2016年6月アーカイブ

2016年6月28日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【エッセイ「水俣―ひとつのルーツを求めて」田代尚路】
 これはエッセイというより、東大安田講堂で5月3日?5日に行われた水俣病「水俣フォーラム」初日講演会のレポートである。《参照:暮らしのノートITO「文芸と思想」》石牟礼道子「苦界浄土」を軸にした社会文芸評論でもある。概要として「現在のチッソの位置」(小宮悦子氏の話)、「具体的なエピソードの強み」杉本肇氏の話)、「猫の慰霊」(石牟礼道子氏の新作能)、「水俣と私」(田代尚路)のセクションがある。それぞれの項目において、人間の家族関係の強さに胸を打つものがある。作者自身が無縁と思っていたこの事件に、物理的な縁があったことを地霊の存在とからめて語っている。これを記す自分も東京湾の漁師の子であることから、妙な懺悔心に襲われる気持ちで読み終えた。書く材料に頭を悩ます人がいたら、読んで欲しい良い作品といえる。
【「小川国男『海からの光』論」勝呂奏】
 小川国男の小説のなかで、その作家の書く姿勢の本質を読み取ろうとする評論である。この作品について、吉本隆明が宮沢賢治「雁の童子」のように、文学芸術家の文学者としての証明のような作品という趣旨の評をしていることが記されている。たしかに、小川国男の文章には、技巧を超えたなにかがあって、幾度か部分の読み返しをさせるものがある。その推敲の痕跡をたどるものであるが、参考になると同時に、作家精神と宗教心というものを考えてしまう。
【「堀辰雄をめぐる本たち?――菱山修三訳・ポォル・ヴァレリィ『海辺の墓』」戸塚学】
  堀辰雄とヴァレリィというと「風立ちぬ」の冒頭の「いざいきめやも」という妙な文語体の訳語で有名だが、菱山修三が影響をうけ盛んに訳していたことが研究的に記されていて、新鮮である。
 同じ筆者による「堀辰雄旧蔵洋書の調査(九)―プルースト?」も興味深い。堀辰雄は、日本の平安朝文学の文体の調子と、フランスのプルーストの微細なでスローな文章との調和をはかる文体創造に、相当熱心であったように思える。もしかしたら、芥川龍之介の文法に忠実で明解な論理性で失われがちな味わいを、もっとソフトなものにしようと苦心していたのかもしれない。
【「枝垂れ梅」小森新】
 長男の私が南伊豆の町に一人暮らしをしている母親の様子を見に、定期的に実家に帰る。いわゆる普通の家族の普通な生活の有り様がわかって、面白く興味深く読んだ。
〒420?0881静岡市葵区北安東1?9?12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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「柘榴」第17号(広島市)

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2016年6月24日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「金魚」木戸博子】
 妻と10歳の男の子の過程をもつ高野の家庭で、家の前にポリバケツに入った金魚が置いてあったことから、息子の希望で飼うことになった。そこで金魚の飼育が、なかなか手間がかかることを、専門店の店員の蘊蓄で知らされる。
 その高野には、比呂美という浮気相手がいる。この高野と愛人の不安定な関係と、ひ弱な出目金のイメージの連想が良くできている。妙にエロチックで、人間的な関係の薄いことの危うさと、性的関係における男女間の情念のはかなさを、巧みに結び付けて読ませる。
 そうした感覚の透明感がユニークで、けなす人はいないでしょう。とはいっても、家庭持ちとなった高野の鬱屈した感情は、外面的な表現で迫るにとどまっている。それでも優れているのではあるが、本質は高野と妻の美和の夫婦間の倦怠にあるのではないか。そこに迫るのには、もうひと押しの発想が足りないような気がする。文芸雑誌でも、晦渋さを避けて、深追いせずに中間小説的なわかり良さを追う作品が増えた。それは商業的な事情の配慮と思われるが、同人雑誌であるなら、そうした傾向に同調することが必要ないのでは、と考えさせる。
【「サブミナル湾流?」篠田健二】
 本編は、軽みのある文体で、世界にただひとり、作者だけがもつ自己主張の強い作風。これを貫こうと果敢に挑戦し、苦心するところが、大変面白い。短編連作の終回である。散文精神による観念追求の文体は、読んでいて気持ち良い。話はリゾートビーチと漁村が同居するような地域での、過去の事件を回想し意味づけをするのである、その書きまわしぶりが、なるほどと感心させたり、そうなのかな? と疑義をもたせたりで、読者との会話ができる。
 このなかで、ミステリーとノベルの違いの構造論が展開されるが、これは純粋理論化に傾いて、小説的なものから解離しているように思う。折角、過去の事件らしき現象があるのであるから、これに結び付けて論を展開しないと、本質的に俗的な視線で、世界を語る小説からはみ出してしまうような印象を受けた。とにかく、書く姿勢が楽しめる。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「柘榴」編集室。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

カテゴリー:石榴

2016年6月14日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の特別会員である評論家・勝又浩氏の著書「私小説千年史―日記文学から近代文学まで」(勉誠出版)が、和辻哲郎賞を受賞したことが巻頭に記されている。《参照:勝又浩「私小説千年史」出版記念会の光景》
 選考委員の梅原猛氏が、「大胆な文学論」と評価しているという。受賞の言葉では、生涯のまとめとして道元「正法眼蔵」に取り組みたいが、和辻哲郎の書も多く読んでいるので、何かの通底するところがあるのかも知れぬ、という趣旨が述べられている。私も読んでいるが、異色の視点による文学史観だと思う。本書は、我が周辺でも人気があって、友人が貸してほしいというので貸した、が回し読みでもされているのか、戻ってこない。
【勝又浩「歌と日本語」】
 日本人のリズム感の特徴について語る。文章のリズムも、日本語には特徴がある。それに関連するからであろう。実際、海外の詩のリズムと日本の短歌、俳句、さらに近代詩の文語体のリズムから、萩原朔太郎、西脇順三郎まで、言葉のリズムの変遷と格闘がある。このエッセイのなかで注目したのは、小泉文夫の民族と音感の研究について触れていることである。自分が仕事の関係で小泉氏の講義を聴いてから、まもなく亡くなってしまった。その研究成果には、やはりカルチャーショックを受けた。
 勝又氏よると、日本人が三拍子を不得意とするのは、農耕民族だからというような説明を小泉氏がしているという。その説明には難があるだろう、という。日本語は単語の一語の音が独立しているので、歌う場合、音をいくらでも長く伸ばせるが、英語などでは単語としてまとまって表意するので、音だけで長く伸ばして歌うのができない、としている。たしかに若いミュージシャンなどが、海外を意識している歌には、日本語として変な拍子のものが少なくない。
 私が小泉氏の講義を聴いた際には、音感と民族との関係について、少数民族が何らかの理由で、まとまる必要がある場合には、リズム感を磨き上げる要因になるということであった。事例としては、バリ島の民族のケチャが世界で最もテンポが速いということ。何らかの団結が必要であって、生まれたのであろうということだった。なお、同様の理由で、エスキモーは、鯨を集団で捕る必要から、気を合わせるために、みなリズム感が優れているそうである。同様に、台湾の高砂族は少数部落が分散して住み、敵対する種族の首を狩る首狩り族が多く、そのため共同して敵を襲うための合図が発達したので、音感が良いと聴いた。後年になって、台湾の原住民・高砂族の子孫という人に会って、その話をしたら、なんでも、歌手のビビアン・スーやジュディ?・オングなどは、祖先は高地民族だそうで、その説に当てはまるということを聞いた。
 ちなみにその時、小泉氏は日本の生活語に「クビになる」という語が定着しているのは、祖先に首狩り族がいたのではないか、と語っていた。私がカルチャーショックを受けたのは、その話から日本人が多様性をもった多民族国家であるという、根拠の証拠を得たと思ったからである。勝又氏のエッセイには、短歌など短詩をめぐる、文学表現における言葉のリズム論を展開されるのではないかと、期待させるものがある。
 発行所=〒215?0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者「詩人回廊」・北一郎。

カテゴリー:季刊・遠近

「海」第93号(いなべ市)

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2016年6月12日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【宇佐美宏子「象のいた森」】
 名古屋市の国有林の森が近くにあるマンションに、私は25年近くすんでいる。それには理由がある。太平洋戦争中に、動物園の象がこの森に飼育係に連れられて、草を食べにきていたのだ。私は子供のときにそれを見た記憶が忘れられない。敗戦の前には、空襲で森が焼夷弾で焼かれ、人々も大勢死んだ。私の心の中には、象のいた森と、その暗さのなかの死者の魂がつながりをもって、忘れることがない。
 その国有林の森も戦後は整理され、現代的な場所になるが、時折、森の中で自死する人のことがニュースになる。頭上ではヘリコタ?が良く飛ぶ。名古屋という場所のせいか、動物園の象という素材で、メルヘンチックな側面と、常に死と向き合う作者の語り口の感性は、文学的な含蓄を含んでいる。グリム童話の大人向けの味わいを持つ。
【南柊一「曽根はどこにいる」】
 主人公は、曽根か、それに似た苗字の男。仕事場の転職をする性格らしく、薬品の訪問販売営業から、競売物件の転売不動産業をしたりしている。日常は、職に就くことで自分の存在を確立できている。
 主人公のやっている競売物件探しの仕事の内容の細部が面白い。その話の途中というか、最中に自己存在への自意識に関する問題提起がいれてある。主人公はその社会的な職業によって、存在保証されているが、それは表面的な一時的な存在である。本質的な自分の内面的な存在感について考える。名前だけで考えても、若いときも成人時も、老年期も同じであるが、中味はちがっている。名前は記号としての意味しかない。そうした現代的な問題提起を含んだ小説に読めた。
発行所=〒511?0284三重県いなべ市大安町梅戸2321-1、遠藤方。
紹介者=「詩人回廊」・北 一郎

カテゴリー:海(いなべ市)

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