2014年5月アーカイブ

2014年5月25日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「夕凪エレジー」和田ヒロミ】
 中編小説1編だけが掲載されている。個人誌である。主人公の凪子(定年5年前に教師を早期退職)の母の八重は、八十歳を超えて、20分ほどのところで独り暮らしをしている。母親は娘の連絡が減ったのが不満で電話をしてくる。
 電話で物語が始まるこの出だしは、文芸作品には多い。それがミステリーなどの娯楽小説でないかぎり、そのほとんどが相当つまらない。この小説も、夫の定年退職、母と娘の関係、凪子の実父と義父の話など、下町の井戸端会議で噂の元になりそうな過去を交えた話が続く。もしかしたら自分史的な生活物語なのか、と思いながら辛抱して読む気になった。
 ただ道筋にそって揺れのない文脈の筆力で、相当の文章歴があるのは、わかる。それで、凪子と母親がどのような影響を与え合ったかが、訥々と語られる。凪子は母親を慰安するためにふたりで旅行に行く、旅行先で漁港を観光寄り道見物のつもりが、思わぬ天候悪化に見舞われ、母と娘が共にそこで人生の終末に入ることを予感させて終わる。
 読了して、娘の視点による母親の人生の追求するこの話が、たしかに文学作品であることを確認できるのである。文学にはこうして忍耐をして読まねばならないようなところがある。作品は、肉親が如何なる人生をたどったか、だけにしか言及がない。徹底して人間の肉親関係、家族の基本構造から離れないところに特性がある。絆の密度の濃さは現代では失われたものである。
 構成面では、まず先に母と娘が漁港付近で凍死していることを語ってしまう方法あるのかも。その方が、効率よく話が進んだような気がする。最後のオチがあるという安心感が良く働く場合もあるが、その反対に、語りに甘さが出るという、欠点もあるような気がした。隠し玉のようにしないで、ネタを明かして、その後をどう読ますか読者との勝負をかける気合いがここでは欠けている。それが残念。題名にエレジーとあるが、現代からするとこれほど密着した母と娘の人生は、心の孤独な時代の今、羨ましいほど。「母親と娘の長い幸福な生涯」的な味わいがある。文学というのは、感動すればよいというものだけではないと思うのだ。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

投稿者:北大井卓午

【「れんぎょう坂の家」花島真樹子】
一読して、いい構成の作品と思った。最初と終わりに「主婦」を使ったのがいい。主婦の家庭を出すことにより、この住宅地が見えてくる。家の前を通過する自動車の描写でこの主婦の運転技術が分かる。
園山百合子が主人公なのだが、主婦の目から見た園山家と現実の園山家の違いは、多くの住宅地に住む人たちの現実といっていいだろう。
百合子の娘かおりの神経症、神経症の家族会の竹沢美津子、その娘の加代の病気は最近多くの家庭で抱える問題だろう。もちろん病状の軽重はあるが・・・。この題材はどこにでもある題材だ。しかし、園山由利子と竹沢美津子の子供に対する考えは全く違う。竹沢美津子は娘にどんなことがあっても生きて欲しいと願い、園山由利子は、娘の病気が治り、社会復帰ができることをねっがっている。これは私たち多くの人たちの気持ちかも知れない。
子供をできるだけ偏差値が高い学校に入れようとする親、社会に出ればITなどを使いこなさない人は一人前に扱われない、効率中心の企業、こういった社会なので、50年ぐらい前に比べれと神経障害をもっているひとはものすごく増えているように思う。
この作品はこういった私たちの身の回りにたくさんある題材を上手く使い、素晴らしい作品に仕上げたと思う。この作者はいろいろな作品を書くがどれも題材がいつも違い、それを上手く使う才能には感心する。

【随筆「意想軒鈴慕」八重垣渡)】
読み始めてこの作品は作者の文学論かと思った。引用文があるが、どこからどこまでが引用で、地の文章(作者の考え)の文章か分かりにくかった。「ですます調」の文章が地の文章かと思ったがそうでもない。白川静、二宮清純、なかにし礼、田中優子、田中美代子の著作が出るが、引用した文が、作者が共感したものかどうかもはっきりしない。私にとっては理解しにくい作品だ。

【「旅は人生なんて」逆井三三】
目次では随筆に分類されているが、私には小説と思えた。久保田先生はこの作品を小説といってもうなずいたと思う。
作者が25年勤続の賞として貰った旅行券を使って3泊4日の京都旅行をする話だ。作者の人生観、現代人に生き方、などしっかり観察し、それを旅行の中で考えたりしている。靴下の話など私も経験がある。通夜に行きまさか靴を脱ぐようなことはないと思っていたら、通夜ぶるまいの席は和室だったのだ。どこを読んでも作者の人生観が滲み出ており、素晴らしい作品である。これからもこういった作品も書いて欲しい。

【「ちんだーれ」谷本多美子】
大原多佳は津山もと子から誘われて「韓国湖スペルツアー」参加する。ツアーには初めて会う平野さき子も一緒だ。ツアーの中心人物は小山みな子らしい。みな子は多佳が聴講生として通う神学校の卒業生で、神学校の母体のキリスト協会の伝道師だ。なお、リーダーは、今井先生で他に今井先生の教会の大学生が一緒に関西空港から来るという。他にまこと、みのる、つよしなど同行者の名前が作品に紹介されている。しかし、もと子、みな子、さき子、まことなど同行者は作品の中では何の役割もない。名前が出るだけだ。
多佳は仁川空港に到着までの間、今井先生から事前に渡された10枚ほどの印刷物に目を通す。印刷物は「・・・日本がいう『一視同仁』の本音の部分は朝鮮を全く隷属させ、・・・彼らの人権、尊厳、国権などすべてを踏みにじるものだった」と視点で書かれている。多佳には韓国籍の同級生もおり、また、韓国人と結婚した女性も知っている。彼らの生活は食べるのもやっとという状態だった。作品の中には韓国人が理不尽な虐待を受けたことが、今井先生のレポートとして史実形式で列挙され、それと併せて多佳の回想が続く。韓国人であるということで残虐な仕打ちを受けた状況がリアルに書き込まれている。最後の部分は、多佳が隣家の青年に犯されそうになったこと、その青年に対する憎しみが消えないこと、たった1人の人間に対する憎しみでさえ背負うことが苦痛なのだから、多くの人間(日本人)に蹂躙された人は誰を怨めばいいのかという締めくくり方で終わっている。
作品はにはいわゆる自虐史観には立っていないという感じの書き出しだが、私は、自虐史観を正当付ける形に誘導するような作品と思った。こういった残虐さは確かに許されるものではないが、日韓併合条約による大韓帝国の併合そのものは、我が国の歴史の汚点のように決めつける史観には疑問を感ぜざるを得ない。

【「花魁そりゃちっとそでなかろうぜ 私流――カブキとブンラクの怪説」の木よしみ】
歌舞伎も文楽も全く知らない私だが、この作品を読む前に「仏果を得ず」(三浦しをん、双葉文庫)を読み、文楽の世界を垣間見た感じになっていた。大阪市は文楽協会に助成金を出さないといっていたようだが、10月3日のTV報道では本年度は助成金を継続するように決めたらしい。
この作品は文楽に割いているページが少なくちょっと残念だ。文楽は、歌舞伎と異なり非世襲制の世界を前提に、「伝統芸能文楽をまもり、名人上手に近づく努力をして欲しい」と書いている。私も1回文楽を観ようと思っている。

【「赤いママチャリ」幾田弘二)】
作者自身のことを小説として纏めた作品として読んだ。作者に対し厳しい感想となるがご容赦願いたい。この作品は作者の実体験が殆どと考えられるので、私の感想に対して作者は相当不快感をもたれると思うが、これは私の読後感なので仕方がないだろう。このような小説は、主人公が作者そのものである場合もあるので、主人公に対する批判は、作者そのものに対する批判になるかも知れないが、いったん活字とした以上は仕方がないことと思っていただきたい。
主人公の総一と美也子の結婚生活、この結婚生活に振り回される総一と美也子の肉親の話である。長い作品だが内容は、総一と美也子の壮絶な結婚生活、総一の母親を苦しめる美也子の態度が嫌になるぐらい書かれているだけといっていい。読んでいて不快になるぐらいだ。
総一はどういうつもりで結婚したのだろうか。結婚する前に美也子を好きになれないと書いているなら、結婚しなければいいのではないか。ところが、再就職先で独身会長といわれるようになり、結婚を焦っていた、新婚旅行のキャンセル料が高くなっていた、社内報にも載ってしまった、新婚旅行から帰った成田で実家に帰ろうとしたら美也子に反対された、妊娠が分かった段階で籍を入れたなど、外部要因で結婚し、籍を入れたといった感じにしている。
この作品を読むと美也子の性格の悪い部分が、これでもか、これでもかというぐらい書かれている。美也子にはいい部分は全くなかったのだろうか。それならばなぜ結婚をしたのかが分からない。切迫流産のことがあるので、夫婦間のセックスはあったと思うが、美也子の悪口をこれだけ書くと、セックスなど考えられない状況と思ってしまう。
何事にも決断ができな優柔不断な総一、母親の脳梗塞など悪いことはすべて責任逃れのため美也子に押し付ける総一、といった男として許しがたい男性が見えてくる。総一の親族には離婚した人がいないから離婚はできないとも書いている。離婚の決断をするのは、誰のためなのだろうか。
最後に優子という女性(現在の妻)が出てくるが、美也子を悪者に仕上げるためにいい性格の女性として書いたとしか思えない。全体として、総一の結婚観、家族観、夫婦とは何か、離婚とは何かが書かれていない。
作者はペンネームを変えたようだが、この作品のためだけなのか、今後ずうっとこのペンネームを使うのだろうか。この作品のためだけならば、本音は美也子にこの作品を読んで貰いたくないということではないか。

【「ぺサハの祭」難波田節子】
わが国内の港区高輪にあるレストランで毎年開催される「ペサハの祭」の招待されその経験を書いたもので、私もいろいろなことを教えられた。14の式の流れを1から分かり易く書いている。そればかりではなく、式の中での小さな所作まで記しており、分かり易い。私がインターネットで読んだ解説には「ところでセデルの中での象徴的な儀式の一部ですので、実際に食べるまで長い儀式が続くので空腹を覚えます」とあった。この長さでは当然かもしれない。
最後に作者は、2時間ぐらいと言われてきた来た祭りだが、帰るときは最終のバスが気になるほど夜が更けていたと書いている。
3000年以上のも昔の出来事を忠実に守っているところに、ユダヤ人の芯を見たように私は思った。

カテゴリー:季刊・遠近

投稿者:北大井卓午

【「父の背」谷本多美子】
自ら希望して心臓にペースメーカーを入れる手術をし、発熱などで入院が長引いて3か月にもなる父親を、彩子が、病院に見舞いに行き、父親の背中を撫でるところからストーリーは始まる。彩子が主人公である。手馴れた文章で読みやすい。父は、婿養子で妻と折り合いが悪く、彩子(高3)と妹の加奈子(中1)を妻のところに置いたまま、1人で家を出て行き、50年もの間、1人で暮らしていた。父親が住んでいたところは彩子の家から高速で2時間、彩子の生家は東日本大震災の原発事故があったところから10キロ、といった記述はあるが、どの辺りかイメージが湧かない。彩子は、父親の退院後は特別養護老人ホームに入れることを考えているが、それまでは自分で面倒を見ることにし、退院の日に車で迎えにいく。彩子のアパートは2LKだが1部屋を父親にあてがう。半年後に特別養護老人ホームに父親を入れることができた。こういったストーリーに中で彩子は自分と父親との関係、父親が会津の部隊にいたときのこと、敗戦でシベリアに抑留された後復員したころの父親との関係など、回想的に書いている。また、従兄の弘道のことも断片的に書いている。
この作品を読み終えて感じたことは、書き出しからいろいろな伏線らしきものがあるが、結果的には、それらが何のために書いたのかよく分からなかった。両親の不仲、祖父の苦労といったものが羅列されているが、これらが彩子の人生に与えた影響などは読み取れない。彩子はどのような生き方をしてきたのか、加奈子や母はどうなったのか、50年間の父との心の交流の有無などが分からない。作品の中では「・・・とにかく父の犠牲にはなりたくないし、なるべきではない。・・・」(6頁上段)とあるが、最後は面倒を見ることになる。作者が何を書きたかったかよく分からなかった。
作者は自分が介護した父親を書こうとしたのであれば、もう少し自分にも父親にも踏み込んで書かなければ、読者から見ると、中途半端で物足らない。この作品の中では弘道の役割がよく分からない。弘道の部分は不要ではないか。

【「女友達」難波田節子】
悠子は夫の文雄を脳梗塞で失う。3度目の発作で、文雄は41歳だった。文雄が最初の発作で倒れたとき小学生だった息子の明は中学生になっている。東側の道路を隔てた家の吉川さんは、文雄と同級生の典江の母親で、典江が中学生の時に夫と離婚している。典江は、大学卒業後商事会社に勤務し、今はロサンゼルス支店勤務だ。悠子は文雄がなくなってから明と自分の生活のために近くのスーパーで働いている。

文雄は小学校のころからいろいろな場面で典江の面倒をみているが、典江とは結婚しなかった。同じクラスの美穂が好きだったからだという。美穂は典江の親友であるが、頭がよく、大学の医学部に進学するが、中退して、大学病院に勤務する医師と結婚する。背の高い美人だ。
典江は、小柄な自分の体形に合った洋服などを買い求めるために日本に帰り、1週間ほどこちらにいるらしい。その間に、典江は美穂を連れて悠子の家を訪ねるという。美穂はかって文雄が好きだった女性である。文雄が元気なころ、典江は自分の家のようにこの家に来ていた。義母もそれを好んでいた感じだ。
典江と美穂が悠子の家に来て、典江と美穂は文雄についていろいろお喋りをする。悠子にとって初めて聞く話のほうが多い。文雄は典江や美穂についてあまり喋らなかった。いままで美穂の話は、文雄から聞くというよりも、典江の母親である吉川さんに聞くことのほうが多かった。悠子は悠子なりに、文雄は高卒で就職したので美穂は高嶺の花で、文雄とバランスが取れた自分を選んだぐらいに思っていた。また、悠子はそのことが不満でもなかった。いろいろお喋りをして2人が帰って何日かたって、アメリカに帰るという前日の深夜に典江が訪ねてくる。美穂と喧嘩別れしてきたという。美穂はどんな男にも好かれるが、人を愛せない人間で、表面的には親しくしているが、典江は以前から美穂が嫌いだった理由などを早口で悠子にぶちまけた。
悠子、典江、美穂、吉川さん、明、義母、スーパーの店長など登場人物は作品の中でそれぞれの役割を持ち、性格もうまくかき分けられており、完成した作品といえる。私が友人に季刊遠近を送ると、真っ先に読むのはこの作者の作品だという。彼はこの作者の作品は安心して読めるという。しかし、である。作品から受けるインパクトといったものがあまりないのだ。何日かすると、内容が思い出せないのである。短い作品でも心にいつまでも残るものもある。作者のそんな作品が読みたい。

【「夢にきませ」花島真樹子】
最近この作品ほど考えさせられたものはない。この作品に出てくる状況は、メディアで報告されているように現実にあることだからである。テレビドラマなどでは、この作品のように誘拐された少女が見つからなくて終わるということにはできない。暗すぎるからだ。
由美は小学校の5年生、クラスメートの玉枝と午後6時に秋祭りの会場である鎧神社で会う約束をしていた。由美が夕食を摂って出ようとすると、妹のちとせが一緒に行きたいという。母親も連れていきなさいと強くいう。玉枝との約束時間に遅れているので急ごうとするが、ちとせは足が悪いので少し遅れがちになる。待ち合わせ場所には玉枝はいなかった。ちとせに、煎餅を買って与え、動くなといって、玉枝を探しに行く。その間にちとせはいなくなってしまった。いくら探してもいない。数年後父親は胃ガンで亡くなり、母親との間は不信感が横たわり、由美は高校生なのにタバコを隠れて吸うようになる。母親は、青葉たまきという易者のところに通い始める。
その後由美は、日比谷公園に近いところの会社に勤め、不思議な経験をする。
作品のストーリーは、ちとせがいなくなる場面、父親、母親、由美の心の中など不自然さがなく、うまくまとめている。作品そのものは素晴らしい。作品が素晴らしいということもあってか、いつまでも心に残り、いろいろなことを考えさせられてしまった。現実の社会には、このような事件が数え上げればきりがないほどある。拉致事件の横田めぐみさんも、このような状態といっていい。母親、父親、直接の原因を作った人などの思いはいろいろあろう。誰にも責任がない場合もある。こういった現実にある残酷で深刻な問題を作品にすることの難しさにも思いがいった。本当にいろいろ考えてしまった。

【「後妻さんと小姑(2)」河村陽子】
桃子(86歳)、桃子の兄雅也(90数歳)、妻マリ子(後妻で雅也より30歳ほど年下)の3人の話を、桃子とマリ子とのファックスのやり取りを中心に纏めている。雅也が脳梗塞で倒れ、リハビリも良かったのか元気ななる。ファックスのやり取りで、Aクリニック、Kリハビリセンターの関係などが分かる仕組みになっており、いい構成だ。雅也が認知症になりかかっているとマリ子のファックス書いてあり、桃子の家系の年齢をすべて挙げてそんなことはありえないとムキになるところに、後妻さんと小姑の確執のようなものが見えて面白い。
桃子から見ると、マリ子の雅也に対する尽くし方が足りないと不満に思っていることもよく描かれている。雅也自身は、延命治療はしないでくれとマリ子にいっており、桃子も承知している筈だ。作品の中で、マリ子が「・・・これでいいでしょ?」というと「勿論よ、・・・」といっているが、行間に不満が見える感じだ。
これからこういう老後を取り上げた作品は多く活字になると思うが、この作品のような視点で取り上げるものは多くないのではないか。後妻と小姑の関係がこの年齢になってもこんなに凄いものということを初めて知った。読者の立場では、マリ子は十分尽くしたのだから解放してもいいのではないかと思ってしまう。こんなことを書くと作者はトンデモナイというような気がする。(作者へ、ゴメンナサイ。)

【「蓬莱坂に散る櫻」欅館弘二】
この作品は前号(季刊遠近第44号)の「どんどん橋」続編とみた。前号の際も作者が作品(どんどん橋)で何を描こうとしたのかよく分からないと書いた。今回も全く同じだ。もっと焦点を絞って、「仁戸田六三郎と酒」といった題にして、「利佳」を舞台に葉子、原田、麦彦のことを書くとよかったのではないかと思う。長い作品だが、物語の中に入りにくい作品、つまり感情移入ができない作品だった。作者は自分史のつもりで書いたのであれば、それはそれでいい。

【「火さまざま」結城周】
作者の火以外の部分にも、いろいろな薀蓄がほとばしっている感じだ。「祖母と火」では作者の生い立ちが書かれており、火は付け足しの感があるが、「宗教と火」、「叡山の夜」では色々と勉強になった。「お七地蔵尊」は面白く読めた。「銃・火・水」はカダフィー大佐から書き始め、自分の経験を書いたのもいい。

【「サンゾー書評」逆井三三】
「サンゾー書評」は季刊遠近に毎号載る。番号を付けたらいいのではないか。調べてみたら、第5号から「ヤブニラミ四半期評」が始まり、第16号まで11回、「サンゾー四半期評」が3回(第17号?19号)、「サンゾー書評」が22回(第20号~45号、途中に欠番あり)と36回も続いている。独特の筆法で、私は好きな書評だ。同人誌の書評を読む読者は、対象となった同人誌をほとんど読むことができない。しかし、サンゾー書評を読むと同人誌は読まなくとも、作者がどのように書いており、小説としてどうなのかということがなんとなく分かる。作者は送られた同人誌は全部読み、サンゾー書評にそのすべてを載せているといっている。書評を書くことの大変さは、私自身季刊遠近に載った作品についての感想を出来るだけ文章として残すようにしているが、決して楽ではない。厳しいいい方だが、何を書いているのかわからないような作品を読むときはウンザリする。ところがサンゾー書評は、すべて淡々と書いている。本当に凄い。

カテゴリー:季刊・遠近

<2014年 5月19日付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

 季刊遠近52号の合評会は5月10日でしたが、ちょっと体調を崩し、私のエッセー「高齢者にはいつ何があるかわからない」も合評対象になっていたのに、題名通りの事態になり出席できませんでした。しかし、私の読後感はすでに作成していましたので、ここに載せます。

【「湖畔の街への旅」花島真樹子】
 主人公である「私」は旅行社が企画する「美しきアルプス湖畔の街々とアヌシーへの旅」に1人で参加する。アヌシーは夫の死後2年過ぎたころ、ジュネーブに住む早川レイコに誘われていったことがあり、思い入れがあるからである。ストーリーは早川レイコに誘われていった時の思い出と、今回の旅を重ねるように流れる。今回の旅ではもう1人の友人でスイス在住のヨーコ・デュランに会うことになっている。更にレイコ、ヨーコ、「私」の3人でアヌシーで会う。レイコは娘のユキのことで、またヨーコは夫のフレデリックのことで問題を抱え、生きている。小説というより紀行文と考えた方がいいかもしれない。レイコやヨーコの生きざま、旅先の情景をしっかり書き込んでいる。
 気になるのは、インペリアルパレスホテルアヌシーに関する記述である。「絢爛豪華」「万事が万事たじろぐほどの華麗さ」「このホテルの派手派手しさ」といった記述に違和感を感じたので、インターネットで調べてみた。271名の口コミの評判、いろいろな投稿者の67枚の写真を見てみたが、この記述のようなものはなかった。ただ、「部屋はベーシックで時代遅れ」「ベッドは擦り切れていた」(評価は☆2つ)と書いている人がいるぐらいである。殆ど最近の投稿である。「分厚い札束をポケットに」というホテルと書いているが、インターネットではアヌシーの45軒のホテルの中で21位とあり、高額なホテルとは思えない。

【「失われた家」森重良子】
 この作者の作品は初めてだ。原稿用紙80枚ほどの力作である。
 主人公晶子とその母が祖父と父の墓参に行くところから始まる。晶子の父、母、祖父、祖母、祖母の弟の娘(千鶴子)更には晶子の母など家系的な部分が書き込まれているが、読む者のとっては記憶しにくい部分が多い。
 ストーリーそのものは晶子と祖父が中心に書かれており、複雑ではない。晶子が祖父に可愛がられたこと、その祖父の最後をみ取れなかったことによる自責のの念に苛まれることがメインとなっている。このストーリーを支える挿話として、祖父が千鶴子と晶子を養女としたこと、遺産相続での千鶴子の思惑、晶子の海外留学などがあり、そのほか祖父の再婚、白坂という郵便局員の話もある。
 情景描写はうまいと思う。代襲相続の描き方も分かり易い。晶子が祖父の養女になったのは晶子の申し出とあるが、養女になったからといって祖父に対する思いが強まるわけでもないので、むしろ、祖父が相続のことを考慮して晶子を養女にしたという設定にした方が良かったのではないか。蛙が家をの周りを鳴きながら回ったという挿話は面白い。
 80枚という大作であるが、やや、ごちゃごちゃしていてインパクトはないと思った。また、冗漫な感じもした。祖父がどんな人物かよく見えない。祖父の今までの生きざまを近所の人たちの話などから浮き上がらせ、その祖父が晶子を溺愛したこと、晶子はそれが嬉しかったといった設定にした方が良かったのではないか。
 作者の次の作品を期待したい。

【「兄の恋人」難波田節子】
 筆力とストーリーの運びがうまいので一気に読んだ。
 柾子(私)、母、父、兄大介、村山彦次、兄の恋人岡部晴美が主な登場人物である。それぞれの性格がうまく描かれており、作品としての完成度は高い。一見ありふれた作品に見えるが、このような作品を簡単に書くことができる能力は評価に値する。柾子が村山彦次に好意を抱いている形で終わっているのもいい。ただ、父について、女は母だけしか知らなかったろうと書いている(56頁下段)が、未婚で男を知らない(作品ではそのように読める。)柾子の考えることだろうか。また、病室の枕の上の名札に年齢(65頁下段)は書かないのではないか。

【「サンゾー書評」逆井三三】
 「季刊遠近第51号読後感」で、サンゾー書評の在り方などについて私の考えを述べたので、ここでは繰り返さない。今回は「サンゾー書評」そのものの読後感を書く。
 本号では「海峡派」については、第124号、125号、126号の3号を取り上げている。全ての号の作品を1つひとつ取り上げ、手を抜かずに丁寧に書いている。第124号の都満州美の「異国の教師達」の中で「小説としてはドラマが欲しいね。でなければ、情報とか。」と書いている。作者(逆井三三)のいうとおりだと思う。私はどんな作品でも間違えた情報を載せていると、もうそれだけで小説としては失格と考えてしまう。
 作者(逆井三三)が取り上げた「海峡派」の作品には連載物もあり、坂本梧郎の作品はまだ続くかもしれないが3作について触れ、作者なりの感想を書いている。面白く読めた。多くの作品を載せている都満州美、伊藤幸雄、さとうゆきのの作品も理解できた。希望を言えば、この3号(124号、125号、126号)を1つに纏めて、作者ごとにコメントなり、読後感を書いて欲しかった。
「21せいき」については第17号と第19号を取り上げている。この2号は1人の作者(吉岡孝信)の作品しか載っていない。吉岡孝信の作品はいつの時代か分からないが村の習俗を題材にしているらしい。作者(逆井三三)はこの2作を評価していない。少なくとも私もこのような小説は評価しないだろう。ここに載っているものがフィクションであるにしても、読者に与えるものは何もないように思うからだ。
「第7期九州文学」は、第16号、第18号、第21号の3号について書いている。この3号に載っている作品数は38作品である。作者(逆井三三)はこの33作品を細部まで読み、それについて手を抜かずにコメントしている。凄いエネルギーとしかいいようがない。なぜならば、作者(逆井三三)が一応評価したのは、?「よく書けている」(「時を生きる」、とくなが朝子)、?「よくできている」(「二つの道」、木村咲)、?「とりあえず私は楽しめた」(「ヒーヒー族の伝説」、木島丈雄)、?「小説としてはうまくできている」(「深山霧島を見ずや」、おおくぼ糸)、?「うまく描けている」(「出立」、由比和子)の5作品だけで、他は読むのが苦痛という感じなのだ。読むのが苦痛のようなつまらない作品をここまでよく読んでくれる人はいない。私自身も同人誌に載る多くのつまらない作品は1頁ぐらい読んで、あとは読まないことにしている。面白くない作品、得るところがない作品を読むほど不愉快ななことはないからだ。「サンゾー書評」は頼まないのに書くといった同人誌があるようだが、むしろつまらない作品を読んで貰い、感謝すべきではないかと思う。

 ところで「文芸同人誌案内」というサイトがある。インターネットの検索窓に入力すればすぐにヒットする。同人誌仲間では有名なサイトだ。このサイトに行くと、連携ウエブとして「デジタル文学館」「小説・書くひと=読むひと・ネット」などがあり、同人誌のいろいろな情報を得ることができる。サイトの管理人でもある「ひわき」氏は、2014年3月8日にそのサイトに次のように書いているので、紹介する。
 ごく個人的な意見ですが、私は「サンゾー書評」(逆井三三筆)を、好意を持って拝読しています。私には、自分ができないことを行う人を崇拝する傾向があります。送られてくる多くの同人誌作品に目を通して文章にするだけで、ただもう「すごいなあ」と思っています。
 末尾の「独特のいい切り」もこの書評の特徴ですが、そこに悪意や高飛車なものは感じません。拙作について「佐野との不倫が気に食わない」とありますが、「なるほど。誰でもが思い付きそうで意外性がないということかしら」と想像を巡らしたくらいで悪い気はしませんでした。末尾のアルファベットも私なりの想像を楽しんでいます。
 感想はごく個人的なものですから評価が分かれるのは当然ですし、「このように読んだ方もおられる」ということでいいのではないでしょうか。読んでくれた人がいるというだけで、ありがたいです。
 みなさんで費用を分担し発行している同人誌ですから、同人の方がたの意見が優先されるのは当然です。でも私は続けてほしいと願っています。

カテゴリー:季刊・遠近

「北狄」366号(青森市)

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2014年5月 9日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

本誌は創刊60週年で、366号というからよくも続けたものである。この間に、どれだけの商業文芸誌が刊行され姿を消したか? に思いを馳せると非商業の文誌同人誌の役割の重さを感じる。
【「長春物語」笹田隆志】
 2010年に中国・吉林師範大学に日本語会話と文章の講義に良一が滞在した四ヶ月のレポートである。中国といっても広い。全体把握は無理で、こうした地域的な交流報告は、国民的相互情報交流に役立つと思う。日本と中国は、反日、領土問題、安倍首相の靖国参拝で国がギグシャクしているが、国家と諸国民とは同じでない。国家は権力、利権のために、まず国民の一番弱いところを犠牲にする。どの国であろうと、国益のための戦争は諸国民の利益にならない。メディアのよる国家の報道の煽情の意図に乗らないためにも、こうしたレポートは意義がある。
【詩編「月に沈む(二)」倉谷ひろたか】
 東日本大震災が直接的な題材となって、宮沢賢治の世界とも連結させて、現実の重みを受け止めながら、それをイメージ力ではねかえそうという、読み応えのあるものになっている。リフレインと行替え、飛躍性など詩ではあるが、全体的には、散文詩に近い。このように詩と散文の枠を超えた作品は、昔からあるが、現代ではもっと多くても良いように思う。
 発行所=青森市安田近野435-16、北狄社。
紹介者「詩人回廊」北一郎

カテゴリー:北狄

「初めての法學」?(東京)

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2014年5月 4日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は2013年11月の第17回「文学フリマ」(東京流通センター)で販売されたものである。ぜひ紹介したいと思いながら、5月の18回「文学フリマ」の時期になってしまった。これは法政大学もの書き同盟と國學院大學文藝部の合同企画出版である。大学生たちの同人誌なのだ。
【「他人事」猫乃りんな】
 おれという若者の語りで、アルバイト仲間のテツオとの交際の姿を描く。テツオはすべてのことにケチをつける。それに対しおれは、同調をしたふりをしながら、内心では冷ややかに彼をみている。それというのも「テツオは高卒のフリーターで、おれは大学の二年生だった。奴はおれより二つ年上だが年齢にそぐわない老けようをしていた。(中略)どこからも生気が感じられない。一目で人生の敗北者とわかる顔つきだった。つまりおれとは正反対の人間だ」と思っているからだ。
 そしてテツオが臆病なくせに、他人を見下してあたかも自分が優越しているような言動を、仲間にそれとなくあげつらって笑いの種にしているおれなのだ。その後も、お互いに相手の立場を自分の立場の優越性を示す出来事としてしか考えない人間関係が描かれていく。テツオの演技的な自己優越性を誇示する言動に共感はない。しかしうわべだけは友人であるのだ。おれの仲間たちは、そのような関係しか出来ていないことを暗示する。テツオについて、その虚勢の姿勢や言動をおれは陰で仲間伝えて揶揄する。それも仲間に自分の優越性を誇示するためだ。テツオは、通り魔事件が起きたりすると、犯人に同調した心境を語る。実際にナイフを持ち歩いていることがわかる。テツオは学歴コンプレックスから大学生にケチをつけている。おれは、内心でそういうテツオを軽蔑する。テツオはその態度の悪さから、店に来た客に殴られるのをおれは冷やかに傍観する。テツオはおれに「他人事だと思いやがって、いつかお前だって」という。
 テツオは、おれの眼の前から姿を消す。おれは卒業して就職をする。そして、ある時、おれはテツオが惨めな姿でいるのを町でみかけて、仲間と彼を嘲笑する。テツオはナイフをかざして、おれを刺しに襲う。しかし、寸前で仲間が阻止してくれ、助けられる。おれは「これツイッターでながそうか」とかいう。仲間が、なにを言っているのだ、お前はいま殺されかけたのだぞ、という。しかし、おれは、自分の身の上にそんなことが起こるわけがない、と思うのだ。
 ここには作者の現代社会への違和感が表現されている。自己中心のジコチュウからタニンゴトへの微妙な変化。我々は水族館の厚い壁のむこうの魚をみて、リアルに思っているが、現実には存在する世界が異なるのだ。絆や連帯の強調される社会になったのは、それがもう存在しないからなのではないか、など考えるヒントを与えてくれる。文学と同時に哲学でもあるので、いまだに手元に置いている。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

2014年6月

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