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 「繋」6号

 雑誌を送っていただいてすぐに読み始めたが、じきに日常の多忙に紛れて中断し、この頃になってようやく読了した。ただし、末尾に「それぞれの修行編・了」と記されているので、そうか、これで終わりではなく、更に別の編が続くのだなと思うと感想が書きにくくなったが、楽しみが先送りされてわくわくもする。

 先ずは、「百花繚乱...」といい「川向こうの預言者」といい、佐久間さんて何てデフォルメされた存在としての人間を描くのが上手なんだと感心した。
 そしてこの二作を拝読しながら、1932年にアメリカで制作・公開された『フリークス』 (Freaks)という映画を思い出した。
 この映画は文字通りの肉体的畸形を負っている彼や彼女たちが主人公であったのだが、佐久間さんの「川向こうの預言者」に登場しているのは、そういう肉体的・物理的畸形を負った彼や彼女たちではない。
 いや、やや常識的数値を超えた肥満や痩せである彼女や彼が登場してはいるのだが、そんなことは問題ではない。これに近い肥満や痩せは現実に存在している。
 問題は、記録する者として選ばれた「わたし」が直面した、この宗教団体とも邪宗とも言えないほどの小さな怪しい宗教グループの構成員のひとりひとり、すなわち肥満体の「預言者デブリ」、あるいは今にも死にそうに痩せた「修行者ガリリ」、あるいはアリアドネーさながら独特の迷宮ダンスを踊る「神の踊り子フルフル」、意味があって無い言葉を発し連ねる「空洞詩人カラン」、そんな彼らがどことなくだが、決定的に普通の人間ではないことである。
 彼らは、映画「フリークス」の彼らのような肉体的・物理的畸形としてのフリークスでは決してない。けれども、彼らは人間という名の存在としては不確かな、畸形=フリークスである。
 にもかかわらずである。そんなフリークスな彼らが何と生き生きと描かれていることか。私が佐久間慶子さんを賛嘆するのは、このような現実には在りない畸形=フリークスとしての人間を活写していることである。
 一人でも多くの書き手=読み手に読んで欲しい小説であることは間違いない。

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                Lydwine.さんの読書ブログ「片隅の読書」より転載


デジタル文学館に新たに掲載された作品が面白くて、PDF(1、2)を画面で一気に読んで、さらに印刷してふたたび読んでしまった。
「繋(ケイ)」という同人誌の第4号に掲載された作品との由。

タイトルは「百花繚乱 呵呵大笑」、作者は佐久間慶子さん。

あいにくと、私は「繋」誌やその作者さんも、かつてしらない。吹田市で発行している同人誌だそうだ。

「百花繚乱 呵呵大笑」だが、まずその文体が個性的だ。
往々にして、読み易さや、ちゃんとした日本語、文章という意識にとらわれて、個性を失いがちのなかで、個性を出すという冒険は、なかなか度胸を要するが、ここで、佐久間さんは、佐久間さんの文体としての個性というより、語りのスタイルを用いることで、語り手の個性にしている。

 あたしたちは、うみみとそらら、十三、四歳というところだね、といわれる一卵性双生児の一部始終のそっくりさん。

この書き出しが、すでにして、なんだこれ? と思わせる。
捨て子だったふたりは、たしかな年齢がわからないから、拾われたときに「というところだね」と言われ、以来、年齢を言うときは、「というところだね」と言い続けるのが、うみみ、あるいはうみみとそららのふたりだ。さらに、娼館に拾われて育ったふたりは、どうやらことに四字熟語を丹念に教えたらしい「学術担当」のユリリの影響か、いちいち四字熟語を持ち出す癖がある。ユリリの「常連上客」には作家のブライハがいて、この男の書く小説のタイトルが、「残夢消滅」であったり「恋慕腐乱」であったり、創作四字熟語なのだから、その影響かもしれない。ブライハ、これはもちろん無頼派だろう。

さて、彼女たちが拾われたのは1949年でありそれから十年がたったといい、場所は墨東だという。これほど明確に時空を明確にしている。だが、そこで描かれている物語は、荒唐無稽だ。
1949年の4月3日、双子が拾われたその日に、社交クラブ百花繚乱は開店したが、それから十年の間に、百花繚乱は、分館のようなビルをその周囲に巡らせて肥大していき、百花歓楽を形成する。そして、双子をはじめここに現われる人間たちは、そこを世界として生きている。巨大な歓楽街に過ぎないならば、その外が存在し、客たちとはそうした外界から訪れる者たちであるはずだが、それがまったく見えない。百花歓楽はすでにひとつの街になっており、そこにはすでになんでもあるから、そこで生活する者たちがある。
ブライハがよい例だ。彼はユリリのもとにい続ける。

そして、語りのスタイルは、段落も侵食してしまう。段落の終わりさえが、読点で結ばれるのだ。それは、口語にありがちの、語尾を結ばないまま、延々とつながっていく、文節としてはつながりながら、文章としては成立しないような語りだ。

 双子姉妹のあたしたちは、父親も母親も知らないし、なまえの由来だって知らない。正確な年齢だって知らなくて、社交クラブ百花繚乱に拾ってもらうまえのことは、記憶喪失なんだけど、
 あたしには生れたときから隣りにそららの感触があって、そららにはあたしの感触、それだけはいつだってあって、あたしたちはお互いの感触がなかったら、喜怒哀楽あふれる疾風怒涛の年月に耐えられなかった。これからだってそうだ。

この小説には、十年の時間が書かれている。いや、語られている。39Pほどだから、100枚を超えるとは思うが、150枚には達するまい。その間に、開店した娼館が、ひとつの世界にまで発展していく。
このとき、双子を拾った百花繚乱の中心物といわれるトミママの在りようが、この物語のなかで、主人公は双子ではなく、百花歓楽と呼ばれる街そのものであることを象徴的に体現している。
百花繚乱が、イチおじさんの手腕で巨大化し、百花繚乱をはみ出していき、すると、百花繚乱の主であるはずのトミママの力が及ばないところにまで成長する。と同時に、トミママの身体は甘いものの過剰摂取で肥大化していく。肥大化した身体は、外出さえ許さなくなる。

 百花繚乱のまわりにはすごーい数の細長ビルがくっつくように群れ建って、百三九花、百四〇花、百四一花、と百花繚乱をお臍みたいにまんなかにして、道路をはさみ、どぶ川をわたって、
 気がつくと、細長ビルにはさまれた道路には、ビルとビルとに支えられるようにして、道路の幅のビルが建ち、どうせ百花歓楽のお客さんしか通らない道だから苦情はないし、どぶ川は下水管にして風呂や洗面所、洗濯場、炊事場の入った専用ビルをつくって、もちろん有料、百花歓楽は自己増殖をつづけた。

百花繚乱は百花歓楽の臍だというのだし、百花繚乱の中心人物といえばトミママだった。そして、トミママは、百花繚乱にいつづける。

 トミママは眠るとき以外は食べつづけ、太って、太って、豊満体形、百花歓楽が百五三花、百五四花、百五五花......と、とめどなく規模拡大していくのに、一蓮托生。

イチおじさんがその街を支配していながら、トミママと百花歓楽は一蓮托生だという。トミママ=百花歓楽に違いない。

だが、そのトミママも、やがて百花繚乱を出ることを余儀なくされる。百花歓楽で働くお姉さんのために、百花繚乱という中心を離れるのだ。それなら、いよいよ百花繚乱に隣り合う百一花に事務所を構えるイチおじさんこそ、百花歓楽の支配者かというと、そうではない。なぜなら、お姉さんたちは、かつてなくトミママを神のようにも慕って、詣でてくるありさまなのだし、なにより、イチおじさんは百花繚乱に入りはしない。
それはなにを意味しているだろう? 百花繚乱という場、中心の喪失だ。この街には、中心がなくなったのだ。
それでも、トミママは詣での対象になる。さらに仔細に見れば、イチおじさんもまた、若いモンたちの憧れの対象となっているという。
そうなると、ここでもまた、精神医学的な分析がしたくなってしまう。最後には、百花繚乱という場の中心を離れながら神となったトミママは、その身体の中心部分(女性器)を信仰の対象にしてしまうのだ。歓楽街のことなら、それもまたむべなるかな、という気はするけれど、外縁部にある中心と、さらにお神輿のようにも街を練り歩く自由の女神像というのは、あまりにも象徴的に過ぎたきらいはある。
と考えると、双子の存在の、語り部としての在りようも、物足りなさを覚える。いや語り手に終始することなく、動き回り、出来事に立ち会う、十分に物語りに機能しているのだが、それなら、うみみとそららという双子であることはどうだっただろう、と考えたとき、首が傾げる。前半部には、相対化されたふたりがあったが、しだいに、うみみの語り、いや語りというよりはそのときの心情を補足する存在としてのそららだったように思える。ひとつの出来事にたいし、異なる感情があること、そのための双子という装置だったように思えるのだ。それなら、ひとりでも十分だったのではないかというのが、正直なところだ。

とはいえ、細部の、その街の在りよう、それぞれの存在、創造的な小説に出会えて、とても楽しかった。その文章だけでも、十分に楽しめる。

ブライハの存在といい、幼くして娼館で育つ美しい少女の話といえば、まず私の記憶のなかで、ブルック・シールズのデビュー作、ルイ・マルの監督になる「プリティ・ベビー」が浮かんだ。だが、それが墨東の話といえば、やはり永井荷風を思い出すし、ブライハといわれれば、無頼派を連想もする。楽しい小説というのは、往々にして、過去に楽しんだ小説や映画などを思い出させる。


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