大層ひさしぶりに、読了に漕ぎつけた小説が、「銀座線」15号の大トリをつとめている石原惠子さんの「秋の陽は林檎のかおり」だ。
しかし、なにぶんにも読了がひさしぶりなら、読書の記事も書いていなかったので、さっぱりその書き方を見失っている。はたして、読書の記事と言えるような記事が書けるのか、はなはだ不安であり、そんなときにネタにされてしまった石原さんもいい迷惑だろう。あらかじめ陳謝しておこう。ごめんなさい。
さて、この小説を簡単に要約してしてしまうなら、修(しゅう)と暮らす「わたし」が28年も昔に同棲していた哲(さとる)との生活をたびたび夢に見るようになり、やがてその夢が、現実と地続きになる物語だ。
このとき、「わたし」は修に逐一その夢を語るが、修はそれをただ夢のこととして、なんということもなく聞き流し、気にとめるでもない。かといって、修が「わたし」にたいする愛情が希薄になっているというわけではなく、「わたし」も気恥ずかしくなるような科白を平然と、そして何度となく口にしている。
そして、ついには、修は夢と地続きの場所、かつて「わたし」が哲と暮らしていた、そして、そこに今も昔のままに暮らしている哲が長編小説ばかりを読んでいるアパートへ、同道すらするのだ。
そう、哲は長編小説ばかりを好んで読んでいる。夢のなかの今、すなわち語られつつある場では、プルーストに続いて「竜馬がゆく」、さらには「宮本武蔵」(吉川英治? 司馬遼太郎? 長編というなら吉川英治だね)を読んでいる。かたや「わたし」は長編小説を苦手とし、短篇小説ばかりを読んでいるというが、例えば、今なにを読んでいるかといってそれは語られない。それは、かつて小説家を志し、げんに書いてもいた「わたし」ではあっても、今では短篇小説すら読まないようでもある。だが、そうした小説の趣味を異にしながらも、ふたりは、宮沢賢治という共に好きな作家があり、なかでも「注文の多い料理店」が、ふたりの出会いを演出もしていれば、ふたりの絆のようにも、作中の科白「早くタンタアーンとやりたいものだなあ。」という科白がくり返される。
だが、その背景には、「わたし」が、リストラのあげくについたフリーライターの仕事もままならず、就職活動をはじめてみるが、やはり思うようにならないといった生活もある。こうした点の書きぶりは、なんとも上手いというか、自然な語りぶりだ。修に暇だからそんな夢を見るのだろうといわれて、就職活動をはじめることと、面接の場、そうした出来事の連続性がごく自然に語られていく。そして、出来事の連続性のなかにあればこそ、「わたし」が夢のなかに入り込むこともまた、自然な出来事足りうるのだ。
面接に失敗し、ふと思い立ってその足で新宿駅から私鉄に乗ると、哲と暮らしたアパートを訪ねるのだが、その道々の変化と変わらなさを、コロッケ屋やラーメン屋のなかに見い出していく。
アパートは昔のままだった......というより夢に現れたもの、そのままだった。一階と二階にそれぞれ四部屋のドアが並んでいる。わたしと哲が暮らしていたのは一階の左隅の部屋だ。表札は出ていないが、人が暮らしている気配が感じられる。
当たり前の話だが、別の人間がちゃんと生活しているのだ。なんだかほっとした。やっぱり夢は夢でしかない。
「あらあ、奥さん」
踵を返したわたしは、不意に背後から呼び止められた。聞き覚えのある声だった。
振り返ると、アパートの階段の上で女が手招きしている。いまどき、カーラーを巻いた髪にネットを被せていた。
「しばらく見なかったけど、どうしてたのよ」
管理人のおばさんだった。このあいだの夢の通りだった。
「アパートは昔のままだった......というより夢に現れたもの、そのままだった」というなら、夢がかならずしも昔ではないということだろう。往々にして、人間の記憶は間違いをおかす。かつて「わたし」たちが住んでいたとき、すでに築十年のアパートだったなら、すでに古びていたけれど、そのままの姿なのか、それからさらに28年を経過した姿なのか、それはわからない。管理人の佐藤さんも、「いまどき、カーラーを巻いた髪にネットを被せていた」としても、28年の年月を経た姿なのか、それとも、昔のままなのか、ここでは語られない。それはあくまで夢のなかに出てきた佐藤さんの姿なのだ。
すなわち、時間を超えているのではなく、現実と地続きの夢なのだ。境界線のない地続きの場所だ。
だが、まったくおなじというわけではない。
このあいだの夢とほぼ同じ光景だった。違うのは、中身の詰まった本棚だけだ。
だとすれば、「このあいだの夢」はやはり「わたし」の記憶に依存していたようでもある。そうなれば、「わたし」はその現実に、不審をいだくことになる。
「ところで、これは夢ですよね」
思い切って、佐藤さんに訊いてみた。
それなら、「わたし」にとって、やはりこの出来事は謎になるしかない。そして、その謎の在りようが、まさにこの小説の要だったと思える。
「よくさあ、人生をやり直せるとしたら何歳に戻りたいかって訊かれることあるだろ?」
「うん」
わたしはビールをひとくち啜り、修の目を見つめた。
「修はいくつ?」
「ぼくは戻りたい時代なんてないよ。今がいちばんいい」
「ふーん。で、どういうことなの?」
もう一度ビールを呷る。
「つまりさ、自分が戻りたい年齢っていうのは、自分がいちばん楽しかったとき、充実していたときのことなんだって。だから、そこからやり直したいってことさ」
「じゃあ修は、今がいちばん楽しいから人生をやり直さないでいいってこと?」
「そういうことになるかな」
相変わらず、気障なことをさらっと言ってくれる男だ。
その伝でいえば、二十歳のころの夢に振り回されているわたしは、あのころに戻りたいと思っているのだろうか。
なぜ、「わたし」が夢に振り回されるのか、それが問題化するのだ。だが、上の説明は、「わたし」を納得させない。
「ねえ、どうしてわたし、今になって哲に振り回されているんだろう」
「彼に対して、何か後ろめたいことがあるんだよ、きっと」
そうして、「わたし」は哲にたいする後ろめたさを見い出してしまう。見い出すことで、物語は、綺麗におさまる。すなわちここでは、謎がずらされているのだ。「振り回されている」という言葉に置き換えられているで、なぜ夢と現実が地続きであるのか、という問いは問われることがない。それだけではない。修はいうのだ。
「哲くん、瑠璃子が戻ってくるの、ずっと待ってるんじゃないのかな」
と。
それなら、それが地続きの原因だろうか? そうではない。
じつはこの小説において、もっとも面妖な人物とは、哲でも「わたし(瑠璃子)」でもなく、じつは修にほかならない。最後に彼がいう「奇跡の林檎」は、私にはわからないが、それ以上に最後の一文は、奇怪だ。
後ろめたさや、哲は待っているのだといった科白が、物語を綺麗におさめながら、じつはそうした謎解きの身振りに隠れて、なにごとかが起きている小説だ。物語を綺麗におさめることで、私たち読者はきっと騙されているに違いない。石原さん、なかなか人が悪い作者だ。
Lydwine.さんの読書雑記より転載
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