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「文芸中部」105号(東海市)

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2017年6月30日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌を手にすると、常連の作家の名が多くある。皆うまく書いているのだろうな、という先入観が生まれる。水準が安定しているのだ。100号が第6回富士正晴全国同人雑誌賞の特別賞を受賞したのも、雑誌の歴史的役割と作品の水準が高いところで安定しているのが、評価されたのであろう。
【「三人二題」三田村博史】
 文学論とかつての同人雑誌の活動を折り込んだエッセイである。辻原登「東大で文学を学ぶ」のなかで、「模索」(バスティ―シュ)を文学における最も重要な手法」と位置付けていることを軸にして紹介。横光利一が提唱した「純粋文学論」のなかでの、通俗小説の二大要素は偶然性と感傷性とかによってこそ生きるという説にふれている。そこで、辻原の通俗小説の偶然性は、快く読みやすいとしながら、現実生活における偶然性は、恐ろしいという。
 ドストエフスキーの作品の独自性を、ジイドとともに、この世界における偶然性と現実に光を当てようとしたと、引用をしている。
 現代において、文学的な視点での手法や価値観は、人々の持ち時間でみると、通俗小説の簡便さに比べ、世界への問題意識や認識のあり方を考えるには、時間を長く消費させるものがある。多忙である。
 これによって、文学的な芸術性に関心を持つひとは、減少傾向にある。作家を業をする人は、一定の読者の獲得が必要であり、同人誌作家は、同人仲間の評価を無視出来ない。
 そのなかで、独自の文学性を模索するには、ある程度の信念と意思の強さが求められるであろう。
 本エッセイでは、清水信氏の同人誌評が関西で大きな役割を果たしたことや、その後の「東海文学」などの動向について触れている。
 自分は、同人誌紹介をはじめたのは、文芸愛好家の作品から社会情勢を観察しようという意図があってはじめた。贈呈へのお礼を兼ねて、紹介文を書いてきたのだが、義務という感じではない。「文芸中部」を読み始めたのは、井上武彦氏の晩年の作品が読めたころで、神と人の生死の認識を深めるような作風に、純文学性を感じた。まもなく亡くなったことを知った。世の無常を感じたものだ。紹介しても無為のような気がしないでもないが、なにもないより、ましであろうと思う。また、各地の文学市民の生活環境が見えるので、興味は尽きない。
【「磨く」丹羽京子】
 主人公の「私」は、空港の清掃会社の現場で働いて20数年の女性。46歳になるが独身である。他人には蔑まれながら、磨くことは嫌ではなく、転職することもなく、仕事第一でやってきた。両親はすでに亡くなり、裕福なところの嫁いだ友人に、現場で出会ってしまう。そこで、彼女の義父の家の清掃を臨時で頼まれる。頑固なところのある老人らしい。
 頼まれた義父の家の仏壇が立派なのに感心しながら、手を抜くことなく、片付け清掃をする。すると、その老人から結婚を申し込まれる。それを軽くいなして、役目を終わらす。
 その後、その義父が亡くなったことを友人から知らされる。
 清掃の手順が手際よく描かれ、面白い。また、友人や義父の人物像も適度に描かれている。現代の独身アラフォーの生活スタイルが、表現されている。一種の社会の下層にいながら、それを自分の世界と割り切った精神が、作品をまろやかにしている。アクセントを弱めた書き方が、地味な印象を与える。とくに「私」の心情が、掃除好きだけ、でしか表現しないのは、物足りないところがある。だた、偉くなったり、裕福になるより、落ち着いて生活を優先する世相の風を代表するようなところを感じさせる。
【「愚痴る」堀江光男】
 詩となっているが、少年時代の弟と姉の記憶から、老いて亡くなるまでの、時の流れと情念を断片として並べる散文である。叙事詩であるが、省略をした散文で文学性がある。辻原のいう「模索」のひとつにして欲しい。
【「四人で一緒に」堀井清】
  独自のスタイルをもつ作家で、静かでなめらかな文章が、いつもの個性を感じさせる。話は、友人の妻と不倫を続けている男が、その秘密を同僚に知られて、脅迫的な存在になる。いつまでそれを続けるのか、と問われる。だが、当人には答えられない。そのうちに、不倫相手の夫が、それに気づき、妻にも知られる。男は友人に妻と不倫をしたらどうかという暗示的な提案をし、そうなる。それからどうなり、どうするかは不明なまま、話は終わる。当初から、行く先の知れない行動を描くことを、理解させながら、それを納得させるような文学的な作品。
発行所=〒477?0003愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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「文芸中部」104号(東海市)

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2017年3月 3日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は、書き手の手腕が粒ぞろいで、安心して読める。ほとんどというか、「ほぼ」というか、商業誌の読物雑誌と同様の読み応えが得られる。これだけの書き手同士が合評をしてきた成果そのものであろうから、他の書く人たちに何らかの参考になるのは確か。
【「影法師、火を焚く」(第5回)】
 全体像は分からないが、細部に仏教世界やダンテの「神曲」などの素材が組み込まれ、その部分だけでも、考えさせられる。谷川雁まで引き合いにだされる守備範囲の広さをもって縦横無尽の面白さがある。
【「六甲変動」蒲生一三】
 阪神大震災以来、断層地帯であるのを実感させられたが、一帯の古代からの断層の歴史がわかる。そうだったのか、である。
【「生きている」朝岡明美】
 老境に入った父親は75歳。独り暮らしであったのが、倒れ入院。娘、息子たちは病院に見舞いに行く。それぞれの生活の事情があるから、お互いに牽制しあうような雰囲気もある。そして、遺産をどう分けるかで話あったりする。現代で、もっともどこにでもある出来事の典型である。ある意味で、日常生活小説のサンプルとして読めるように、適度の味付けがあって、巧みな小説である。誰でも納得するもっともらしさをもっている。実際に似たような構成の家族のある人が読めば、感慨をもつであろう。関係のない人には、ただの読み物。
【「片影の人」吉岡学】
 気まぐれ旅行で、過去に出会った女性のいた町にいって土地の女の人にその話をする。すると今度は、その女性の視点から、母親のであったのがその気まぐれ男ではないか、という落ちのようなものがある短いお話。
【「カレン」加納由佳子】
カレンは海外旅行をして精神に変調をきざした女性。変調者のいる特別な施設で働く状態を描く。もうすこし精神変調者の人物の登場が欲しい。カレンのどこが社会的に変調者とされたのかはっきりしない。
【「無名の人」堀井清】
 同人雑誌の特長は長いものが連載になってしまい、短編がほとんど。そのこと自体、ひとつの制約になっている。そうしたなかで、この作品は、やや長い。50代の独身男が、80歳代の父親と同居している。息子は、そろそろ結婚して現在の父親の家に女性を迎えたい。父親は、そうなれば自分が家を出るのかと訊く。どうなるかは、わからないところで終る。なんとなく、生活臭のない文章で、じわじわと話を積み上げるので、無駄に長いとは思わない。ある気分を描くのに必要な量と思わせる。軽妙奏で重いような、読みようによっては、村上春樹風の雰囲気を感じないでもない。
発行所=〒477-0032愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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「文芸中部」103号(東海市)

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2016年12月 3日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「『新カラマーゾフの兄弟』の風土」三田村博史】
 ドフトエフスキー作品の翻訳者である亀山郁夫・名古屋外語大学長による「新カラマーゾフの兄弟」の愛知県人と地域を舞台に描かれた部分を、風土的視点に絞って解説したもの。
 作品に、愛知関連記述部分の言及に付箋をしたところ、百か所を超えたそうである。その割には、愛知県的な風土色が薄いという。しかし、本編の引用と解説によって「新カラマーゾフの兄弟」の物語の一面を教えられる。とくにロシア文学は、大地性というか、郷土的風土性、神秘性を帯びていることへの対比としても亀山作品「新カラマーゾフの兄弟」との対比が学べそうだ。
【「影法師、火を焚く(第四回)」佐久間和宏】
 理由は分からないが、おそらく文学性における異なるものの面白さであろう。
発行所=〒477?0033愛知県東海市加木屋泡池11?318、三田村方「文芸中部の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2016年7月 5日 (火)(*)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「子どもの風景」武藤武雄】
 大東亜戦争中の日本帝国主義時代の子ども達の生活を通して、その空気を伝える。徴兵制なので、昭和19年に恒夫は招集され、万歳三唱のなかで出兵し、両親は20年8月29日に戦死の通知を受ける。この時代の子どもを描くことで、時流に抵抗できない状況の国民の姿を浮き彫りにしている。丁寧に描かれた時代の証言である。
【「山崎川」西澤しのぶ】
 エッセイ風であるが、現代を描いた散文である。戦場ジャーナリストのジムという記者が中東地域で行方不明となり、気にかけていたが、その後無事とわかる。そして日本の平和に感謝する。現在性に富んだものであるが、作文的であるのが惜しまれる。
【「広島と靖国神社」三田村博史】
 詩人としては、難解さのある作品を書いている作者だが、これは散文で解釈にまぎれがない。作者は戦前に朝鮮の日本人社会で育ち、戦後に釜山から門司へ引揚げてきた体験を踏まえ、昨年広島に行った話から始まる。朝鮮での生活意識に子どもだったので、差別意識はなかったという。そして広島の原爆ドームを見て、そこに被ばくの証拠としてのプロパガンダの要素の少ない展示法に、不満を覚える。その後、九段会館から靖国神社へ行く。その間にマンミャーに行った經驗がはさまる。そして憲法9条の強化を希む意見を述べて終わる。
 散文は、時代の中の文芸のひとつの有力な手法だと思う。その点で、自分たちの上の世代の現代感覚を知るひとつの手掛かりにはなる。
【「音楽を聴く(72)」堀井清】
 毎回、前半をオーディオ音楽鑑賞の話をし、後半で芥川賞候補や受賞作品についての感想があるという形式が、楽しく読める。今回は、滝口悠生「死んでいない者」について、辛口の印象が記されている。この小説のタイトルについて本作では「死んでない者」という読み方だけの意味で評しているが、作者は「死んで、居ない者」と死者のことを指す意味にもとれるように、意図的にしているのではないかとも思える。
発行所=〒477?0032愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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「文芸中部」101号(愛知県)

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2016年3月21日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【評論「杉浦明平の立ち位置と北川朱美の詩人論集」三田村博史】
 記録文学作家の杉浦明平(1913年6月9日?2001年3月14日)については、野間宏に関連した人物ぐらいにしか、知らない。ただ、家業が東京湾でのノリソダ漁民であったので、多少の関心はあった。今回本号の附録のような形での100号・101号抜き刷り冊子「杉浦明平『敗戦前後の日記』を読む」(三田村博史)も合わせて読んだ。戦後のB29の空襲の様子など、自分は3歳ほどであったが、防空壕の水浸しの話など、妙に東京での被災の記憶と重なった。とにかく、緊迫感が文章ににじみ出ている。これは題材が、敗戦記録であるからであるから、とばかり言えないように思う。書き手のセンスが出ている。おそらく三田村氏も事実に立脚して、それ以外は書いていないのに、よくも悪くも、当時の社会制度、日本的慣習の特徴が描出されていることに注目したのであろう。受け取り方はさまざまであろうが、みんながそうだったということへの同調精神の結果として、現代にもまだ根を張っている国民の官僚支配精神に対する無批判傾向が、言わないながらも敗戦前夜と敗戦後の記録に描かれていると感じた。文章の強さのなかにそれがある。
帝国主義、軍国主義はよくないとはいいながら、敗戦国家としての自由は、支配される国の歴史と、支配国に従属することになる日本の立ち位置をも考えさせられた。なぜか70年前の世情の様子が、現在の世相精神にまだ根強く残っていることが見える。
発行所=愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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2015年12月22日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 ついに100号に到達した本誌は、いつにもまして重厚な存在感がある。ここでは同人誌の社会的な地位の変化にかかわる事柄が多く記されている。
【ずいひつ「『文芸中部』前史」三田村博史】
 今年6月に亡くなった作家・安達征一郎氏が88歳で亡くなったそうである。安達さんは、直木賞候補作家で「怨みの儀式」で70回、「日出づる海日沈む海」で80回の候補になった。晩年は「少年探偵ハヤトとケン」シリーズなど児童文学も手掛けた。かれは「文芸中部」の発祥もとの同人誌「東海文学」に書いていたという。そこから井上武彦氏などの本同人誌と直木賞候補の関係が記されている。
 そして安達氏の「憎しみの海が」映画監督・今村昌平の映画「にっぽん昆虫記」のあとの「神々の深き欲望」の原案になったことがエピソードとして述べられている。ここで自分が興味を持ったのが、同人誌と職業作家とのつながりである。
 自分が安達征一郎を読んだのは2009年に川村湊(編・解説)の「安達征一郎 南島小説集「憎しみの海・怨の儀式」(インパクト出版)であった。
 ここに安達征一郎年譜があって、彼が職業作家でありながら多くの同人誌にも作品を発表しているのである。それによると、
 1948年には、高部鉄雄の筆名で書くかたわら、同人誌「竜舌蘭」再刊に力を尽くす。1952年に「憎しみの海」を同誌に発表。
1954年に「群像」10月号に「太陽狂想」を発表。評判が悪かったとあるが、作風からして「群像」と相性が良いわけがなく、不思議ではない。
 その後「近代文学」の「灯台の情熱」、同人誌「裂果」に「島を愛した男」などのほか、「東海文学」、「文学者」などに作品を発表している。
 これは同人誌の作家が商業雑誌を補完し、隙間を埋めていた時代があったということで、そこに文芸同人誌が文壇への登竜門とみなされる近代的な歴史的時代があったのだ。
 よく、雑誌「文学界」の同人誌評がなくなったことと、同人誌の社会的な存在感の低下を結び付ける論があるとすれば、それは誤解であろう。それ以前から、その歴史は終わっていたのではないか。
【「五十号から百号までのあゆみなにかが書ききれていない」堀井清】
 百号までの目次の一覧表である。ここには顕在しないなにかが、たしかにある。書くことには、世間に問う意味合いと、自分自身の内面を言葉にして自己確認をするという、高橋源一郎氏曰く「自己表現をしたことのご褒美」というデザートがあるからではないか。デザートは、作るも食べるも消耗的な時間として消えるものであるからではないか。
 本誌は、いろいろほかに読みどころがあるが、この辺で。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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「文芸中部」99号(東海市)

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2015年7月26日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「榧の柾目の将棋盤―漂い果てつ・異聞」三田村博史】
 小栗重吉の『船長日記(ふなおさにっき)』を種本とした歴史小説である。フリー百科事典によると、「1813年(文化10年)、重吉は尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船・督乗丸(約120トン)の船頭として、部下の乗組員13名と共に師崎から江戸へ出航。江戸から帰還する途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれ遭難。督乗丸は、太平洋を漂流。以後1815年(文化12年)に、アメリカ・サンタバーバラ付近の洋上でイギリスの商船号に救助されるまで、484日間にわたって漂流した。生存者は、重吉,、音吉、半兵衛の3名であった。生還した重吉は、新城藩(現愛知県新城市)の家老の池田寛親の聞き取りによる口述筆記にて『船長日記(ふなおさにっき)』を書き上げた。積荷の大豆をきな粉にしたり、魚を釣って飢えをしのいだこと、同乗の乗組員が壊血病や栄養失調で次々と命を落とす、救助後のアメリカにおける生活などが記録されている。鎖国下の日本における数少ない海外見聞録」とある。
 重吉たちの漂流生き残り時間は、世界最長だそうである。ここでは、生き残りのひとり音吉という男の帰国後の生活ぶりを描いている。この事件を知らなかったが、作品を読み進むうちに、それがどのようなものであったか、理解が進んだ。作者の将棋の話を柱にした工夫が光っている。それぞれ劇的なエピソードをただ書き連ねると、全体像が散漫になるところを、将棋盤の逸話を軸に、あれこれ話をひろげていくことで、『船長日記(ふなおさにっき)』への解説書的な役割を果たしていると思う。あとがきに三田村氏自身の解説がある。
【「出奔」本興寺更】
 これは時代小説のジャンル。西永という学門に熱心で、真面目な男が、突然藩を出奔してまったことで、お家取りつぶしとなる。母親にその行方不舞の真実追求を頼まれた同心役の兵吾。調べを進めているうちに、事情をしるものが、その理由を隠匿している様子。よくよく調べると、大阪の大塩平八郎に私淑し、大塩の決起に参加したものとわかる話。
 ミステリアスな構成や筆の運びがこなれていて、いわゆる癒しを求める娯楽的「時代小説」に注力し、300枚ほどのものを書けば、市場の新書スタイルで読者を獲得できるのではという感じがした。陰謀話をテーマにしていた上田秀人という作家は、売れ出すと、2?3カ月に文庫本を出すほどになっている。そこまでするか、疲れそう。と思わないこともないが、時代小説には門戸が広い。
発行所=〒477?0032愛知県東海市加木屋町泡池11‐318、三田村方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤所一。

カテゴリー:文芸中部

2015年3月15日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「『杉浦明平の日記』のことども」三田村博史】
 多忙な文学活動の日々の記録。表題の杉浦明平の敗戦前後の日記の抜粋を読ませていただいたが、その小冊子を作成するまでの経緯。同人誌「海風」発表のものと、その元原稿の入手に杉浦家を訪れた話がある。とにかく戦争に負けることはわかっていて、国民は「もうやめようよ」と言いださないのか、言い得ないのか。その時代の本音に触れているので、公表したものと原文とは差があるのだという。自分も秋葉原の電器屋の店主たちなど、戦時中は、低周波と高周波の情報は聴いていたので、戦況はすべて知っていたという話をきいていた。要するに知っているだけ、わかっているだけでは、どうにもならないのである。三田村氏も、世界の時代の流れが帝国主義の覇権争いのなかで起きたこととして指摘している。また、国際的な視点の第二次世界大戦と日本人にとっての大東亜戦争意識とは差がある。現在の安倍内閣はその意識のずれを浮き彫りにしているーー。そんなことを考えさせられた。
【「時の欠片」朝岡明美】
 小枝という高齢女性の体験と過去の時間の意識のよみがえりを追う。町を散歩しながらというか、彷徨うというか、その時々の記憶が意識の中で実在してることを描く。同居している息子夫婦からすると、一時、行方不明ということなっていたという話。落ち着きのある安定した平常心を反映する文章。「季刊文科」にも作品が転載されるなど、ただ巧いというだけでは言いたりないような、もの静かな表現をする。
【「時のゆらめき」堀井清】
 会話に括弧を使わない、特有の文体をもつこれもまた、安定した平常心をもちながら、俗世間を蒸留した表現力。友人の葬儀によって、まじかに迫った死を強く意識させる題材に、さまざまな晩年過ごす人物像を浮かびあがらせる。どこかにユーモアと皮肉を含んだ話運びで面白く読める。
【「彫師」本興寺 更】
 江戸の読み本は、版木に文字を彫って印刷していた。その文字の彫師の世界を版元や作者とのとの関係を描く。面白いし、味がある。最近は、時代小説の書き下ろし文庫が流行っているが、自分はいくつか読んだが、興味がわかず面白いと思ったことがない。本作は、それらのように骨格のある構成はないが、読む頁ごとが面白かった。
【「音楽を聴く(68)マックス・ブルック『スコットランド幻想曲』」堀井清】
 音楽再生装置というのは昔はステレオ装置といい、レコード再生装置とレコードに関しては作家の五味康介が音楽を文章表現していた。その後、団塊の世代が、外国音楽に熱狂し、再生装置も高度化しそれらをオーディオと称するようになった。オーディオ専門店が全国に発生し、名古屋ではどういうわけか、お相撲さんの絵を看板にした「ナゴヤ無線」という店もあった。その頃、音楽的雰囲気を文章でわかりやすく説明できるコピーライターが不足していた。なんでもオーディオメーカーが大手広告代理店に頼むと、「メカなら任してください。私はスポーツカーのコピーライト専門です」という人が来たとかで、メーカーから「あんたはどう思う」ときかれたものだ。ここではマーラーの気分を表現しながら、平野啓一郎の文学論、そして存在論まで及ぶ。エッセイの名品に思えた。
発行所=〒477?0032東海市加木屋町泡池11‐318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

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「文芸中部」97号(東海市)

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2014年11月23日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【小特集・亀山郁夫「新カラマゾフの兄弟」を読む】
 同人誌の書き手が、一つの作品を読みあって、その読書録を集めという、意欲的な新企画である。これはロシア文学者で名古屋外国語大学長の亀山郁夫さん(65)が、初の小説「新カラマーゾフの兄弟」を執筆。亀山氏が講演した縁であろう。「中部ペン」第21号に文学講演録・亀山郁夫「ドストエフスキーと小説について考える」(遠藤昭巳氏まとめ)が掲載されている。
 亀山さんの「新カラマーゾフの兄弟」は、「文藝」に掲載された。1995年の日本を舞台とする「黒木家の兄弟」と、ドストエフスキーを意識してきた自身の半生を投影した「Kの手記」の、二つの小説を交互につなぐ形で進む。
 文学眼に優れた面々がそれぞれの感想を述べていて、大変興味深い。自分はたまたま亀山氏の「ドストエフスキー?謎とちから」(文春新書)を読んでいる最中だった。やはり打ち込んでいる作者に接しているうちに、書きたくなるということはあるのだろうと思う。
【「山ぶどう」西澤しのぶ】
 日本の震災を取り入れた、地元の人の話。粘り強い筆致で丁寧に書きこんでいて、読み終わったら、意見も言えないほど疲れた。
【「いま、,このとき」堀井清】
 なめらかな文章で、読者の想像を引き出すような省略の効いた表現法は、作者が手中にしたもののようだ。自分も枯木も山の賑わいで「グループ桂」という同人誌に作品を出すことになったが、どのような文体にするか、まず考えた。そこで堀井氏の文体が頭に浮かんだ。前回の「ライバルの時間」と本作をじっくり読んで検討させてもらった。とくに、今回は日常性から事件性を含んだところに向かっている。私は事件性を先に出して、あとを曖昧にするという順序を入れ替えてみた。文章の滑らかさは持ち合わせていないので、最初から独白体にした。そういう工夫の勉強をさせてもらえる作風である。
発行所=愛知県東海市加木屋泡池11‐318、文芸中部の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎

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2014年4月18日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「今度の日曜日に」堀井清】
 会話を括弧にせずに、シナリオのように表現しながら、運びの巧い文体で、読みやすい。まるで大人向けのライトノベルのようだ。家庭の出来事を会話の形で描くのだが、同居していても、会話があってもそのつながりは危うい。独居していた主人公の父親は、ちょっと訪問に間をあけていたら、死んでいるのがみつかる。死ぬ時にそばにだれもいないと孤独死という。文体は軽やかであるが、親子、夫婦の関係の在り方、死生感と、中味は重い。ライトノベルにも重いテーマがある。独自の文体の習熟を生かして、意欲的な表現法で、技術がそれに伴っている。なるほどこのような書き方もあるかと、興味深く読んだ。
【「神島行き」佐藤和恵】
 三島由紀夫の「潮騒」の舞台となった神島を散策した話で、短歌をはさみながら、観光をする。三島はすでに文学的な象徴になっていることを感じさせる。楽しめる散文である。
??潮騒に神風混じるこの島にMISIMAの濡れた足取りを追う??(いいね)
?まろやかな石の鼻づら唐獅子は初枝と新治の恋を嗅ぎとる??(いいね)
??灯台へ監的哨へと通ゐし青年MISHIMAの海の肉体??(いいね)
「潮騒」は、ギリシャ人作家ロンゴスの「ダフニスとクロエ」の日本版。それより先にフランスでコレットがブルターニュを舞台に「青い麦」を書いている。文学散歩のなかで、作者が二度神島にきていると書いている。見事に日本流に作り上げた特別な意気込みが感じられるのは、やはり熱を入れていたのだな、とわかったりする。短歌も文学性の香りがして良いが、終わりも方も洒落ていて楽しい。
発行所=愛知県東海市加木屋町泡池11‐318、三田村方。文芸中部の会。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

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