文芸同人 長崎の会の最近のブログ記事

11月04日 (日)付、「文芸同志会通信」より転載いたします。

(1)
 表紙にアイルランドの聖パトリックデーの広場風景写真(撮影:瀬山響)があり、「祭り」小説集となっている。良い写真である。発行人の秋田しんのすけ氏には、5月の文学フリマで文芸同志会のブースに寄っていただいたのに、席に居ずに失礼をしてしまいました。おそらく設営のし残しをしていた時であろうと思う。罪滅ぼしに、我が会員の作品に接するのと同じ視線で読んでみます。

【「夜明けの花」瀬山響】
 我が事務所の「響ルーム」と似た名前の作者である。同名のよしみもありそうだ。作品は、煙草をはじめて吸うという体験から哲学的な思弁が転がり出る。出だし1ページ半が彼という、距離をとった始まりをしている。そこから行をあけて、「俺」の語りになり「俺」の視点のまま終わる。
 短編で、視点を変えるのも新手なのだろうか。彼という視点のはじまりなのに、窓の外の音が「流れてくる」という表現。すでに「私」の視点の表現になっていて、あとから「彼」となる。自分の法則では、ここは「流れていた」とするが、これも新手法か。そのほか、自分の視点では、佐伯という人物との会話、最後の夏椿の扱いに、詩的で非小説手法がいくつかあり、これは叙事詩として読んだ。

【「だんじり捕り物帳」あきらつかさ】
 コミックのシナリオ的で、ビジュアルで雰囲気を補強すると表現に味がでるような感じ。
先日、蒲田のPiOによったら、コミックの「ぷにケット」と「ラブ・インクリメント」とかいうイベントをやっていて、大勢集まっていた。こうした賑わいなら、「文学フリマ」の組は、このようなスタイルの小説で、コミックの原作提供でタイアップするのも良いのでは、とおもった。しかし、二次創作だと原作不要でもあるらしい。

【「喪中神輿」秋田しんのすけ】
 これは文字通り「祭り」を題材にした日記風の話。祭りの神輿担ぎの間に、親族の不幸が起きる話。この書き方では、事情がわかるものの小説の要素である灰汁が抜けてしまっている感じ。

【「テミドールの夏休み」小林圭介】
 フランス革命当時の血なまぐさい時代を書いた歴史小説。想像力による雰囲気が出ていて、わかりやすい。最後の意識の空白が、ページの空白になっているのも、ゲーム参加したような気分でなるほどと思った。

カテゴリー:文芸同人 長崎の会

弊ブログに「文芸同人 長崎の会」第3号掲載の作品について、記事を書きましたので、転載します。


今回読んだのは、「文芸同人 長崎の会」(あれっ? ホームページがなくなった???)第3号所収のあきらつかさ氏「糠床一代記」だ。

「文芸同人 長崎の会」は、今号が3号だが、第8回文学フリマの会場で、主宰の秋田しんのすけ氏とお会いして、聞いたところによると、すでに4号の企画が進行中とのこと。
この同人誌では、毎号企画が組まれ、3号では、「グルメ・食」をテーマとした小説やエッセーが集められている。

例えば、「零文学」も毎号特集を組んでいる。こうした企画もしくは特集は、雑誌としては面白いのだろう。また、売ることを考えたときにも、購買者が手を出し易くなる。
だが、正直に言えば、「零文学」のような批評・研究を主眼に置いた企画ならよいけれど、こと創作に関して特集を組むのは、危険がつき纏う。なぜかと簡単に言ってしまえば、難しいのだ。すなわち、書き手を縛ることで、「なにを」書くかという主題論的な難しさをより深めてしまう。

「深さ」とか「広がり」と言った評価の仕方があるが、企画や特集といった主題をあらかじめ設定することによって、まずその主題を魅力的に書く課題をこなさなければならず、例えば今回の「グルメ・食」について、薀蓄を垂れるなり、食べることの喜びを語るなりしたとしても、ここに驚きをもたらす(「深さ」)のは至難の業であり、そこで、むしろ「広がり」に頼ることになるのだが、広がるための階段において、すでに主題という一階梯を強いられて、あるいは、読み手もまた、はじめからその一段をあらかじめ知っているために、「広がり」とは認知されず、結果、広がりが足りないと感じられてしまう危険を孕む。
テーマ企画・特集には、そうとうな力量が求められるのだ。
ただしそれは、腕試し、自己鍛錬としては、有効だろう。腕試し、鍛錬であるならば、そこで完成した雑誌は、テキストとしての雑誌の領域を出ない。もちろん、あらゆる創作について、まして同人誌という場所であればなおのこと、テキストの可能性はつねに孕んでいるわけだが。

書き手たちに相当の自信がないかぎり、創作の特集企画は考えたほうがよいと思う。
正直に言えば、この同人誌の各小説をパラパラと覗いてみても、特集という縛りによる窮屈さが感じられてしまったのだ。

さて、それでもあきらつかさ氏の「糠床一代記」を読了した。
そうした窮屈さを、あきらつかさ氏はいかにして回避したのか?

まず、日付をふった日記スタイルの書き方があげられる。
ずるいといえばずるいが、例えば風景描写などを捨て去ってしまったのだ。
祖母の急死とその葬儀からはじまる、書き甲斐・読み甲斐があるはずの場面からはじまりながら、ほとんどワンセンテンスで改行する淡白な書きぶりで、風景も見せなければ、親類たちの様子もほとんど語らない。
例えば、17日の祖母の死から翌日の18日の日記の最後には、下の文章がある。

 これは19日の分と一緒に書いた。

物語を追う上ではまったく不要な一文だが、それでもなおこの段落が一行空きさえ挟んで、浮き上がるように置かれる。これが、タイトルにさえなにも書かれていなかったこの文章を日記たらしめている。もちろん日付がふられているのだから、ある程度は日記のつもりで読んでいるのだが、それでもなおこれが書き付けられる。
だが、それというのも、19日以降には妻との会話が表れると同時に、小説になってしまったのだ。

10月19日(木)
 今日は晴れていたが、それほど暖かさは感じなかった。
 通夜に続き、告別式。
 やはりスムーズに行われ、葬儀場から火葬場へ、そして再び葬儀場へ。

ここまでは、日付に続いて天候を書く素振りといい、体言止めや述語の省略という、文章組み立てに関する怠慢ぶりも日記を思わせるのだが・・・。

 精進落としの料理にあった漬け物を見て、妻がそういえば、と言い出した。
 「あたし  そういえば聞いたわ」
 ん? と聞き直すと、
 「ぬか、って一言。
 それだけなんだけど、お義母さんに言ったら、『あっそう』って言われただけだった」

カギ括弧の中でもなおワンセンテンスごとの改行が続くさまは、携帯小説を思わせて、あまりの改行の多さにさすがに辟易ではあるのだが、それはともかく、自分の「ん?」をカギ括弧に括らないことや、読点で改行するなどの工夫とともに、なにより会話の出現によって、この場が日記より小説的な場になってしまう。すると、長めのセンテンスこそありながらも、あくまでワンセンテンスでひとつの段落であり続けたこの小説が、短いセンテンスとはいえ、ひとつの段落に複数の句点をふくむようにさえなっていく。

 ぬか、などと言ったから何だというの。そういう気持ちだろう。

 小学生くらいの時はまだ、盆や正月には祖母の所に行っていた。その頃はまだ祖父も存命で、夏休みや冬休みの思い出の一つになっていた。

だからこそ、それでもなお日記であろうとして、18日と19日を連携させてしまった、同じときに書いているのだとわざわざ断らなければならなかったようにさえ思える。

物語に目を向けてみよう。
まずは単純に物語を要約すれば、祖母の家にあった糠漬を持ち帰り、かつて苦手だった漬物に夫婦揃って目覚めるとともに、妻は糠床のなかから糠漬のみならず、どうやら祖母が隠していたらしいものを次々と掘り起こして、「私」がしらなかった祖母を発見する、いわば他者の発見の物語である。

このとき、例えば、下の文章はまだまだ工夫が足りないなぁとは思いながらも生唾が出た。

 よく漬かっていて軟らかく、かといってクタクタではなく、実の感触を残しつつサクッと舌の上でとろける。ナスの甘みとぬかの酸味が絶妙に混ざって染みだして、やはりクドくない引き際で喉の奥に消えていった。

そして、広がりの方向は、「私」や妻がしらなかった祖母になっていく。このとき、いわゆる同人誌の小説にはそうしたお話が多くあり、純文学を意識したとき、それを踏襲してしまうのかと思わないでもないのだが、それらの多くは、自ら死者の過去を辿ろうと能動的に行動するのにたいして、「私」はおおむねなにもしない。離婚届にせよ、若い時の写真も、そして昔の恋人から届いたらしい駆け落ちを誘うラヴレターを発見するのも、妻である。そこまではいい。
だけど、やはりもの足りない。広がりが足りないのだ。
まず、写真を隠す理由がわからない。わからないながらに、想像を働かせて欲しい。例えば、ラヴレターを見つければ、妻が想像を膨らませている。そうした想像を妻でも「私」でもいいから膨らませるべきではないか? さらに、そうした妻の想像ももっともっと広がって、そここそを書いて欲しかった。あるいは、「私」にせよ妻にせよ、自分がしっているひとにも自分の知らないものがあることを知ったのだから、そうした見えていないものにたいするなにかが起きてもよいだろう。
なにより・・・

 「これは......人に歴史ありだね」

   そうか。

 その言でハッ、となった。
 今まで祖母を、ほんの一面しか見ていなかったことに気付いた。
 祖母の、人生の一端を見た気がした。

「その言」というのは「その事」だろうか? それとも「その言葉」だろうか? それはさておき、こう言ってしまっては終わりなのだ。これを描きたかったそのすべてを書いてしまっている。これは読者に感じとらせるべき部分ではないだろうか? そして、そこに「ハッ」となったならば、どうして、妻であれ父母であれ、「私」に見えているのが一面に過ぎないことに思い至らないのだろう?

食べ物の話から、祖母の人生に広がった物語によって、広がりが充足してしまったではないか、と疑わしくなるのだ。日記と小説というふたつの書き方のあわいを見つけ損ねたせいとも思えなくもないが、それは、改行の多さが、一行空きや二行空き、そして三行空きまでまねかざるを得なくなってしまう点にも表れているといえるかもしれない。

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長崎の会」の第3号は、「グルメ・食」を特集しているそうです。
ブログ「文芸同志会通信」に、以下の作品について、記事がUPされました。

「麺と俺」赤木保

「狼になれない」裏次郎

「白」小林圭介

なお記事は、ここです。

「文芸同志会通信」さんは、このブログに記事の転載をお許しくださっているということなので、以下に転載します。

今号は、「グルメ・食」小説・エッセー集である。
【「麺と俺」赤木保】
 アニメに夢中の大学2年生の「俺」は、アニメだけに関心がある生活で、もっぱら下宿で、カップめん愛用の生活を送っている。そこで突然、風邪を引いて寝込んでしまう。すると、同じサークルの影のうすい井上という女子学生が、食事の支度をしてくれると、下宿にやってくる。「俺」はアニメを愛して、女性を愛すまでには至ったってないので、彼女の心をよく理解できない状態から、理解するやっと理解する段階までを書く。面白い。ライトノベルのスタイルの中で、いろいろ工夫して書き分けているのには感心した。文章の呼吸がよいのに驚かされる。

【「狼になれない」裏次郎】
 主人公は家電量販店の臨時雇いの店員で、仕事に夢や希望を持てないような職場に働く。そこで「正社員」にすると店長に言われる。ちょっと、うれしがっているときに、いつも店で会って、食事時に顔を合わせる女子店員が、結婚退職をすることを告げられる。そことで、つまらない勤めのなかで、彼女との会話がどれだけ貴重であったかを知る。狙いはいいし、面白いが、味わいはいかにも、ライトノベル的。話術の運びは巧い。

【「白」小林圭介】
 ホラー話。遭難して山小屋にたどり着いた男が、傷による出血死している。調べると、救助がなく飢え死にしそうになる。仕方なく、自分で自分の腿の肉を切って食べていたことがわかる。まあ、怖いけれど、いまひとつヒネリが欲しかった。
 本誌全般に読んで面白い。読者を退屈させない技術には長けている。先には純文学への道筋がありそう。

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