。文章教室の講師も褒めたという。本当は良い作品なのだった。ところが、私の根性が良くない。文芸評論家がほめようが、読者として、最初から結論のあるものなら、社会論文にすればいい。これでは文芸にはならない、と言いがかりをつける。そして「次に私をぎゃふんと言わせるものを書けばいいではないですか」と言い放った。当然であるが、彼はそれに腹の虫がおさまらず、しばらく投稿がなかった。(我ながら悪い奴だと思う)。それが久しぶりに投稿したのが本作である。大げさにいえば、これは短編ながら読者の心をゆさぶり惹きつける「うねり」のつくりは、ドスエフスキーの「罪と罰」に匹敵する。とにかく、木下さんには「ぎゃふん」といわされました。一般論として、大会社に定年まで勤めて、退職後に文学をやるという人はには、自分に文学的センスがないことに気づかない人が少なくないと思っていた。しかし、木下氏の例を考えると、どうもセンスがないのではなく、眠っているだけで、努力でそれを磨きだすことが可能なのだ。それにしても何処までも学んで前進する姿勢には感銘を受ける。木下氏の社会人としての大人の対応に比べ、なんという自分の子供じみた言動なのだろう。ただ懺悔するしかない。いまさら遅いのであるが、いつも自分は反省が遅すぎるのである。
発行所=〒134-0091東京都江戸川区船堀1?3?3?204、牧野方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

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「砂」121号(東京)

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2013年1月26日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「芝居の値段」中村治幸】
 この作者は不思議な持ち味を変らずに持ち続けている。私は「物語」カテゴリーで、この人の麻葉加那史の筆名での作品を出してある(二日酔いの朝は憂鬱で哀しいという意味であろう)。
 日本の近代文学の伝統的な私小説の作風をかたくなに守っている。40年以上前から変わらない。そのころからわたしは、古臭い文学手法しか知らない文学青年だと思っていた。文学ではあるが、いかにも時代遅れだと思っていた。しかし、世間の変化に平気で取り残されて行ってるのにこうまで、スタイルを変えないとかえって新鮮である。立派な文学老年である。
 今回の作品は、随筆になっているが、日本の伝統的な形式として存在する私小説であろう。昇は65歳でフレンチレストランの洗い場で働いている。久しぶりに池袋の映画館「新文芸座」に行く。映画は三谷幸喜監督脚本「素敵な金縛り」とさだまさし原作、瀬々敬久監督脚本の「アントキノイノチ」であった。昇にとって映画は、昔から好きであった。友の会にも入っている。何回か入るとポイントがたまり、タダで見られる時があるのだ。いまは映画観賞が労働の疲労を回復する手立てなっていることがわかる。そして、その映画館の客が減っていることに気がかりを持つ。トイレの正面に映画館の友の会の勧誘張り紙がしてある。昇は映画館の入場料が高くなるのを心配している。その視線が、昇のつつましいなかで娯楽を見出して満足してきた庶民的境遇とそれを自然体で受け止める姿勢を物語っている。
 ここには昇が読書会で知り合った鈴木さんという男の話が出ている。彼は歯科医の息子だったが、父親と同じ職業を選ばず、若い頃アメリカに留学して、帰国してからもいろいろな職業につき、65歳で退職し現在は年金で母親と暮らしている。彼は舞台演芸が映画より料金が高いのはおかしいと文句をいう。鈴木さんという人は怒りっぽくて、いつもなにかに怒っていてそうせずに居られないものが心の中にあるようだという。
 おそらく、昇と親しくしているのは、やはりつつましい生活を送っているのであろう。それは劇場の料金が高いという考えからも推察できる。そして、昇とは異なり、つつましやかな庶民生活に安住できないでいるらしい。誰かに下積みの生活を強いられているように感じて、裕福な生活をする人が存在する社会に対しての怒りがあるのかも知れない。昇が喜劇の話をするのだから、怒らないだろうと思ったら、それでも怒りだしたという、ところに何とも言えぬユーモアがある。
 また、昇という語り手が、金銭的な価値観から独立した芸能を愛し、つつましく生活を楽しんでいるという設定が、文芸作品としての核になっている。喜劇すらもお笑いという味気ないものに変ってしまい、真の芸能の理解者が居なくなるという、さびしい現実の感傷的要素が、文学的な味わいとなっている。
 もし、これを映画館の入場料や現在のテレビ中心のお笑いへの批判だけに終わっていたら、それは新聞の投書蘭の意見、オピニオンに過ぎず、作文であって文芸ではない。老年、映画館のトイレ、貧しさ生活に安住する精神、これらの細部の意識的な組み合せがあって、スタイルが古くはあるが文学の領域に存在しうるものになっていると思わせる。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

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