カムの最近のブログ記事

【「胸の怪物」芦原瑞祥】
人は自分の不足ばかりを数えて苦しむ。実際にはよい働き掛けもしたはずなのに、しなかったことや出来なかったことばかりが気に掛かる。自宅介護など、介護する側の自分を責めてしまう傾向があるように思う。この作品の主人公も、障害のある弟に対して痛々しいほどの自責の念にかられる。そこのところのやり切れなさが描かれているが、読後感は爽やかだ。主人公の、船で出会った母子への働き掛けで何かを乗り越えたことを感じさせる。同僚のヨッシーや家族の存在も、大きな力になる。素直にそう思いながら読み終えた。

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「カム」vol.7

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カム」誌vol.7掲載作について、私のブログ記事を書いたので、転載します。


【走れ】うえのそら初

じつは、しばらく前に読んでいたのだけれど、時間を置いたのは、手許に本がなかったから。
面白く読んで、記事にしたいとずっと思っていた。


この小説の面白さは、なんといっても、タイトルのとおり、ひたすら走る「ボク」の、その運動のなかにいつづけること。

 さっき、玄関で「こんな遅くにどこに行くの? 誰かから呼ばれたの?」と母さんに言われた。
 けれど、ボクはそれを無視して、今、家の外にいる。コンクリートの道路のところどころに街灯や家の明かりが落ちていて、その上をボクは走っているのだ。春なのにまだ冷たい風を、頬に感じる。

この運動が、終始一貫して、この小説のなかにはある。
私たち(読者)は、まず、なぜ「ボク」は走っているのか? という謎にさらされている。「まず」とは書いたが、それこそがこの小説のすべてだと言ってしまってもよい。
どうやらそれは、カナと健太という名の友人にかかわるらしい。
畢竟、ボクは、その幼馴染カナと健太と過ごしてきた時間を回想することになるのだが、その流れは流麗だ。
 
言葉が頭の中に浮かんで、その頭の後ろにむずがゆいような気持ち悪さを感じる。その感触は首を通って、肺や胃のあたりまで降りてきそうだ。
――放っておこうよ。カナと健太の勝手にすればいい。あんな電話、無視すればいい。なんでボクが付き合わなければ――
 感触と一緒に降りてくる言葉。ボクはそれに反論しようとする。だまれ、と口に出そうとして「だ......」、途中で詰まってしまった。
 喉の奥に丸い何かがあった。卵くらいの大きさで、もっと硬くて、冷たい何か。いや、そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない。なのに、こいつは時々ボクの中に現れるのだ。ボクは喉を右手で握りしめる。
親指と人差し指の間に当たるのは、喉仏。昔はなかったもの。
 その違いは、ボク自身の昔を思い出させる。ボクがもっと小さくて、カナや健太と一緒にいた時を。

周囲との違和感を感じるその触覚的な「感触」が、最近できた喉仏につながり、その自身の変化が変化以前へ意識を連れていくその連絡は、だけど、もちろんカナと健太とボクの記憶でもあるからに違いない。
さらに、読み終えてから、ここを見るならば、第二次性徴という自身の変化が、自身の変化ではなく、自分を取り巻く世界の変化としてとらえてしまうことで、周囲、世界と乖離した自分に、居場所を失ったカナと健太だったのだと、ボクはそれを「そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない」と気づいているボクなのだと、その差異に思い至る。
それだけではない。ボクが思い出すのは、カナと健太とボクがいつもかけっこをしていた記憶なのだ。
 ボクたちが一番よくした遊びは、「かけっこ」。
 かけっこといっても、ここからあそこまでと決めて競争するわけじゃない。一番前を走るものが自由に未知を決めて走る。 二番目と三番目が一番目を追う。一番目が抜かれるか、気が済んで立ち止まるかするまで、ずっと。それがボクたちのかけっこだ。
 ボクが一番前になることはめったにない。二人ともボクより背が高くて、足もずっと早かったから。
 ボクは、「かぁんちゃーん、けんちゃーん」叫びながら、二人の背中を追いかける。
 カナが先頭を走る時は、たいてい近所の公園、その周りを何度か回ったり、公園の中に入ったりする。だけれど、健太が先頭の時は、全然知らない場所に行くことが多かった。人の多い交差点やどこかの家のコンクリートを、越えたりして。
新しい道を行くうちに、ボクは二人から離れてしまう。健太の坊主頭が見えなくなり、カナが着ていた白い半袖シャツの背中も遠くなる。ボクは追いかけ続けようとするのだけれど、つまずいて転ぶ。そうでなければ、道を歩く人にぶつかる。立ち止まって、ひぃひぃ息を吐く。蝶や初めて見る店の看板、ガチャガチャの機械、そんなものたちに気をとられるそれで、健太もカナも見失ってしまう。

こうして、記憶の中でも、運動は持続される。私たち(読者)も、絶えず走り続けることになるのだ。

さて、では自分が変わることが世界の変化であり、その違和感に苛まれる存在はどうだったろうか? 健太の違和感には、母の死というきっかけがあった。対してカナの違和感はいかがだったろう? それが女性の変化と、それを見極められない男である「ボク」の認識力なのだったろうか? あるいは、性差というよりも、性差を意識しはじめてしまった「ボク」? そのあたりをもっと明確にしないと、カナの世界に対する違和感が、健太との相対性のゆえにも、曖昧すぎた気がする。
いや、「ボク」という語り手にとって明確にならないそれは、私たち(読者)にも明確になり得ない。そう、だれより「ボク」が、カナの異常に曖昧だったのだ。
そうした曖昧さは、じつは健太に対しても、感じていたはずだ。

これは難しい。
思春期の世界との違和感を描くように見えて、じつは、他者の変化に対する「ボク」の違和感だったのかもしれない。「ボク」は、カナのこと、そして健太のことを理解できない。その悔しさは、かけっこで彼らに追いつけずに泣いていた「ボク」の弱さでもあるだろう。

 ――馬鹿野郎、畜生、ごめん、ボクも連れてって。しなないで、ゆるさない、ばか、何考えてるんだ、どうして、説明しやがれ、くそ、待って、このおっ――

そう簡単ではない。
じつは、私たち(読者)は騙されたままだ。すくなくとも、私は騙されていた。
もしかしたら騙されたのは、単に私のお間抜けでしかないかもしれない。タイトルを見れば、それは明らかだったのだ、ともいえる。「ボク」は走ってなどいなかったのだ。
上に書き出した直前に下がある。

 そして、今、ボクは家の外に立っている。
 口の中では、まだ丸い何かが存在している。
 ボクは喉に人差し指と親指を突っ込む。指先が喉から垂れ下がった肉に触れる。イメージの中で、丸いものを掴み。指を一気に引き抜いた。

今、ようやく「ボク」は、ふたりのところへ向かって走り出そうとしている。

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「カム」Vol.6

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【「掛(か)けまくも畏(かしこ)き」芦原瑞祥】
主人公、柏木宮子は神社の娘で、神主である父と妹の3人家族。神道や行者界のしきたりなどが詳しく書き込まれていて、用語も興味深く、独特の雰囲気が漂っている。巫女さんの緋袴に清々しさを感じたり、「結界」という言葉に不思議な力を思ったりしながら引き込まれた。行者の弟子である寛太君の事情も納得がゆく。ただ、結末があまりにきれいにまとまっていて、おどろおどろしさのテンションが一気に毒気を抜かれたように感じた。八方破れでめちゃくちゃのまま終わる方が、印象が強いのではないだろうか。言うのは簡単だけれど、これがなかなか難しい。どうしてもバランスを取って書いてしまう私自身の願望が混じった感想です。

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「カム」誌vol.4掲載の「頭を打った女」(田中一葉)について、私のブログから転載します。

カムvol.4掲載の田中一葉さん作「頭を打った女」を読んだ。

面白がりながら、読んでいたのだ。すごく面白い、と思って、読んでいた。
いやはや、残念。

会社の呑み会のあとに、駅で顛倒、頭を打って、救急で病院に運ばれた女性が、前後の記憶が失われており、そのなんともいいようのない不安を託ったまま、翌日に精密検査を受けると、一時的な記憶喪失は頭を打てばよくあることだし、記憶が戻るということはないと告げられ、さらに、脳には問題がないし、傷も大したことはないから安心しろ、と言われる、それだけのお話なのだ。

物語はなにもない。だが、一時的とはいえ記憶が失われていることの、言いようのない不安がそこにはあるし、後頭部を三針縫う怪我に、午前4時の帰宅になったのに、夫は徹夜仕事で帰っていなければ、タクシーでの帰宅途上に打ったメールにたいする返信もないという、夫にたいする不信もある。それらが混交したように見せる悪夢もある。

 私と池田君は笑いながら、繁華街を歩いている。
 同期会があった韓国料理屋の通りを曲がり、どちらからというわけでもなく、お茶でも行こうかと話が出た。
 じゃあ俺が奢るから。池田君が言い、すぐそこにあったスターバックスに入った。アイスカフェラテを頼み、入口近くのテーブルにつき、何がおかしいのか分からないが、また二人で笑う。店内は平日の昼間みたいに、一人で来ている客ばかりが目立つ。私達の話し声がやたら大きく響く。普通に話しているのに、周りが静か過ぎるのだ。

部屋にたどりついてベッドに入った場面から、一行空きを挟んで書かれた場面である。すでに同期会は二次会を断って、池田君と「私」が連れ立って帰ったことは書かれていたとはいえ、その帰路にスターバックスに寄ったことは書かれていなかったし、それよりも、この「どちらからというわけでもなく」とか「何がおかしいのか分からないが」とか「平日の昼間みたいに」などなど、漠とした不自然さの気配を、漂わせて見せている。「私」のことでありながら、他者として語るような「歩いている」といった語尾にも、不思議さが滲んでいる。そう、ここは夢のなかだ。こののち、夫が現れた時点で、それがまさに夢あるいは妄想としか思えない様子が明らかになっていくのだが、夫が携帯電話で呼び出されたように、どこかのアパートに入っていったり、あるいは池田君と身体を合わせるなどという場面もあり、すると、夢のなかのできごととはいえ、記憶が失われていれば、それらはほんとうにあった出来事をもとに構成されているのではないかとも、「私」ならずとも疑う。そう、疑惑を「私」と読者が共有する。不安を共有する。
いや、だけど、目覚めた「私」は、「私」が池田君とセックスをしたかもしれないなどと、あるいは夫に女の存在を疑っている、といったことはいっさい書かれていない。これも見事だ。

そして、このなにも起こらないことが、頭を怪我したときに受ける診察の詳細とあいまって、いかにも私小説めく。すなわちほんとうらしく見えるのだ。まるで田中一葉さんが、こうした経験をしたのだろうと思えてしまう。じつをいえば、夢の場面はたぶんに創造にしても、そうなのだろう、と私は思ってしまっているのだけれど、だけど、私小説にしても、ここからもっと広がって欲しかったなぁ・・・。もちろん、上に書いた「これで終わり!?」という驚きには、面白がっているからこそもっと読ませろという、気持ちがあることもたしかなのだ。
例えば、その後池田君の顔を見て、その日の感謝はありながらも、やはり情事の夢を思い出して戸惑う、といったこともあるだろうし、失われた記憶はもどることはないとはいえ、ここで医者も言うとおり、周囲の言葉から、勝手に記憶を映像などさえ伴って構築してしまうこともあるといった部分も、自分自身についてと記憶の怖さとして広がっていけたのではないかと思う。

例えば、アメリカで実際に起きた事件で、自宅で強盗に襲われた主婦が、額に暴行を受けたことで記憶を失っていたが、医師からくれぐれも記憶を誘導するような発言をしないよう言われていたはずの母親が、その被害者が婚約指輪を示したことで、「○○(被害者の夫)が犯人なのか」と言ったがために、被害者の記憶が再構成され、夫は逮捕、そのうえ、裁判でも有罪となり長く刑務所に入っていたが、あるとき別件で逮捕された男が、自供したことから、夫の無罪がわかったという事件がある。それでも被害者女性の記憶が今さら修整されることはなく、自分を襲った夫の顔の記憶が鮮明にあるために、夫に会うこともできないそうだ。

記憶障害というある意味では自己同一性を脅かす出来事に出合ったのだから、これはもっともっと書けるはず。ぜひ、この出来事をもとに、さらにひろがった小説を、もういち度書いて欲しいと思ってしまう。

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