中部ぺんの最近のブログ記事

2015年8月13日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 中部ペンクラブのイベントについては「暮らしのノートITO・中部ペンクラブ9月30日に公開シンポジウム」に記した。
【「断たれた物語」竹中忍】
 俊一という27歳の青年が、入院中の祖父の見舞いをする。そこで、祖父から祖父の兄、国彦の日本の軍部独裁政権における基本的人権擁護派の男の孤独な戦いを語る。
 国彦は、昭和12年ころから始まった軍部独裁政権に反発し左翼運動に奔る。そのために愛する恋人しずえとの関係をも犠牲にする。そして、官憲の手で拷問、虐殺され、それを隠蔽するために検察が遺体を始末し、遺骨だけを家族に渡す。
 話は俊一が祖父や、国彦の恋人しずえからの聞き書きというスタイルで、大変読みやすい。作者の現代政情における危機感を、過去に重ねて伝えようとする意欲と、伝聞手法での制作の工夫がが感じられる。
【「蔵の中」本興寺更】
 本作は、第28回中部ペンクラブ賞受賞作。選者評が掲載されている。貸本屋に入り浸る次男坊の主人公や、隠居した父親が、長男に不景気による財政の悪化から、趣味につぎ込む金の節約を要請される話。江戸時代の武士のサラーリーマン的側面を描き、まったく、現代人の感覚を見ごとに作品中に投入している。変わった時代小説だが、平和で安心して暮らせる現代の平和意識の浸透を示す作品として、女性だからこそ書けるもの。記録すべき価値があると思われた。
 その他、公開鼎談「同人雑誌の光と影」は、伊藤氏貴、清水良典、清水信、各氏の文芸商業誌と同人雑誌の関係について、意見が交わされている。また、作家・吉村萬壱氏の講演「小説を書くという在り方」を遠藤昭巳氏が書き起こしている。どれも文芸表現の多様化した現状からの事情がわかる。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2013年12月 8日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「風の訪れ」猿渡由美子】
第26回中部ペンクラブ文学賞受賞作。一読して、この作品を選んだ中部ペンクラブの現代性というか、時代性への感度の良さを感じた。一般人が読んでも面白いと思う小説のスタイルを持ち、小説としての普遍性を持っている。私は送られてくる同人誌を通りすがりの第三者の立場で読ませてもらってきたが、そのなかで今年一番の作品である。(多少、歯切れがわるく、いわゆる下手に思うところもあるが)ー?それが言いたくて、早くから読んでいたにも関わらず、年が詰まるまで待っていたのである。
 小説は、語り手がどの立ち位置で書いてるか、最大の問題である。本作品は、作者が語り手としての立ち位置をほぼ確立するであろうと、予感させる。語り手の「私」を含めて3人のキャラクターを描いているところにある。
 本賞の選者の評によると、脱力系小説として評価したとある。そのなかでこの作品の本質を物語っているのが、ガチガチの私小説作家の吉田知子氏の評である。猿渡氏の立ち位置は、想像力で自分とは無関係な人物を生み出すという、純文学私小説とは対極をなすことへの戸惑いであろう。たしかに、これは娯楽小説に限りなく接近する。だからといって、つまらない小説でないといけないということではない。そこにおいて、吉田氏は、それが純文学小説として成り立つかも知れない、ということを認めている。その柔軟性に、別の感銘を受けた。
【文学講演会「小説の現在と未来」清水良典】
 記録者である遠藤昭巳氏の書き起こしの文章が素晴らしい。清水氏は、村上春樹がアメリカ文学の影響を受けて、手法がそれの真似である、と言われて不機嫌になっている話をする。そして、現代文学が自我を持たないという位置から創作するようになった始まりを紹介している。純文学のかつての傾向に内面的な自己探求が重要なテーマであったが、それが他者との関係と結びつけて追求されているのではないか、という私の観点を裏付けているような気がした。
発行所=〒464?0067名古屋市千種区池下1?4?17、オクト王子ビル6F、中部ペンクラブ。

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9月6日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。
(1)

 本誌には、中部ペンクラブ文学賞の受賞作、堀江光雄「牛マンダラ」が掲載されている。作者のひらめきによる「私」の設定と環境事情だけは、しっかりとしていて、そのほかは、思い浮かぶままに自由にイメージを広げた描き方で、人生経験に厚みを持った作者の融通無碍で野放図な作風である。選評で吉田知子氏が、「これは小説ではない」というとまどいを見せているのも頷ける。いわゆる、漬物でも売るとなれば、中味のムラのなさ、包装などに気を配るが、非商業の作物なら、中味さえあればよい。
 そういう意味で、小説において、非商業的なジャンルの存在がみとめられつつある現象のようだ。自分の周りでも、春先に作家の伊藤桂一氏を師とする「グループ桂」というテキスト同人誌の作品指導があった。その時に、宇田本次郎氏の「星の簾」という作品について、伊藤桂一氏は「同人誌の作品としては、完成度が高く、よく出来ている」と論評した。これは作品の水準は高いのであるが、商業性の面白さに欠けるという意味である。作品の完成度と商業性とは無関係であるという認識が明確になってきたのではなかろうか。
 堀江敏幸氏の「小説とその周辺」という講演の内容がある。詩と小説の間に位置づけられる作品について述べている。
 結局、現在の売れる小説というものが、一に題材、二にストーリー、三、四がなくて、五に文章と編集者がいうように、文章の表現力を軽視したものが多い。
 これは、出版社が、読者層が文章の読解力のない人たちに、買って読んでもらわないと、採算がとれない、というところから来ている。
 ところが、ある程度文章の表現技術も楽しみたいという層には、そんな小説はただの紙くずでしかない。書店は紙くずの山に見える。そういう層は1万人?2万人しかいないであろうが、堀江氏の論に同感すると同時に、文学における時代の影響を思った。

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