2017年1月アーカイブ

2017年1月30日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 創刊20周年記念号ということで、同人雑誌で活動する作家たちの寄稿特集がある。下澤勝井、豊田一郎、五十嵐勉、坂本良介、藤田愛子、高橋光子、山之内朗子、小沢美智恵―各氏が同人雑誌に関わる事情を述べている。
 たまたま、今日のネットニュースで、米国ではフェイスブックで「知り合いの輪がどれだけ広がるか」をテーマに調査をしたところ、知り合いになるのは同好の人々だけになるので、それほど知人の輪は広がらないということが判ったそうだ。
【「『歌と日本語』補遺」勝又浩】
 角田忠信の近著「日本語人の脳」(言叢社)を読んだことによる感想である。角田理論には、日本人には情緒を刺激する虫の声が、西洋人にはただの雑音にしか過ぎないという脳の構造の解説がある。さらに「日本語人」は左脳=言語脳で母音も子音も受け取るが、西洋人が左脳=言語脳で受け取るのは子音だけ、母音は右脳にいってしまうこと。母音を基礎にした五十音図がつくれるのはほとんど日本語のみ、という説を紹介している。
 自分も、日本語の言語美の象徴として、万葉集の歌を「漢語系」の外国人に説明したが、理解されなかった記憶がある。しかし、最近の日本人は、山のキャンプに行くと、子供が渓流の音や、虫の鳴き声がうるさいと、運営者にクレームをつけるそうである。
 自分はいつからそうなったのかを、調べたいと思っている。
 また、勝又氏は「同人雑誌神社」をつくる案を提案している。じつは文芸同志会では、かつて「文芸神社」を作ろうと、芸術の対象の神社(弁天神社)や廃止神社の再興の道をさがしていたことがある。一時は、鳥居の穴だけの廃神社跡をみつけ、その交渉にかかったら、それをきっかけにしたのかどうか、再興の話が出て、実際に新しい鳥居ができてしまったことがあったものだ。
【「戦禍と悪夢」(二)藤元】
 なんとなくきな臭くなったこの世界。日本の過去の戦争被災体験を生々しく語る。よく書いている。これがどれだけ実感を伴って受け取られるかが、問題であろう。文学的価値より社会的な価値に優っている。
【「寒桜」難波田節子】
 佑子は未亡人だが、子供がひとり。職業婦人である。祖母が孫の面倒を見に同居している。結婚を考えている男がいるが、彼は生命保険のセールスウーマンと親しくなってしまう。あれやこれや、創作上の人物を造形して現代風俗を描く。お話のつくりが巧みなので、読んで退屈しない。素材がなんであっても読ませてしまう文章技術には感服する。
【「倒れたわけ」河村陽子】
 事実を語ったものだとしたら、その記憶力の正確さに驚かされる。
【「夏の夜の唄」花島真樹子】
 大病をして入院をしていると、かつての恋心を抱いた僧侶が見舞いにやってくる。自らが生死をさまよう大手術のことで、変に思わず会話をするが、あとで、その男は同じ病院で先に亡くなっていたことがわかる。ありふれているようで、幽冥の世界を見事に表現している。
発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:季刊・遠近

「ガランス」24号(福岡市)

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2017年1月17日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「『企み小説』の前語り」ミツコ田部】
 真夜中におきると心が悲しい。共同便所でおしっこをして、また寝床にもどり、読みかけの小説を読む。そこから読んだ小説の概略の紹介になる。この小説の解説と感想を詳しく述べている。それが、読書する側の生活と精神の環境を盛り込んで語られるところが面白い。対象の小説は、金原ひとみ「軽蔑」(雑誌「新潮」2015年7月号)、上田岳弘「私の恋人」(同)。その作品の間に、読み手である作者が溶け込み作品に同化して、まるで一体化したようなストーリー紹介がある。
 さらに枕頭の書とする「NOVEL 11、BOOK18」(ダーグ・ソールスター、村上春樹訳)を紹介する。ここでも、作者の読み手として感覚が発揮され好奇心をかきたてる。
 これは、単なる読書記録ではない、新しい形の文学であるのかも知れない。もともとカルチャーとしての純文学読者層人口は、現在に至って減少するばかりだ。わたしがこの作品へのこだわりを語っても、どれだけの人が、その意味を理解するだろうか。それすらも心もとない。
 そのなかで、ある程度世間に知られた文学作品の読者層を取りこむことで、読者数としてデータベースを広げることができる。その読者感想文そのものが文学表現であれば、これは時代を反映した新しい文学なのではないだろうか。
 多くの文学作品の中に、作者の関心をもつ他の文学作品についての詳細を語ることは少ない。それは物語の腰を折るからだろう。
 文学作品に他の文学作品について長々と述べることは、文学作品の読者にとって、邪道であろうか。私はそうは思わない。むしろ歓迎したい。それを読んだがゆえに、どう精神が変化したのか、しなかったのか、それを知りたい。
 とくに文芸評論が、ただの作品紹介評に傾き(商業的に止むを得ないが)、リアルに現代文学に向き合うとなると、詩人の感性や哲学者の社会認識を軸にしたものが、評論として成立してきている。その場合、面白さは物語性でなく、文学的視点からの認識の姿としての面白さである。それがいわゆる純文学のジャンルを定着維持させるであろうと見ている。
 こうした視点から、この「小説の企み」を読み取るという主題は、先に可能性をもった試みとして、期待したいものがある。
発行所=〒812-0044福岡市博多区千代3?2?1、(株)梓書院内、ガランスの会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

「文芸多摩」第9号(町田市)

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2017年1月13日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は「日本民主主義文学会・町田支部」の文芸サークル誌である。
【エッセイ「ヘルパーさんもいろいろ」木津和夫】
 高齢になって脊椎狭窄症でヘルパーに頼むことで生活を維持している。その折にやってくヘルパーの人柄を観察して、そのサービスぶりから性格を読み取る文章。書くという表現を強く意識してさらに細部を描くと、良い文芸作品展開への入り口になりそうな作品。
【「四十七年前の決断」木原信義】
  1967年にY市のH国立大学の教育学部体育科に入学した牧野雄介を主人公にした、過去と現在の思想と生活を記したもの。話は、その年に入学した同級生のクラス会に参加したことから始まる。その当時は、全学連の70年代の安保闘争の末期の混乱情況が残っていた時期。
 作品では、国立H大学での中核派や革マル派の活動ぶりが描かれているので、その後の情況が記録として読める。主人公の牧野は、大学での共産党系の民青に同調することになる。その後の大学内の学生自治主権を巡る争いで、全共闘系を排除し学生自治の秩序を取り戻す。そのことから牧野は思想を共産党と共にする。
 何十年ぶりに母校の同窓会に出席すると、在学当時の学内自治活動のことは、話題にもされず、病気と親の介護などの生活状況的な世間話しか出ない。牧野は、そうした雰囲気に浮いた存在に感じ、失望をする。このような光景は、多くの団塊の世代で見られる現象であろう。
 そうして、これまでの町内会の役員や日本共産党後援会、憲法9条を守る会、退職教職員の会などの役員をしている自分の社会活動に自信を深め、さらに現代の政治状況の右傾化に抵抗する意思を固める。短いながらも記録として、社会的価値に重点がある。主人公が自分の人生に自信をもつ根拠には、ヘーゲルとマルクスによる、社会が段階を経て発展するという歴史観に従って、その発展段階に参加しているという思想がある。そこに、ニヒリズムやデストピアに対抗するところがあると見るべきであろう。
【「メイコの選択」原秋子】
 メイコという小学四年生の視点で、日常生活を描くもの。童話的な面白さをもつ。後半二部での、物の見方について、メイコが自分の考えを主張するところに関しては、ぎこちない。親が子供に説くようなことが、逆になっている。誰に読ましたいものなのか。思想の伝達法の検討をして欲しいところ。
【「転機」大川口好道】
 英治は戦争中の米軍の空襲爆撃を逃れて疎開していたが、高校を卒業して、絵画を学びながら働き場所を求めて、上京してきた。
 時代は、戦後間もなくの敗戦復興の時期であろう。高校時代の同級生のつてで、菓子メーカーに就職する。大企業製菓会社の下請けの作業の実態がリアルに描かれている。おそらく体験が反映されているのであろう。そこでのトラブルに巻き込まれてしまうが、なんとか会社を馘首させられずに済む。作者の真の意図は、判らないが、当時の労働力を商品とするなかでの、不自由さが描かれたプロレタリア文学としての訴求するところは、伝わってくる。
【「峠を乗り越えて」佐久健】
 定年退職した仲間たちで、ホノルルマラソンに毎年参加してきたが、今回は古希の仲間が2人もいるという。その様子を子細に描く。高齢なのにホノルルまで行ってマラソンをするという状況に驚かされる。「マラソンルート」と「人生の峠を越える」という現状への忠実なレポート。伝えたい意気込みが感じられる。目下の人生の主眼がマラソンをして元気でいることであるのはわかる。マラソンレポートから良き文芸にする方にも、精進をして欲しいものだ。
発行所=〒194?0015町田市金森東2?26?5?111、大川口方。日本民主主義文学会、東京・町田支部。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

2017年1月12日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「太陽の塔」住田真理子】
 1970年の大阪万博の開催の時期、主人公は12歳であった。その頃、母親は万博見物に出かけるために、ショートパンツで行くつもりだったが、太ももの痣が隠せないので、諦めてスラックス系にする。
 万博見物にうかれているうちに、岡本太郎の太陽の塔の作品を目の当たりにして、母親が気分を悪くして倒れてしまう。母親が、太陽の塔に表現されたものなかに、人間の残酷さや悲惨さ、暴力的に崩壊させられる暗黒的側面の意味が含まれていることを読み取ってしまったのだ。それが、母親のトラウマを直撃する。
 そこから母親の太平洋戦争の空襲の出来事の独白に入る。女学生たち全員が海軍工場で作業に駆り出されていた時に、米軍爆撃機の攻撃にあい、みんな逃げまどうが、運命の紙一重で、生死がわかれてしまう。ことに母親の友人であったカヨちゃんは、身体を破壊され、奇跡的に助かった母親の腹の上に重なって絶命する。母親は、その時に腹と太腿に傷を負ったのだった。母親もしばらくは、行方不明者のなかにいれられていたが、やがて発見され命は助かる。カヨちゃんの家族は、カヨちゃんが、どこでどなって死んでいったか、知りたがるが、母親はあまりの悲惨さに、事実を語らずにいるという話。また、その語れないということも深いトラウマになっているのだ。
 岡本太郎の太陽の塔の表現の奥深さ。私は取材であったが、新婚間もない妊娠中の妻を伴って、万博に行った。塔のエネルギーの強さが、ある圧迫感で迫ってきたのを記憶している。
  太陽の塔の人間の業の裏表の存在を浮き彫りにする迫力と、母親の過去の悲惨な体験を娘に記憶させるという、重ね合わせた手法は迫力と説得力がある。
 芸術はゲーテ「若きウェルテルの悩み」やピアフのシャンソン「暗い日曜日」のように、若者をたち自殺にさそうほどの力をもつことがある。
 現代は、ピコ太郎の「PPAP」のような、視覚とリズムに強烈に訴える刺激の強いものがあふれる。そのなかで、文章による視覚的効果への挑戦として、よく計算されている。
 ほかにも、現代風俗に絡めた作品があって、触れる気であったが、今回はこの作品で充分と思った。襟を正さねばという思いがする。
 なお、編集後記のなかで、善積健司氏が2016年(原文は2017年となっているが気が早すぎる)9月の第4回「文学フリマ大阪」が開催され、雨天の中2000人が来場したことや、100部以上売り上げた同人誌の存在もあることを報告している。
発行所=〒545-0042大阪市阿倍野区丸山通り2?4?10?203、高畠方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

「クレーン」38号(前橋市)

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2017年1月 5日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 【「ライン作業者」和田信一郎】
 わずか7頁と短いが引き締まった掌編に成っている。ヨーグルト容器を作る現場の記録風の描写が続く中に、作業員たちの会話を織り交ぜている。生産点の日常を覚めた筆で実写する事で訴える文章である。外国人労働者が、ごく普通に就労する単純労働の現場。作者は淡々と事実を提示するが無機質な痛みが伝わって来る。
 日本資本主義の底辺を支える労働者群。その内実を表現する事の意味を読み取れるか戸惑いながら鑑賞した。 井上光晴の薫陶を守る和田さんの真価を見定めようと三度も読み直した。       
発行所=〒371?0035前橋市岩神町3?15?10、「前橋文学伝習所」わだしんいちろう方。
紹介者=外狩雅巳(町田文芸交流会事務局)

カテゴリー:クレーン

「白雲」43号(横浜市)

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2017年1月 5日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 新年早々から今年完成の同人雑誌が続々と届き出しました。先ず「白雲」43号と「クレーン」38号の二つの雑誌を紹介します。この二誌の代表者とはかって関東同人雑誌交流会で知り合って以来毎号発行毎に同人雑誌交換して来ましたので気合いを入れて読んだ。
 ☆「白雲」43号☆
 短歌俳句の会が小説も掲載するようになったらしい体裁なので70頁の前半が短歌・俳句で公判が随筆と小説です。 小説は二編です。
【「少年?の回想記」穂積実】
 少年の目で書いた昭和初期の様子が33回に渡り連載中です。
【「快男児・喜楽」山本道夫】幕末明治初期に活躍した茶道・華道の達人の実話らし行動記録がつづられている。
 会話も多く活気のある文章だ。喜楽と親交のある勝海舟筆の幟旗の写真も掲載されている。連載20回目である。
 10頁程度の連載2編と紀行文や随筆が30頁を埋めている。窮屈な編集に成っている。
発行所=〒233?0003横浜市港南区港南 6?12?21、「白雲の会」代表・岡本高司。
紹介者=外狩雅巳(町田文芸交流会事務局)

「風恋洞」44号(秦野市)

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2017年1月 1日 (日) (*)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌はfriendという副題を持つ。編集の狙いはサイト<作家・小野友貴枝の広場>にも記されている。
【「久美子の家族」小野友貴枝】
 久美子が結婚した娘の家庭に出入りし、孫と交流する過程でのさまざまな出来事と想いを記録している。もし、結婚して家を出た娘の家庭と関係を持っている人たちが、これを読んだら、生々しい記録ぶりに共感か、もしくは反論をしたくなるであろうと思わせる。書かれたことの社会的意味づけを理解することなし、この作品の面白さは理解できないかもしれない。教科書的な意義をもっている稀有なものと思う。
 登場するのは、久美子の娘の珠江と孫の二人、それに夫の姿が少しばかり見える。すべて久美子の視点をもって、描かれている。そして長女の珠緒と一緒にいると、「触れている部分がなんとも言えないざらざら感、そこから緊張感が流れてくる。自分の娘でありながらこれは何だろうと思う。そしてその異物感は、いつからどのように感じ始めたのかわからない。物体でなく、感じるものなので、具体的に説明しようがない」
 まさにその感じが、その周辺が鮮やかに切り取られている。作者の書く意欲が、随所に象徴的な意味をもって、読者に迫るのである。当然、その事情に解決はない。
【「息子と私」盛丘由樹年】
 父親「私」から感じた息子との関係である。息子は、しばらくの間、独居して社会生活をしていたが、何かの理由で、両親の家にもどり、就職しないで生活をしている。運転免許も更新しない。いわゆる引きこもりに属する状態なのであろう。
 「私」は、そうなった原因を、自分と息子の間に何かがあったに違いないと、親子関係のこれまでを、少年時代からさかのぼって、回想し点検する話である。
 息子は、「私」が会社からいわれて50代で希望退職した時期に、東京のアパートで一人暮らしをしていた。息子は、高校をでたと同時に漫画家になるのだといって、家を出て独り暮らしを始めた。あとから、漫画家志望というのは、家を出る口実であったのかもしれない、と「私」は、推測する。「私」は、息子の将来を案じるが、それは息子自身に委ねるしかない――。そしてこの問題にも解決はない。
 文学においては、人間性を掘り下げるために、また認識を深めることに面白さを求める。痛快な活劇を観たり読んだりする面白さではない。本誌の2作品はその意味で、事情を読者に投げ出して語り、その認識を問いかけるというスタイルは、ありそうでなかった文芸同人誌の新しい道を拓く可能性をもっているのかも知れない。
発行所=〒257?0003秦野市南矢名1?513?4F,小野方、「秦野文学同人会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

2016年12月31日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「新時代を迎えた文芸同人誌」木内是壽】
 文芸評論として、明治期にはじまった文芸同人誌と商業文芸誌との関係、近年の国文学系の学術誌などの廃刊、休刊の時流に触れる。そのうえで文芸同人誌の全国組織として、森啓夫氏の「文学街」、五十嵐勉氏の雑誌「文芸思潮」などの活動を記す。
 さらに現状としての文学フリーマケット「文学フリマ」が東京において、600グループ、大阪で300グループの市場が生まれたことが記してある。じつは、ここでの「文学フリマ」というのは、過去の話。すでに同人誌だけの市場ではなくなり、現在は文学作品のフリーマケットとなっている。市場としての機能も、12017年早々の1月22日に京都、3月には前橋、4月には金沢、5月には東京と、ほぼ毎月のように全国の各地でフリーマーケットが開かれ、合計で3000を超える文学グループが作品を即売するようになった。
 これは「作家は個人という存在」意識の高まりから、単行本が多くなり、1日で100冊以上即売するという一般書店顔負けの強い市場力をもつようになったことによる。いまや「文学フリマ」は同人誌もある文学市場になっているのである。また、ここでの同人誌は合評会というのをしない傾向にある。価値は見知らぬ読者が買うことで決まるからである。
【「工場と時計と細胞」外狩雅巳】
 この作品は「詩人回廊」サイト(外狩雅巳の庭)にシナリオ風に断片的に執筆したものを、作品としてまとめたものである。
 形式としては、プロレタリア文学的手法で、工場労働者の労働実態が活写されている。舞台は大田区の外資系ゲーム機製造工場の労使対決の一場面である。
 話は小さな町工場を転々としてきた労働者が、日本の高度経済成長の途上で、ある程度経営基盤のしっかりした中堅企業に入社し、時代の波に乗って大企業になろうとするなかで、働く機械として非人間的な状況に置かれてゆく労働者の権利を確保する組合づくりの過程が描かれている。特に大田区は、共産党の活動拠点として、労働運動が盛んな時代が長く続いた。
 その時代の状況を多摩川に沿った大田区という工場地帯の雰囲気を烏の眼として俯瞰的にとらえている。さらに企業内でのベルトコンベアの流れに組込まれた工員たち、会社からの指令を実現する管理職という、それぞれの視点から描き、組合結成を阻止しようとする側。組合結成によってストライキ権を確保する労働者の立場を描いている。日本の資本主義社会の製造現場が歴史的な一場面として、ドラマ性をもって描かれているのは、興味深い。本作品は、自分の表現しようとしているものの形がつかめない段階で、まず「詩人回廊」に書き起こした。そして、その自分の表現したいものはこうではないかと、まとめたということになる。その意味と表現法の追求行為がともなうゆえに文学作品たりえるのである。すでにわかっていることを、その通り書いても、それは線を引いてあるものに色を塗るだけの「ぬり絵」に過ぎない。ぬり絵を美術だという人は変人である。
 プロレタリア文学には、芸術的価値と社会的価値の双方が要求されることから、その姿も変化してきている。
 偶然かどうか、作者が「詩人回廊」にメモ風に書きとめ、構成などを推敲している間に、雑誌「民主文学」の17年1月号に、仙洞田一彦「忘れ火(連載第1回)が掲載されはじめた。この作品を読むと、地域性や企業の製品などからして、同じの企業でしかも、この企業が大企業に成長したのちの舞台設定である。ここでは、主人公がリストラとしてクビにされないが、窓際族として処遇されるような予感をさせるもの。おそらく、企業内組合活動で標的にされた男の戦いが描かれるのではないか。合わせて読むのもひとつの趣向であろう。
発行所=相模原市中央区富士見町3?13?3、「相模文芸クラブ事務局」担当・竹内健。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:相模文芸

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