2016年10月アーカイブ

2016年10月30日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

  本誌には 「第一回文学フリマ岩手開催記念アンソロジー」という副題がついている。よくまとまっている。通常の同人誌は、自由に作品を集めてアンソロジー化したもの。商業文芸誌を買っても、そこに掲載された作品や小説をすべて部読み通すということはない。これは宮澤賢治など「岩手県にまつわる文学的背景をテーマとした作品集」として構想・企画されたと記されている。岩手の文学精神性でつながった作品ばかりのため、全体で統一的なひとつの作品に読めないこともない。各作品に「著者紹介」では作者の作品へのコメントと「文学フリマ岩手開催に寄せて」という発信がある。作者の姿勢において、同人以外の一般読者に向けて執筆したものという、誰に対しての表現なのか、という方向性を明確にしている。
【「ふたごもりの家」良崎歓】
 孤独な男女が出会い、蚕となってつがいになる。生命体の生きる力には愛があるという本質に触るメルヘン。著者紹介「生まれも育ちも北東北。お話を考えることが趣味で、文章や絵をネットでひっそりと公開しています。好きなものは、異能に悩む少年少女と、あやかしと虫、北国の田舎町の四季。「見回せばすぐ隣にある、ちょっとだけ不思議なこと」にとても惹かれます。(略)」。フリマ開催に寄せて、岩手は文学好きにとって魅力的要素が詰まった土地と思うので、第一回「岩手文フリ」を機に、地元文学の盛り上がりと、拡大に期待するというコメントがある。
【「銀河ステーションの夜」ひじりあや】
 東京・鎌倉を舞台に賢治の「銀河鉄道の夜」に絡んだ話が展開する。ライトノベル風で読みやすい。東京からの参加で、岩手文フリに寄せる言葉では、東京での文フリ開催に、多くの他地域からの参加があって、盛り上げに貢献してこられたことへの感謝をこめたmのだという。
【「永遠の流れ 黄金のゆらめき」白川タクト】
 著者はサークル「まぶいぐみ」。主に中国近現代史萌え小説や中国戦争映画レビュー。作品は歴史学の観点から奥州藤原氏を描く。
 その他、木之下、帰鴉、坂崎竜、ふじ、青砥十、谷村行海、掘真流知、文乃深森、ひなたまり、玄川透、しほ、たびーの作家、それぞれ岩手の文学多くの人々に共有されることの喜びが表わされている。
発行所=文学フリマ岩手事務局。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

「季刊遠近」61号(横浜市)

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2016年10月21日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「紙の卒塔婆」藤民央】
 夫が外で女関係が激しいことから、妻である重岡春代の視点からはじまる。広郷という夫の姓と、重岡という姓の関係がよくわからないが、夫は東京市役所に勤め、作家活動もしている。肌合いに馴染むような自然な文章タッチで、日本の軍国主義時代の生活ぶりと、人間像が描かれている。連載ものだが、意味深な感じの登場人物像の描き方が時代の空気を感じさせる。
【「赤い造花」難波田節子】
 家族の古いしきたりの残る時代の女性の立場から、とくに母親との葛藤のことを思い出す話。女性の言い分だけが強く出ている。自己批判もあるが、どことなく時代性への焦点の絞りが物足りない感じがした。
【「婚活生活―グループ交際」森重良子】
 女性が、現在よりより良い生活を求めて結婚相手を探す。同じ目的の女性が何となく集まってしまう。現在の社会状況では、独身男性の収入が下がる傾向のなかで、女性は独身で収入をすべて自分のために使える自由を謳歌した方が幸せという発想で、結婚しない女性も増えている。どちらも、結婚生活という共同生活が、必ずしも歓迎される状況ではなくなった時代の風俗である。
 本作でも、婚活で結婚にこぎつけた人と、まだ出会いのない女性の方は、結婚生活への不安が語られる。シリーズ化のようなスタイルなので、書き進めるうちに、風俗的なものから、人間性の本質に迫るものが生まれるかも知れない。
【「扉を開けて」逆井三三】
 サラリーマン社会のなかの男女交際の情念の機微を語る。竹田一郎の孤独感と、同僚の洋子というOLへのささやかな思慕を絡めて、一郎の生活感覚を表現している。作風の根底に人間の社交性と孤独性への皮肉な視点があり、面白く読める。
発行所=〒215-0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。「遠近の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

「婦人文芸」第97号(横浜市)

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2016年10月14日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「三國さんのこと」西山州見子】
 話題性の面白さとしては、これが第一であろう。作者は、約30年前の昭和59年、自宅を鉄筋三階建てのアパートにして、そこの大家をしながら住んだ。部屋の賃貸にはペット「可」にした。
 すると、管理会社から、俳優の三國連太郎と夫人と犬とで住みたいと連絡があったのだという。三國連太郎60歳代のころ。世田谷に自宅があるが、地方ロケの時に、一軒家を留守にするのが不安なので、そこを他人に貸しておいて、しばらくの間アパートを借りたい、という話であった。愛犬と暮らせるアパートがなくて、困っている事情があった。
 しばらくならよいであろうと、承諾した。三國一家が挨拶にきた。連太郎は大柄でがっしりした身体をしていた。犬の名は小太郎で、夫人は連太郎より25歳年下と教えられる。
 居をかまえた三國のこの時期の出演した映画作品は「マルサの女」、「利休」以下、多くあったという。「マルサの女」の教祖役の時は、ちょっと怖い雰囲気で、「利休」のときは穏やかな人柄の雰囲気であったという。
 越してきて間もなく「釣りバカ日誌」が始まった。ロケに使った魚のお裾わけが幾度もあったこと。夫人が方角よいというように、その間、「利休」「息子」で日本アカデミー賞主演男優賞を2度も受賞したという。アパートは、知る人ぞ知るで、釣りバカの「スーさんの家」と噂された話など、今は亡き名優のエピソードで興味尽きない。
【「福島弘子さんのメガネ」志津谷元子】
 同人仲間であった福島弘子さんが亡くなって、彼女との交際の思い出を語る。独身を通し、小説への情熱を絶やさないその人柄と、作者の思いが伝わる姿見の良い鎮魂の章に読めた。
【「野尻湖の家」菅原治子】
 ある主の余裕がある家族が、野尻湖畔に別荘を持つまでの家族の過程が描かれている。ある意味で、かつての家族がもとまって、一体感を維持していた時代への郷愁の物語。
 そのなかで、思春期の豊という長男の家族的なまとまりに反抗し、個人としての自己主張をすることに、母やが神経を尖らすとことが、本題となっているようだ。
 その他、エッセイや掌編があるが、それぞれ文章に習熟した書き手が多く、それぞれ来てきた時代のさりげない日常を題材にして、感慨を与えるものが多い。
 発行所=220?0055横浜市西区浜松町6?13?402、舟田方、婦人文芸の会。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:婦人文芸

「澪」第8号(横浜市)

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2016年10月 2日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の【「クラシック日本映画選2『東京裁判』」石渡均】については、ジャーナリズムの一部と読み、紹介も長くなったので、暮らしのノートITO≪「映画評論「東京裁判」(石渡均)の意味」≫に述べた。
【「私は ずっと昔から こうよ」柊木菫馬】
 横浜に住む麻衣子という女性のライフスタイル小説であろう。恋人の宗佑という自衛隊員がいて蜘蛛のタトーを入れている。彼と付き合っているうちに、彼女も脊中に蜘蛛の刺青を入れたらしい。それから溝口という10歳上のバツイチ男との交際もするが、漠然とした関係でしかない。そもそも、麻衣子の男女関係は作者のいうように恋愛なのか。自己主張があるようでない。現代女性の生活のありさまから、日本の時代の迷いが見える。
【評論「ハイデガーを想う(?)(『形而上学とは何か』を中心に 等)」樫山隆基】
 誰の言葉か忘れたが「思索を語ることこそ最大の自己表現である」ということを感じさせる。自分にとっては形而上学というのは、日常生活にはなくてもあっても、どうでも良いことの世界で、その反対の形而下学は、日常生活にかかわる具体的なことがらに関する学問であろうと思っている。
 ハイデガーといえば著書「存在と時間」での、実存哲学論が著名だ。この評論では彼の書いた「形而上学とは何か」という著書に関する研究評論である。形而上学があるので、形而下学もある。現実生活は常に形而下学的世界のなかにある。空飛ぶ鳥は夜ねぐらに帰り、野のユリはただ咲いて誇ることがない。動物的生命体の範囲内にある。このように、考えるのは私が世俗人としての立場にあるからであろう。
 ここでは、作者の世俗的な体験感覚のなかで、存在への認識を意識する出来事を、存在感感覚と結びつけた思索を展開している。
 まず、キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のラストシーンでシュトラウス作曲「ツァラトゥストラかく語りき」が使われていることについて、哲学者ニーチェの「永劫回帰」思想を念頭に置いていると述べる。
 そしてそのシーンの一部から、川端康成の「末期の眼」の一節が浮かんだという。そこから若き日の心臓病による死との直面体験を語る。死への想念を思索するため、キルケゴール、ニーチェ、カミユ、カフカ、サルトルと読みこんだという。
 その結果、存在することの不思議さを認識する思索、つまり哲学することの意義を知ることができる。サルトルの「嘔吐」の主人公が、存在者としての自己が、樹の根っこの存在感に負けるというか、嫌悪するシーンが引用されている。改めてサルトルの実存主義感覚の西欧性を感じさせるものがある。
 従来、同人誌に掲載された哲学論および評論をかなりの数読んできた。それらの多くは、たしかに私の知見を広くし、学ぶものがあった。しかし、その知見によって、自己認識を強めることはなかった。それに対し、本論では、思索における人間の存在の在り方について、自己認識を強める行為の有効性に力を与えてくれるものがあった。
発行所=〒241?0825横浜市旭区中希望ヶ丘154、石渡方。文芸同人誌「MIO・澪」の会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎

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