てくるの最近のブログ記事

「日々の泡」というタイトルだけで目が光ってしまう、どうにもVian狂いな私・euripidesですが、Lydwine.さんがご自身のブログ「読書雑記」で、しばらく前に「てくる」誌第4号に掲載の光野公彦さんの「日々の泡」について書かれている
書かれているご本人がここに記事へのリンクを張るのは抵抗があるかもしれないので、代理でリンクを張らせていただきました。
以下に、全文を引用させていただきます。


先日受贈した「てくる」誌第4号に掲載の光野公彦さんの「日々の泡」という小説を読んだ。「てくる」誌は発行所を大阪に構える関西の同人誌だ。

まずは、この大胆なタイトルについて、ちょっと考えてみよう。
どうしたって、このタイトルを見たら、ボリス・ヴィアンを思い出す。とはいえ、読み終えてから考えてみれば、この小説のほうがヴィアンの同名小説よりも相応しいタイトルだと言える。いや、読み終えるまでもなく、いきなり最初のセンテンスの一部分である2行目に「その日その日が白い泡のように感じられてならなかった」と書かれているほどだ。だがこのときふと、ヴィアンのフランス語は「うたかたの日々」という翻訳(伊藤守男訳)にもなっていることを思い出す。ほとんど同義である「うたかた」と「泡」の違いといえば、「うたかた」のほうがより抽象的になるだろう。「儚く消えやすい」といった意味合いを纏う。もちろん「泡」だって儚く消えやすいのだが、そうした比喩的な意味合いがより強い、ということだ。ましてそれが連体修飾語として使われるなら、「うたかたの日々」とは、「泡の日々」というよりは、「泡のような日々」とでも言ったほうがより相応しいだろう。言い換えれば、「泡」という言葉のほうが、より水泡などのイメージに近く、「うたかた」は名詞でありながら、あたかも副詞的なニュアンスを持っていると言ってもよいかもしれない。それならば、「日々」の在り様を喩える言葉としては、その副詞的な効果に頼るのも手ではあるが、それよりも、「泡」のイメージ(映像)のほうを優先した、ということかもしれない。
このとき、さらなる顛倒が起きる。まさに顛倒。「日々の泡」と「うたかたの日々」という主格の顛倒だ。ヴィアンのフランス語の原題が、どちらに近いのかは私はしらない。まして、今の話題は、光野公彦さんが書いた「日々の泡」なので、ヴィアンの話は置きながら、なおやはり、光野さんがヴィアンの小説を知らずにこのタイトルをつけたとも思えないので、あえて、「日々の泡」か「うたかたの日々」かという選択に拘ってみよう。
「日々の泡」と言うと、どうも日々のなかの泡といったものを思い浮かべやすい。すなわち、それぞれの日のすべてが泡であるよりも、そのなかに泡のような時間があるように見えるのだ。それに対して、「うたかたの日々」≒「泡のような日々」というならば、日々のすべてがそれぞれにひとつひとつの泡沫に感じられる。いや、かならずしも「日々の泡」が日々のそれぞれがまるごとそれぞれの泡ではないとは言えない。どちらにも受け取れるということだ。それを広がりと捉えることもできるが、日々を泡に喩えると言う抽象的な表現の、ましてそれがタイトルであるならば、言おうとするところをより明確にしてしまったほうがよかったのではないか、と思える。そのうえで、「泡」のイメージを保持しようとするなら、私なら「泡沫(うたかた)の日々」としたかなぁ・・・。

と、タイトルに拘るのも、上にも書いたとおり、このタイトルは、ヴィアンを思い出させながらなお、タイトル負けせずに、ヴィアンのそれ以上に、このタイトルが相応しかったからにほかならない。
「私」の「日々」は、確かにまるで「泡」のように浮薄なのだ。

 そのころ、といっても十年は経っていないけれど、まだ二十代だった私には、その日その日が白い泡のように感じられてならなかった。毎朝、朦朧とした意識でマンションを出て、夢遊病者のような足どりで会社にたどりつく。午前中をうつろな眼をして怠惰にすごし、午後三時をまわったころ、拡散し浮遊しつづけていた意識が凝集してひとつの形をとりはじめる。陽が暮れると同時に、精神がピンと張りつめ、とぎすまされ、眼のまえの仕事に没入する。夜の力が、集中力を極限まで高めてくれると感ずるのは気のせいだろうか。仕事に区切りがつくたびに充実感などは持ちようがなかったけれど、少なくとも解放感にみちびかれ、上司や同僚につれられて夜の街をさまよい歩く。だが、いつもおなじような顔ぶれで酒を飲むものだから新鮮な会話は望むべくもない。いつか、どこかで、誰かが、何度か、語ったはずの話題に、曖昧な相槌をうちながらぼんやりとやりすごし、しきりに煙草をふかして喉を痛め、吐き気に顔をこわばらせる。適当な時間できりあげようと思っているのに、つい深夜までつきあってしまう。そうして気力も体力も消耗させ、黒いアスファルトや白いコンクリートを踏みしめ、よろまき、誰も待っていない部屋に戻ってくる。乱暴に衣類を脱ぎ捨てて狭いベッドに倒れこむと、つかのまの睡眠だけが自分に残された推移角愉しみではないかと思えてくる。身を横たえたまま部屋の灯りを消そうと手を伸ばしてみるが、指先はスイッチの紐をかすめるばかりである。空を掻くその五本の指の動きは、溺れる者が何かをつかもうとしているさまに似ていなくもない。

回想から、その頃の状況説明になってしまうのだけれど、この段落の終盤にいたると、それがいつものことならやはり状況説明でありながら、なお、「私」の動き、風景になっている。
このあとも、ひたすら仕事や職場の説明に終始していくのだが、例えば、職場での一日の在り様を説明するとき、「そうこうしているうちに正午になる」などといった、すこしずつ違うことも交えながらも、いかにも毎日がその繰り返しであることを示していく。

 エレベーターで一階におり、まばゆい夏の光に満ちた表通りに出ると、どこからともなく軽トラックの無許可営業と思われる弁当屋があらわれ、すぐに会社員が群がってくる。地下にはネクタイ姿や制服姿の会社員がひしめきあっている。飲食店街は匂いと声にあふれてにぎわっている。中華料理店、定食屋、ラーメン屋、蕎麦屋、カレー屋......。毎日誰かといっしょに行くのだけれど、どの店も注文してから五分と待たされることはない。だが、腋臭の者や蒸れた汗でシャツを湿らせている者などと、肘がふれあうほどの狭い空間に押しこめられているのには閉口させられた。落ち着かない気分で料理を胃に流し込むと店を変え、行きつけの喫茶店のソファでスポーツ新聞をひろげて、昨夜のプロ野球の勝敗結果をたしかめたり、週末の中央競馬の馬券予想をしたりして、一杯二百八十円のコーヒーをすすってから、また事務所へと戻っていく。

これまで、「私」が二十代の頃の漠然とした時間にいたが、夏に限定していきながらなお、ただ夏でしかなく、語られつつある場の「今」は曖昧化されてしまう。
この小説には、いつまでたっても「今」がないのだ。

ところで、どうでもいいことだが、ソファを使っていながら、コーヒーが280円って、東京ではちょっと考えられない。ドトールの椅子はソファとはいい難いよなぁ・・・。

どうでもいいことはさておいて、その頃の日々の在り様をひたすら説明するしつつある上の引用はまだ一日が終わっていない。

 午後一時の事務所はどこかせわしなさが感じられるものの、誰もが食欲をみたされて室内の空気は澱んでいる。やがて午後三時を迎えると、それぞれの部署の女子社員が紙コップにコーヒーを淹れて配りはじめ、あちらこちらから談笑が聞こえてくる。広告部のふたりに対しては、机が隣あわせの商品課の女子社員が淹れてくれた。

ふたたび、夏でもいつでもよい、日常の説明だ。しかし、最後のセンテンスの語尾には、微妙なズレがある。そしてこのズレが、いきなり「今」を呼び込むのだ。

 「......!」  「......?」  さしだされたコーヒーをひと口飲んで、その甘さに眉をしかめた。私はコーヒーにミルクは入れても砂糖は入れない。向かい側の席でちょうどおなじように自分の淹れたコーヒーに口をつけた女子社員が、明るい茶色の前髪の下で切長の眼を瞠っている。どうやら甘いものが好きな彼女は、砂糖なしのコーヒーに口をつけたらしい。  「もしかして、これ?」  「まちがえましたネ、あたしのと。もう一度淹れなおします」  「別にいいよ、もったいないし」  「じゃあ、あたしのと交換しましょ」  「いいって。気をつかわなくても」  「気をつかってるンとちゃいますよぉ。あたしが苦いの飲みたくないだけです」
だが、これは本当に「今」だろうか? こうした事件が起きるのが「今」なのではない。これもまた日常の在り様なのだ。「私」の正面に座っていたのは、こうした女子社員だったということである。それでもここには、そうした日常の在り様を、事件として、「今」たらしめてみせる。現前化だ。というのも、この女子社員は、このエピソードの後、「私」に絡むことはない。 ここでも些事をひとつ。「机が隣あわせの商品課の女子社員」が、「私」の「向かい側の席」にいるというのは、迂闊だろう。広告課がふたりきりの部署なら、商品課と島を同じくしていることには不思議はないが、隣あわせと書いてしまったからには、向かい側は迂闊だ。

些事は置き、この小説には皆目時間がないのだ。いつともしれない過去の回想が錯綜しながら、その頃の「私」とその周囲を淡々と積み上げていく。そのとき、日常の説明が、コーヒーを間違える上に見たようなある日の出来事に摩り替わる。これは面白い。こうした文章のつながり、情景のつなぎめに小説の醍醐味を感じてしまうのは、私だけだろうか? 私は、小説を書く一番の楽しみは、文章や情景の繋ぎだと思っているくらいだ。これでやろうとしてのは、まさにそうした試みだった。

ところが、この小説は、やはり落ち着きどころを見いだしてしまった。

 部長が出張しているあいだ、私は彼がしなければならない原稿の校正まで任されている。業者から電話がかかってくるたびに、部長が出張から戻ってくる日にもう一度電話をかけ直してもらうよう依頼する。長期出張の場合は初日に部長の戻ってくる日を告げておけば、二、三日は電話のかかってこない静かな日々をすごすことができる。だけど、部長不在のときも、別の誰かに誘われてまっすぐに帰ることはない。たまにはひとりでゆっくり休みたいと思っているにもかかわらず、誘われると応じずにはいられない。俺は誘惑に弱い、とあきらめにも似た境地で、きっと無条件で誘われた相手についていくころになる。  「これからどう?」  「いいですね。行きますか」  ある金曜日の午後八時すぎ、電算課の先輩が前触れもなく声をかけてきた。彼は色白の、丸縁の小さな眼鏡をかけた、長身の男で、年齢は三十代後半といったところだろうか。ひと目見たところは知的な容貌で大したインテリに見えるのだが、何かともめごとを茶化したり皮肉をいって薄笑いを浮かべたりして、平素はめったにまじめな表情を見せない人物である。

前半は、はやり「私」の仕事の説明だし、そのころの誘われると断れない「私」の在り様なのだが、カギ括弧を使うと途端に、「ある金曜日」になって、ついに、この小説の物語の場は、そこに落ち着いてしまった。このとき、再三この小説に現れていた「部長」も、背景に過ぎなかったのに、「先輩」だけが特権的に、語られる。というわけでもない。「部長」にしても、そうした背景に過ぎないにもかかわらず、書きすぎではないかと思えるほどに、書かれていたから、「先輩」がどれだけ社内で嫌われているかと説明されても、やはり「部長」同様に背景なのだ。
そう、「私」をはじめ、誰にも名まえが出てこないことも、ここにはなにもない、この小説の時間のなかには、とりたてて語るべきなにごとも起こらなかったと言い立てている。たとえ、「先輩」の「ロマンチック」だか「ドラマチック」だかの恋愛・結婚・離婚の顛末を聞いてもなお、「泡」なのだ。

それなのに、その翌朝に、駅のホームで目覚めた「私」は、

 やがて特急電車が駅を通過するために注意を喚起するアナウンスが響きわたった。  ふと気づくと、私は渾身の力をふりしぼって立ちあがっている。向かい側のホームでぼんやりと電車を待っている者たちの姿が陽炎で歪んで見える。私は一歩ずつ、ゆっくり進みはじめる。ふらふらと、のろのろと、這うように、前へ。

「泡」の日々だからこそ、衝動に駆られるというのも、わからなくはないのだが、それにしては、「先輩」と風俗店を訪れる金曜日が特権化してしまったのではないだろうか? あるいはそここそがこの小説だったというなら、それまでが長すぎる。余計な部分が多過ぎた。「先輩」のエピソードも含めて「泡」のままであったなら、説得力を持ち得たかもしれない。

この物語が過去語りのスタイルを書き出しで表明していれば、「私」は衝動のままになったわけではないことを、読者はしっている。そして、「恩寵のように感じられ」る出来事に落ち着いてしまう。

タイトルの泡のような日々が描きたかったのか、恩寵のような出来事が描きたかったのか? 泡のような日々のなかで起きた恩寵のような出来事が描きたかったのだろうな・・・。それには、それらの配分がチグハグだった気がする。
私としては、泡のような日々の、ある意味退屈ですらある書き方に面白さを感じていたのだけれど、後半はそれが失われて、物語に堕ちたように思えてならない。

そういえば、時間のなさといい、後半の物語化といい、納富さんの「水の音」を思い出さないでもないけれど、時間の曖昧化の仕方には、こうした遣り方もあったのだなぁ。勉強になった。



ちなみに「てくる」は文學界2008年12月号掲載の「全国同人雑誌リスト」によれば、大阪市で発行されている同人誌で、

「てくる」はてくてく歩く、手で糸を繰るようにして、ことばをたぐり寄せ、HPやブログが闊歩する世の中で、敢えて同人誌という形式にこだわっていたい人種の集りです。
とのことです。

それにしても、Lydwineさんの記事を読んで、私も光野さんの「日々の泡」を読んでみたくなりました。個人的にお願いして「てくる」を送っていただくよりも、光野さんの了解がいただければ、Lydwine.さんが推薦者となって、デジタル文学館へお入りいただいたほうがいいのではありません?  (^_^;)

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