2011年2月アーカイブ

 酒井俊樹さんによる月刊の個人誌で、連載2篇と読み切り1篇が掲載されている。
【「冬の風鈴」】
 この個人誌を「創めるに当たって、今一度自分の原風景に立ち返り、その全貌を眺め直してみようかと思い立った。」とあり、生まれ育った吉田山が出発点。通り過ぎてしまったけれど、ふと浮かんでくる情景や出来事が丁寧に描かれている。
【「紅い絨毯」】
 小説というより詩の方が近いように思う。少女の一生が語られ、ひとつのイメージが破綻なく覆っている。
【「庵の煙」】
 導入は具体的だが、そこから連なる作者の思考に踏み入って語られている。既存の物にとらわれない自由な書き方だと思った。

カテゴリー:

【「宿り木」平野潤子】
 冒頭ゆったりした優しい手触りで、作品世界へ読者をいざなう。しかし教授が登場するあたりから説明的で、感じるより言葉を理論的にたどるような読み方になってしまった。急ぎすぎているような気がした。
【「峠」福島弘子】
 第二次世界大戦中の一家を、家長である庄太郎の視点で描いている。4歳の初孫を背負い籠に入れて帰る場面や、嫁に行った娘への気遣いなど庄太郎の穏やかで実直な人柄が滲み出ている。特別な事が起こるわけではないが、いろいろな出来事を受け止めながら淡淡と生きる様に共感した。

カテゴリー:時空

<2011年2月11日(金)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:「クレーン」和田伸一郎>

【「泉」飛田一歩】
仲のよい親娘の家に婿入りした夫は、疎外感に襲われ家を出て行く。その妻である主人公は、まだ出産間もない。とつぜんがんに侵され死の間際にいる父のもとめに応じて、病床にいる父に乳首を差し出した。やや芝居がかった設定だが、不思議な透明感がある情景だ。

カテゴリー:湧水

<2011年2月11日(金)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:「クレーン」和田伸一郎>

【「三月のメリーゴーランド」玉置伸在】
勤めていた会社に辞表を出し、のんびり過ごすはずだった「三十二歳の誕生日を迎える私」が、「自分でも驚くほどの不調に嵌り込んだ」。「本当に怖いのは、空白だ」という言葉が象徴になって物語は進んでいく。人物の存在感は希薄で、「オシラサマ」というイメージだけが先行する。
かつて文芸評論家の磯田光一が論じたように「イメージが現実を代行するような神話のシステムが、いまやいどむべき現実としてあらわれる。」(『左翼がサヨクになるとき』)ということなのだろうか。そしてこれらの作品は「実在よりも象徴によって人が動かされる」時代の反映ということなのだろう。

カテゴリー:カプリチオ

「素粒」8号(富山県)

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<2011年 2月10日(木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:「クレーン」和田伸一郎>

【「ゆるやかな悪意」若栗清子】
幼なじみがある日から離れていき、別なコ?スを歩んでいくのだが、お互いの意識がからみあい、激しく憎みあうようになる。
この「ゆるやかな悪意」の象徴するものは、全生活を被ってくる。ストーリーテーラーとしての力を感じさせる作品だ。ただし、「一日は一枚のティッシュペーパーより軽く」といった通俗的な比喩は避けたほうがいい。

カテゴリー:素粒

<2011年 2月 8日(火)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載。投稿者:kitaohi>

【「同級生」難波田節子】
 電車や高速道路から流れるように見える住宅団地、日常見馴れている団地などは私の目には無機質な、単なる景色の一つにしか見えない。しかし、実際はそこには住む人たちの、人数分のドラマがあるのだ。この作品はそのことを私に気付かせてくれた。誰もが見馴れている住宅団地を題材にし、簡単にこのような作品を作ってしまう作者の才能にいつも感心させられてしまう。

 敏子夫妻は、かって敏子が住んでいた町に妻を亡くし、一人になった父親の面倒を見るため戻ることになった。とはいっても住宅は、敏子が家を出てから15年ぐらい過ぎた頃、近くにできた高速道路の騒音に耐えかねて古い住宅を処分して500戸ほどの団地の一角を購入したもので、土地もあまり広くなく、家も小さな木造の家である。夫婦二人だけの生活では十分だろうが、父親と敏子夫婦が住むにはやはり狭い。家を増築することになり、団地の入り口に事務所を開いている株式会社小山建設に頼むことにした。小山建設は長男の健一が継いでいるが、健一は敏子の同級生である。敏子を今でもトンコと呼ぶ。健一は成績がよく大学の建築科に進み、モダンな事務所を建て、事務所の中にはたくさん机が並んでいるので、順調な経営の様子が伺える。

 道路を隔てた小山建設の向いにある牛島石材の牛島賢治も同級生で、敏子はギューちゃんと呼んでいるが、同級生は健一をヤマケン、賢治をギューケンと呼んでいた。賢治は健一と違い、勉強が嫌いで喧嘩ばかりしていた。賢治は、高校時代にぐれて家を出てしまったが、敏子が町を離れてから戻ってきたという。戻ってきた時、大きなお腹を抱えた美代子という女を連れて来たが、賢治自身右手の薬指もなかった。賢治はどうしてか敏子だけには意地悪をしなかった。

 敏子の母親が賢治に庭造りを頼んでから、敏子は賢治と親しくなる。その賢治は、敏子の母親の葬儀の後、入院し、1ヶ月ぐらいで亡くなってしまったと、健一が話してくれた。賢治が亡くなったことを知り、花束を持って賢治の家を訪ねる。来意を告げると、美代子は、敏子を家に入れ、すぐに鍵をかけてしまう。美代子が一人で住んでいるようだが、その理由は、賢治がかって付き合った女がいろいろな人を使って脅しにくるからだという。敏子は、賢治が美代子以外にも付き合って女がいることについてはうすうす感じていた。

 3ヶ月ほどで敏子の家の増築が終わったので、健一の事務所に御礼の挨拶に行き、向かいの牛島家を見ると雨戸はぴったりと閉まっている。訊くと美代子が夜逃げをしたのだという。借金が多く、家を処分しても半分にも満たなかったらしい。美代子は、姑と息子を先に送り出し、自分の夜逃げの準備をしっかりとしていたのかもしれない。賢治は、背中に龍の刺青をしていたため医者にいけなかったという。その為に手遅れになったらしい。敏子は賢治について知らなかったことをいろいろ健一から聞く。

読み終えていろいろな人の生き方を考えさせられた。

カテゴリー:季刊・遠近

<2011年 2月 8日(火)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載。kitaohiさんの書き込みです。>

【「雨のオクターブ・サンデー」難波田節子】文学界第第64巻第11号
「河」第155号に掲載されたこの作品は、2010年下半期同人雑誌優秀作として文学界に転載された。

 この作品を読んでまず最初に感じたのは、作者の非凡な才能である。作品の場面を日本に置き換えて読むと目新しいことは何もなく、どこにでもある話といっていい。人間の進歩、発展は作者が取り上げたようなことの集積の結果なのだ。日本の匠の世界、芸術の世界、農業の世界等々、いたるところにある。日本ばかりではない。世界中にある筈だ。作者の凄いのは、ある意味ではどこにでもある話を、イギリスを場面にし、オルガン演奏の世界の奥行きの深さを取り入れ、うまく描いたことである。

 主人公の香織は東京の音大にでピアノを勉強し、卒業後ホルンを吹いていた男と同棲するが、性格が合わず別れる。2年後ロンドンの音大に入るが、コンクールなどなどでは結果を出せず焦っているときに遭った楽天家の男と同棲をする。しかし、このような生活は香織の感性を奪ってしまうと感じ、その男から離れ、ロンドンから1時間以上もかかるこの町に移住する。この町住もうと決めたのは、ピアノを持ち込め、家賃が安いからだった。が、ピアノは、普通の住宅地では外に音が漏れるので消音にするなど気を遣わなければならない。そんなときにパイプオルガンにであい、近くのセント・フランシス教会で自由に弾かせて貰うことができるようになる。この教会でトマス・ハウエルと会う。香織が弾くパイプオルガンを毎日聞いてくれる老人だが、無口で話をすることがなかった。ある日、香織の演奏にちょっとしたヒントを与えてくれた。そのヒントで見違えるほど曲が端正になった。その後、時どき会話をするようになる。トマスから貰ったブライアン(イギリスの五指に入るオルガン奏者)のS席のチケットで演奏会を聴く。演奏が素晴らしかったことをトマスに報告すると、「ああいう演奏ができるようになれ」という。

 トマスが膵臓癌で亡くなってから、トマスはブライアンのライプツィッヒ時代の大先輩でとても尊敬していたということなど、トマスの過去を知ることになる。そればかりではない。トマスは、娘スーザンとはしっくりいっていなかったこと、スーザンには自閉症の子供と神経症の夫がいることなどを知る。トマスはスーザンに「お前には息子が2人与えられたのだと思って頑張れ」という遺言を書いていた。


 音楽の世界は、私には全く分からない。が、楽器などの演奏の技などを師が弟子などに伝える方法ははいろいろあろうが、作品のような教え方もよく理解できる。パイプオルガンの世界やイギリスの習俗などうまく取り入れた素晴らしい作品と思う。

カテゴリー:

2011年 2月 5日(土)付、「文芸同人誌案内」http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/douindexF.htm掲示板より転載いたします。

投稿者:クレーン」和田伸一郎
「コミュニティとしての同人誌」
 掲載されている「行事予定表」を見ると、驚くことに年間4回継続的に発行し、そのつど編集会議、合評会が開かれてきたらしい。内容は、身辺的な短いエッセイを中心に30名ほどが投稿している。ここでは、まず、参加することに意義があるといった精神がうかがわれる。
 身近なコミュニティが崩壊し、インターネット上のコミュニティが盛んになってきた現在、ひとつのコミュニティとしての同人誌の役割が大きな意義を持ってきたと感じさせるものだ。
 『習志野ペン』のような同人誌の存在が、これからの新たな同人誌の大きな流れになっていくのではないか、そんな予感を感じさせられた。

カテゴリー:習志野ペン

「カム」vol.7

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カム」誌vol.7掲載作について、私のブログ記事を書いたので、転載します。


【走れ】うえのそら初

じつは、しばらく前に読んでいたのだけれど、時間を置いたのは、手許に本がなかったから。
面白く読んで、記事にしたいとずっと思っていた。


この小説の面白さは、なんといっても、タイトルのとおり、ひたすら走る「ボク」の、その運動のなかにいつづけること。

 さっき、玄関で「こんな遅くにどこに行くの? 誰かから呼ばれたの?」と母さんに言われた。
 けれど、ボクはそれを無視して、今、家の外にいる。コンクリートの道路のところどころに街灯や家の明かりが落ちていて、その上をボクは走っているのだ。春なのにまだ冷たい風を、頬に感じる。

この運動が、終始一貫して、この小説のなかにはある。
私たち(読者)は、まず、なぜ「ボク」は走っているのか? という謎にさらされている。「まず」とは書いたが、それこそがこの小説のすべてだと言ってしまってもよい。
どうやらそれは、カナと健太という名の友人にかかわるらしい。
畢竟、ボクは、その幼馴染カナと健太と過ごしてきた時間を回想することになるのだが、その流れは流麗だ。
 
言葉が頭の中に浮かんで、その頭の後ろにむずがゆいような気持ち悪さを感じる。その感触は首を通って、肺や胃のあたりまで降りてきそうだ。
――放っておこうよ。カナと健太の勝手にすればいい。あんな電話、無視すればいい。なんでボクが付き合わなければ――
 感触と一緒に降りてくる言葉。ボクはそれに反論しようとする。だまれ、と口に出そうとして「だ......」、途中で詰まってしまった。
 喉の奥に丸い何かがあった。卵くらいの大きさで、もっと硬くて、冷たい何か。いや、そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない。なのに、こいつは時々ボクの中に現れるのだ。ボクは喉を右手で握りしめる。
親指と人差し指の間に当たるのは、喉仏。昔はなかったもの。
 その違いは、ボク自身の昔を思い出させる。ボクがもっと小さくて、カナや健太と一緒にいた時を。

周囲との違和感を感じるその触覚的な「感触」が、最近できた喉仏につながり、その自身の変化が変化以前へ意識を連れていくその連絡は、だけど、もちろんカナと健太とボクの記憶でもあるからに違いない。
さらに、読み終えてから、ここを見るならば、第二次性徴という自身の変化が、自身の変化ではなく、自分を取り巻く世界の変化としてとらえてしまうことで、周囲、世界と乖離した自分に、居場所を失ったカナと健太だったのだと、ボクはそれを「そんなものなんてないはず。本当にあったら生きていけない」と気づいているボクなのだと、その差異に思い至る。
それだけではない。ボクが思い出すのは、カナと健太とボクがいつもかけっこをしていた記憶なのだ。
 ボクたちが一番よくした遊びは、「かけっこ」。
 かけっこといっても、ここからあそこまでと決めて競争するわけじゃない。一番前を走るものが自由に未知を決めて走る。 二番目と三番目が一番目を追う。一番目が抜かれるか、気が済んで立ち止まるかするまで、ずっと。それがボクたちのかけっこだ。
 ボクが一番前になることはめったにない。二人ともボクより背が高くて、足もずっと早かったから。
 ボクは、「かぁんちゃーん、けんちゃーん」叫びながら、二人の背中を追いかける。
 カナが先頭を走る時は、たいてい近所の公園、その周りを何度か回ったり、公園の中に入ったりする。だけれど、健太が先頭の時は、全然知らない場所に行くことが多かった。人の多い交差点やどこかの家のコンクリートを、越えたりして。
新しい道を行くうちに、ボクは二人から離れてしまう。健太の坊主頭が見えなくなり、カナが着ていた白い半袖シャツの背中も遠くなる。ボクは追いかけ続けようとするのだけれど、つまずいて転ぶ。そうでなければ、道を歩く人にぶつかる。立ち止まって、ひぃひぃ息を吐く。蝶や初めて見る店の看板、ガチャガチャの機械、そんなものたちに気をとられるそれで、健太もカナも見失ってしまう。

こうして、記憶の中でも、運動は持続される。私たち(読者)も、絶えず走り続けることになるのだ。

さて、では自分が変わることが世界の変化であり、その違和感に苛まれる存在はどうだったろうか? 健太の違和感には、母の死というきっかけがあった。対してカナの違和感はいかがだったろう? それが女性の変化と、それを見極められない男である「ボク」の認識力なのだったろうか? あるいは、性差というよりも、性差を意識しはじめてしまった「ボク」? そのあたりをもっと明確にしないと、カナの世界に対する違和感が、健太との相対性のゆえにも、曖昧すぎた気がする。
いや、「ボク」という語り手にとって明確にならないそれは、私たち(読者)にも明確になり得ない。そう、だれより「ボク」が、カナの異常に曖昧だったのだ。
そうした曖昧さは、じつは健太に対しても、感じていたはずだ。

これは難しい。
思春期の世界との違和感を描くように見えて、じつは、他者の変化に対する「ボク」の違和感だったのかもしれない。「ボク」は、カナのこと、そして健太のことを理解できない。その悔しさは、かけっこで彼らに追いつけずに泣いていた「ボク」の弱さでもあるだろう。

 ――馬鹿野郎、畜生、ごめん、ボクも連れてって。しなないで、ゆるさない、ばか、何考えてるんだ、どうして、説明しやがれ、くそ、待って、このおっ――

そう簡単ではない。
じつは、私たち(読者)は騙されたままだ。すくなくとも、私は騙されていた。
もしかしたら騙されたのは、単に私のお間抜けでしかないかもしれない。タイトルを見れば、それは明らかだったのだ、ともいえる。「ボク」は走ってなどいなかったのだ。
上に書き出した直前に下がある。

 そして、今、ボクは家の外に立っている。
 口の中では、まだ丸い何かが存在している。
 ボクは喉に人差し指と親指を突っ込む。指先が喉から垂れ下がった肉に触れる。イメージの中で、丸いものを掴み。指を一気に引き抜いた。

今、ようやく「ボク」は、ふたりのところへ向かって走り出そうとしている。

カテゴリー:カム

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