星座盤の最近のブログ記事

私のブログ「読書雑記」に「星座盤」vol.2掲載、内藤祐子さん作「この町の空は」について、記事を書きましたので、転載します。

さて、それで、この小説についてなにかを言おうとして、頭に浮かんだのは、凄いといえるなにかがあるわけでもなく、かといって、破綻もない、綺麗に書かれたと言えば聞こえはいいが、換言すれば、可もなく不可もないとも言える小説の、だけど、それでもここには内藤さんが達成しようとしたなにかがあるはずではないか、と言う疑問だ。
いや、むしろ達成しようとした、いわばテーマが明確にあるからこそ、そのスタイルは型にはまってしまったのではないか、ということだ。

それなら、ここには、小説的な作為はいっさい働いていないだろうか? もちろんそんなことはない。

いきなりネタバレ的にその物語を明かすなら、セックスレス夫婦の主婦が、自分の性的魅力を確認するために携帯電話の出会い系サイトを利用している、ということで言い切れてしまうだろうか・・・。このとき、そのわけが、セックスレスによるとしても、問題は、自分の性的魅力なのであり、「わたし」を抱かない夫がいるにせよ、夫を責めるわけではなく、あくまで自分の問題として書かれているように見える。
ちなみに、「わたし」は、サイトをつうじて出会った男に年齢を「三十三」だと言っている。

女性の性、セックスレス夫婦、出会い系サイト、これらの現代的かもしれない、すくなくとも、いかにも現代社会で問題化する言葉が集まったとき、綺麗に組み立てられてしまう。「わたし」の性的魅力が、夫以外の男のもとで発揮されて、自己の存在証明を得る物語であれば、ここには、内藤さんの「夫婦」や「性」にたいする意思表明が読み取れてしまう。「わたし」はアルバイトで仕事もしているのだ。

ところが、この小説は、セックスレスの夫婦関係から書きはじめられるわけではない。

 携帯の画面から目を上げると、コーヒーショップの窓の向こうは、すでに薄暗くなっていた。
 どのくらいの時間、メールをしていたのだろう。初夏の陽は長いというのに、窓の下の広場から伸びる柱時計からは、すでに時刻が読み取りにくい。
 再び携帯に目を落とし、時刻を確認しようとしたとき、携帯が震えてメールの着信を知らせた。
 もう着いています、と一旦は作成した返信を削除してから、私はもう一度文面を作成し直した。
  あと十分くらいだと思います。どんな服装ですか?

あとあとは「わたし」と書かれる一人称が、ここでは「私」と書かれてしまっていることも含め、ひとつひとつのセンテンスには、少々まごつきが感じられるとはいえ、場景としては、上手な書き出しではないだろうか? 携帯電話の光る画面から目を上げて、薄暗い景色を見る、その明暗の対称のあとに、時計の役目も果たすはずの携帯電話と柱時計を見比べるそのチグハグのなかで、携帯電話の振動とともに、一気に出来事が動きだす。
だが、これは書き出しである。すると、ここでは「私」と書かれている人物は、はたして何者なのか、読者はしらない。それでも、このやりとりから、およそそのプロフィールを思い描くだろう。すなわち、「携帯電話の出会い系サイトを利用して男を漁っている女」であるが、しかし、上にすでに私はそれが人妻であることを明かしてしまったが、この時点ではそれはわからない。独身女性であったとしてもいっこうにかまわない書き方を、書き手である内藤さんは選択しているのだ。
たとえ独身女性といえども、出会い系サイトなるものを利用することには、多少の後ろめたさが伴うとはいえ、そこには明確な罪はなく、それでも後ろめたさを伴う程度には背徳的でもあれば、いじわるな言い方をすれば、小出しにされた背徳性、あるいは罪悪感の出し惜しみともいえる。例えば、上の数行後に下の段落がある。

 携帯を握り締めたまま、わたしは窓の下の広場に目を凝らす。駅からすぐのこの広場には、わたしたちと同じように待ち合わせをしているらしき男女がひしめいている。グレーのスーツというだけでは、人を探すことは難しい。けれど、わたしは目に入ったスーツの男ひとりひとりを眺めて、空想してみる。わたしはこの男と寝られるか。わたしは欲情してもらえるのか。けれど、その間に暗闇はどんどん色を染め、目を凝らしても、男たちのは顔はおろか、服装も見分けがつかなくなってきていた。

出会いといっても、SEXが目的であることが、明かされている。
読書は、読み進むごとになにかを知っていく時制を負っているのだから、小出し、出し惜しみは、必然なのだし、そのシステムを最大限に活かしたスタイルが推理小説かもしれないが、この小説がそうしたサスペンスを選択するのは、なぜだろう?

現在の推理小説では、犯人探しはテーマになりづらい。松本清張以来だろうか、社会的であることがもとめられるとともに、5W1Hでいうところの、「Why」とせいぜいが「How」がテーマになることが多いだろう。かぎられた容疑者のなかから犯人を特定するのではなく、なぜそうした犯罪が行なわれたのかと、社会的な問題に摩り替えるのだ。いわば、犯人としての「社会」とも言えるだろう。
例えば、先日読んだ「告白」(湊かなえ)であれば、まず教育の崩壊あるいは、シングルマザーの問題が第一章で、犯罪の導引として語られ、すでにこの時点で犯人は特定されていた。第二章では、いじめや自己中心的な教育者が表れ、章を追うごとに、モンスターペアレントだのエイズ差別だのと、さまざまな現代的な問題が、ひとつの犯罪を発端に続いた一連の事件の導引になる。そう、別々の事件を関連付けて一連の事件とするときに、それらの社会的な問題がサスペンス、小出しにされるものになるのである。
ただし、「告白」は結果的に「社会が悪い」というよりは、現代社会の複雑さがもたらした事件として描かれていたのだとは思う。ひとつの事件の「Why」は、複雑な関係性と関連性のなかで起きるのだ、と。

「告白」のことはさておき、だとすれば、「この町の空は」という小説において、絶えず保留されながら、やがて辿りつく答えとはなんだっただろう?
とはいえ、この小説は、推理小説ではないのだから、なにがしかの答えにたどりつかねばならない義理はない。だが、こうしてすこしずつ見せていく方法を選択したとき、それはこの小説のテーマになってしまう。
ところで、「わたし」のアルバイトの場景がエピソードとして、この小説には差し挟まれているである。ここで話題になるのが、「幸せ」という言葉なのだ。まして、その言葉は、会話相手である若い同僚にとって、「結婚」に結びついている。このときに、わざわざ離婚したての女性が現れるあたりは、周到な出来事づくりである。若い同僚は「やっぱりー、幸せじゃないとー、ギスギスしちゃうんですねー」と言うのだ。
それなら、「わたし」のセックスレスの結婚生活が一気に問題化してくるだろう。
そうではない。結婚とセックスが同義であるわけがない。セックスレスでも夫婦関係は保たれ、かつ幸せでもありえるだろう。「わたし」の問題は、自分は「男」を欲情させられるか、という点である。それが問題化したきっかけは、セックスをしない「夫」であったとしても、「夫」を欲情させられるか、ではなく、「わたしは目に入ったスーツの男ひとりひとりを眺めて、空想してみる。わたしはこの男と寝られるか。わたしは欲情してもらえるのか。」と問う、あくまで自分の問題としてとらえるのである。それを独り善がりと呼んでもよいだろう。あるいは自己中心的と呼ぶことも可能だ。

しかし、ここにもうひとつ、この小説には重要なしかけが施されている。
1P目の最後の行から下の文章がはじまる。

 エスカレーターで広場の横に降りると、すこし遠回りしてから、花壇に向かう。あたりを見回していると、後ろから、低い声が聞こえた。
 「"もも"さん?」
 振り返ると、わたしよりも少し背の高い若い男が、こちらを見下ろしていた。
 「"ヒロ"さん?」

さらに、2P目の下段に下の会話だ。

 「"もも"さんって、本名、なんていうの?」
 とおしぼりで手を拭きながらたずねた。きれいに切り揃えられた爪が目に入る。
 「モモコ」
 あらかじめ用意しておいた名前を答えた。
 「だから"もも"さんなんだ」
 「"ヒロ"さんは?」
 「俺? ヒロカズ」
 へえ、と相槌を打って、意識して口角を持ち上げる。きっとどちらも半信半疑なのだから、名前なんて、あまり興味ない。けれど、楽しそうにすることに意味はある。それはきっと"ヒトカズ"のためでもあるし、それ以上にわたし自身のためでもある。

「モモコ」という名が「あらかじめ用意しておいた名前」であるなら、およそ偽名であろうと思わせるし、「ヒロカズ」という名を疑いながら、それでも、「わたし」は「モモコ」かのしれないのである。なぜなら、これ以降この小説に名前はいっさい出てこないのだ。職場でも、夫さえも、その名がこの小説の中に、会話はおろか地の文章にさえ、表れることはない。
これはどうしたことだろう? 「わたし」と「夫」と「女性」「女の子」そして「男」しか出てこないのだ。「わたし」以外は、すべて人称代名詞ですらない。ところが、最後の一行空きを挟むと、ようやく「彼」と呼ばれる者が登場する。それは「夫」である。「わたし」によって、名まえではなく、人称代名詞を与えられるのだ。
ラストシーンは、たしかに平和な夫婦の場景とはいえ、物語としては、なんの解決も、答えも見いだせない。しかし、「夫」が「彼」になることがこの小説によってたどりついた「わたし」の答えなのだとしたら、ずいぶん巧妙ではあるが、そのためには、その答えがなんでもかまわないが、やはりそこにいたるになにかがないと、ただ読み終えるばかりではないだろうか。
いや、その直前には、新たな「男」とのセックスが描かれていた。そこで、夫に見られたら問題化するような痣も負っている。それが問題にならないのは、ふたりがあいかわらずセックスレスだからだろう。とすると、セックスレスであることの言い訳が、「わたし」にできたことの安堵? たしかに、週末ごとに就寝時間を違える言い訳作りをしていた夫婦だが、いっそほかの「男」とのセックスを「夫」に見せてしまいたいとまで思っていた「わたし」なら、むしろ、その痣によって、「夫」に浮気をしられて、それでもなお、あるいはそれゆえにこそ平和な夫婦であるのかもしれず、この終わりは曖昧模糊として、はっきりいってわからない。
女性の性について、あるいは、結婚とセックスについて、なにかを語ろうすると小説を目論んで、そのためには、それらに関連した出来事を積み重ねるわけだが、そのときに、ひとつひとつのセンテンスもそうしたテーマをより伝わるように、伝達の役割に専心したとき、いかんともしがたく、型の中に埋没するしかなったようでありながら、なお、その落ち着くところが曖昧なままだったから、型からずれざるを得なかったようにも感じられる。いや、答えなど放棄してしまえばよかっただろうに、それでも、型にはまって、綺麗に終わろうとしたことこそ、この終わり方の浮薄さかもしれない。そして、その浮薄さ、曖昧さは、タイトルにまでなった町と空の、象徴としての弱さにも表れているといえるかもしれない。というよりも、綺麗なタイトルに合わせて、そうした象徴を書き加えたのではないかとまで、疑ってしまった。

さらに、「夫」が「彼」になるなら、「わたし」がかつて「私」であったこともまた、しかけのひとつだったのかもしれない。

カテゴリー:星座盤

2013年5月

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