季刊・遠近の最近のブログ記事

2018年3月21日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「マイホーム」花島真樹子】
 主婦の悠子の息子の洋介は、大学生の時は、一度は部屋を外に借りて通学していたが、やがて、実家に戻って、引きこもり生活をしている。そこで悠子が夫と洋介の間で、家庭のなかの調和に苦労する話。引きこもりに関する話は、多くあるが、ここでは、親には理解不能な(親でなくても、普通の感覚では、見聞しても理解しにくいであろうが)息子の精神や気分の断絶に関し、より実感の迫った表現になっている。
 およそ社会生活において、人間は自分の感情に逆らって行動せざるを得ない。そこで、かつては、盲腸になったり、神経症になったり、心の負担を見える形にしていた。この作品では、友人の医師が「これは心の問題ではなく、脳の問題だ」とアドバイスするところがあるが、その指摘が納得するようなところまで、洋介の状態を描いているところがある。やや抜け出ており、そこは優れている。とりたてて解決手段もなく、現状維持のなかで、生活を続ける主婦の姿を描いているのも、自然で普遍性がある。
【「川向うの子」小松原蘭】
 1970年代の、深川の風俗を描き、対岸の町を「川の向こう」といって、差別的な意識をもつ町の家に育った、女性の思春期の記。細かくさまざまなエピソードが描かれているが、
書いている間に、時代の風物への懐かしさが強く出ている。作者の差別に対する精神的なものの変化や、成長の痕跡も生まれてこなかったようだ。ただ、歳月の生み出す詩情だけが語られる。これも終章の一つの形であろう。
 これは一般論だが、生活記憶でもなんでも、描き始めと終わりの間に、精神的な揺れや方向性の違いなど、何らかのゆらぎや変化がないと、物語の形式に入らない。線を横にまっすぐに引いただけのものだ。もし線を波打たせるなり、どちらかに上下すると、絵やデザインに感じさせる。その原理は、小説に当てはまる。過去と現在とをたどって、同じところに精神があるというのは、物語的には、整合性があっても、現代文学としての栄養を欠いていること、カロリーゼロ飲料に等しいと自分は、考える。
【「生きて行く」坂井三三】
 一郎という男の、生活と人生をアサコという彼女との関係について、かたる。一郎の精神性やアサコの奇矯で複雑な行動が描かれている。文体は、ざっくりとした描き方で微妙なニュアンスの表現し難いものなので、そこから美文的な文学性の楽しみはないが、現代的であることは確か。どことなく、時代を表現する方向を感じさせながら、なにかその芯に当たらないようなもどかしさを感じさせる。
【「冬の木漏れ日」難波田節子】
 家族関係は、人間の生活構造の基本をなすものである。が、核家族化がすすみ、個人主義が行きわたると、その構造に変化が出てくる。ここでは、昔ながらの夫婦、親子の情愛を軸に、昔のような情感をもって生活できない、生きにくさを表現している。たとえば、両親や弟の進学のために婚期を逸したという女性の将来を案じたりする。実際には、そのために婚期を逸したというのは、周囲が思うことで、実際はわからないと考えるのが現代である。いずれにしても、ある時代に主流であった価値観を維持する家庭人の生活ぶりがしっかり描かれている。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

2017年8月24日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の編集後記で、ドイツ文学者の松本道介氏が亡くなっていたことを知った。私が会員制情報誌「文芸研究月報」を発行している時に、便りをいただいた。そこの時点から同人雑誌作品紹介を行っていた。当時は、会員だけの印刷物だから、文学精神に欠けた作品の典型があると、遠慮なく批判した。それが、意に適ったのか、著作を贈っていただいた。「季刊文科」の編集部に草場影郎氏がいた頃である。松本氏はドイツ哲学にも詳しいようであったが、文学畑の読者には、それを理解されたような形跡がなく、雑誌「文学界」の同人誌評も大変なのであろうと、想うところがあったものだ。
【「幻の薩摩路」藤民 央】
 書き出しは平成27年に高校の「喜寿記念同窓会」があってそれに出席したことから始まる。それを足がかりに、過去の回想のなかで、薩摩人の風土的な傾向を述べる。平成28年に「私」は、高校の教師をしていた時の女性と出会う。現在の停滞した生活から、過去の人生の越し方を回想するように出し入れに工夫をし、単調にならないように工夫をしている。特に第3章に歯のインプラントをしない話や、亡き父の幻覚を見るようなところで終る。自己生活史的散文から文学性の世界に入ろうとするところで終る。
【「戦わざる日々」逆井三三】
 幕末の幕府の老中、板倉勝静の江戸城無血開城に、蔭で貢献した人物としてその仕事ぶりを描く。歯切れのよい文体で、わかりやすい説明が説得力をもつ。歴史的な背景の解釈には多様性があるようだが、外圧だけでなく、と国内の飢饉的な情勢があったことを強調しているのは、説得される。 
【「濃霧」難波田節子】
 康介は、結婚して妻の宏美は妊娠中である。しかし、彼には幼馴染みで従妹の梨花との関係が続いている。これは家族愛的な近親的恋愛であることの表現力は流石である。それだけに絆が強く、簡単には関係が清算できない。とくに梨花には、康介と別れる気持ちは持てない。妻の知らないところで、康介と梨花の関係は泥沼状態になる。この行き詰った状態を手厚い筆法で、描く。小説巧者であるこれまでの作者であったら、手際良く主人公の心理を創って、きれいにまとめて治めてしまうことも可能であるはず。意外にも、作者は人間の情欲の業のようなものにとりついて、生き詰まるところまで行きつく。いや、どうなるかわからない。壁に当たる。壁にあたるということは、作者が前に進んでいることを示す。普通に、読み物として読むと、終わりのない話になるかもしれないが、純文的に読むと、書き続けると先があるものだ、と作者の今後に期待する気になる。文学とは、面白いものである。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?12?3、永井方、「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

2017年5月 8日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「女主人の家」逆井三三】
 京子という気位の高さと節度を失わない利発な女性の一生を描く。普通の田舎の素封家の出身から、健康して夫の働きで資産家になる。その事業の詳細は省略して、夫との死別や息子の家出を短く紹介し、その後の京子のゆとりある生活ぶりを丁寧に描く。人生後半に絞って、生涯を穏やかに終わるまでを描く。晩年の近田というマッサージ師との関係も自然な流れに沿って客観的に書く。二人の関係を激しく感情的に表現することも可能でろうが、作者の視線は、人生の幸せは、穏やかな日々の積み重ねにあるというところに納められている。読みやすく退屈させない。作者の視線が人生観を物語っているような作品。
【「鏡の中」花島真樹子】
 あかねという女性は鏡を見るのが好き。結婚しても、夫にそれほど関心がなく、鏡の中の世界をイメージする生活。ある日、車の運転中に幻想にとらわれ、事故を起こし、病院に運ばれるが、夫の五郎に見守られながら亡くなる。あかねの着ていた鏡に映していた服が沢山残される。
 五郎は、その後ほかの女性と付き合うが、京子の好んだ洋服と彼女が鏡の中にいるような気がして、独身を通す。そして、ある日、彼が無断欠勤したので、会社の人が見に行くと、五郎があかねの服に包まれて、満足気な表情で死んでいた。
 退屈な現実から逃れて非現実の世界に。鏡の中に魅せられた夫婦の、精神的な華麗さを感じさせる。奇妙な味の奇譚。
【「悲しみの日」難波田節子】
 5月5日は、イスラエルの「ホロコースト」記念日だそうである。その儀式の様子や、イスラエルには「ホロコースト否定禁止法」というものがあるという。本文では、それらの話からわが国の歴史と、戦時の民衆による言論抑圧行動などに話題が移る。作者の父も、空襲で亡くなったことになっているが、遺体はなく行方不明のままだという。アウシュビッツ見学の体験や、ナチスの追跡から逃れるユダヤ人を救済した人々の事例が紹介されている。
 人類の差別意識と憎しみ、連帯と博愛は、一人の一人の心にある。富沢有為男とかいう昔の直木賞か芥川賞だかをとった作家は、「文学は人間性の悪の部分を描き出すので、良くない」と、評論を新聞に書いていたそうだ。現在のテレビ報道を見ると、絆とか明かるいとか、付け焼刃で元気のでるようなものが多いが、実際は暗い世の中だからそうしているのかも知れない。
【「あさきゆめみしゑひもせず」藤民央】
 心筋梗塞とか心臓病にかかった体験記。同病ではないが、治療生活の一端に惹かれて読んだ。闘病ドキュメント。
【「手術まで」森重良子】
 40代の頃から悩まされていた股関節の不具合が、年をとったら痛くて歩けなくなる。しかし、医術に進歩と名医の存在で痛まなくなったという体験ドキュメント。
【「検査入院」島有子】
 自治体の胃がん検診でポリープがみつかり、検査入院した体験記。同じような体験をしてるとしても、それぞれ人に細部はちがうのだろう。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、長井方。
 紹介者=「詩人回廊」北 一郎

カテゴリー:季刊・遠近

2017年1月30日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 創刊20周年記念号ということで、同人雑誌で活動する作家たちの寄稿特集がある。下澤勝井、豊田一郎、五十嵐勉、坂本良介、藤田愛子、高橋光子、山之内朗子、小沢美智恵―各氏が同人雑誌に関わる事情を述べている。
 たまたま、今日のネットニュースで、米国ではフェイスブックで「知り合いの輪がどれだけ広がるか」をテーマに調査をしたところ、知り合いになるのは同好の人々だけになるので、それほど知人の輪は広がらないということが判ったそうだ。
【「『歌と日本語』補遺」勝又浩】
 角田忠信の近著「日本語人の脳」(言叢社)を読んだことによる感想である。角田理論には、日本人には情緒を刺激する虫の声が、西洋人にはただの雑音にしか過ぎないという脳の構造の解説がある。さらに「日本語人」は左脳=言語脳で母音も子音も受け取るが、西洋人が左脳=言語脳で受け取るのは子音だけ、母音は右脳にいってしまうこと。母音を基礎にした五十音図がつくれるのはほとんど日本語のみ、という説を紹介している。
 自分も、日本語の言語美の象徴として、万葉集の歌を「漢語系」の外国人に説明したが、理解されなかった記憶がある。しかし、最近の日本人は、山のキャンプに行くと、子供が渓流の音や、虫の鳴き声がうるさいと、運営者にクレームをつけるそうである。
 自分はいつからそうなったのかを、調べたいと思っている。
 また、勝又氏は「同人雑誌神社」をつくる案を提案している。じつは文芸同志会では、かつて「文芸神社」を作ろうと、芸術の対象の神社(弁天神社)や廃止神社の再興の道をさがしていたことがある。一時は、鳥居の穴だけの廃神社跡をみつけ、その交渉にかかったら、それをきっかけにしたのかどうか、再興の話が出て、実際に新しい鳥居ができてしまったことがあったものだ。
【「戦禍と悪夢」(二)藤元】
 なんとなくきな臭くなったこの世界。日本の過去の戦争被災体験を生々しく語る。よく書いている。これがどれだけ実感を伴って受け取られるかが、問題であろう。文学的価値より社会的な価値に優っている。
【「寒桜」難波田節子】
 佑子は未亡人だが、子供がひとり。職業婦人である。祖母が孫の面倒を見に同居している。結婚を考えている男がいるが、彼は生命保険のセールスウーマンと親しくなってしまう。あれやこれや、創作上の人物を造形して現代風俗を描く。お話のつくりが巧みなので、読んで退屈しない。素材がなんであっても読ませてしまう文章技術には感服する。
【「倒れたわけ」河村陽子】
 事実を語ったものだとしたら、その記憶力の正確さに驚かされる。
【「夏の夜の唄」花島真樹子】
 大病をして入院をしていると、かつての恋心を抱いた僧侶が見舞いにやってくる。自らが生死をさまよう大手術のことで、変に思わず会話をするが、あとで、その男は同じ病院で先に亡くなっていたことがわかる。ありふれているようで、幽冥の世界を見事に表現している。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

「季刊遠近」61号(横浜市)

| コメント(0)

2016年10月21日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「紙の卒塔婆」藤民央】
 夫が外で女関係が激しいことから、妻である重岡春代の視点からはじまる。広郷という夫の姓と、重岡という姓の関係がよくわからないが、夫は東京市役所に勤め、作家活動もしている。肌合いに馴染むような自然な文章タッチで、日本の軍国主義時代の生活ぶりと、人間像が描かれている。連載ものだが、意味深な感じの登場人物像の描き方が時代の空気を感じさせる。
【「赤い造花」難波田節子】
 家族の古いしきたりの残る時代の女性の立場から、とくに母親との葛藤のことを思い出す話。女性の言い分だけが強く出ている。自己批判もあるが、どことなく時代性への焦点の絞りが物足りない感じがした。
【「婚活生活―グループ交際」森重良子】
 女性が、現在よりより良い生活を求めて結婚相手を探す。同じ目的の女性が何となく集まってしまう。現在の社会状況では、独身男性の収入が下がる傾向のなかで、女性は独身で収入をすべて自分のために使える自由を謳歌した方が幸せという発想で、結婚しない女性も増えている。どちらも、結婚生活という共同生活が、必ずしも歓迎される状況ではなくなった時代の風俗である。
 本作でも、婚活で結婚にこぎつけた人と、まだ出会いのない女性の方は、結婚生活への不安が語られる。シリーズ化のようなスタイルなので、書き進めるうちに、風俗的なものから、人間性の本質に迫るものが生まれるかも知れない。
【「扉を開けて」逆井三三】
 サラリーマン社会のなかの男女交際の情念の機微を語る。竹田一郎の孤独感と、同僚の洋子というOLへのささやかな思慕を絡めて、一郎の生活感覚を表現している。作風の根底に人間の社交性と孤独性への皮肉な視点があり、面白く読める。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

2016年6月14日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の特別会員である評論家・勝又浩氏の著書「私小説千年史―日記文学から近代文学まで」(勉誠出版)が、和辻哲郎賞を受賞したことが巻頭に記されている。《参照:勝又浩「私小説千年史」出版記念会の光景》
 選考委員の梅原猛氏が、「大胆な文学論」と評価しているという。受賞の言葉では、生涯のまとめとして道元「正法眼蔵」に取り組みたいが、和辻哲郎の書も多く読んでいるので、何かの通底するところがあるのかも知れぬ、という趣旨が述べられている。私も読んでいるが、異色の視点による文学史観だと思う。本書は、我が周辺でも人気があって、友人が貸してほしいというので貸した、が回し読みでもされているのか、戻ってこない。
【勝又浩「歌と日本語」】
 日本人のリズム感の特徴について語る。文章のリズムも、日本語には特徴がある。それに関連するからであろう。実際、海外の詩のリズムと日本の短歌、俳句、さらに近代詩の文語体のリズムから、萩原朔太郎、西脇順三郎まで、言葉のリズムの変遷と格闘がある。このエッセイのなかで注目したのは、小泉文夫の民族と音感の研究について触れていることである。自分が仕事の関係で小泉氏の講義を聴いてから、まもなく亡くなってしまった。その研究成果には、やはりカルチャーショックを受けた。
 勝又氏よると、日本人が三拍子を不得意とするのは、農耕民族だからというような説明を小泉氏がしているという。その説明には難があるだろう、という。日本語は単語の一語の音が独立しているので、歌う場合、音をいくらでも長く伸ばせるが、英語などでは単語としてまとまって表意するので、音だけで長く伸ばして歌うのができない、としている。たしかに若いミュージシャンなどが、海外を意識している歌には、日本語として変な拍子のものが少なくない。
 私が小泉氏の講義を聴いた際には、音感と民族との関係について、少数民族が何らかの理由で、まとまる必要がある場合には、リズム感を磨き上げる要因になるということであった。事例としては、バリ島の民族のケチャが世界で最もテンポが速いということ。何らかの団結が必要であって、生まれたのであろうということだった。なお、同様の理由で、エスキモーは、鯨を集団で捕る必要から、気を合わせるために、みなリズム感が優れているそうである。同様に、台湾の高砂族は少数部落が分散して住み、敵対する種族の首を狩る首狩り族が多く、そのため共同して敵を襲うための合図が発達したので、音感が良いと聴いた。後年になって、台湾の原住民・高砂族の子孫という人に会って、その話をしたら、なんでも、歌手のビビアン・スーやジュディ?・オングなどは、祖先は高地民族だそうで、その説に当てはまるということを聞いた。
 ちなみにその時、小泉氏は日本の生活語に「クビになる」という語が定着しているのは、祖先に首狩り族がいたのではないか、と語っていた。私がカルチャーショックを受けたのは、その話から日本人が多様性をもった多民族国家であるという、根拠の証拠を得たと思ったからである。勝又氏のエッセイには、短歌など短詩をめぐる、文学表現における言葉のリズム論を展開されるのではないかと、期待させるものがある。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者「詩人回廊」・北一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

2016年3月 7日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「盗撮」逆井三三】
 冒頭で男女間格差における男に都合のよい社会システムを肯定する論を述べる。光一は、結婚生活での伝統的な家庭生活というものになじまない人間である。しかし、結婚は社会的な慣習に従うので、生活がしやすいとと考えて美人である麗美と結婚する。そのうちに、結婚生活の退屈さから抜け出すために、妻の麗美の日常を隠しカメラで盗撮し、それを秘かに観て楽しむ。しかし、妻はそれに気づいているようだ。以前から、光男は麗美が浮気してもかまわない、と彼女に言っていたので、それを意識したのかも知れない。通常の結婚生活は、夫婦愛で安定した家庭をつくるが、光男はまず麗美の様々な姿、肢体を見つめていたいという、欲望と愛情をつなげるという性格をもっている。
 構造は、谷崎潤一郎の「痴人の愛」に似ていないこともない。それよりも現代的なのは、男の欲望を中心に夫婦関係を作ろうとすりる男の試みを描いていることであろう。
 ドライな文章であるが、それなりに問題提起を含んだ人間性追求を試みた小説のように読めた。
【「忘れられた部屋」花島真樹子】
 長寿の女性が、若いときのフランス滞在中の怪奇的な体験を語るが、子供たちは、それは彼女の作り話であると説明する。読んだあとも、話がうそかまことは、わからないという、独白体の特徴を活かした物語。文体を意識しているので、創作意識が進化しているように思える。
【「遠きにありて」藤民央】
 癌を言い渡されて、都会から故郷である南方の離島の先祖の墓参をする様子を描く。癌を患うため、どこか死の視線があるらしく、その言わざる雰囲気が最後まで、読ませる。熱心に書いているのが伝わってくる。
【「婚活小説――地震のあと」森重良子
 大震災を素材に入れて、現代的な面白い話になっている。欲を言えば、婚活への情熱をもっと強く打ち出さないと、スリリングな味が不足ししまうように思う。エネルギーの出方で、作者の身体的な運動不足なところが文章にでているような気がする。
【「家宝について」難波田節子】
 なんでも現在の天皇ご夫妻が英国をご訪問した際の、英国人出席者が持っていたレセプションの式次第のパンフレットを入手した話。その事情は、持ち主の英国人男性が、奥さんを失くされ、子供たちがそれを大事にしてくれるかどうか、わからないので、日本人である作者の娘さんに提供したということらしい。そこから、一般論で人生の晩年にあたって、持ち物を整理する立場からの、いわゆる断捨離に直面した身内の芸樹家の作品の保存などの心配に話が進む。芸術家でない自分は、いかに残さないかという課題に関心があるので、反対の意味で興味深かった。
【「私の幻想小曲集よりーノーサイド」安西昌原】
 大人の童話とでもいうべきか。ラクビ―の話だが、カナカナ仙人共和国のヨコハネ市とか、シオシオシ先生など、架空の名称の付け方が面白く、なるほどと思った。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

カテゴリー:季刊・遠近

「季刊遠近」58号(川崎市)

| コメント(0)

2015年10月26日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 特集「私小説千年史」がある。勝又浩氏の「梶井基次郎まで」は、読み応えがある。日本語における曖昧さのなかでの、含蓄に満ちた表現の可能性をもつ日本語の特性を、短いなかで明瞭に提示。わかりやすく説く。後半での梶井の「冬の蠅」や「闇の絵巻」における主客一体の文章については、文学的であるということは、どういうことかについて、強い示唆を感じさせられた。しまりのない文章を当然のように受け入れている自分に、鞭を入れられたような感じがする。
【「不協和音」難波田節子】
 社内結婚で、社宅生活をする美樹。子供ができ普通の生活をしている。高校時代の同級生の女友達の紅子は美大に進学、画家になっている。もうひとりの友人奈緒美は、大学の英文科に進み現在も商事会社に勤めている。美樹は家が貧しかったので高卒で就職し、主婦生活を送る。
 それぞれの人生の在り方を、美樹は比較してしまう。当初は、友人の生活ぶりに劣等感をもっていたが、子どもができると、自分の生活に自信をもってきている。描写の多くを画家の紅子が個展を開催した会場の雰囲気に費やす。それに出席した美樹には、アーチストとして華やかな社交の世界に入り、生き生きとしているように見える。それを読みどころとした作品か。読みようによっては、普通の生活者の美樹から見た、個性を発揮するアーチスト紅子への羨望とも、あるいは充実したように見えても、実際は紅子の社交界での軽薄で虚しい世界のようにも受け取れる。
 美樹の普通の家庭人であることの重みを理解しないであろう、友人たちの感覚との違和感を描いたのであろう。平凡生活の満足感。読者も納得するでしょう。ただ、リアリズム中心主義で、作者の気配りの良さがわかるが、小説的なロマン、作り話の面白さに欠ける気がした。読みどころの個展会場での描写も、過去においてはともかく、現代ではそれほど粒だっていない気がする。
【「母の記憶」浅利勝照】
 生れてはきたものの、母親からは歓迎されず、他人に預けられて育った男。すでに父親でない男と家庭をもった母親に、成人してから一度だけ会いに行った思い出を語る。小説として、ぎぐしゃくしたところもあるが、その辛くて複雑な情念は伝わってくる。
【「優しさが傷」花島真樹子】
 夫は優しいのであるが、妻や家庭と同等に自分の係累にも優しい。結果的にそれが、妻には優しいということになるのか、というジレンマを描く。外でいい人は、そのために家人には悪い人になってしまうことが多い。もすこし小説的なアクセントが強ければいいのにと思わせる。世間でよくある面白い題材だった。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

2015年7月17日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「蝸牛」難波田節子】
 かつて多くみられた日本の家族の典型的な構造がある。その家に嫁いだ由香という女性の視点で、その事情を細部にわたって描く。由香は家つき、姑つき、夫の姉という小姑つきという、すべてが付いている男と結婚する。もちろん同居である。現代女性が最も嫁入りしたがらない家風である。
 出勤する夫の峻一を由香が見送る。その前に長女の峰子が出勤するときには、姑の藤枝が玄関まで見送る。結婚前は、峻一と峰子は家を出ると、連れだって駅まで一緒であった。そのことをあとで由香は知る。峰子と峻一は腹ちがいの姉と弟で、峰子は借金を残して亡くなった父親の後始末を、働いて整理し、弟の学費まで支援した。藤枝は、そうした義理の娘、峰子を大切にする。義母の藤枝はお茶の教室の先生であるが、その収入はたかが知れていて、すべては峰子が頼りである。この家での家長的存在は、峰子であることがわかる。 
 夫の峻一は長男という意識はあるが、姉の峰子には頭が上がらない。姉より先に結婚したことにひけ目を感じている。そのため、由香と峻一との結婚生活は、下宿人のようで、夫婦の営みですらのびのびとすることが出来ない。
 そうしたなかで、家の犠牲になって働き婚期を逸した峰子に縁談が起きる。一度目は彼女が高校中退ということで断られるが、二度目は、人物は問題がないが男性の機能に問題がある。性交渉の期待できない結婚である。周囲はその縁談を上手くいくことを望むのである。旧さを残す日本の伝統的な家族構造のひとつの姿を浮き彫りにしている。
 人間の社会的な関係をマルクス主義思想は、社会の発展段階の歴史の過程と階級制度に焦点を当てた。要因を資本主義社会に置くことで、それを批判的に捉えた。
 しかし、この作品はそうした社会構造とは切断されたところに家族関係が存在することを浮き彫りにしている。ここには資本家と労働者の階級対立は入りこまないし、せいぜい初期の共同体理論のなかで省略されている。
 ところが、構造主義思想者といわれるレヴィ=ストロースは「親族の基本構造」を人間社会の特性として捉えた。これは資本主義以前の未開人社会にも当てはまるものである。その意味でマルクス主義思想の不足を補うようなところがある。
 内田樹は、その思想の解説書「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)で、私たちが、自然で内発的だと信じている、親族への親しみの感情は、社会システム上の「役割演技」に他ならず、社会システムが違うところでは、親族間に育つべき標準的な感情が違う、と解説する。そして、「夫婦は決して人前で親しさを示さないことや、父子口をきかないのが『正しい』親族関係の表現であるとされている社会集団が現に存在するのです」とする。そして、「人間が社会構造を作り出すのではなく、そこの社会構造が人間を作り出す」と説く。
 その例として「男はつらいよ」の寅さんがなかなか結婚できないのも、寅さんに魅力がないためでなく、妹のさくらとの関係が親密過ぎたためだと見る。その先に親族関係の構造の底には、近親相姦を回避するというシステムにまで論が展開するのだが、ここでは省略する。
 作品「蝸牛」においては、そのタイトルからして、この論は作者の意図とずれているであろう。峰子はなぜこうまで家族に献身的に尽くすのか、長男の峻一の「絶対的な存在」であるはずの「家の論理」から外れた曖昧な態度、由香の理屈を超えた嫁先への同化意識。これらへの疑問が、生じるところだ。それは、小説的な綻びでというより、親族の生態の現実的反映として読めるところが面白い。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

2015年5月16日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「僕の細道」藤民央】
 75歳の「私」が自分史教室の個人授業を受けるという設定で、その自伝を書くまでの経過が語られている。出来事や経歴をそのまま書いたようになっているが、実際は、斜に構えたというか、自己を客観化する文章に才気があって巧みである。前半部で、自分史のために「人生を振り返ると、どうしても嫌な過去が浮かび、書きたい気持ちをなえさせる」というのである。そして軽妙な文章で、実際には、重く暗さをもった過去を明らかにしてゆく。
 文章を教わるどころか、教えて欲しいほどの間合いの良さがある。読みながら、風刺精神に満ちた疑似私小説ではないか、とも思った。第一文学的素養が豊かである。しかし、婚外子の設定など、具体的な自分史に近いような細かい経緯があって、かなり事実に即したところがあるのかな、と思い直したりした。
 例えば、「私」の自分史を評して講師が「あなたは自分を小さくようとする。他人からバカにされて当然です」というところがある。これは文章表現のコツで、この作品の主柱となる優れた姿勢の筆法である。読者の優越感を誘いだし、作品を面白くしている要素である。それすら読み取れない人が文章の講師になどをしていることになる。事実を書いたというより、同人誌の小説やエッセイで、作者が偉くて善人で立派な人格者であることを前提してるものが多いのを揶揄しているようで、創作的な意図が見えるようところもある。
 身辺小説では、文章にひとひねりする工夫がないと、退屈で読まれないという事実を踏まえている。視線の低さと世間を揶揄する精神が、質を高めている。いずれにしても、読者は気軽に楽しみたいのだ。
 本来は昭和15年という戦前の日本での「妾は男の甲斐性」とされ、婚外子として出生した男の、運命を述べた重い主題があるのだが、重さ苦しさからさらりと身をかわして、軽妙に語れる文章力を発揮するところに、作者の真骨頂があるようだ。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

カテゴリー:季刊・遠近

2018年3月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

カテゴリ

最近のコメント

月別 アーカイブ

アイテム

  • crane34.jpg
  • syutsugen5hyoushi.jpg