2017年12月アーカイブ

「群系」第39号(東京)

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2017年12月29日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「貸家物語『猫を侮るな』」小野友貴枝】
 地方公務員を定年退職した多賀谷裕子は、貸家を三棟ほど所有している。そのうちの一棟に、四月から入居していた遠田が、七、八キロ離れた山奥で、死体で見つかった。
 この遠田という男は、初美と云う愛人がいた。遠田が貸家に住む不動産屋への手続きは、初美が行ったらしい。そのためか、遠田の同居人は息子ということになっているが、実際は初美が家内をしきっているようだ。
 賃貸契約では猫を飼ってはいけないことになっているが、遠田と初美はそれを無視して、猫を何匹も飼い、家も借家人も猫の臭いに充満する。猫屋敷と化した遠田コンビと不動産屋と家主のやりとりが小説的に面白い。ここに重点を置いて描かれているので、冒頭に記された遠田が山中で、遺体となって見つかった事実が、出来事として受け止められ、ミステリー的な読み物ではないことを示している。そのため、なぜ、どのようにして遠田が死んだのかということが不明のままで区切りをつけているが、小説的にはそれほど問題を感じさせない。貸家話の連作になるのか。タイトルは「猫」遠田を死に追いやったのかと、妄想させる。とにかく、出来事の叙事と小説的な物語を混在させて、個性のある作品になっている。
【「叫ぶ Calling...」荻野央】
 二つのエピソードをつなげている。 「空蝉」というタイトルでは、生臭坊主がお彼岸と死者の霊の話をもっともらしく語るところが導入部。この入りが工夫の見えるところで、蝉の抜け殻や、その後の蝶の出現と、亡き妻との霊的なつながりを記す言葉を引き立てている。ちょっと清岡卓行の「ああ きみに肉体いがあるとはふしぎだ」の透明感のあるビジョンを思い浮かべてしまう。作者好みの甘い幻想を加えたようなロマン精神の散文表現になっている。
 もうひとつの「棺桶の電話」というタイトルのものでは、関西国際空港に近いところに箱作(はこつくり)という町がある。そこに妹が住んでいる。その町の名は棺桶作りの町だったかららしい。妹は夫が蒸発して年月を経たので、高級棺桶屋に頼んで、中に電話機を入れて葬儀をするという。これも霊的な異界との交流を意識的につなげ、蝶の登場でそのロマン的精神をまとめている。通信電話機を棺桶にいれるという、発想がユニークだが、イメージ的な想起では、なるほどと感心させられた。
 本誌には、同じ筆者の評論「石原吉郎の詩、わたしの読み方(三)」がある。情感豊かで、優しい視点で評する。たまたま、詩人で評論家の郷原宏氏が「未来」(未来社の季刊誌)に「岸辺のない海―石原吉郎ノート」を連載している。冷静な分析力が興味をそそる。なかで石原が朔太郎の「月に吠える」の作品に影響を受けて、新しい展開のきっかけになったのではないか、という説があったので、それについて、郷原氏に会った時に「月に吠える」の朔太郎の独特の肉体の部分表現についての影響であるのか、ときいたところ、それはないであろうという返事だった。
【「蠱惑の森」坂井瑞穂】
 ドイツ文学のグリム童話の風土色の濃い、魔法使いや妖精の跋扈する世界での「ぼく」の体験談。アルプスの麓の緑の森の雰囲気小説として、グリム童話の陰鬱さから離れた、明朗な調子の表現に特徴がでているように思えた。
発行編集部=〒136?0072江東区大島7?28?1?1366、永野方、「群系の会」。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:群系

「奏」2017冬(静岡市)

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2017年12月24日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「井上靖『猟銃』ノート」勝呂奏】
 井上靖の作品には、まず散文詩を書いて、その素因をもとに小説にしているものがある。芥川賞受賞作「闘牛」の方はさておいて、なかでも国際的には「猟銃」が支持されて翻訳されているという。
 ここでは、散文詩形式と小説の形式のちがいによる「孤独」の追求の違いを比較して読める。人間の孤独感は、人により千差万別な感受性のなかで生じる。たんなる「孤独」という言葉には、それぞれの感受性が反映されない。Aが孤独だといい、Bが孤独だといっても、そこに共通し、重なるもの要素はわずかである。マルクスやエンゲルスが捉えた「疎外」という言葉も、資本との関係性を絶たれたことの、貧困者の孤独な表現であろう。それだけに個別の事情をすべて包括する「孤独」の存在を浮き彫りにする作品が少なくない。
 この評で、興味深いのは、井上靖が「猟銃」を書くときに「全く作りごとの、楽しく、贅沢な感じのするもの」を書きたいと、考えたということが記録されていることだ。根源的で普遍的な「孤独感」を素材にしたことで、ロマンチズム精神を現代文学に持ち込めたことが、海外でも読まれる理由であるのだろうか。私事だが、自分は朔太郎の初期の詩から、中・後期の散文に傾倒し始めた。詩は、天才の技で、模倣しようにも、とても及ばないが、「猫町」のような散文なら、模倣は可能な気がしたのだ。そのなかで、井上靖の散文詩「猟銃」に出あった。なるほど、と思った。それが小説化されていることを知っても、自然なことにも感じたものだ。
【「安部公房『水中都市論』論―街が水に沈む意味」森岡輝】
 安部公房の抽象的な作品を、幾何の補助線を記して説明されているようで、面白かった。共産党に入党し、闘争と弾圧を意識したことで、隠喩や暗喩に満ちた作品が巧みさが磨かれたのかもしれないとも感じた。
【「評伝藤枝静男(第二回)」勝呂奏】
 藤枝が、眼科医になるまでの苦労と、作家活動の変遷は、知らないことばからりで、そうだったのか、なるほど、と興味をそそった。志賀直哉だけでなく、平野謙、本田秋五などと交流があったことと、戦後の生活のなかで、左翼活動に交わるなど、私小説作家への意思の持ち方が、まさに純文学的なものであったことがわかる。掲載された「近代文学」の埴谷雄高の一文も面白い。ちなみに、私は法政大学の夜間部在籍の時に、小田切教授の名を出した文芸の会に出たが、名前だけだらしいと感じて、行くのをやめた。同じく学生の時代、講談社に友人と冒険旅行の雑誌向け企画の売り込み行った。その時に、昼に蕎麦屋へ入ったら、友人が囁いた。「おい。あそこの客は平野謙だよ。」そこには、一人の孤独そうな年配者が静かに箸を動かしていたものだった。
発行所=静岡市葵区北安東1?9?12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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2017年12月19日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 農民文学賞などさまざまな文芸賞を受賞していた、北原文雄氏の追悼号である。その交際範囲の広さが追悼文を執筆した人々と多さに表れている。直木賞作家の故・伊藤桂一氏が農民文学賞の選者をしていたときの、授賞式に毎年のように出席していた北原氏だが、自分はそれをネットニュースにするために取材に行っていた。懇親会で北原氏と知り合い、「淡路島文学」の作品紹介をするようになった。北原氏の作品だけを紹介すれば良いかと、思っていたが、地域性が浮かび出ている他の作品も多く、かなり他の執筆者の作品も紹介したものだ。残念というも、そうであるが、淋しい。
【「ノーベル文学賞寸考―アンチハルキスト―」大鐘稔彦】
 村上春樹の文学性の特質について、具体的作品に触れて否定的なところを指摘している。そして、否定する前の素材として、川端康成の文体と文章を、批判的な視線を交えて引用。結果的に、文学的な気品をもった作品として「雪国」の文章を取り上げる。そのことによって、この評論の作者が、しいて言えば、芥川龍之介のような、文法的な整合性を持った文章を文学性のために支持していることがわかる。
 このことは、文学性とは何かという問題に深く係わってくる。したがって、本評論は、村上春樹の文学性否定すると同時に、現代文学に対する主張を述べていると解釈できる。
 その思想の延長上で、ドストエフスキー、トルストイの作風に触れ大江健三郎の好き嫌いを述べている。
 その上で、ノーベル賞作家の候補に村上春樹が対象になることに対し、不賛成の立場から、作品における欠点とする特性を述べている。
 読売新聞の名物コラム「編集手帳」の執筆者、竹内正明氏と作者は交流があるそうで、著作本を贈呈しあったり、便りがあったりするという。そこで、村上春樹氏にノーベル賞を期待するという意味のことを、竹内氏が「編集手帳」に記したことに、クレーム書を、渡辺直己氏、小谷野敦氏、西部邁氏たちと共に、送付したそうである。
 村上春樹の小説のタイトルが「ノルウエイの森」、「ねじまき鳥クロニクル」、「!Q84 」などは、こけおどし的で、内容に密着していないことや、無意味に性的なシーンを作品にはさむことへの不満を述べている。
 「アンチハルキスト」であることは、その作品をよく読むことで、春樹ファンと同様であるようだ。本文で、批判している部分も通俗的な感覚で受け取ると、なかなか面白そうに思えるし、村上がマーケティングに優れた作家として、有能さを備えているように思える。
  そういう自分は、村上が中編と短編を合わせたようなデビューした頃に作品を読んだ。自分は、高校時代から、ヘミングウェイ、ハメット、チャンドラー、ロス・マクドナルドなど、ハードボイルド文体の手法のなかに、文学性を読み取っていたし、その亜流作品も多く読んでいた。それからすると、初期の村上作品は、文体を良くこなしているが、重みが異なるので、米国ミステリーの甘さのある亜流い思えて、読む意欲をもたせなかった。これは、フィッツジェラルドやサリンジャーのムラカミ新訳においても、わかりやすくなったが、時代の受け取り方の違いを感じて、自分の共感するものと質が異なっていた。
  出会いの不幸という作家はあるもので、その後、あまりに有名になったので、2、3冊読み流したが、現代的な教養的読者層の嗜好を良く捉えているのでは、という手腕を認める気になった。特に、世界の読書家による文学的世界での発想の均一化傾向が、村上作品によって、実証的に捉えられたという意義を見出している。
 本作は、伝統的な日本の文学性を重視する立場からの村上春樹論(それゆえ、共感者も多いであろう)であるが、それは近代社会思想(モダニズム)の慣習的な文学観の層のように思える。ポストモダンの現在からすると、東英紀が「観光客の哲学」に説くように、ある種の他人事のような無責任さをもった文学が否定されない時代を浮き彫りにさせるもの、として読めた。
発行所=〒兵庫県洲本市栄町2?2?26、三根方。「淡路島文学同人会」
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:淡路島文学

「海」第96号(いなべ市)

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2017年12月16日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「猿追いの記」宇梶紀夫】
 田園都市というから、地域郊外の町立病院で、定年退職後、管理員として勤める。その前は町役場の職員として医事課職員であった。病院の医事課の仕事の詳細や、人口減のつづく町の住民高齢化の様子から、親しい友人が亡くなるなどのエピソードを挟みんで、山の猿が、畑を荒らすようになり、捕獲と山奥への追い払いの作業を具体的に描く。
 かつての農民文学賞を受賞したと記憶する作者の作品だが、これまで鬼怒川流域山村の歴史的な検証を兼ねた物語を連続して描いていたように思う。今回は、現在形で過疎化しかねない町の現状を、フクショナルな調子で軽快に描き、よくまとまっている。
【「八月の雪」白石美津乃】
 30代の奥村祥子は、食品会社に勤める。旅行雑誌を見て、スコットランドのエディンバラ城を知り、行くことにした。現地で、今は亡き弟と同年代の素敵な男性と知り合う。そこで、ささやかなロマンスの漂う交流をする。なかで、自分は普通に生まれついたが、人間は身体の不自由な人も、そうでない人も、何かに選ばれて存在するーーということに気付く。普通のロマンス系の話のようで、素材が意味ありげに扱われている。何かを言いたそうだが、なにが言いたいのかよくわからない。だからどうなの? と思わせる。
【「バトンの道筋」紺屋猛】
 木葉小夜子は、長年経営してきたスナック「リーフ」を閉めることにする。彼女は過去に婚約者がいたが、結婚する前に交通事故で亡くなってしまう。すでに妊娠していて、出産をする。仲人をするといっていた上司には子供なく、赤ん坊を引き取って育てたいというので、彼女は放心状態のまま承諾する。そして、女一人の生活をする。新しい男性とも知り合うが、彼女の過去を話すと、悩んだ末に去って行く。
 そうして、スナック経営を始めたのである。それを、高齢になって閉じようとしていると、ひとりの女性が新しい客として、やってくる。彼女の言葉や振る舞いから、小夜子は彼女が自分の産んだ娘だと読み取る。お互いに感情のぶつけあいもなく、淡々とした交際の末に、その娘がスナックの経営を継いで、営業を続けることになる。
 さばさばした語り口で、物語が論理性を中心に進む。これも小説の一つの特性で、現実にはそうならないようなことでも、物語の法則に沿っていれば、結構面白く読めるという、なかなかテクニカルな手法が成功している。
【「川瀬賢三の変容」国府正昭】
 川瀬賢三は、妻と認知症の母親の面倒をみる生活をしている。家には看護師をしている娘がいる。そうしたなかで近所の噂で、世間の情勢をしる生活ぶりを描く。深刻さもほどほどの穏やかな雰囲気がにじみ出ている。
発行所=〒511?0284三重県いなべ市大安町梅戸2321?1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:海(いなべ市)

「私人」第93号(東京)

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2017年12月 7日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「建築事務所勤務」えひらかんじ】
 あちこちで、ビル建設がおこなわれているが、そのもとである設計事務所の仕事を、海外でスキルを得た外国人技術者が働く様子を描く。こちらの知らない世界を描いているので、情報小説として興味深く読める。事実を背景に、外国人の眼で主体的に仕事ぶりを描くのだから、ペンネームも外国人カタカナ風にしたら、もっと本当らしく読めるのではないか。
【「珈琲朋友」根場至】
 カルチャー講習の小説教室に通う作者は、妻を亡くし、喫茶店で時間を過ごしていると、そこでやはり同年配の男と知り合う。彼の誘いに乗って、競馬場に行くと、その活気に巻き込まれてしまう。しかにも自然な生活日誌な作品。たしかに、世間を反映したひとつの世界が描かれている。
【「E・ヘミングウエイの時代(一)」尾高修也】
 ヘミングウエイの「武器よさらば」の作品を巡って、大学の学部のせいか、原文を読んだことの話から始まっている。自分は、経済学部の教養の単位の必須で、小泉八雲の英文を読む必要があって、ついでに「武器よさらば」の原文本を買って読んだ。冒頭の雨のぬかるみを兵士が行軍する様子のイメージ力の強さを知った。また、同時にコールドウェルの短編も英語で読んだ。好きな作家だった。懐かしさと、この時期は文学作品とする価値観が、不動のものであったことを思う。
発行者=〒346-0035埼玉県北本市西高尾4?133、森方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:私人

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