2011年1月アーカイブ

「相模文芸」21号(神奈川県)

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2011年1月30日(日)付、「文芸同人誌案内」http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/douindexF.htm掲示板より、「クレーン」和田伸一郎さんの書き込みを転載いたします。

【「ゲン」林光子】
これはサスペンスドラマみたいな筋立てだ。恋する人を妻子ある男に奪われ、その恋する人が出産し、その赤子を子供のできない正妻に奪われ、その後その人は事故死した。主人公塚原舷はそれを自殺と察し、復讐を決意する。舷が管理を任されている別荘に、車がスリップし、池に落ちたという男が現れた。その男こそ、復讐の相手だった......。
古臭いドラマの印象から、つぎつぎと展開していく話に、だんだん引き込まれていった。
ややもすれば通俗に陥りそうなのだが、かろうじて支えているのは、作者の善意を信じる気持の強さだろう。ただし、細部の表現にもう少し気を使ってもらいたかった。

カテゴリー:相模文芸

「クレーン」32号(群馬県)

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2011年 1月23日(日)付、「文芸同人誌案内」http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/douindexF.htm掲示板より転載いたします。

「クレーン」和田伸一郎氏投稿
【「2010年のホノルル」田中伸一】
 ハワイ出身の日系三世を妻にもつ主人公。妻とその親族の目を通したハワイと、私たち多くの日本人の持つハワイ観とのズレがこの作品に息吹を与えている。ハワイの歴史についての解説的な部分も、それほどわざとらしくなく、入ってくる。
 太平洋戦争開戦時における真珠湾攻撃、戦後は、観光資源、それにミュージックやダンスとしてのハワイアンぐらいしか知らなかった私はその苦難の歴史に啓蒙された。
 もうひとつのテーマである親の介護の問題。制度としてのアメリカの介護と日本との違い、どちらも共通する家族の負担。それらがごく自然に語られている。
 どこの国でもあるにちがいない介護の問題を、国際的な視点でとらえてみるというのも意義のあることのようにおもえた。

カテゴリー:クレーン

「狐火」15号(埼玉県)

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2011年 1月23日(日)付、「文芸同人誌案内」http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/douindexF.htm掲示板より転載いたします。

「クレーン」和田伸一郎氏の書き込み
【「畑の果実はだれのもの」相川さやこ】
この作品は、軽妙な語り口で深刻に陥りそうな題材を笑いの世界へと引きあげてくれる。現在の同人誌に多い、定年後の夫婦の話である。
「一部上場会社の労務部長まで勤めたことが、唯一の自負で、なにかを管理しなくては生きていけない習性になってしまった」夫を妻が巧みにコントロールしていく物語だ。
それは、古典落語を聴いているような味わいがある。同人誌で、時にこうした楽しい小説に出会うのもいいものだとおもった。

カテゴリー:狐火

「群系」26号(東京都)

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2011年 1月16日(日)付、「文芸同人誌案内」http://www.geocities.jp/hiwaki1/doujin/douindexF.htm掲示板より、「クレーン」和田伸一郎さんの書き込みを転載いたします。

【特集「大逆事件と文学」はチームによる労作】
この特集は、10名の書き手が各ポジションで論考し、それがハーモニーとなって、百年前の1910年の世相を見事にあぶりだしている。大逆事件は、文明開化を経たばかりの日本の近代の浅さを象徴する事件だった。
朝日新聞の校正係だった石川啄木、それに欧米留学体験を持つ森鴎外、夏目漱石、永井荷風がこの事件をどのように受けとめ表現したかは、興味深い。あるいは、若き佐藤春夫がこの事件からショックを受け、どのように思考したかまで詳細な資料から論考されている。
あえていえば、思想面での論考も入れてもらいたかった。国民ではなく、あえて「臣民」として民衆を教化してきた明治政府の、「民は由らしむべし、知らしむべからず」の論理が資本主義によって崩壊し、大衆ナショナリズムが勃興してきて勢いを増してきた時期だからだ。

カテゴリー:群系

「R&W」第9号(愛知県)

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2011年1月10日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は朝日カルチャーセンター「短編小説を読む・書」(藤田充伯講師)の受講者が中心となって編集されている。
【「さだめ」改田龍男】
 公社に勤めていた主人公、公一は60歳定年の4年前に主夫業に転業すると周囲に伝えて退職する。15歳下の妻は教員をしているため、それで生活できるのである。そこから公一のそれまでの人生、過去の女性関係が描かれ、主夫業のなかで若い妻と愛情を深める。やがて公一は心臓を悪くし、常時ニトログリセリンを持つようになる。ある寒い日、外出して妻の車をまっている間に心臓発作を起こし意識を失う。死への旅路らしい。短いが人生の一部を描いてその全体の意義を感じさせる。きっちり要所が締められているので、短編ながらもののあわれを誘う長編的な味がある。
 作者自身が書きながら人生の意味を噛みしめているような筆の運びで、そのために書いているという、書く表現に対する意義を感じさせる。
【「人形細工師小吉」霧関忍】
 人形師の作る人形が人間のように命をもって生きるという設定が、自然に受け入れられるよう書いてある。変な味のライトノベル的SF的小説。小説のあり方の多彩になったと感じる。
発行所=〒480?113愛知郡長久手町長湫上井堀82?1、渡辺方。

カテゴリー:R&W

2011年1月 9日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本号には、筑紫亮「奪われる」50枚、石川テイ子「古印最中」7枚、小松三枝子「風のまぎれに」62枚、矢田山聖子「盧舎那大仏の不思議」(第二章)27枚、萩照子「萩・或る町にて」がある。
【筑紫亮「奪われる」筑紫亮】
 韓国に行った老いた日本人が、そこで心臓発作を起して入院する話。内容は日本の歴史的な支配をした時代が、今にまだ影を落とし屈折した心情を描く。民衆の交流のなかでのその過去にこだわる話は、書き残すことに意義がある。
【「風のまぎれに」小松三枝子】
 母親の面倒を見ること、昼の仕事、夜の飲み屋、ブンガクに関わって生きる女性の話。女性の生活感覚で、ブンガク活動する女性関係やライフスタイルが描かれている。親の状態から、ブンガクに入るきっかけにった女性像、そこで知り合う男性との関係。話の流れがところにより大きく変わり、書き込みにもムラがあるが、その分、細部に面白さがある。

カテゴリー:視点

『まくた』269号

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文芸同人誌案内掲示板和田伸一郎氏の書き込みを転載します。


マジワル」 中絵馬

 勤務暦15年以上という国際線の客室乗務員「ナオ」の疲れと不安が、この作品全体を被っている。
 妻子のある「木島」との情事が語られているのだが、それは幻覚にも似た頼りなさがつきまとう。例えば次のように、「ナオのなかで一瞬黄色い空の空想が広がり、黄色い空から出た糸にひかれていくように、木島の腕にもたれかかっていった。」
 その木島に今の仕事が「積み重ねにならない仕事」だとして転職を勧められ、40歳を前にしたナオはますます動揺する。ライターとしての木島の自信にひかれ、「望んでいたのはこれだったと思いながら、ナオもまた自分のやり場のない、どうしようもない思いを、木島の体にひとつずつ刻みつけていく。」しかしそれは、ナオの孤独がどこまでも癒されないものと暗示しているようなものだ。
 かつて華やかだった国際線の客室乗務員という仕事が、年齢を重ねるごとに肉体的にハードなわずらわしい仕事に転化していき、重荷と感じられてくる。その悲哀感が、男との性交渉を通じてよく描出されている。そしてそれは、同年代の都会の独身女性の孤独にまで通じていそうだ。

カテゴリー:まくた

『風の森』14号

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文芸同人誌案内掲示板和田伸一郎氏の書き込みを転載します。

林檎の傷」遠矢徹彦

 重度身体障害者施設の在園者と職員、そして「青年時代にふとしたことから飛びこむことになった障害者運動を率いて、役所の官僚どもにこの施設を強引に造らせた」園長との人間関係が背景にある。それは、いささかパロディー化されて描かれている。
 元改革者であり、現在権力者である園長が、無頼的な在園者に対して秩序を乱すものとして園内の広報紙に「檄書」と題する一文を掲載した。自分への面当てだといっていた在園者スギオカの葬儀に、赤子を抱いたチャーミングな女性が現れる。
 語り手である、園の職員である「木戸」は、多くを語ろうとしない。多弁にならないよう、控えながら語っている。この木戸の微妙な立ち位置が、物語の不安定さに寄与し、この作品の輪郭をとらえにくくさせている。そして結局は、だからどうなんだという、欲求不満を読者は抱くことになる。木戸はもっと積極的に憤りを語るべきだと私は思う。

カテゴリー:風の森

                Lydwine.さんの読書ブログ「片隅の読書」より転載


デジタル文学館に新たに掲載された作品が面白くて、PDF(1、2)を画面で一気に読んで、さらに印刷してふたたび読んでしまった。
「繋(ケイ)」という同人誌の第4号に掲載された作品との由。

タイトルは「百花繚乱 呵呵大笑」、作者は佐久間慶子さん。

あいにくと、私は「繋」誌やその作者さんも、かつてしらない。吹田市で発行している同人誌だそうだ。

「百花繚乱 呵呵大笑」だが、まずその文体が個性的だ。
往々にして、読み易さや、ちゃんとした日本語、文章という意識にとらわれて、個性を失いがちのなかで、個性を出すという冒険は、なかなか度胸を要するが、ここで、佐久間さんは、佐久間さんの文体としての個性というより、語りのスタイルを用いることで、語り手の個性にしている。

 あたしたちは、うみみとそらら、十三、四歳というところだね、といわれる一卵性双生児の一部始終のそっくりさん。

この書き出しが、すでにして、なんだこれ? と思わせる。
捨て子だったふたりは、たしかな年齢がわからないから、拾われたときに「というところだね」と言われ、以来、年齢を言うときは、「というところだね」と言い続けるのが、うみみ、あるいはうみみとそららのふたりだ。さらに、娼館に拾われて育ったふたりは、どうやらことに四字熟語を丹念に教えたらしい「学術担当」のユリリの影響か、いちいち四字熟語を持ち出す癖がある。ユリリの「常連上客」には作家のブライハがいて、この男の書く小説のタイトルが、「残夢消滅」であったり「恋慕腐乱」であったり、創作四字熟語なのだから、その影響かもしれない。ブライハ、これはもちろん無頼派だろう。

さて、彼女たちが拾われたのは1949年でありそれから十年がたったといい、場所は墨東だという。これほど明確に時空を明確にしている。だが、そこで描かれている物語は、荒唐無稽だ。
1949年の4月3日、双子が拾われたその日に、社交クラブ百花繚乱は開店したが、それから十年の間に、百花繚乱は、分館のようなビルをその周囲に巡らせて肥大していき、百花歓楽を形成する。そして、双子をはじめここに現われる人間たちは、そこを世界として生きている。巨大な歓楽街に過ぎないならば、その外が存在し、客たちとはそうした外界から訪れる者たちであるはずだが、それがまったく見えない。百花歓楽はすでにひとつの街になっており、そこにはすでになんでもあるから、そこで生活する者たちがある。
ブライハがよい例だ。彼はユリリのもとにい続ける。

そして、語りのスタイルは、段落も侵食してしまう。段落の終わりさえが、読点で結ばれるのだ。それは、口語にありがちの、語尾を結ばないまま、延々とつながっていく、文節としてはつながりながら、文章としては成立しないような語りだ。

 双子姉妹のあたしたちは、父親も母親も知らないし、なまえの由来だって知らない。正確な年齢だって知らなくて、社交クラブ百花繚乱に拾ってもらうまえのことは、記憶喪失なんだけど、
 あたしには生れたときから隣りにそららの感触があって、そららにはあたしの感触、それだけはいつだってあって、あたしたちはお互いの感触がなかったら、喜怒哀楽あふれる疾風怒涛の年月に耐えられなかった。これからだってそうだ。

この小説には、十年の時間が書かれている。いや、語られている。39Pほどだから、100枚を超えるとは思うが、150枚には達するまい。その間に、開店した娼館が、ひとつの世界にまで発展していく。
このとき、双子を拾った百花繚乱の中心物といわれるトミママの在りようが、この物語のなかで、主人公は双子ではなく、百花歓楽と呼ばれる街そのものであることを象徴的に体現している。
百花繚乱が、イチおじさんの手腕で巨大化し、百花繚乱をはみ出していき、すると、百花繚乱の主であるはずのトミママの力が及ばないところにまで成長する。と同時に、トミママの身体は甘いものの過剰摂取で肥大化していく。肥大化した身体は、外出さえ許さなくなる。

 百花繚乱のまわりにはすごーい数の細長ビルがくっつくように群れ建って、百三九花、百四〇花、百四一花、と百花繚乱をお臍みたいにまんなかにして、道路をはさみ、どぶ川をわたって、
 気がつくと、細長ビルにはさまれた道路には、ビルとビルとに支えられるようにして、道路の幅のビルが建ち、どうせ百花歓楽のお客さんしか通らない道だから苦情はないし、どぶ川は下水管にして風呂や洗面所、洗濯場、炊事場の入った専用ビルをつくって、もちろん有料、百花歓楽は自己増殖をつづけた。

百花繚乱は百花歓楽の臍だというのだし、百花繚乱の中心人物といえばトミママだった。そして、トミママは、百花繚乱にいつづける。

 トミママは眠るとき以外は食べつづけ、太って、太って、豊満体形、百花歓楽が百五三花、百五四花、百五五花......と、とめどなく規模拡大していくのに、一蓮托生。

イチおじさんがその街を支配していながら、トミママと百花歓楽は一蓮托生だという。トミママ=百花歓楽に違いない。

だが、そのトミママも、やがて百花繚乱を出ることを余儀なくされる。百花歓楽で働くお姉さんのために、百花繚乱という中心を離れるのだ。それなら、いよいよ百花繚乱に隣り合う百一花に事務所を構えるイチおじさんこそ、百花歓楽の支配者かというと、そうではない。なぜなら、お姉さんたちは、かつてなくトミママを神のようにも慕って、詣でてくるありさまなのだし、なにより、イチおじさんは百花繚乱に入りはしない。
それはなにを意味しているだろう? 百花繚乱という場、中心の喪失だ。この街には、中心がなくなったのだ。
それでも、トミママは詣での対象になる。さらに仔細に見れば、イチおじさんもまた、若いモンたちの憧れの対象となっているという。
そうなると、ここでもまた、精神医学的な分析がしたくなってしまう。最後には、百花繚乱という場の中心を離れながら神となったトミママは、その身体の中心部分(女性器)を信仰の対象にしてしまうのだ。歓楽街のことなら、それもまたむべなるかな、という気はするけれど、外縁部にある中心と、さらにお神輿のようにも街を練り歩く自由の女神像というのは、あまりにも象徴的に過ぎたきらいはある。
と考えると、双子の存在の、語り部としての在りようも、物足りなさを覚える。いや語り手に終始することなく、動き回り、出来事に立ち会う、十分に物語りに機能しているのだが、それなら、うみみとそららという双子であることはどうだっただろう、と考えたとき、首が傾げる。前半部には、相対化されたふたりがあったが、しだいに、うみみの語り、いや語りというよりはそのときの心情を補足する存在としてのそららだったように思える。ひとつの出来事にたいし、異なる感情があること、そのための双子という装置だったように思えるのだ。それなら、ひとりでも十分だったのではないかというのが、正直なところだ。

とはいえ、細部の、その街の在りよう、それぞれの存在、創造的な小説に出会えて、とても楽しかった。その文章だけでも、十分に楽しめる。

ブライハの存在といい、幼くして娼館で育つ美しい少女の話といえば、まず私の記憶のなかで、ブルック・シールズのデビュー作、ルイ・マルの監督になる「プリティ・ベビー」が浮かんだ。だが、それが墨東の話といえば、やはり永井荷風を思い出すし、ブライハといわれれば、無頼派を連想もする。楽しい小説というのは、往々にして、過去に楽しんだ小説や映画などを思い出させる。


                               「片隅の読書

カテゴリー:

2011年1月 6日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本号はコミックあり、ライトノベルあり、時流エンターあり、純文学、詩的散文ありで、作品カラーの似てしまう同人雑誌にはめずらしく多彩である。
【「覆水盆に帰る」虎鮫龍】
 大相撲部屋の力士の生活が詳しく描かれている。嵐灘部屋の鞍馬山という力士が主人公で、最近話題の大麻、賭博事件を背景に、面白い物語が展開する。リアルさと荒唐無稽さを同居させて読者を楽しませる。芸能興業のイロモノのアイディアが風刺的に取り入れられ(キワドイところもあるが)、まさに現代の風俗的な今だけの話の趣向が小気味良い。エンターティナー精神にあふれた作風で即興的な才気を感じる。題材を生かして、アイディアをどんどん出して書くという精神が印象に残った。

カテゴリー:サロン・ド・マロリーナ

「銀座線」第16号(東京都)

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kitaohiさんの感想を転載します。HP「文芸同人誌案内」掲示板2011年 1月 3日(月)書き込みより。

【「朝のこない夜」石原恵子】
 読み始めて最初に感じたのは、筆力の高い作者だということである。

 主人公の「私」(作品に出ているデータから、50歳前後、青柳さと子)の家族をを書いた作品である。母(晴子、主人公の「私」の年齢から推定すると70歳は越えている。)、父(母の姉と同い年とあるので、73、4歳だろう。)、私の弟慎次(36歳)を中心にした家族が、アルコール依存症の父に振り回される様子がとてもよく書かれている。父は、学生時代から家からの仕送りをほとんど飲んでしまうほどの酒飲みで、母親家族の借家に顔を出すうちに、すでに新聞社の事務員として働いていた母結ばれる。

 父は結婚してからも十数社も会社を変わるがうまくいかず、田舎の財産を処分し30半ばで編集プロダクションを立ち上げる。編集プロダクションでの失敗談、詐欺にあう話などが、たくさんエピソード風に紹介されている。そのプロダクションを畳んだのは去年である。

 父と生活していた母はアルコール依存症の父と医学でいう共依存の関係になり、鬱や不安感に襲われる適応障害のため、病院の精神科に入院する。入院するまでの母は何故か入院するということを慎次や父にいえない。担当医の三井医師はアルコール依存症の父を一緒に入院させて治療をさせたいと考えているが、父はアルコール依存症特有の虚言壁をうまく使い、アルコール依存症ではないと言い張る。精神科への入院は本人の同意がないと入院させられない。

「朝のない夜」という題名通り、救いがないのが気にかかる。父の悪い部分のみのエピソードが書かれているが、いい部分がほとんど書かれていない。父は金銭感覚がないにもかかわらず、家族が金銭的に苦労する部分はほとんどない。一つひとつのエピソードはとてもリアルに書かれており、感心しながら読んだ。とはいっても、小説であるので、父が現金の流入路を絶たれてから、こっそり断酒について書かれた本を入手し、読み始めたといった終わり方でもいい。救いは父がいなくなることと、いったような終わり方は気になる。ただ、このような家庭は最近増えているようにも聞く。そうであればあるほど、小説らしく人生の否定につながらないようにして欲しかった。

 ところで、私の周りにも多くのアルコール依存症やその前期の人たちがいた。彼らは殆ど短命だった。73、4歳まで現役として事務所を経営するなど、考えられない。多くのエピソードが書かれており、アルコール依存症の虚言癖の話など、私を含め多くの人が経験していることで、とてもリアルで、いろいろなことを思い出してしまった。

 ただ、金銭感覚のほとんどない感じのアルコール依存症の人物が、七十数歳まで現役として事務所を経営していたということについては、私個人としては実感が湧かない。

カテゴリー:銀座線

今号は、すばらしいことに、「新鋭創作特集」の5作が掲載されている。40歳代が1人、4人が19歳から30歳までの人たちです。
作品の内容も若い感覚で、しかも読み応えがあります。今後の活躍も大いに期待できます

新鋭創作特集
裸婦の絵 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・濱松伸作
優秀で何をとっても私より造詣が深い大学の友人、佐藤の部屋には、裸婦の絵が飾ってあった。ある日、一人で佐藤の部屋で待っているとき、大学ノートに少年の記憶」と題する手記を悪いと思いつつ読んだ。手記は、いじめられていた少年、体と心を病んだ母、家のことを引き受ける姉、不義の父など、佐藤自身のことと思われる内容だった。それ以来、佐藤とは疎遠になっている。
佐藤が不義の父の血も自分に流れていることを持て余す苦い感情が、手記を通してよく伝わった。また、佐藤を窺い知ったにもかかわらず、佐藤の理解者とはならなかった私の心情も懐かしさを伴って伝わってくる。

正常の倒立 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田井英祐
幼いときに両親を精神異常者に殺された十代後半の青年は、二重人格か何かにより精神病院に入院している。青年は自我を喪失し、今ではほぼA博士そのものになっている。病院で、凶悪犯であるW公爵と正常と異常をひっくり返すという革命を起こそうとする。それも副院長と看護師を殺し、二人の人肉を食べるという行為によって。
正常と異常の境界について、そもそも境界などあるのか、考えさせられる。また、人を殺し、食べるという異常を極めている行為の是非を超えた精神世界の知識や想像も個性的で、今後の作品も楽しみだ。

地蔵の絆 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・林由佳莉
祖母は近くの地蔵様の掃除を毎日していた。そんなことをして何の得になるのか、と和子は思うことがあったが、地蔵様に手作りのよだれかけを毎日取り替える人もいることに背中を押され、祖母が亡くなった後、掃除を引き継ぐ。ある日、よだれかけを作っている本人が、小学6年の少年と知る。祖母に教わった折り紙を少年の妹に教えることに。
地蔵様を通じて、人とのめぐり合わせがあり、意味のなさそうなことも続けることの大事さや、どこかで誰かに影響を与えているかもしれないという灯がともるような作品。和子や叔父の心に変化があらわれるラストもいい。

臭う檸檬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森田高志
健一は父と車に乗っていて、老婆を渡らせようと止まることで、老婆は後続のトラックにひかれて死んだ。その罪悪感で健一は予備校に一年行けなくなる。その間に、電車で会う紳士との交流があったり、父は父なりに罪の償いをしていることを知る。一年かけて、ようやく老婆のところにお参りに行けた。
罪悪感から来るいろいろな神経症や、心が回復していく過程で、「檸檬」やにんにくの臭いなどのこだわりが論理的に解きほぐされていくところなど、よく描かれている。

蜜柑 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黒瀬章
食べるためにデータ入力の仕事をする私の前の机の男性が、入社二週間目に死んだ。管理者の爺さんは、男性の机の上に蜜柑を置いた。それからまもなく、家の近くで遊んだこともある受験生がガス自殺した。重なる死に、私は自分の死を想像し、遺書を書く。その後、四十台の女性に恋をし、死んだ男性の机の上に置かれたまま萎びかかった蜜柑を女性に差し出す。その蜜柑を拒否され、恋が終る。
行き場をなくした蜜柑は、死んだ男性であり、恋に破れた私であろう。蜜柑を題材に生や死を捉える視点が興味深い。

               ブログ「海峡派」より転載

カテゴリー:九州文学

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