2014年7月アーカイブ

「石榴」15号(広島市)

| コメント(0)

2014年7月26日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「1990年代の思い出」篠田堅治】
 家庭を持つ女性と妻に去られた男の恋愛関係を描く。男の意識はベンヤミンというユダヤ人学者の研究体験を通して語られる。研究に没頭したため妻に見はなされたらしい。思い出の年代は日本経済がバブルから失われた20年に至る時代である。ベンヤミンについては、詳しくは知らない。それでも恋愛という不思議な心理を、凝った文章で表現するのには伝わってくるものがある。恋情もバブルと同じかも、と感じさせる。作者の工夫する姿勢の文章が、楽しく読ませるというか、興味を引く。描かれた女性の謎めいた魅力が優麗にして粋である。
【「訣別」木戸博子】
 病院を経営していた父親が亡くなり、長年連れ添ったという女性の要求で、6年間空き家だった病院を子供の兄妹が相談して売却することになった。取り壊される前に、かつての関係者も混じって、兄妹が見にいく。主人公の妹は乳がんの手術のあとの幻影痛に悩まされている。その伏線があるせいか、廃院での父親と対話する幻影が自然に描かれている。
 チェーホフなどの話も出る。たしかに平成26年における現代が、時代の変わり目に入り、なにかと訣別しつつある寂しげな時間の中にいることを感じさせる。品格があり隙のない構成で巧いものだ。
発行所=〒739?1742広島市安佐北区亀崎2?16?7、「石榴編集室」
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

カテゴリー:石榴

「奏」第28号2014夏(静岡市)

| コメント(0)

2014年7月17日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

本誌の目次は次のようになっている。創作「西行の日」小森新/詩「Knowledge in Chmistry?AnEpic ?For the world`s Greatest chemist chemist Erasmus」Masahiko ABE/「遠藤周作『地の鹽』『コウリッジ館』論」勝呂奏/小説は芸術たり得るか「谷崎潤一郎『■(旧字の食にあたるらしき部首とつくりが堯)太郎』『から異端者の悲しみ』へ」中村ともえ/ぷらていあ「小川国夫『逸民』推敲考」勝呂奏/「堀辰雄旧洋書の調査(五)?コクト?ー」戸塚学/講演録「完全版『人間の運命』の完結を見て」勝呂奏。
【「遠藤周作『地の鹽』『コウリッジ館』論」勝呂奏】
 遠藤周作の芥川賞受賞後の表題2作品が、作者のパリ留学時代の体験からどのような背景で書かれたかを解説する。2作品には遠藤がフランス留学した時に体験した、人種差別意識の現実を背景にしているのだという。評論によると遠藤自身の評論「有色人種と白色人種」(昭和31・9月『群像』に、留学前の日本で<人間本質の普遍性は白人であろうが黒人であろうが変わりないという原則をもっていた>と書くように、それが信じられていた。これは通常の人間の観念としての共通意識であろう。しかし、フランスで体験した遠藤周作の体験は、観念が実際の渦中に巻き込まれたことの現実として、切実感が異なっていたようだ。そして自分自身も差別意識の当事者としての視点から、その問題を作品化し、その細部を検証している。
 遠藤周作の「沈黙」を読んでいるが、テーマにまぎれがなく、すっきりと整理された作品との印象をうけた。この評論を読むと、それ以前にこの2作品の存在があったわけである。「沈黙」は完成度が高く、出来すぎ感がある。おそらく、経験を積んだ作法慣れとでもいうものが漂う。しかしその前に、感受性の鋭いこの純文学作品が存在していたことがわかる。
【ぷらていあ「小川国夫『逸民』推敲稿」勝呂奏】
 小川国夫の推敲の過程をよく検証している。たまたま「季刊文科」62号に<なつかしい作家たち第2回>徳島高義「小川国夫『彼の故郷』のころ」が掲載されている。ここに勝呂氏の著作「評伝 小川国夫 生きられる"文士"」(勉誠出版)からの引用がある。
 発行所=〒420?0881静岡市葵区北安東1‐9‐12。
紹介者「詩人回廊」北一郎

カテゴリー:

2014年7月 8日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「白い翳」有森信二】
 福岡に住む健治は3年前に定年になり趣味の会の幹事をしている。母親は87歳でさまざまな病を治療しているが、長年住み慣れた自分の家で独り暮らしをしている。長男である健治が福岡に引き取ろうとしても、無視している。
 母親の病気を見守る中で、健治は少年時代の母親や親類のことを思い起こす。健治がこだわるのは、自分が本当に母の夫、つまり父親の子供なのかという点である。このこだわりをどこまでも追求している。そのために、幼少時代の記憶が単なる思い出話や時代の記録から脱け出て、純文学の世界に踏み込んでいく。
 敗戦直後の時代、まず母親は幼少時代から彼に甘えを許さない厳しい態度で接する記憶が語られる。それは彼が長男で農家を継ぐ立場であるから、と彼女は言う。
 この時代の農業従事者にとって、子供は重要な労働力。また、農地と人間の生産関係は、その土地を耕し、面倒をみる条件のもとで、収穫が得られる。しかも一定の面積を確保し、土地を分割しては良くない。長男だけがその土地を承継し、二男、三男、女性は家を出される。母親は、時代が変わっても、昔ながらの農業を守らすには、長男が勉強をして世間のことを知るのは良くないと、健治に勉強をさせないようにする。
 小説では結果的に身体が頑健でない健治は進学し、長男でありながら農家を継がないことになる。
 健治は、自分は祖父の子供ではないか、という疑惑を抱き、母親と祖父との関係について様々な出来事を回想する。祖父が文学愛好家で、血のつながりの濃さもある。しかし、母親はそのことを否定するニュアンスの答えしかしない。健治のアイデンティティに関する疑問は白い翳として存在しつづける。
 健治は父親が誰かを疑問にしながら、父親については多くは触れない。本当は、母親の愛情が欠落したような雰囲気で育てられた、それは何故かという、問題提起なのであろうか。息子はどこかで心を傷つけられている筈で、そこにたどりつかず、どこか漠然としたところがある。それ以外に多くの問題提起がなされているので複雑さを与えている。当時の社会制度の家長制度へのマインドコントロールに対するこだわりや反感あるのかもしれない。母親は、風変わりな性格ではあるが、長男の進学や都会住まいを許したのであるから、愛情を示さなかったわけでもないのではないか。
 描写にはすごいところがあって、勉強のことで、母親と口論になり、――母が傍らの六尺棒に手を伸ばしたので、健治は朝飯の箸を飯台に置いたまま、飛び退った。素足にズックを突っかけ、門口に入り出る。ぶつかりそうになった鶏が、あわてて羽を広げて物置の軒下まで飛んだーーとある。他にも優れたところがあるが、とにかくその描写力によって、自然にユーモアというか、哀感がでている。
 技術的には、小説に重層性が増すエピソードが多彩で、曖昧なようでいて、かつての家長制度主体の世間の掟が、時代の変化で崩壊しつつある現代を照らしている。読後になんとなくヘンリー・ジェイムズの「ねじの回転」を思い起こした。これは女性の家庭教師が幽霊に出会う話だが、幽霊がでたようにも思え、あるいは家庭教師の思い込みのようにも読める。この二面が曖昧で、どちらにも受けとめるられるように作者が仕組んでいるので有名である。
発行所=〒818―0012大宰府市観音寺1‐15‐33、松本方。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:海(第二期)

「季刊遠近」53号(川崎市)

| コメント(0)

2014年7月 7日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「雪の春」難波田節子】
 滅多にない大雪に見舞われた町のある一家。年配の主婦の「私」の視点で行きつけの店や、独立した子どもたちなどの家族関係の話が進む。
柱となるのは、雪である。小説における季節は、内容への味付けの強化になっていることが多い。雪は風景としては美しく、スキーなど遊び心を誘うが、農家などは生活に打撃を与える。ここでは、町の突然の大雪が、じわじわと不吉な様相をもって市民を襲う。主人公の母親は、大人になっても甘えのある息子の頼みで、急病になった孫のために大雪を押して、駆け付けようとする。息子への無償の愛を与える彼女に、大雪はどんな運命を与えるのか。
 主人公には、大雪にからむ出来事で良い記憶がない。自らの体験もそうだが、まず長女と長男の問題が語られる。目立つのは、主人公の夫婦の長女の姉より弟、長男への愛情の傾斜である。日本の家長制度の名残りかも知れない。長女の小学校入学の祝いに家族で山中湖畔に行く。そこで大雪に見舞われる。その時、弟の長男が雪遊びに夢中になり、手足が凍る。父親は息子が凍傷になるのではないかと、恐れて必死で手当をする。旅行の主人公であるはずの肝心の姉の娘に気配りできない。父親に冷たくされたと感じた娘は、もの思いにふける。作者がそれを的確に描くので、家族関係の構造を見事にあぶりだしている。ここで長女は、自らの存在の立場を弟との関係で察知する。自分がそのままの自分であるだけでは、父親からの存在承認は得られないことを知るのである。母親は、娘がその後、社会的に独立していくのを見ている。娘は肉親関係の無条件な愛を求めることに深追いをしなくなり、社会で何かを成し遂げること、行動によって社会的な存在承認を得る方向に向かったことを示す。
 たしか、作者はクリスチャンであったように記憶する。かつては古代ヨーロッパを舞台にした作品も書いていた。それが近年は家族の構造に興味を示しているようだ。ニーチェは、キリスト教やマルクス主義思想を、弱者や貧者の恨み(ルサンチマン)であると説いた。そうした思想に押されるように、人間社会の根幹は経済や階級、原罪の追求ではなく、家族というような構造をもつところにあるという思想が生まれた。それがまたポスト構造主義に変化している。この話をすると、長くなるし、同人誌に書く人などには、そのような話はつまらない、といわれるので止めるが、この作品にはスタインペックの「エデンの東」に読むような親子関係の要素が組み込まれている。日本の家族においては、カインとアベルの構造は、どのように変化しているのか、作者の筆力に期待したい。
発行所=〒215―0003川崎市麻生区高石5?3?3、永井方。
紹介者「詩人回廊」伊藤昭一

カテゴリー:季刊・遠近

2014年7月 2日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 会員から自作品の「作品紹介」でない「文芸評論を書いてみないか」と言われて実施している。同人雑誌作品を文学として評論することが少ないのだ、と感じた。たしかに、文集的な書き物も文芸として掲載されている。それらは生活文章としての価値ををもつ。日本人の歴史的な識字率の高さのもたらす優れた文化である。それがいわゆる文学と同じなのか、異なるのか。その違いを検証している最中での紹介文である。
【「雛人形」宇梶紀夫】
 宇梶氏は「農民文学賞」受賞作家で、農民文学では有数の作家であろう。今年の季刊「農民文学」304号では、「鶏頂山開拓物語」を執筆している。これは鬼怒川温泉からやや離れた土地の開拓民の苦労する姿を、リアリズムで描いたもの。今では農民の時代小説、歴史小説と見て良いであろう。「雛人形」も鬼怒川沿いの農民の生活を現代の姿で描く。手法はリアリズム。作者はその現実を提示して、農民の心情を映す。詩人の谷川雁は、日本人の民族的ルーツは農民であるのに、労働運動は農民をプロレタリアととしての同胞にしなかったことを活動の停滞の原因のひとつにしている。ここでは農民プロレタリア文学がいまだ存在していることを示している。農民の心情だけでなく、村社会の構造についてもっと触れたら、現代性が増したように思う。
【「雨ぞ降る」国府正昭】
 これは、いわゆる無差別殺人のような殺人者の視点と、何も知らずに被害を受ける生徒と関連する教師たちに視点を移動させて描く。文学的意欲作で、最終章で犯人の一人称に変わり、「罪深き『私』にこそ雨がふるのだ」と思う。雨が罪を洗い流すとする。実存的な小説である。多くの文学作品には天候の情景が設定された場合、それは状況説明に暗喩としての意味をもたせ、効果を重層させるのがほとんど。ただ同人誌には、それがほとんなく、「雨がふれば、たた雨が降ったけで他の意味がない」という定義をしようと思ったが、そうでない事例もあることがわかった。
【「鉛の棒」遠藤昭巳】
 東日本大震災の現状の視察記である。報告者の気分が「めまい」がで表現されている。作者は同誌に「哀歌」という心優しい詩を発表してにる。災害地のレポートにはジャーナリストの胸を突くようなものが多くある。形にとらわれずに、詩でもなんでも投入したらどうなんだろう、というのが感想である。
発行所=511?0284三重県いなべ市大安町梅戸2321?1。
紹介者「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:海(いなべ市)

2014年8月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カテゴリ

最近のコメント