文芸誌Oの最近のブログ記事

 一昨日、文芸誌「O(オー)」の第45号、終刊号が送られてきた。昭和62年(1987年)11月に創刊し、以後、年2号の発行を続け、この号45号で終刊とするとのこと。23年間続いたという。今までと同じ、前例踏襲を続けることが、一番楽である。終刊に賛意を表した同人の皆さんに感動する。また、昨年の暮れ、飯田方面で「橋」を出している、橋同人会が、信州文芸誌協会からの退会を決めたことにも、感慨深いものがある。立ち止まって、考えることは、いつも必要な行為だと思う。
 長野ペンクラブ「層」の同人だった立岡章平さんは、「層」を退会し、評論誌「溯行」を1970年(昭和45年) 創刊した。そして、「駱駝」ほか、県外の同人誌とも交流を深めた。経緯は知らないが「思想の科学」の長野支部的役割も果たした。
 文学を巡る環境は今、大きく変容して行く。文学の環境問題を考えることは、今、大きな意味があると思う。
 「O」45号では、巻頭の小説、内村 和『いつの日にか』に惹かれた。
主人公、村越章は26歳。「家族といえるかどうか、ともかく一応、たった一人きりのお袋と、どでかいボロ家に住んでいる。」主人公は、母親が41歳の時にに生まれたが、なぜか父親が誰か分からない。母親は、食べるだけの小さな田圃で稲を作り、男衆の出る道普請も川掃除にも出て働いた。
 村越章は実業高校の工業科をでて、地元の中年の者5人ほどの板金の仕事している有限会社に就職する。ある日、母親が、会社に「---電気が止められそうで」ということで、給料の前借に来る。社長は3万円ほど貸してくれる。
その夜、章は「東京へ行って一旗揚げる」ことを決意する。その翌日、母は、「がけ下の水路で流され」死んでしまう。社長の紹介で東京へ行き、地元出身の社長の会社に就職するが、やがて社長は、末期の肺ガンで余命半年と言うことが分かる。章は、地元に帰るが、家は母の10歳ほど上の兄が相続することになっており、兄と一緒だった女に相続を仕切られ、土地代の四分の一の金と田圃を相続し、築120年の家は、更地にされてしまう。
 章は、村に帰って、「うまい俺のラーメンを考案するのも面白い。」などと希望を発見し、亡き母親に目標が見つかったことを報告する。
 内村 和さんの作品を読むのは初めてだった。手許には、まだ数冊の「O」がある。おいおい読んでいきたいと思っている。

                      転載。原文は金児至誠堂より

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 日本の古典に疎い私は、まずタイトルの「ツクヨミ」の意味が分からなかった。ネットで調べたら「月の神」のようである。
 ミホは父母と3人暮らし。母は保育士として定年まで務めあげ、今はパートで保育所に通っている。父は定年後も嘱託として同じ職場に通っている。
 ある日、ミホは職場で38度8分の熱を出し、早退する。
 母は若い頃、流産を繰り返し、あきらめかけた頃、ミホを宿したのだという。小学校の高学年頃まで、母は毎晩ベッドの中で本を読んでくれた。一番好きだったのが、日本神話シリーズの中にあった月の神様のはなしだった。最初のページの挿絵の白い着物の女性に惹かれる。母に聞くと巫女さんとのこと。その後、ミホは巫女さんの夢をみる。
 「この夢は、その後もくっきりと私の中に残っていた。わたしは繰り返しその光を思い、声を思い、その温かみをなぞった。身体の、真ん中を走る一筋の光は、やがて私の中で白い道となった。」
 ミホは、数々の夢を見る。
 「わたしは母に助けられたのだ。
 素直に思う時、母の中にも神様の宿る場所があるのだと、感じることができる。どこかとても深い所で、母は私の危機を感じ取ってくれたのだ。あの黒いひとがたが母だったように、白装束の巫女さんもまた母だったかもしれないと、そんなふうにも思えてきたりする。」
 私も、ここのところ、毎晩、不思議な夢を見ている。目覚めてしまえば、再現できない夢が多いが、ここのところ「O(オー)」の渡辺たづ子さんの「夢の世界」に興味を持っている。

                            原文は金児至誠堂

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 「O(オー)」43号の渡辺たづ子の作品『水の井戸』を読み、他にはどんな作品を書いているのか、バックナンバーに当たってみた。
 第40号には『光の衣に包まれて』、第42号には『ピエタ』があった。
 『光の衣に包まれて』は親子の問題を、フリースクールの岸田先生を軸に展開して行く。
 『ピエタ』は母とフリーターの息子の問題がテーマ。思い立ってサンピエトロ寺院のミケランジェロのピエタを身に行 く。途上で、偶然、同年の友人の娘と同じ飛行機に乗り合わせ、様々な会話の中に、親と子の問題が浮かびあがってくる。
 2作とも、私の現実で直面している現実と近接しているので、詳しいことは書けない、2作とも深く感銘を受けた作品だった。
 「やり直せない過去を悔やむのではなく、その思いを、この先どんな形にして補ってIいくかが大切なのだ。」
 『ピエタ』の中のこの言葉が、私にとってもこれからの指針になると思う。 


                         転載・原文は金児至誠堂

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 文芸誌「O(オー)」43号に掲載されている小説3編を読んだ。一時に3作も読むと、ここのところ、記憶力が薄れてきているので、それぞれの感想はかけないが、3作とも引き込まれ一気に読んだ。

 佐武 寛『父の越えて来た歳月』。
 サブタイトルは英文で UNCONDITIONAL SURRENDER OF JAPANN ---とある。「日本の無条件降伏」という意味だろうか。
 真理は料亭の女将で二人の女の子の母親。父から送られてくる詩、手紙を介して、作者の戦争体験、歴史観、世界観が展開される。読み応えのある作品である。

 内村 和『りんごの花咲く頃
 主人公、内藤 司は今、肝硬変を患っている。親戚縁者との付き合いも、親の介護もすべて妹に任せてきたのだが、司にしてみれば、常に体を張って懸命に生きてきたという思いはある。
 今の住居を引き払い、父の建てた今では、廃屋状態の故郷の家に帰ることにする。7年一緒に暮らし、家を出て行った妻のこと、など今までの経緯が語られる。故郷の家には今では珍しくなったリンゴ国光が植わっている。7年同居した女性真理子は、既になくなっていたが、父は折りにふれリンゴを送り続けていた。真理子はタイ生まれの孤児を幼女にして育てたいた。司は、真理子に侘びる気持で、一人ぼっちの幼女「比呂」に財産分与を決意する。それが司の締め括りの、三尺玉には及びもつかないが、花火だった。

 渡辺たづ子『水の井戸
 祖母の一日は神ごとに始まって、神ごとで終わる。私の祖母はシャーマンである。
父は母親である祖母を避けていた。それは祖母が神ごとをする人だからだ。祖母が神ごとをするようになったのは、
四十代の半ば頃からという。祖母とともに過した人間ドラマ興味深く読んだ。
 ここまで来て、小説の感想を書くことの危険さを感じている。書いた私の文章の中に本人の軌跡もいやおうなく入り込んでしまうことである。

                        転載・原文は金児至誠堂

カテゴリー:文芸誌O

 同じ雑誌の同人の作品で恐縮ですがeuripidesさんに代理投稿をお願いしました。(文芸誌O・小島、(ーー;)  )

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 このところずっと、渡辺さんの小説には「連作・祈り」と明記されていたが、今回はそれがない。まさか編集の作業中にうっかり削除してしまったのではと思い、元原稿を開いてみたら、やはり無かった。無いけれども「連作・祈り」と明記してもよいくらいである。  冒頭の「わたし」の目質の話題から、人には二つの目があるという祖母の教訓に至る書き出しは、読者を確実に作品世界へ連れ込んでくれるし、なかなか端正な書き出しである。  私のようなぼんくらにはこういう霊能者の存在自体が信じられるものではないし、祖母が幼い頃から自分に特殊な感性があることを知って行く過程も信じられないのだが、結構ディテールを丁寧に書き込んでいるので、読み進めて行く途上では否定しようもなくリアルである。  神社で子供相撲を見ていた小男が実は落ち葉に埋もれたお地蔵様であったという、こういうディテールを作者はどこから探し、得て来たのか、実に納得させられてしまう。また祖母が執り行う神事、祖母とのからみでその都度登場する料理なども細部まできちんと書かれていることで、 やはり作品のリアリティを増している。文章を読む楽しみのようなものを感じました。  ありそうもないことをあるように書くにせよ、あったことをあったように書くにせよ、こういう風に細部をきちんと書くことでしかリアリティを獲得できないのだと納得しました。

 ひとつだけ、この作品で夫を簡単に死なせてしまう理由はどこにあったのだろうと思った。
 夫とのことは、夫が鬱病から回復し、妻と和解した段階で事は終了しているのであって、この作品では結末近くで夫が死ぬことで作品がさらにどうにかなるものでもないのである。きわめて蛇足な死であるような感じがした。

 「水の井戸」はインターネット上で読むことができます。
横書きHTML版   縦書きPDF版

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気賀沢清司さん(科野作家)の代理投稿です。

 文芸誌O、第43号を読ませていただき、圧倒的に面白かったのは、布施院了さんの「猫島・鼠島騒動記」でした。
 一般の書物や雑誌と同人誌の両方を読みますと、同人誌には当然のことながら同人誌らしい作品が多く、一種の同人誌パターンのようなものをどうしても感じてしまいます。
 家族のこと、友達のこと、自分のこと、それらを中心とした身辺雑記的な色彩がほとんどなのが現実です。もちろん、それこそが同人誌の同人誌たる所以であるとも言えるのですが。
 最近、ちょっとその傾向にうんざりしていましたところ、「猫島・鼠島騒動記」はそんなものをドカーンと吹き飛ばしてくれました。
 とにかく痛快です。1から3までのチャゲの登場のしかたもインパクト十分で華々しい。
 4で突然ロケットに乗り神と遭遇するところもいい。一見ハチャメチャのようで、どっこいストーリーが見事につながり巧妙に織り込まれていく。
 人間社会、特に日本・朝鮮半島などのパロディに変化していくところも面白い。
 チャゲがクラゲになりたいと言い出すところも頷けます。
 最後に桜田家のおばあさんが登場して物語をくくってくれるところもサービス満点。
 細部を取り上げて自分の好みで難癖をつければきりがありませんが、そんなことがおこがましく思えて、とにもかくにも、面白い。
 「同人誌だろうがなんだろうがとにかく発表する以上は、もっと創作しろ !!」
 そう一喝されているように感じました。
 力のある、読み応えのある作品でした。大いに刺激されました。

「猫島・鼠島騒動記」はネット上で読めます。

カテゴリー:文芸誌O

Lydwine.さんの読書雑記の、このページで取り上げられています。
以下に全文を引用させていただきます。


読破したのだから、楽しんだわけだが、今ひとつ乗り切れなかった。どうも長い小説の梗概のようにも、あまりに長い時間を短くまとめてしまった感がある。そのまとめ方は、こなれているとも言えるし、場面も作り出してはいるのだけれど、山がなくて、淡々と、あるいはダラダラと読まされてしまった。三人称ながら寄り添いどころをふたつもち、いわばふたつの視点で書かれているのだけれど、それは寺山さんの前作「矜持」がそうだったように、その往還の具合が、今ひとつ足りないと感じられる。往還のたびに、章を分けてしまうあたりも弱いのではないだろうか。前半が京三に寄り添ったまま長すぎて、5章で芳乃に移ったときには唐突の感があり、じつは京三だけで描きたかったけれど、それでは語りたいことが描き切れないから、芳乃も描いたといった妥協的な身振りに見えてしまったのだ。
その中で、ふたりをひさしぶりに対峙させて、互いの視点を往還した10章は、寄り添いどころを持たないのではなく、寄り添いどころをコロコロと変える三人称を実践したと言える。この章の書きぶりを進展させたら、なにかが産まれてくるかもしれない気はした。それでも、語りが誰かに寄り添わずにいられないことが、心理描写に終始して、風景を見せてくれないことにも不満が残る。せっかくひとところに寄り添いきらぬ三人称を選択したのであれば、寄り添うことをやめて、俯瞰してしまう度胸も欲しかった。

 馥郁......ありきたりな言い方しかできないのは不満だが、やはり牡丹は百花の王、西洋の花などとは断然違う。そう思って眺めるうちに、ふと、芳乃の実家の中庭で見た牡丹を思い出した。

主格としての京三が省かれ、まして最初のセンテンスは、続く「そう思って眺める」のが京三に違いなければ、京三の心内語であり、いわば主格を欠いた自由間接話法だが、牡丹が見えてこない。自由間接話法の不自由さの一端がここにある。

最後の最後に、物語の中に一度だけ現れた京三の友人を、わざわざもう一度引き合いに出してみせる仕儀を見ても明らかなとおり、寺山さんは、丁寧なのであり、そしてとても慎み深いひとなのだろう。三人称を選択しながらも、京三や芳乃に語らせて、語り手の気配を慎重にも丁寧にも消してしまうのだ。
この小説は、晩年の場からはじまり、上の引用が「思い出した」という語尾を持つとおり、章を改めてはいるが、その直後に、物語の場は芳乃の家をはじめて訪問した日に遡るのだから、全体としては回想の構造であり、それなら、語りつつある場は絞られているように見えなくもない。例えば、その芳乃家初訪問の場が下だ。

 はじめて芳乃の実家に行ったとき、庭に牡丹が咲いている奥座敷に通された。古い大きな牡丹の株に大輪の花が咲いて貫禄があった。まわりを若葉の生垣にかこまれていたから、余計に鮮やかに感じたのだと思う。そのときから、この花が好きになった。だから井の頭公園近くに家を建てたとき、真っ先に玄関脇に牡丹の木を植えようと提案して芳乃を喜ばせた。

牡丹を頼りに時間を遡りながら、見えかけた風景をあっさりと遣り過ごして、家を建てる話にまで早急に時間が飛んでしまう。すると、この一篇の小説は、あたかも京三の半生回顧譚の様相を呈していると言えないだろうか? にもかかわらず、京三が知らないはずの芳乃の思いが入り込んでしまう。ここにはいかんともしがたく構造上の違和感がある。一人称ではないのだから、構造の破綻とまでは言えず、だからこそこれもまた面白い試みだと言えば言えなくはないのだが、だからこそ、影のように、幽霊のように、あるいは神のように、三人称の京三や芳乃を語るものの気配があったなら、成功したかもしれないと思う。
では、影のように、幽霊のように、あるいは神のような語り手の気配はどうすれば実現するだろう? その都度、風景を見せて欲しかったのだ。描写するもの、風景を語るものが、語り手になり得るのではないか、と思う。抽象的な言い方をすれば、その場の空気だろうか? 互いの感情の機微とその変化が書きたかっただろうし、そのためにこそ、京三のみならず芳乃にさえ寄り添っていくのだが、そのときに、牡丹や、あるいは芳乃が作り始める人形が立ち上がってこない。なぜならそれらが、京三や芳乃の言葉だからだ。京三や芳乃の在り様を語るばかりで、京三や芳乃の在り様とは別にも存在するはずの牡丹にせよ人形にせよ、あるいはベトナム料理にせよ、その色彩や形や匂い、味が感じられない。読者がその場に立ち会えないのだ。
そして、それこそが、梗概を読むように感じさせてしまうのではないだろうか。

とはいえ、齧り読みのなかから、読了に至った小説であり、その牽引力はなんだったろうか、と言えば、由紀子という、京三が単身赴任先で手を出してしまった人妻にして、その挙句に芳乃と別れて、再婚する相手の、なんとも生々しいほどに普通の科白、在り様だった。小説は、ときに、あるいは往々にして、語りが寄り添わない人物こそが魅力的だったりする。なぜなら、その心理とか、背景が謎のままで、その科白などから、読者は想像を掻き立てるしかないからかもしれない。この小説の由紀子の科白には、深みなど感じさせず、謎などないのだが、そうした由紀子という人物の在り様を、科白から読み取るのもまた、読書の愉しみの一端だ。



(なお、作品は文芸誌O、43号)で読めます。

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