季刊・遠近の最近のブログ記事

2017年1月30日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 創刊20周年記念号ということで、同人雑誌で活動する作家たちの寄稿特集がある。下澤勝井、豊田一郎、五十嵐勉、坂本良介、藤田愛子、高橋光子、山之内朗子、小沢美智恵―各氏が同人雑誌に関わる事情を述べている。
 たまたま、今日のネットニュースで、米国ではフェイスブックで「知り合いの輪がどれだけ広がるか」をテーマに調査をしたところ、知り合いになるのは同好の人々だけになるので、それほど知人の輪は広がらないということが判ったそうだ。
【「『歌と日本語』補遺」勝又浩】
 角田忠信の近著「日本語人の脳」(言叢社)を読んだことによる感想である。角田理論には、日本人には情緒を刺激する虫の声が、西洋人にはただの雑音にしか過ぎないという脳の構造の解説がある。さらに「日本語人」は左脳=言語脳で母音も子音も受け取るが、西洋人が左脳=言語脳で受け取るのは子音だけ、母音は右脳にいってしまうこと。母音を基礎にした五十音図がつくれるのはほとんど日本語のみ、という説を紹介している。
 自分も、日本語の言語美の象徴として、万葉集の歌を「漢語系」の外国人に説明したが、理解されなかった記憶がある。しかし、最近の日本人は、山のキャンプに行くと、子供が渓流の音や、虫の鳴き声がうるさいと、運営者にクレームをつけるそうである。
 自分はいつからそうなったのかを、調べたいと思っている。
 また、勝又氏は「同人雑誌神社」をつくる案を提案している。じつは文芸同志会では、かつて「文芸神社」を作ろうと、芸術の対象の神社(弁天神社)や廃止神社の再興の道をさがしていたことがある。一時は、鳥居の穴だけの廃神社跡をみつけ、その交渉にかかったら、それをきっかけにしたのかどうか、再興の話が出て、実際に新しい鳥居ができてしまったことがあったものだ。
【「戦禍と悪夢」(二)藤元】
 なんとなくきな臭くなったこの世界。日本の過去の戦争被災体験を生々しく語る。よく書いている。これがどれだけ実感を伴って受け取られるかが、問題であろう。文学的価値より社会的な価値に優っている。
【「寒桜」難波田節子】
 佑子は未亡人だが、子供がひとり。職業婦人である。祖母が孫の面倒を見に同居している。結婚を考えている男がいるが、彼は生命保険のセールスウーマンと親しくなってしまう。あれやこれや、創作上の人物を造形して現代風俗を描く。お話のつくりが巧みなので、読んで退屈しない。素材がなんであっても読ませてしまう文章技術には感服する。
【「倒れたわけ」河村陽子】
 事実を語ったものだとしたら、その記憶力の正確さに驚かされる。
【「夏の夜の唄」花島真樹子】
 大病をして入院をしていると、かつての恋心を抱いた僧侶が見舞いにやってくる。自らが生死をさまよう大手術のことで、変に思わず会話をするが、あとで、その男は同じ病院で先に亡くなっていたことがわかる。ありふれているようで、幽冥の世界を見事に表現している。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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「季刊遠近」61号(横浜市)

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2016年10月21日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「紙の卒塔婆」藤民央】
 夫が外で女関係が激しいことから、妻である重岡春代の視点からはじまる。広郷という夫の姓と、重岡という姓の関係がよくわからないが、夫は東京市役所に勤め、作家活動もしている。肌合いに馴染むような自然な文章タッチで、日本の軍国主義時代の生活ぶりと、人間像が描かれている。連載ものだが、意味深な感じの登場人物像の描き方が時代の空気を感じさせる。
【「赤い造花」難波田節子】
 家族の古いしきたりの残る時代の女性の立場から、とくに母親との葛藤のことを思い出す話。女性の言い分だけが強く出ている。自己批判もあるが、どことなく時代性への焦点の絞りが物足りない感じがした。
【「婚活生活―グループ交際」森重良子】
 女性が、現在よりより良い生活を求めて結婚相手を探す。同じ目的の女性が何となく集まってしまう。現在の社会状況では、独身男性の収入が下がる傾向のなかで、女性は独身で収入をすべて自分のために使える自由を謳歌した方が幸せという発想で、結婚しない女性も増えている。どちらも、結婚生活という共同生活が、必ずしも歓迎される状況ではなくなった時代の風俗である。
 本作でも、婚活で結婚にこぎつけた人と、まだ出会いのない女性の方は、結婚生活への不安が語られる。シリーズ化のようなスタイルなので、書き進めるうちに、風俗的なものから、人間性の本質に迫るものが生まれるかも知れない。
【「扉を開けて」逆井三三】
 サラリーマン社会のなかの男女交際の情念の機微を語る。竹田一郎の孤独感と、同僚の洋子というOLへのささやかな思慕を絡めて、一郎の生活感覚を表現している。作風の根底に人間の社交性と孤独性への皮肉な視点があり、面白く読める。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2016年6月14日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の特別会員である評論家・勝又浩氏の著書「私小説千年史―日記文学から近代文学まで」(勉誠出版)が、和辻哲郎賞を受賞したことが巻頭に記されている。《参照:勝又浩「私小説千年史」出版記念会の光景》
 選考委員の梅原猛氏が、「大胆な文学論」と評価しているという。受賞の言葉では、生涯のまとめとして道元「正法眼蔵」に取り組みたいが、和辻哲郎の書も多く読んでいるので、何かの通底するところがあるのかも知れぬ、という趣旨が述べられている。私も読んでいるが、異色の視点による文学史観だと思う。本書は、我が周辺でも人気があって、友人が貸してほしいというので貸した、が回し読みでもされているのか、戻ってこない。
【勝又浩「歌と日本語」】
 日本人のリズム感の特徴について語る。文章のリズムも、日本語には特徴がある。それに関連するからであろう。実際、海外の詩のリズムと日本の短歌、俳句、さらに近代詩の文語体のリズムから、萩原朔太郎、西脇順三郎まで、言葉のリズムの変遷と格闘がある。このエッセイのなかで注目したのは、小泉文夫の民族と音感の研究について触れていることである。自分が仕事の関係で小泉氏の講義を聴いてから、まもなく亡くなってしまった。その研究成果には、やはりカルチャーショックを受けた。
 勝又氏よると、日本人が三拍子を不得意とするのは、農耕民族だからというような説明を小泉氏がしているという。その説明には難があるだろう、という。日本語は単語の一語の音が独立しているので、歌う場合、音をいくらでも長く伸ばせるが、英語などでは単語としてまとまって表意するので、音だけで長く伸ばして歌うのができない、としている。たしかに若いミュージシャンなどが、海外を意識している歌には、日本語として変な拍子のものが少なくない。
 私が小泉氏の講義を聴いた際には、音感と民族との関係について、少数民族が何らかの理由で、まとまる必要がある場合には、リズム感を磨き上げる要因になるということであった。事例としては、バリ島の民族のケチャが世界で最もテンポが速いということ。何らかの団結が必要であって、生まれたのであろうということだった。なお、同様の理由で、エスキモーは、鯨を集団で捕る必要から、気を合わせるために、みなリズム感が優れているそうである。同様に、台湾の高砂族は少数部落が分散して住み、敵対する種族の首を狩る首狩り族が多く、そのため共同して敵を襲うための合図が発達したので、音感が良いと聴いた。後年になって、台湾の原住民・高砂族の子孫という人に会って、その話をしたら、なんでも、歌手のビビアン・スーやジュディ?・オングなどは、祖先は高地民族だそうで、その説に当てはまるということを聞いた。
 ちなみにその時、小泉氏は日本の生活語に「クビになる」という語が定着しているのは、祖先に首狩り族がいたのではないか、と語っていた。私がカルチャーショックを受けたのは、その話から日本人が多様性をもった多民族国家であるという、根拠の証拠を得たと思ったからである。勝又氏のエッセイには、短歌など短詩をめぐる、文学表現における言葉のリズム論を展開されるのではないかと、期待させるものがある。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者「詩人回廊」・北一郎。

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2016年3月 7日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「盗撮」逆井三三】
 冒頭で男女間格差における男に都合のよい社会システムを肯定する論を述べる。光一は、結婚生活での伝統的な家庭生活というものになじまない人間である。しかし、結婚は社会的な慣習に従うので、生活がしやすいとと考えて美人である麗美と結婚する。そのうちに、結婚生活の退屈さから抜け出すために、妻の麗美の日常を隠しカメラで盗撮し、それを秘かに観て楽しむ。しかし、妻はそれに気づいているようだ。以前から、光男は麗美が浮気してもかまわない、と彼女に言っていたので、それを意識したのかも知れない。通常の結婚生活は、夫婦愛で安定した家庭をつくるが、光男はまず麗美の様々な姿、肢体を見つめていたいという、欲望と愛情をつなげるという性格をもっている。
 構造は、谷崎潤一郎の「痴人の愛」に似ていないこともない。それよりも現代的なのは、男の欲望を中心に夫婦関係を作ろうとすりる男の試みを描いていることであろう。
 ドライな文章であるが、それなりに問題提起を含んだ人間性追求を試みた小説のように読めた。
【「忘れられた部屋」花島真樹子】
 長寿の女性が、若いときのフランス滞在中の怪奇的な体験を語るが、子供たちは、それは彼女の作り話であると説明する。読んだあとも、話がうそかまことは、わからないという、独白体の特徴を活かした物語。文体を意識しているので、創作意識が進化しているように思える。
【「遠きにありて」藤民央】
 癌を言い渡されて、都会から故郷である南方の離島の先祖の墓参をする様子を描く。癌を患うため、どこか死の視線があるらしく、その言わざる雰囲気が最後まで、読ませる。熱心に書いているのが伝わってくる。
【「婚活小説――地震のあと」森重良子
 大震災を素材に入れて、現代的な面白い話になっている。欲を言えば、婚活への情熱をもっと強く打ち出さないと、スリリングな味が不足ししまうように思う。エネルギーの出方で、作者の身体的な運動不足なところが文章にでているような気がする。
【「家宝について」難波田節子】
 なんでも現在の天皇ご夫妻が英国をご訪問した際の、英国人出席者が持っていたレセプションの式次第のパンフレットを入手した話。その事情は、持ち主の英国人男性が、奥さんを失くされ、子供たちがそれを大事にしてくれるかどうか、わからないので、日本人である作者の娘さんに提供したということらしい。そこから、一般論で人生の晩年にあたって、持ち物を整理する立場からの、いわゆる断捨離に直面した身内の芸樹家の作品の保存などの心配に話が進む。芸術家でない自分は、いかに残さないかという課題に関心があるので、反対の意味で興味深かった。
【「私の幻想小曲集よりーノーサイド」安西昌原】
 大人の童話とでもいうべきか。ラクビ―の話だが、カナカナ仙人共和国のヨコハネ市とか、シオシオシ先生など、架空の名称の付け方が面白く、なるほどと思った。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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「季刊遠近」58号(川崎市)

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2015年10月26日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 特集「私小説千年史」がある。勝又浩氏の「梶井基次郎まで」は、読み応えがある。日本語における曖昧さのなかでの、含蓄に満ちた表現の可能性をもつ日本語の特性を、短いなかで明瞭に提示。わかりやすく説く。後半での梶井の「冬の蠅」や「闇の絵巻」における主客一体の文章については、文学的であるということは、どういうことかについて、強い示唆を感じさせられた。しまりのない文章を当然のように受け入れている自分に、鞭を入れられたような感じがする。
【「不協和音」難波田節子】
 社内結婚で、社宅生活をする美樹。子供ができ普通の生活をしている。高校時代の同級生の女友達の紅子は美大に進学、画家になっている。もうひとりの友人奈緒美は、大学の英文科に進み現在も商事会社に勤めている。美樹は家が貧しかったので高卒で就職し、主婦生活を送る。
 それぞれの人生の在り方を、美樹は比較してしまう。当初は、友人の生活ぶりに劣等感をもっていたが、子どもができると、自分の生活に自信をもってきている。描写の多くを画家の紅子が個展を開催した会場の雰囲気に費やす。それに出席した美樹には、アーチストとして華やかな社交の世界に入り、生き生きとしているように見える。それを読みどころとした作品か。読みようによっては、普通の生活者の美樹から見た、個性を発揮するアーチスト紅子への羨望とも、あるいは充実したように見えても、実際は紅子の社交界での軽薄で虚しい世界のようにも受け取れる。
 美樹の普通の家庭人であることの重みを理解しないであろう、友人たちの感覚との違和感を描いたのであろう。平凡生活の満足感。読者も納得するでしょう。ただ、リアリズム中心主義で、作者の気配りの良さがわかるが、小説的なロマン、作り話の面白さに欠ける気がした。読みどころの個展会場での描写も、過去においてはともかく、現代ではそれほど粒だっていない気がする。
【「母の記憶」浅利勝照】
 生れてはきたものの、母親からは歓迎されず、他人に預けられて育った男。すでに父親でない男と家庭をもった母親に、成人してから一度だけ会いに行った思い出を語る。小説として、ぎぐしゃくしたところもあるが、その辛くて複雑な情念は伝わってくる。
【「優しさが傷」花島真樹子】
 夫は優しいのであるが、妻や家庭と同等に自分の係累にも優しい。結果的にそれが、妻には優しいということになるのか、というジレンマを描く。外でいい人は、そのために家人には悪い人になってしまうことが多い。もすこし小説的なアクセントが強ければいいのにと思わせる。世間でよくある面白い題材だった。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

2015年7月17日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「蝸牛」難波田節子】
 かつて多くみられた日本の家族の典型的な構造がある。その家に嫁いだ由香という女性の視点で、その事情を細部にわたって描く。由香は家つき、姑つき、夫の姉という小姑つきという、すべてが付いている男と結婚する。もちろん同居である。現代女性が最も嫁入りしたがらない家風である。
 出勤する夫の峻一を由香が見送る。その前に長女の峰子が出勤するときには、姑の藤枝が玄関まで見送る。結婚前は、峻一と峰子は家を出ると、連れだって駅まで一緒であった。そのことをあとで由香は知る。峰子と峻一は腹ちがいの姉と弟で、峰子は借金を残して亡くなった父親の後始末を、働いて整理し、弟の学費まで支援した。藤枝は、そうした義理の娘、峰子を大切にする。義母の藤枝はお茶の教室の先生であるが、その収入はたかが知れていて、すべては峰子が頼りである。この家での家長的存在は、峰子であることがわかる。 
 夫の峻一は長男という意識はあるが、姉の峰子には頭が上がらない。姉より先に結婚したことにひけ目を感じている。そのため、由香と峻一との結婚生活は、下宿人のようで、夫婦の営みですらのびのびとすることが出来ない。
 そうしたなかで、家の犠牲になって働き婚期を逸した峰子に縁談が起きる。一度目は彼女が高校中退ということで断られるが、二度目は、人物は問題がないが男性の機能に問題がある。性交渉の期待できない結婚である。周囲はその縁談を上手くいくことを望むのである。旧さを残す日本の伝統的な家族構造のひとつの姿を浮き彫りにしている。
 人間の社会的な関係をマルクス主義思想は、社会の発展段階の歴史の過程と階級制度に焦点を当てた。要因を資本主義社会に置くことで、それを批判的に捉えた。
 しかし、この作品はそうした社会構造とは切断されたところに家族関係が存在することを浮き彫りにしている。ここには資本家と労働者の階級対立は入りこまないし、せいぜい初期の共同体理論のなかで省略されている。
 ところが、構造主義思想者といわれるレヴィ=ストロースは「親族の基本構造」を人間社会の特性として捉えた。これは資本主義以前の未開人社会にも当てはまるものである。その意味でマルクス主義思想の不足を補うようなところがある。
 内田樹は、その思想の解説書「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)で、私たちが、自然で内発的だと信じている、親族への親しみの感情は、社会システム上の「役割演技」に他ならず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違う、と解説する。そして、「夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子口をきかないのが『正しい』親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです」とする。そして、「人間が社会構造を作り出すのではなく、そこの社会構造が人間を作り出す」と説く。
 その例として「男はつらいよ」の寅さんがなかなか結婚できないのも、寅さんに魅力がないためでなく、妹のさくらとの関係が親密過ぎたためだと見る。その先に親族関係の構造の底には、近親相姦を回避するというシステムにまで論が展開するのだが、ここでは省略する。
 作品「蝸牛」においては、そのタイトルからして、この論は作者の意図とずれているであろう。峰子はなぜこうまで家族に献身的に尽くすのか、長男の峻一の「絶対的な存在」であるはずの「家の論理」から外れた曖昧な態度、由香の理屈を超えた嫁先への同化意識。これらへの疑問が、生じるところだ。それは、小説的な綻びでというより、親族の生態の現実的反映として読めるところが面白い。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

2015年5月16日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「僕の細道」藤民央】
 75歳の「私」が自分史教室の個人授業を受けるという設定で、その自伝を書くまでの経過が語られている。出来事や経歴をそのまま書いたようになっているが、実際は、斜に構えたというか、自己を客観化する文章に才気があって巧みである。前半部で、自分史のために「人生を振り返ると、どうしても嫌な過去が浮かび、書きたい気持ちをなえさせる」というのである。そして軽妙な文章で、実際には、重く暗さをもった過去を明らかにしてゆく。
 文章を教わるどころか、教えて欲しいほどの間合いの良さがある。読みながら、風刺精神に満ちた疑似私小説ではないか、とも思った。第一文学的素養が豊かである。しかし、婚外子の設定など、具体的な自分史に近いような細かい経緯があって、かなり事実に即したところがあるのかな、と思い直したりした。
 例えば、「私」の自分史を評して講師が「あなたは自分を小さくようとする。他人からバカにされて当然です」というところがある。これは文章表現のコツで、この作品の主柱となる優れた姿勢の筆法である。読者の優越感を誘いだし、作品を面白くしている要素である。それすら読み取れない人が文章の講師になどをしていることになる。事実を書いたというより、同人誌の小説やエッセイで、作者が偉くて善人で立派な人格者であることを前提してるものが多いのを揶揄しているようで、創作的な意図が見えるようところもある。
 身辺小説では、文章にひとひねりする工夫がないと、退屈で読まれないという事実を踏まえている。視線の低さと世間を揶揄する精神が、質を高めている。いずれにしても、読者は気軽に楽しみたいのだ。
 本来は昭和15年という戦前の日本での「妾は男の甲斐性」とされ、婚外子として出生した男の、運命を述べた重い主題があるのだが、重さ苦しさからさらりと身をかわして、軽妙に語れる文章力を発揮するところに、作者の真骨頂があるようだ。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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「季刊遠近」第55号(川崎市)

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2014年12月25日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「森の奥」難波田節子】
 語り手の麻子が、安岡弥生とその夫と知り合う。弥生は絵描きで、夫は経営コンサルタントをしている。弥生はアーチストらしく絵画の世界では独身を装っているようだ。芸術家の弥生の世話のために、夫は仕事をやめているらしい。絵描きの弥生が、自分の絵画の世界を追求いるうちに、生活上の認知力を失っていくまでを麻子が目撃していく。
 森の奥とは、弥生が追求した精神の暗黒面を示した絵画のことだが、作者は弥生が森の奥に何を見ていたかは追求しない。作者の筆は、絵画の芸術的世界を身近に置きながら、登場人物の親の面倒を如何に見るかという、俗世間的な世界に表現力発揮する。その意味で、絵画作品の印象に筆を及ばせながら、芸術と生活の対立点を描くという素材にしてテーマ性を脇に置いてしまった。弥生の不調和な精神を手の届かない世界と見放して、生活的な調和の視線に逃げてしまっているように思える。作品の文学性を問えば「森の奥」の入り口だけの作品になってしまった。
【「最後の合戦」逆井三三】
 前54号の「私の平家物語」では、現代人の歴史を研究する立場から、分かりやすさ納得しやすさを重視する視線で、ざっくりとした歴史観の横行する様を皮肉に描いていたように思える。現代の合理性と歴史的事実の解釈の手法に、延長線にあるものに興味をもったが、今回は、真田一族のたどった宿命を、歴史的な事実を現代的な解釈で語るという、新型の歴史時代小説になっている。関心が多様化し、感性の分散化する現代人には、こうした書き方も有効であろうとは思う。
 同じ作者らしき(三)という人が「編集後記」を書いている。楽して金を儲ける手段としての文学の位置づけや、商品とするにしては、生産効率の悪さなど、プロの作家の見方を紹介している。そういう問題に関心を向けるのは如何にも、さっくりとした大まかな把握による皮肉な見方を好む作者らしさが出ている。
 俗世間を渡るには、ものごとに深くこだわらない方が良い。金儲けもしかり。禅坊主もしかり。しかし、悲しいかな、多くの人間は、ものこだわらずに生きられる存在に、出来ていない。そこに表現芸術が存在する意味があるので、そのこだわりがナルシズムやペシミズム、オポチュニズムとして表現される。そこを変だと思わずに共感を得る人が芸術の鑑賞者になるのである。文学作品を通俗商品と混同して、金儲けや出世の手段でしか見ないのもナルシズムの変形であろう。裏読みの(三)氏の論理をまた裏返すとそうなるのではないだろうか。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。「遠近の会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

カテゴリー:季刊・遠近

8月3日に季刊遠近53号の合評会をしました。本号の合評は7月例会、8月例会の2回で終了しました。いつもの通り、私の読後感をここの掲載します。例によって、私の独断、偏見に満ちたものですが、ナナメ読みして頂ければ幸甚です。

【「ムーランルージュの裏口」花島真樹子】
 持田梨枝子が主人公で、他にキキという野良猫、梨枝子と一緒にパリ公演のために公募したダンシングチーム「ラ・レビュージャポネ」のメンバーとしてきた洋子、ラ・レビュージャポネの団長の妻の弥生である。猫は梨枝子の独白を聞かせるための役割なので実質3人だ。したがって、ストーリーもシンプルで、パリに残るという洋子に対し、はずみで自分も残るといった梨枝子が、実際は残るつもりはないことについての呵責に苦しめられるといった内容である。エピソード風にシャイヨ宮での阿波踊り、群舞「藤娘」の代役という大役を演じることなどがあるが、これはパリ公演が楽しかったということを強調するため付録であろう。
 読みながら感じたのは、梨枝子の呵責の念が読者に伝わってこないのである。文章で「呵責で胸がいっぱいになる」「頼りにしていた洋子の落胆はどれほどだったろう」と書いても読者に伝わらなければ意味がない。何故読者の心を捉えないのか。
 23歳の洋子は出発時から日本に帰らないと決めているほど強い心を持っている女性である。梨枝子は洋子より3つ年上といっても、今まで経験した苦労が格段に違う。梨枝子がパリに残りたいといっても、洋子が芯から信じるとは思えない。パスポートや労働手帳があるからといってもいろいろな手続きがいる。洋子は日本を出る前から十分に調べていたことだろう。もちろん、梨枝子がパリに残ると心強いだろう。「・・・ナイトクラブの仕事もデュエットの方がいいし、・・・家賃も必要経費もワリカン・・」といっているが、これは梨枝子が残っても梨枝子も楽だ、といっているとみてもいい。
 次に契約のことであるが、出発時から帰国までが契約期間となっていると条項にあるというが、がそれはそれで正しいだろう。しかし、「帰国まで」というのは、団員をパリから日本までの帰国はラ・レビュージャポネが責任を持つという意味で、むしろ団員の権利についての条項といっていい。文中にもあるように、団長が承認すればラ・レビュージャポネの日本に連れて帰る債務はなくなるのである。洋子は成年者であり、契約する能力がある以上、本人の承認だけでいい。洋子の養父や養母が保証人になっている可能性は考えられるが、この保証は身元保証程度ではないか。本人が帰国しないといって保証人が損害賠償を起こすとは考えられない。保証人には何の損害も発生していないからである。ここでは法律論は避けるが、洋子はラ・レビュージャポネの許可を得て、映画出演さえしているのである。洋子は契約内容を十分理解しているとみていい。実際、現地では弥生がいろいろ言ったかもしれないが、それは帰国しないなら、航空賃の確定のために早く教えて欲しいからだろう。
 以上述べたように、作者は契約書を使うことによりリアリティを持たせているつもりだろうが、私は却って契約書を使ったことにより、この作品のリアリティが感じられなくなってしまった。
 一般論ではあるが、作品の中で音楽、歴史、哲学、法律といった分野につて作触れ、または重要な役割を持たせる場合、専門家が読んでも一応納得できるぐらいの掘り下げが必要である。十分な掘り下げがない場合、読者を馬鹿にしているか、作者の無知をさらけ出しているかのいずれかである。作品を作るときは十分に気を付けたい。
 「藤娘」の代役の話などをうまく使い、ラ・レビュージャポネ内での嫉妬や足の引っ張り合いなどを書いた方がよかったのではないか。

【「すばらしき孤立死」逆井三三】
 まず、題名について触れたい。何故「孤独死」でなく「孤立死」なんだろうか。公共団体の職員で、「孤独死」と「孤立死」は違うという人がいる。厚生労働省が「孤立死」を通達などで流したので役人は使い分けていると考えられる。同じ公共団体でも、札幌市では「孤独死」と「孤立死」の区別は分からないといっている。NHKのTV放送は「孤独死」といっている。私自身「孤独死」と「孤立死」の区別は分からない。多くの人にとっても「孤独死」と「孤立死」の違いは分からないのではないだろうか。
 主人公は唐沢太志(文中では「太志」)で、智子という女性と結婚したが、現在は離婚し、2人の子供もいる。翼荘という介護付き高齢者向け賃貸住宅に住んでいる。ここには程度資産、年金などがないと入居できない。ランクが上の世界である。太志は、金は不自由しないくらいあり、風俗店で美鈴を指名し、よく行く。息子の浩一は30歳を過ぎているが定職についていない。二男の英二は出版関係の会社に勤めていたが、今はフリーライターだ。これだけの人間関係だが、読んでみても太志がどんな人間なのかよく分からない。集会に来た議員に突然太志は「金融緩和をすぐやめさせろ」という。こういった発言をするので経済知識があるのかと思うと、そういった片鱗は見えない。「くだらない演説などしないで、若い女の子でも世話して欲しいよ」などと集会の席でいう。
 作者がこういった主人公を敢えて書いたのだろうが、この主人公に感情移入することはできない。もちろん感情移入できな主人公の作品はあってもいい。が、この作品に原稿用紙120枚書く意味があるのかといいたい。
 文中の「美鈴の口で射精した」(88頁上段)、「抜きたい日ではなかった」(95頁上段)と書く。一方で「美鈴ちゃん、・・・くんくん鼻を鳴らしてきた豚と思わなくては」(95頁下段)などと説教もする。最後まで読んでも、原稿用紙120枚も使って何を書きたかったのかよく分からなかった。

【「春の雪」難波田節子】
 この作者の今までの作品と全く違い、これが「作品」といえるのかとさえ思った。まず、作品で最低限要求される起承転結がない。そればかりではなく、文中で作品を左右するような間違いがいくつかある。文言の問題ではない。例えば128頁下段の「性格」は「正確」の変換ミスだということは誰が読んでも分かる。ここで私はそういったことを指摘しようとしているのではない。順を追って書いてみよう。
 127頁上段の役員会の雰囲気(「・・・遠慮なく喋りあえる・・・気楽さは、酒の味まで違うらしい」)についてあまりに表面的にしか見ていないのではないか。私が経験した自治会役員会の後の飲み会は、1人か2人だけが喋り、他の人は聞き役みたいだった。女性は飲み会に参加しなくなり、いつの間にか飲み会は消滅した。
 129頁上段の「麦粒腫」は最初何のことか分からなかった。辞書を引いて一般的に言われているモノモライと知った。どうしてモノモライと書かなかったのだろう。ストーリーの展開(医療小説や医療関係者が主体の小説)でモノモライをあえて麦粒腫と書くことはあろう。その場合、文中で説明するのではないだろうか。
 132頁下段の凍傷についての応急手当は間違えている。インターネットで調べても、また、多くの家庭にある「家庭の医学」を開いても、凍傷の応急措置で掛かりかけた部分を「揉む」とは書いてない。私はこの部分を読んだ途端に間違いと気が付いた。あまり高くない温度で温めるのが基本の筈である。むしろ揉んではいけないのだ。宿泊しているところは山中湖の宿である。湯も沸いているだろうし、宿の人は凍傷の応急手当ぐらいは誰でも知っていると思う。
 140頁上段の「計画停電」だが、東日本大震災の年の一時期、計画停電があったところもあるが、その年の冬季には計画停電はなかった。翌年の夏季に北海道電力、関西電力、四国電力、九州電力などは検討されたが、実施されなかった筈だ。
 この作者のいままでの作品の多くは家庭小説だったので、こういった破たんはあまり感じられなかったが、今回の作品は素材として使ったものが重要な役割を果たしているので、作品全体の質を低下させているといっていい。フィクションだから何を書いてもいいというものではなく、作者は自分の文章の細部まで責任を持つべきと考える。北方謙三は、渡辺淳一に「小説は頭で書くな」といわれたという(2014.7.29.読売朝刊)。この作品は頭だけで書いた小説の典型だと思う。私は文章を書くとき意識していることは、文章のすべてに責任を持つということである。そのためにはいろいろな面からチェックする。それが文章を書く者の最低限の心得と考える。

カテゴリー:季刊・遠近

「季刊遠近」53号(川崎市)

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2014年7月 7日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「雪の春」難波田節子】
 滅多にない大雪に見舞われた町のある一家。年配の主婦の「私」の視点で行きつけの店や、独立した子どもたちなどの家族関係の話が進む。
柱となるのは、雪である。小説における季節は、内容への味付けの強化になっていることが多い。雪は風景としては美しく、スキーなど遊び心を誘うが、農家などは生活に打撃を与える。ここでは、町の突然の大雪が、じわじわと不吉な様相をもって市民を襲う。主人公の母親は、大人になっても甘えのある息子の頼みで、急病になった孫のために大雪を押して、駆け付けようとする。息子への無償の愛を与える彼女に、大雪はどんな運命を与えるのか。
 主人公には、大雪にからむ出来事で良い記憶がない。自らの体験もそうだが、まず長女と長男の問題が語られる。目立つのは、主人公の夫婦の長女の姉より弟、長男への愛情の傾斜である。日本の家長制度の名残りかも知れない。長女の小学校入学の祝いに家族で山中湖畔に行く。そこで大雪に見舞われる。その時、弟の長男が雪遊びに夢中になり、手足が凍る。父親は息子が凍傷になるのではないかと、恐れて必死で手当をする。旅行の主人公であるはずの肝心の姉の娘に気配りできない。父親に冷たくされたと感じた娘は、もの思いにふける。作者がそれを的確に描くので、家族関係の構造を見事にあぶりだしている。ここで長女は、自らの存在の立場を弟との関係で察知する。自分がそのままの自分であるだけでは、父親からの存在承認は得られないことを知るのである。母親は、娘がその後、社会的に独立していくのを見ている。娘は肉親関係の無条件な愛を求めることに深追いをしなくなり、社会で何かを成し遂げること、行動によって社会的な存在承認を得る方向に向かったことを示す。
 たしか、作者はクリスチャンであったように記憶する。かつては古代ヨーロッパを舞台にした作品も書いていた。それが近年は家族の構造に興味を示しているようだ。ニーチェは、キリスト教やマルクス主義思想を、弱者や貧者の恨み(ルサンチマン)であると説いた。そうした思想に押されるように、人間社会の根幹は経済や階級、原罪の追求ではなく、家族というような構造をもつところにあるという思想が生まれた。それがまたポスト構造主義に変化している。この話をすると、長くなるし、同人誌に書く人などには、そのような話はつまらない、といわれるので止めるが、この作品にはスタインペックの「エデンの東」に読むような親子関係の要素が組み込まれている。日本の家族においては、カインとアベルの構造は、どのように変化しているのか、作者の筆力に期待したい。
発行所=〒215―0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者「詩人回廊」伊藤昭一

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