石榴の最近のブログ記事

「石榴」第18号(広島市)

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2017年3月22日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「特別な体験」木戸博子】
 戦後間もなくの小学生時代「私」のいじめの出来事体験と、それに関係した人々のその後の人生を、44年後の同窓会での級友の動向を知る。いじめる側といじめられたと思う側のそれぞれの思い込みがわかってくる。
 いじめといっても、現在のそれとは社会的背景と性質が異なるので、ひとつの精神的な状況をフクションで描いたものと思われる。これだけ年月を経たあとでの級友関係の意識は、あまり現実的に受け取れないものがある。しかし、持ち前の文学的に物語を創る力技で、特別な世界の時別な体験として、破綻なく筋を通している。
【石榴俳句館「佳き日よーー気まぐれ旬日記」杉山久子】
 俳句や短歌は若い層にも一定の支持を得ており、若者の多い文学作品フリーマーケットでも、このジャンルには人だかりが絶えない。社会の伝達技術が、スマホのチャット化など、変化して短い文になっていることに対応しているのであろう。ここでの俳句はソフトでライト的で、親しみやすい。――風花や塩振ることのあと幾度――句が議論になったそうだ。世代間の文化世界の断絶を思えば、むべなるかな。
【「『開眼の一日』いちご寒―ロバート・P・オーエン」木戸博子】
 知らない作品だが、少年時代の事件と行為に意味を、40歳代になって再認識するという構造の話で、その手法は、前記の「特別な体験」と共通してるように思える。良い解説になっている。
【「君のふるさと再び」篠田賢治】
 万葉研究の歴史散歩の話。京都の歴史的建造物と当時の人物を若い女性たちに、解説する。ライトノベルに馴染んだ若者にも良い読み物であろう。
発行所=〒739?174広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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「柘榴」第17号(広島市)

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2016年6月24日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「金魚」木戸博子】
 妻と10歳の男の子の過程をもつ高野の家庭で、家の前にポリバケツに入った金魚が置いてあったことから、息子の希望で飼うことになった。そこで金魚の飼育が、なかなか手間がかかることを、専門店の店員の蘊蓄で知らされる。
 その高野には、比呂美という浮気相手がいる。この高野と愛人の不安定な関係と、ひ弱な出目金のイメージの連想が良くできている。妙にエロチックで、人間的な関係の薄いことの危うさと、性的関係における男女間の情念のはかなさを、巧みに結び付けて読ませる。
 そうした感覚の透明感がユニークで、けなす人はいないでしょう。とはいっても、家庭持ちとなった高野の鬱屈した感情は、外面的な表現で迫るにとどまっている。それでも優れているのではあるが、本質は高野と妻の美和の夫婦間の倦怠にあるのではないか。そこに迫るのには、もうひと押しの発想が足りないような気がする。文芸雑誌でも、晦渋さを避けて、深追いせずに中間小説的なわかり良さを追う作品が増えた。それは商業的な事情の配慮と思われるが、同人雑誌であるなら、そうした傾向に同調することが必要ないのでは、と考えさせる。
【「サブミナル湾流?」篠田健二】
 本編は、軽みのある文体で、世界にただひとり、作者だけがもつ自己主張の強い作風。これを貫こうと果敢に挑戦し、苦心するところが、大変面白い。短編連作の終回である。散文精神による観念追求の文体は、読んでいて気持ち良い。話はリゾートビーチと漁村が同居するような地域での、過去の事件を回想し意味づけをするのである、その書きまわしぶりが、なるほどと感心させたり、そうなのかな? と疑義をもたせたりで、読者との会話ができる。
 このなかで、ミステリーとノベルの違いの構造論が展開されるが、これは純粋理論化に傾いて、小説的なものから解離しているように思う。折角、過去の事件らしき現象があるのであるから、これに結び付けて論を展開しないと、本質的に俗的な視線で、世界を語る小説からはみ出してしまうような印象を受けた。とにかく、書く姿勢が楽しめる。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「柘榴」編集室。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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「石榴」16号(広島市)

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2015年6月22日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「浜辺歌」木戸博子】
 人生の斜陽の一光景を、若き過去の煩悩に満ちた時期の出来事と結び付けて描いたちょっと変わった趣向の作品である。主人公の私は、「生まれ故郷でひとり息子を待つ母親は惚けている。(中略)ああ、弱きもの、汝は男なり。げに恐ろしきは女なり。まったくもって六十にもなって、つれあいに去られるとは! しかも彼女の相手は私と同い年の同性ときている!」という状況にある。
 母親のいるのは港町なのだろうか、新潟に向かう船のなかで、泣いている女子大生に会い、声をかけて知り合いになる。そこで、若い頃に灯篭流しを見物しにいった浜辺で泳いで溺れて意識不明になるが、住民に助けられた昔ばなしをする。動機に自死への試みに近いものを感じさせる。と筋を語ってもきりがないが、話の時代の流行歌やポップスの歌詞を挟み込んで、郷愁と滅びの情感をうまく醸し出している。凋落感を軸にし、小説を読む慰みという意味での面白いものがある。主人公は男性であるが、作者の視線には男の持つ莫迦げたロマンとは一線を画す、女性特有の現実的な視線を感じるものがある。
 また、夜の港に着いて「引き潮で露出した岸壁には海草や藤壺が張りつき、あたりには女の秘部の匂いに似た悩ましい潮の香りが激しく漂っていた」という独特の感覚の比喩に驚かされた。自分は地元の銭湯に良く行くが、温泉の黒湯というのに入る。その時に何か懐かしいような、どこかで知ったような不思議な匂いを感じていた。この部分で、私は磯の香りとの関連がそこにあるのかも知れないと、腑に落ちるような気がした。
【「サブミナル湾流」?篠田賢治】
 連載で?があるのだろうが、前編が短かったのか、記憶がおぼろげである。それでも、これは文章が楽しめた。謎めいたシーサイドエリアでの事件を、哲学的な用語をふんだんに使いまわした文章力に舌を巻いた。ちょっと視線設定は異なるが、ガルシア・マルケス的な味に通じる格別な面白さがある。文芸味を堪能したい文学書好きにはおすすめ。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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「石榴」15号(広島市)

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2014年7月26日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「1990年代の思い出」篠田堅治】
 家庭を持つ女性と妻に去られた男の恋愛関係を描く。男の意識はベンヤミンというユダヤ人学者の研究体験を通して語られる。研究に没頭したため妻に見はなされたらしい。思い出の年代は日本経済がバブルから失われた20年に至る時代である。ベンヤミンについては、詳しくは知らない。それでも恋愛という不思議な心理を、凝った文章で表現するのには伝わってくるものがある。恋情もバブルと同じかも、と感じさせる。作者の工夫する姿勢の文章が、楽しく読ませるというか、興味を引く。描かれた女性の謎めいた魅力が優麗にして粋である。
【「訣別」木戸博子】
 病院を経営していた父親が亡くなり、長年連れ添ったという女性の要求で、6年間空き家だった病院を子供の兄妹が相談して売却することになった。取り壊される前に、かつての関係者も混じって、兄妹が見にいく。主人公の妹は乳がんの手術のあとの幻影痛に悩まされている。その伏線があるせいか、廃院での父親と対話する幻影が自然に描かれている。
 チェーホフなどの話も出る。たしかに平成26年における現代が、時代の変わり目に入り、なにかと訣別しつつある寂しげな時間の中にいることを感じさせる。品格があり隙のない構成で巧いものだ。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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「石榴」第14号(広島市)

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2013年8月 6日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「黄昏のなかの風景」木戸博子】
 イタリアのナポリやフレンツェでの旅行記。センチメンタルジャーニーとはこのことかと思うほど感傷的に描かれている。現地での作者の体験が読者の体験につながるように、詩情をもって表現され、エッセイとするには惜しい佳品に思える。詩的散文であり、現地のエピソードを述べる作者の感傷がそのまま読者の心に届く。同じ作者の小説「やがて来るもの」が「文学街」309号に読者賞を受賞第一作として掲載されている。文学的な鑑賞力の優れたところを応用して、高踏的な雰囲気の作品になっている。芸術的品質は「黄昏のなかの風景」の方が高いと思われる。読む人によって、読みどころが異なるかも。そこがこの散文の良さでしょう。また、「やがて来るもの」がストーリー性があって面白く読め、その分、理解する読者増えたなら、それは品質性より優先するものとして優れているのではないでしょうか。
【「君の歌える君のふるさと」高雄祥平】
 中年男の恋愛と恋人の女性の文学的な感性を追求し、二つの要素を織り込んだ新しい織物を産むような挑戦的な試み。普通の手法を敢えて取らずに、果敢に新手に挑む棋士を思わせる。
 発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴」編集室。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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「石榴」第13号(広島市)

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2012年7月27日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 暑いのは身体と頭に応える。ぼんやりしながら、つんどくになった同人誌からなるべく薄いのを選ぶと、本誌が出てきた。
【「全身昭和」木戸博子】【「めくるめく一日」同】まず、自らの入歯の話題から2作とも父親の晩年と死を描く。題材は以前の号と同じだが、角度を変えている。よく追体験できると、娘としてのこだわりに感心する。介護保険のない頃らしく、私の介護生活時代と重なるものがある。このころは、老化による感情爆発、感情失禁症状や認知症について、家族も病院関係者もよくわかっておらず、介護をめぐるトラブルは多く、そうした時代ならではの家族の感情や親への観察描写が冴えている。
 あの時代のどたばた劇は、そのものが親との貴重な交流であったことが作品に示されている。現在のような制度では、粘着度や密着度が異なるのではないか。いずれにしても、親の死を直視することは、自らの死にゆく道の風景を見つめることになるのだな、と思わせる。
 それはそれで良いのだが、書く立場からすると普遍性が不足しているのではないか。父親の娘としての立場からしか書いていない。自己表現の域である。きっと、読者は巧いとか、デテールに身につまされるとか褒めるでしょう。身につまされれば良いのか。老いて孤独で死んでゆく親と自分と民衆への俯瞰精神につながるものが欲しい。

【「懐かしのシネマ・ストーリー」高雄雄平】
 そのままで、ほんとうに懐かしい話である。日活映画なのに大作映画の思い出があり、スチーブ・マックイーン「拳銃無宿」など、短編ドラマなのに充実感。とにかく当時はなぜか時間が沢山あった。

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「石榴」第12号(広島市)

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2011年7月13日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「海まで泳げ」木戸博子】
 かつて泳げなかった、というより水に身体を浸すことに抵抗感をもつ私が水泳競技に参加する。その不安とぎこちなさ。私には、精神の不調に陥った娘がいる。
 そうした境遇を知ることで、私が水との融和に挑戦する意味が浮き彫りにされる。巧みな構成で、水になじむことに挑戦することと娘との交流を重ねた光景。すっきりとした水彩画のような仕上げが、作者の人生を視る表現に美意識を感じさせる。
 この作者には、「クールベからの波」(石榴社)という著書があって、小説や映画に関する大変良い味わいの鑑賞記なので、雑文書きに疲れた時に自分はいまも読む。この中に、チャップリンの「伯爵夫人」についての感動的な鑑賞評がある。
 この映画の裏話をマーロン・ブランド自伝「母が教えてくれた歌」角川書店(ロバート・リンゼイ共著、内藤誠/雨海弘美・訳)で書いている。「チャップリンはたしかに喜劇の天才だった。しかし、ロンドンで晩年の仕事をした私の眼には、恐ろしく残酷な人間に見えた。『伯爵夫人』の外交官オグデン・ミアーズ役を私にオファーしたとき、チャップリンはもう77歳になろうとしていた」としている。なんでも、チャップリンの息子のシドニーが出演したが、彼の出来が気に入らず罵声を浴びせ、意地悪く何度も取り直しをした。他人には失敗を罵り、自分本位の暴君で、「伯爵夫人」は大失敗作であった、としている。もっとも、この自伝には、ほら話と思われる話題も多く、リンゼイの文章がそれを見事にまとめ上げたという印象の本である。木戸さんの作風には、こういうのもありますよ、話かけたくなるような本の世界のユートピア性をもつ。
【「サブミナル湾流」高雄祥平】
 漁港に女性の死体が上がり、その事件について語るのであるが、追求するのは人間精神の欲望、情念、哲学観念が犯人であるようになっている。これはまた、独創的な仕掛け考えた小説というか、叙事詩というか、そういう作品。非凡なものがあり、余計なことは言えないが、自分にはこれはアートではあるが、小説ではないと感想をもった。文化部の女性記者が「大理石から彫り出されたようだ」というのは、すばらしいが、そういう具象性の部分が不足しているのではないか。おそらく野暮を避けたのであろうが、あの観念的な三島由紀夫も必要とあれば野暮をやっている。ただ、私の小説野暮主義は、批判されることも多いので、感想にすぎないが。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」

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「石榴」11号(広島市)

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2010年8月10日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「樹木の話」木戸博子】
 中国大連市の南山麓にある母親の生家を訪ねた話。主人公の母親は3年前に68歳で急死し、その喪失感を埋めようとするように、丹念に母親の労苦の痕跡をさがそうとする。歴史的な事実が物静かな魂の情念のなかで、表現されている。
 作者は中国新聞に「緑地帯」というコラムを連載するなど、地域で活発な活動を展開しているようだ。
【「薔薇よりも真実なもの」高雄祥平】
 出だしはこうである。
「私がこれから物語る一連の出来事のあと、何年どころではない二十年近くも経ったあるとき、私はテネシー・ウイリアムズに「バラのいれずみ」という作品があることを知った」
 こうして「私」の人生体験をテネシー・ウイリアムズの「バラのいれずみ」の舞台劇と照合して評論をしながら、語りを進める。大変に技巧的な作品で、もしこれで小説としての完成がなされていれば、画期的な手法を開発したということになるかもしれない。なにが出てくるか、と興味を持たせてそれはそれで面白く読んだ。小説の技法を凝らしてみたい、という人には参考になりそう。
 技法としての面白さで目を見張らせるが、それは、対象にむけた斜めの構えの面白さであって、小説としては不満に感じる。テネシー・ウイリアムズにしても、その他の哲学者らしき人名だけの表現では、自分には理解できず、個人的な想念を読んだとういう感想を出ない。小説の根っこにあるのは、「この人を見よ」であり、描写であろう。舞台劇は心理の描写に比重があるだけで、原理は同じなのではないだろうか。現代において「真実」って誰にとってよ。という課題があるなかで、真実がどこかに固定的に存在するというイメージが実に19世紀的で、戸惑いを憶えた。とはいうものの、なんとなく平凡な自己表現から脱しようという意欲が感じられ、もしかしたら一捻りすれば、この手法もあるのかな?と思わせるところがある。
 発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀埼2?16?7、木戸方「石榴編集室」。

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「石榴」第10号(広島市)

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8月17日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「歯」木戸博子】
1995年頃に、父親の死を迎えた娘の回顧である。老人の認知症という表現もなく、痴呆症という概念も明確でなく、さらに介護制度などもない。老いた肉親は病気であれば、病院へ、そうでなければ自宅介護となる。しかし、通常の家庭では自宅介護はすぐに行き詰る。それぞれ家族の生活あるからである。受け入れてくれる病院を探すのも、大変である。
 ここでは、自宅介護から病院へ入院させた娘が、もっと長生きをすると思っていたところ急に病状が悪化し、亡くなってしまう。そこに至るまでの娘の、父親との交流と意外な亡くなり方への後悔の念が描かれている。歯というのは、病院へ入れた父親が入れ歯をしておらず、看護の人たちから歯を使う食事をさせられていないことに娘がこだわる。そうして、死んだ後に、入れ歯をさせてあげたいと、病院がしまってしまった入れ歯を出してもらうと、入れ歯は本人の手で割られ使い物にならなくなっていた、というところで終わる。
 この時代、オームのサリン事件がニュースになっていたことを書き込み、時代背景がしっかりおさえてある。また、現実に父親を介護したときの、身についてしまう臭気、病院内での死臭など、臭いという五感の働きを表現に取り入れ、人間の死に直面した状況のイメージを明確に表現する視点に優れている。その細部によって、父親の性格や作者の細かい心情が、説得力をもって、語られている。
 自分もオーム裁判の時期に、会社を辞め、父親の介護をし、老人性の感情失禁というか、傍若無人な自己主張で、介護人には断られ、病院に入れれば不穏な言動だと呼び出され、自らの手はいくら洗っても、食事のたびに箸を持つ指から糞尿の臭いがしたものだ。個人的に、大変に心を動かされた。それは体験の共通点によるものであろう。確かに、私ひとりには、表現の意図は通じた。一人に感動を与えたのは、大変なこと。
 そういう良さがあるのだが、文芸作品として、どれだけの成果があるかというと、どこか、主婦の心情を吐露したレポート的なイメージがつきまとう。手際が悪く書かれていれば、わかりにくいものが、よく整理され優れているが故に、足りないものが浮き出してくる、という皮肉な結果になっているようだ。
 文学としてのポイントは父親の老人の業というようなこと、それを凝視する娘の感情の2点で、それらを組み合わせて純文学の素材にしている。この作品にはさらに体験者の思い入れがある。この思い入れこそ書く動機であろうから、欠かせない。同人仲間からは賞賛されるであろうと予想される。これでいいとするか、「もっと工夫して書くべき」とするか、自分も迷う。一応、もっと......、としておこう。父親の死に際の観察と、臭いへのこだわりは、作者の勘で純文学への扉を示しているのではないか? その壁を、もう一押しあれば......。同じ作者が本誌でスタインペックの「菊」の評論を書いている。シャープで、素晴らしい。勉強になった。

【「つづいて尾崎翠」高雄祥平】
 尾崎翠という作家はしならないが、知らなくても面白く読める。兄妹の愛を表現するのに、作家がそれを社会的なモラルを意識して、どう自己体験の表現の欲望を調和的に表現して見せるかを、難しく論じているが、わからないながら大変面白い。勉強になった。

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