銀座線の最近のブログ記事

「銀座線」第16号(東京都)

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kitaohiさんの感想を転載します。HP「文芸同人誌案内」掲示板2011年 1月 3日(月)書き込みより。

【「朝のこない夜」石原恵子】
 読み始めて最初に感じたのは、筆力の高い作者だということである。

 主人公の「私」(作品に出ているデータから、50歳前後、青柳さと子)の家族をを書いた作品である。母(晴子、主人公の「私」の年齢から推定すると70歳は越えている。)、父(母の姉と同い年とあるので、73、4歳だろう。)、私の弟慎次(36歳)を中心にした家族が、アルコール依存症の父に振り回される様子がとてもよく書かれている。父は、学生時代から家からの仕送りをほとんど飲んでしまうほどの酒飲みで、母親家族の借家に顔を出すうちに、すでに新聞社の事務員として働いていた母結ばれる。

 父は結婚してからも十数社も会社を変わるがうまくいかず、田舎の財産を処分し30半ばで編集プロダクションを立ち上げる。編集プロダクションでの失敗談、詐欺にあう話などが、たくさんエピソード風に紹介されている。そのプロダクションを畳んだのは去年である。

 父と生活していた母はアルコール依存症の父と医学でいう共依存の関係になり、鬱や不安感に襲われる適応障害のため、病院の精神科に入院する。入院するまでの母は何故か入院するということを慎次や父にいえない。担当医の三井医師はアルコール依存症の父を一緒に入院させて治療をさせたいと考えているが、父はアルコール依存症特有の虚言壁をうまく使い、アルコール依存症ではないと言い張る。精神科への入院は本人の同意がないと入院させられない。

「朝のない夜」という題名通り、救いがないのが気にかかる。父の悪い部分のみのエピソードが書かれているが、いい部分がほとんど書かれていない。父は金銭感覚がないにもかかわらず、家族が金銭的に苦労する部分はほとんどない。一つひとつのエピソードはとてもリアルに書かれており、感心しながら読んだ。とはいっても、小説であるので、父が現金の流入路を絶たれてから、こっそり断酒について書かれた本を入手し、読み始めたといった終わり方でもいい。救いは父がいなくなることと、いったような終わり方は気になる。ただ、このような家庭は最近増えているようにも聞く。そうであればあるほど、小説らしく人生の否定につながらないようにして欲しかった。

 ところで、私の周りにも多くのアルコール依存症やその前期の人たちがいた。彼らは殆ど短命だった。73、4歳まで現役として事務所を経営するなど、考えられない。多くのエピソードが書かれており、アルコール依存症の虚言癖の話など、私を含め多くの人が経験していることで、とてもリアルで、いろいろなことを思い出してしまった。

 ただ、金銭感覚のほとんどない感じのアルコール依存症の人物が、七十数歳まで現役として事務所を経営していたということについては、私個人としては実感が湧かない。

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「銀座線」15号

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 発行は2010年1月1日ですが、先日図々しくお願いして送っていただきました。
 読みながら、読者としてだけでなく、同じく小説を書こうとしているものとして共感した作品について、暫時、感想をアップさせていただきます。

「流される川」河合友大
 書き出しの19頁から20頁三行目までが丁寧すぎてすっきりせず、かえってこの小説世界に入りにくくしている。川の描写をもっと短く完結に書いて、読者をぐいっと作品世界へ引っ張り込んで欲しいと思いました。
 20頁4行目の
「仕事が終わったイミカは......」から先は滞りなく一気に作品世界に入れ、読み進めることが出来た。読み始めは主人公の名前といい、舞台の無国籍な感じに戸惑ったが、川の汚れと料理の味付けと住民の健康、立ちんぼの女の死、そしてイミカ自身の死を暗示する描写と、なかなか読者の想像力をくすぐってくれる良い小説でした。
 ただ、書き出しにイエローカードを出しておいて、さらに二枚目のイエローカードを切っては申し訳ないですが、結末の10行は不要な蛇足と思います。

雨音が更に激しくなった。その雨音の向こうから女の呼ぶ声が聞こえるのだった。

 ここで終わる方が小説として完璧だと思います。
 いい小説を読ませていただきました。また次作を読ませていただきたい。


「誇りを掲げ俯いて歩け」蒔田時春
 斎場の喫煙所で孫と祖父が交わす会話だけでほぼ成り立っている作品で、読後の感想は落語的文学、あるいは文学的落語のどちらか。
 でもそれがなかなかいいのです。
 洒脱な祖父との会話という形を借りながらこの世や社会に斬り込んでいるのは結構な才能かもしれないと思った。この作者の次作も読んでみたい。


「秋の陽は林檎のかおり」石原惠子
 後になって判ることだが、最初の段落は、主人公・瑠璃子が学生時代に共に暮らした哲の部屋を思い出している、あるいは夢を見ている場面で、二十何年も前のことである。
 読み進むうちに、就職活動のついでに瑠璃子の足はかつて哲と暮らしたアパートに向かう。そしてアパートの管理人だったおばさんと遭遇し、話をするし哲の部屋に入りさえする。
 それは、明らかにその当時のアパートであり、管理人のおばさんである。
 Lydwine.さんが書かれている通り、過去と現実がメビウスの輪のようにどこかでねじれながら地続きになっている。
 少し違いますが、ふと山田太一原作の映画「異人たちとの夏」を思い出してしまいました。
 また、実はかくいう私も、地下鉄に乗ってひとりの女性の部屋を訪ねるという奇妙な夢を、相当期間反復して見続けたことがあります。ただし、私の夢の場合は必ずその部屋のドアをノックし、「誰?」と問われる声に答えられなくて、いつもそれで夢が終わるのだった。フロイト流に分析すればずいぶん単純な夢ではありますが。

 脱線しました。
 瑠璃子が二十数年前に哲と暮らした部屋の夢をみたり思い出したりすることは、現在の夫である修に隠されることなくあけすけに語られている。
 そして終わりの段落では修を伴って哲と暮らしたアパートを訪ねてゆく。その修との会話を含めた結末。

「わたし、哲のこと、ちっとも好きじゃなかったんだ」
「そう......」
 修の言葉はそれだけだった。
 あの部屋のドアを開けても、哲はきっといない。
 確信があった。
「哲くん、瑠璃子が戻ってくるの、ずっと待ってるんじゃないのかな」
「そんなことないよ」
「瑠璃子、奇跡の林檎って知ってる?」
「なあに、それ」
 わたしは訊いた。
「ありえない林檎だって」
 修は言って、鍵穴にわたしのキーホルダーから選んだ鍵を差し込んだ。

 うーん、修が鍵を回してドアを開ける、その先は読者の想像力の預けていて、何ともずるい終わり方である。
 もっとも、ドアを開けたら、昔のままの哲が相変わらず長編を読んでいる、あるいは居ない、のいずれかだろうから、ずるいけれど必然の終わり方である。
 個人的には、ドアを開けたら哲が長編を読んでいて、ふっと瑠璃子を見上げるその眼の色の描写などあったらゾクゾクしたでしょうけど。

 ちなみに先に引用した結末、わたしだとこういう風に少し入れ替わります。(石原さん、こんなことまでして、済みません)

「瑠璃子、奇跡の林檎って知ってる?」
「なあに、それ」
 わたしは訊いた。
「ありえない林檎だって」
「わたし、哲のこと、ちっとも好きじゃなかったんだ」
「そう......」
 修の言葉はそれだけだった。
 あの部屋のドアを開けても、哲はきっといない。
 確信があった。
「哲くん、瑠璃子が戻ってくるの、ずっと待ってるんじゃないのかな」
 修は言って、鍵穴にわたしのキーホルダーから選んだ鍵を差し込んだ。

 現在と過去が地続きという構想が完璧に生かされずに終わってしまった感じも少しはしますが、同じように小説を書こうとする者にとって、とても刺激的な作品作りでした。

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大層ひさしぶりに、読了に漕ぎつけた小説が、「銀座線」15号の大トリをつとめている石原惠子さんの「秋の陽は林檎のかおり」だ。
しかし、なにぶんにも読了がひさしぶりなら、読書の記事も書いていなかったので、さっぱりその書き方を見失っている。はたして、読書の記事と言えるような記事が書けるのか、はなはだ不安であり、そんなときにネタにされてしまった石原さんもいい迷惑だろう。あらかじめ陳謝しておこう。ごめんなさい。

さて、この小説を簡単に要約してしてしまうなら、修(しゅう)と暮らす「わたし」が28年も昔に同棲していた哲(さとる)との生活をたびたび夢に見るようになり、やがてその夢が、現実と地続きになる物語だ。

このとき、「わたし」は修に逐一その夢を語るが、修はそれをただ夢のこととして、なんということもなく聞き流し、気にとめるでもない。かといって、修が「わたし」にたいする愛情が希薄になっているというわけではなく、「わたし」も気恥ずかしくなるような科白を平然と、そして何度となく口にしている。
そして、ついには、修は夢と地続きの場所、かつて「わたし」が哲と暮らしていた、そして、そこに今も昔のままに暮らしている哲が長編小説ばかりを読んでいるアパートへ、同道すらするのだ。

そう、哲は長編小説ばかりを好んで読んでいる。夢のなかの今、すなわち語られつつある場では、プルーストに続いて「竜馬がゆく」、さらには「宮本武蔵」(吉川英治? 司馬遼太郎? 長編というなら吉川英治だね)を読んでいる。かたや「わたし」は長編小説を苦手とし、短篇小説ばかりを読んでいるというが、例えば、今なにを読んでいるかといってそれは語られない。それは、かつて小説家を志し、げんに書いてもいた「わたし」ではあっても、今では短篇小説すら読まないようでもある。だが、そうした小説の趣味を異にしながらも、ふたりは、宮沢賢治という共に好きな作家があり、なかでも「注文の多い料理店」が、ふたりの出会いを演出もしていれば、ふたりの絆のようにも、作中の科白「早くタンタアーンとやりたいものだなあ。」という科白がくり返される。

だが、その背景には、「わたし」が、リストラのあげくについたフリーライターの仕事もままならず、就職活動をはじめてみるが、やはり思うようにならないといった生活もある。こうした点の書きぶりは、なんとも上手いというか、自然な語りぶりだ。修に暇だからそんな夢を見るのだろうといわれて、就職活動をはじめることと、面接の場、そうした出来事の連続性がごく自然に語られていく。そして、出来事の連続性のなかにあればこそ、「わたし」が夢のなかに入り込むこともまた、自然な出来事足りうるのだ。

面接に失敗し、ふと思い立ってその足で新宿駅から私鉄に乗ると、哲と暮らしたアパートを訪ねるのだが、その道々の変化と変わらなさを、コロッケ屋やラーメン屋のなかに見い出していく。

 アパートは昔のままだった......というより夢に現れたもの、そのままだった。一階と二階にそれぞれ四部屋のドアが並んでいる。わたしと哲が暮らしていたのは一階の左隅の部屋だ。表札は出ていないが、人が暮らしている気配が感じられる。  当たり前の話だが、別の人間がちゃんと生活しているのだ。なんだかほっとした。やっぱり夢は夢でしかない。  「あらあ、奥さん」  踵を返したわたしは、不意に背後から呼び止められた。聞き覚えのある声だった。  振り返ると、アパートの階段の上で女が手招きしている。いまどき、カーラーを巻いた髪にネットを被せていた。  「しばらく見なかったけど、どうしてたのよ」  管理人のおばさんだった。このあいだの夢の通りだった。

「アパートは昔のままだった......というより夢に現れたもの、そのままだった」というなら、夢がかならずしも昔ではないということだろう。往々にして、人間の記憶は間違いをおかす。かつて「わたし」たちが住んでいたとき、すでに築十年のアパートだったなら、すでに古びていたけれど、そのままの姿なのか、それからさらに28年を経過した姿なのか、それはわからない。管理人の佐藤さんも、「いまどき、カーラーを巻いた髪にネットを被せていた」としても、28年の年月を経た姿なのか、それとも、昔のままなのか、ここでは語られない。それはあくまで夢のなかに出てきた佐藤さんの姿なのだ。
すなわち、時間を超えているのではなく、現実と地続きの夢なのだ。境界線のない地続きの場所だ。
だが、まったくおなじというわけではない。

 このあいだの夢とほぼ同じ光景だった。違うのは、中身の詰まった本棚だけだ。

だとすれば、「このあいだの夢」はやはり「わたし」の記憶に依存していたようでもある。そうなれば、「わたし」はその現実に、不審をいだくことになる。

 「ところで、これは夢ですよね」  思い切って、佐藤さんに訊いてみた。

それなら、「わたし」にとって、やはりこの出来事は謎になるしかない。そして、その謎の在りようが、まさにこの小説の要だったと思える。

 「よくさあ、人生をやり直せるとしたら何歳に戻りたいかって訊かれることあるだろ?」  「うん」  わたしはビールをひとくち啜り、修の目を見つめた。  「修はいくつ?」  「ぼくは戻りたい時代なんてないよ。今がいちばんいい」  「ふーん。で、どういうことなの?」  もう一度ビールを呷る。  「つまりさ、自分が戻りたい年齢っていうのは、自分がいちばん楽しかったとき、充実していたときのことなんだって。だから、そこからやり直したいってことさ」  「じゃあ修は、今がいちばん楽しいから人生をやり直さないでいいってこと?」  「そういうことになるかな」  相変わらず、気障なことをさらっと言ってくれる男だ。  その伝でいえば、二十歳のころの夢に振り回されているわたしは、あのころに戻りたいと思っているのだろうか。

なぜ、「わたし」が夢に振り回されるのか、それが問題化するのだ。だが、上の説明は、「わたし」を納得させない。

 「ねえ、どうしてわたし、今になって哲に振り回されているんだろう」  「彼に対して、何か後ろめたいことがあるんだよ、きっと」

そうして、「わたし」は哲にたいする後ろめたさを見い出してしまう。見い出すことで、物語は、綺麗におさまる。すなわちここでは、謎がずらされているのだ。「振り回されている」という言葉に置き換えられているで、なぜ夢と現実が地続きであるのか、という問いは問われることがない。それだけではない。修はいうのだ。

 「哲くん、瑠璃子が戻ってくるの、ずっと待ってるんじゃないのかな」

と。
それなら、それが地続きの原因だろうか? そうではない。
じつはこの小説において、もっとも面妖な人物とは、哲でも「わたし(瑠璃子)」でもなく、じつは修にほかならない。最後に彼がいう「奇跡の林檎」は、私にはわからないが、それ以上に最後の一文は、奇怪だ。

後ろめたさや、哲は待っているのだといった科白が、物語を綺麗におさめながら、じつはそうした謎解きの身振りに隠れて、なにごとかが起きている小説だ。物語を綺麗におさめることで、私たち読者はきっと騙されているに違いない。石原さん、なかなか人が悪い作者だ。

                      Lydwine.さんの読書雑記より転載

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【「秋の陽は林檎のかおり」石原惠子】
瑠璃子は修(しゅう)とふたり暮らし。修には前妻との間にもうすぐ18歳になる子どもがいる。瑠璃子の夢に学生時代つき合っていた哲(さとる)が現れるようになる。夢の舞台は当時いっしょに暮らしていたアパートで、だんだんと夢と現実の境が曖昧になる。夢の内容を修に話す様も、嫌がるふうでもなく聞いている修も、不自然さはなく穏やかな時間が流れている。その場の空気を描き出す、細部まで行き届いた表現も好ましい。瑠璃子の中に流れている、ふたりの男の気配が濃厚に感じられる。心地よくって、ちょっと怖い作品でした。

【「流れる川」河井友大】
近未来なのだろうか。環境汚染が進んだスラムのような町が舞台。人びとの生活は汚れた川の水で成り立っている。屋台で出す料理は川の水の油臭さを消すために濃い味付けになり、どんどんエスカレートしてゆく。健康被害も出ているが、人びとは川から離れられない。気づかないうちに引き返せない地点までエスカレートした生活や水を懐かしむ気持ちなど、こちらの無意識の奥を揺さぶられたような感じがした。希望のない世界だけど、読後感がいい。イミカとK君も内面を説明的に書き連ねるのではなく、描写でくっきりと描き出している。

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「銀座線」14号

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弊ブログに「銀座線」14号掲載作について、記事を書いたので転載します。


第8回文学フリマで仕入れた本をあれこれと開いては、巻頭作を齧り読みしていたのだけれど、「銀座線第14号でようやく読了に辿りつけた。

ようするに私は多分に文章フェチなのであり、例えば「?なこと」とか直喩、あるいは体言止めが繰り返されると、それだけで辟易してしまい、読書スランプ気味の今ならなおのこと、読み進められなかったのだが、さすがは「銀座線」ともなると、安直な文章はない。いや、ひとつふたつ、意味をとりかねるセンテンスもあったのだけど、若書きにありがちのやけにきどって文学的に硬質になることもなく、スラスラと読ませてくれた。それが、「銀座線」第14号巻頭作、藤咲文さんの「隠れん坊」だった。
率直に言って、面白かった。

ただし、あらかじめ書いてしまうと、そうしたスラスラと読ませてしまうもの足りなさがあった。
すなわち、物語の面白さで先へ先へと読まされて、風景が見えてこないのだ。いや、絶えず描写を繰り返しているのだが、その描写に工夫がなかった。

 リビングのソファーに座った奈津江は、両手で包み込むようにティーカップを持ち、紅茶に口をつけた。いつもはわりと名の知れたブランドの服を着て、こぎれいなアクセサリーを欠かさない奈津江が、今日は胸元に染みの付いたグレイのスウェットにGパンという出で立ちだった。髪の毛はぼさぼさで、しばらくブラシを入れてないようだ。

これが書き出しだ。最初のセンテンスでさっそく直喩があるのだが、なにも直喩を使うなというのではない。比喩の危険性は、物語だよりの読者ならそれが比喩としれた時点で、ほとんど読み飛ばしてしまう、忘れ去ってしまうつまらなさ、もったいなさがある。比喩と描写はほとんど同義といってもいい。描写を優先させた読書を推奨したい私としては、簡単に忘れ去られる比喩を、もったいないと思ってしまう。だからこそ直喩は避けたい。しかし、上の直喩であれば、「両手で包み込む」という、それこそ比喩とも言えない状態の提示だからこそ、目に見る情景として、忘れられることもないだろう。直喩の使いかたとしては、このていどにしたいものだと思う。思うけれど、逆にいえば、直喩にする必要もなかったとも思う。
また、直喩の弊害として、曖昧化してしまうという点もある。上段の最後のセンテンスにある「しばらくブラシを入れてないようだ」というときの「ようだ」は、語り手の想像であり、そう言わずにいられない必然があるだろうが、上からふたつ目の段落を見ると。

 もともとわたしと奈津江は幼稚園の頃からの幼馴染で、中学まではずっと一緒の学校に通っていた。高校になり連絡は途絶えていたが、息子の祐輔の幼稚園で偶然母親同士として再会してからは、また時々電話をしたりお茶をしたりするような仲になっていた。

このときの、「したりするような仲になっていた」という段落の結びは、「ような」の必要が感じられない。にもかかわらず、藤咲さんはそこに「ような」と書きつける。
なぜだろう?
ここで書かれた物語が、サスペンスだからである。「いつもはわりと名の知れたブランドの服を着て、こぎれいなアクセサリーを欠かさない奈津江」が、「胸元に染みの付いたグレイのスウェットにGパン」で外出してくるサスペンス。
だが、あらゆる小説とは、須らくサスペンスになるべく宿命づけられている。なぜなら、タイトル以外のなにも情報のない小説を読みはじめるとき、すべてが謎のままだ。いつ、どこ、で、だれの、どんな事件が、どんな展開をするのか、なにもしらないのが読者だ。論文なら、タイトルとそれに続く書き出しで、そこで展開されるはずの目的が、あらかじめ書かれるが、行を追うごとに、文字のひとつひとつを追うごとに、それらのすべてが次第に明かされていくのが小説である。それなら、むしろいわゆるサスペンス小説のほうが、明かされていくべき謎があらかじめ提示される単純な構造にあるといえる。
そう、だからこの小説も、こぎれいなはずの奈津江が汚い格好をしているというサスペンスをあらかじめ提示したのだ。すなわち、「わたし」は奈津江が現在置かれている現状をわかっていない、その表明が、「ような仲」なのだ。

そして、この小説は、ふたつの語りで進行していく。すなわち、奈津江が語る現在と、それを聞きながら、過去を振りかえる「わたし」である。

あたかも傍観者のごとく「わたし」は奈津江の話しを聞くものであり続けている。だが、それもまた仕掛けであろうことは、容易に想像がつく。むしろそのまま聞き手に終わるならば、もの足りない。だから、「わたし」がいずれ奈津江を巡るサスペンスに重要な関係を持っていくだろうと予想される。だからこそ、ここにもうひとつの仕掛けを施して欲しかった。「わたし」を物語(サスペンス)を乖離する手立てとして、語り部の魅力をここに施していたなら、この小説はもっともっと完成度の高い作品になっていたと思える。すなわち、語りつつある奈津江とそれを聞きつつある今を描写するものとして機能して、語り部に徹すると思わせたなら・・・。

過去の因縁が、今という時の中で、奈津江を狂気に至らせる、その過程を過去をも含めて、二重の語りの中に、立ち上げていった構造も面白い。どこまでが真実でどこからが妄想なのか、その境界線も不確定のままで終わっていくのも面白かった。

もう一歩欲しかったと思うのが、上にも書いた「わたし」と奈津江の距離だろう。
読んでいるうちに、一人称が奈津江とも「わたし」ともつかなくなっていく瞬間が往々にしてあり、だけど、じつはちゃんと読んでいれば間違いようのないものなのだから、むしろ誉むべき文章マジックといえるが、そうした眩暈を起こさせる距離が、藤咲さんの意識外のところにあったように思えるのだ。そして、あくまでこのふたりの距離が先の「ような仲」にも似た余計なセンテンスを呼び込んでしまったのではないだろうか。曰く・・・。

 奈津江はことの経緯を話し始めた。

 「鬼」といえば思い出すことがある。

これらのセンテンスが、段落になって置かれてしまう。そうしたときに、「こと」という単語が出てくる点に注目して欲しい。「こと」は書かれるか、あるいは書かれているなにごとかを指しているのだ。まさに余計なセンテンスといえよう。それをあえて書かずにいられない点に、語り手として振舞う「わたし」の、出来事との距離を演出しているようにも感じられるが、サスペンスの中心である栄子との距離の中にこそ、それを作り出したほうがより効果的だったのではないだろうか。

それから、サスペンスの在りようとしては、あえてネタバレを控えてはっきりとは書かないが、最後の部分を考えると、冒頭部にある「今日久しぶりに我が家に奈津江が訪ねて来たのだった。」という文章は、ちょっとひっかかる。かなり考えられたうえでこの書き方になったのだろうとは想像するけれど、やはりはっきりと「わたし」が呼んだことにしてしまったほうが、納得できる。

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