2009年12月アーカイブ

2009年12月 1日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「喫煙室」膳夫】
 今年の5月24日は、小田切秀雄の10周忌だったとある。小田切秀雄先生を囲む会があって、墓参の小田原に集まった話が記されている。墓所は北村透谷と同じ長高寺とある。世話役は田中單之さんという方で、文芸評論家の勝俣浩氏、佐賀から浦田義和氏などが参列したとも。

 私が法政大学に在籍中、経済学部であったが、友人に文学好きがいて「法政文芸」という同人誌を出しているクラブがあって、小田切教授が担当しているというので、その会合を六角校舎でやるから、顔をだしてみよう、という。その頃は、谷川徹三総長の代りに小田切教授が代理をするらしいとか、していた時季だと思う。いま思えば不気味な印象のある六角校舎に、行っては見たが、当然のことながら小田切教授は来ない。部員の話をきいても肌合いが違う。その後、学内の文学系とは交わることはなかった。
 ただ、教養学部では、長谷川四郎講師で、法学では長谷川鉱平講師であったと記憶している。この人が何故「法学」なのかよくわからなかったが、中央公論での校正ミスなどの話をよくしていた。長谷川鉱平氏といえば、
「昭和二十年――つまり戦争にともなう思想統制、言論弾圧等々特に文学を事とする者にとっては、いまわしいことばかりあった十年代の最後の一年をあと一日のこすのみとなった十二月三十日に、「近代文学」を創刊した荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本田秋五、山室静という七人の同人は、いずれも昭和初期時代における退潮期マルクス主義芸術運動の影響を濃密に受けてきた三十代の批評家で・・・」(野口冨士男「感触的昭和文壇史」文藝春秋より)これを側面から推進した人物であったようだ。
 こんなことを書くのは、たまたま埴谷雄高が農民闘争社に入って、農民運動をしていたというのを知って、小田切秀雄編・犬田卯著「日本農民文学史」(農山漁村文化協会)と照合していたが、関連が見出せないでいるところだからであった。なぜ、そんなことをするのかというと、「季刊文科」46号にある伊藤桂一「形と影」と埴谷雄高「洞窟」の比較論を書こうと思っているからである。

カテゴリー:淡路島文学

「季刊遠近」38号(東京)

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2009年12月13日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 「久保田正文著作選/文学的証言」(大正大学出版会:8,820円)が出版され、その出版記念会の様子がある。「文学界」同人誌評を長くしていたので、文芸評論家の勝俣浩氏が講演を行っている。久保田正文の住まいの近くに、文芸評論家の浜賀知彦氏が住んでいて、二人が元気な頃は、近所付き合いがあったようだ。
 たまたま、自分は浜賀さんに用事があって、訪問することがあったので、この雑誌を持って行って見せたら、「ほう」と興味をもってみていた。作品を発表している難波田節子さんの名を見つけて、「まだ、やっているんだね」と言っていた。浜賀さんの蒐集している昔の同人雑誌に彼女の作品が掲載されているから、記憶しているらしい。
 浜賀さんは、長年、京浜南部の文学活動の歴史となる同人誌を蒐集しており、戦後の労働運動の激しいさ中の同人誌や詩集を集めてある。それが「東京南部サークル雑誌集成」(不二出版、全三巻付録・別冊揃えで68,000円)となって、このほど編集復刻された。
 浜賀さんは、この貴重な原本を地元の大田区の図書館に寄贈しようとしたら、断られたそうだ。「だめだね。文化的な価値がわからない」と落胆していた。自分は「自治体の図書館は古い書籍を廃棄したりしているので、ひとつ場所に置くのは考えもの。災害などでも失われるリスクが高い。民間の個人に分散して保管したほうが良いのですよ」とかいっていたものだ。
 その資料の中には、安部公房が芥川賞を発表したあとに、同人誌に発表したばかりの詩作品の名前を抹消し、それを受け取った友人が、また安部公房と書き加えているものなど、面白いエピソードに事欠かない。
 浜賀さんは1昨年だったか、ガンの手術をして体力を落としていたが、最近は元気を取り戻している。この集成が刊行されて、ひと安心しているようだった。入院中に見舞いに行くと、そのたびバカチョンンカメラでその人の写真とっていた。その後、麻酔の影響で幻覚症状が強く出たといっていたので、記憶が信用できなかったためらしい。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

カテゴリー:季刊・遠近

科野作家23号・「水面(みなも)まで」島田震作

 水底から見上げる光のなかの一つの影、そいつが左右に揺れながら私の方へ落ちてくる。木の葉か? 否、そうではない、あれは皿だ。見込みにはどんな絵柄が描かれているか。目の前まで落ちてきて、そいつはくるりと表を見せた。皿に描かれていたのは花でもない、鳥でもない、山水でもない。手のひらで受けて、水のレンズ越しに浮き上がるものをよくよく見れば、それは一人の幼女の顔。いつか見た劉生の麗子のようでもあり、自分の娘の幼い日の顔のようでもあり、他の誰かのようでもある。知っていて知らない顔。こんな皿のなかに染め付けられてしまってかわいそうに、上へあがって自由になりたいだろうねえ、と湧いた感情のまま語りかければ、幼女の両目も瞬きほどはできるようだ。私は皿を胸に抱えると、力いっぱい水底を蹴った。どこまで上がれるのやら、水面まで到達できればいいのだが、足先が藻にでも絡まっているかのようで思うように進まない。そうして途中で息が続かずに苦しくなった。

 目覚めて残る夢の重みは好いものとはいえない。味わえば味わうほど遠い記憶のなかの一点を擦った。幼子一人すら助けることができないような、そんなもどかしい夢を見たというのも、一昨日駅前にある百貨店の地下の食品売場で、U君に似た人を見かけたからか。魚が並べられた、水族館を想像させもする硝子ケースの前にいた時、U君に似た人とすれ違った。その人は奥さんらしき人と小学生ぐらいの女の子を連れていて、ほどなくレジの方へ消えていったが、何分記憶にあるU君の顔というのは、三十年以上も前の小学生時代のものである。自分と同じぐらいの四十がらみの男が記憶のなかのU君に似ているからといって、本人である確率は低いだろう。第一彼はあの車があってからはどなくして別の小学校に転校し、さらにその後彼の家は名古屋だかに移っていったのだから、この町にいるというのもちょっと変だ。あの人はまず、U君ではないだろう。とにかく本人であろうがなかろうが、U君に関する記憶は鮮やかに呼び覚まされて、そのなかのある一日が、私の心裏を突き始めてもいた。

 少し長いが、この作品を単なる過去を描いただけの短編に終わらせないすぐれた描写があるので、書き出しのほぼ1頁分をそっくり引用した。
 最初の段落は夢の描写である。次の段落は、夢から覚めた主人公が、昨日、小学生時代の友人だったU君に似た人物を駅前百貨店で見たことを思い出す。
 それから、主人公がU君たちとテレビで放映されていた番組をまねてガッチャマンごっこをしていたことなどが語られるのだが、ある日、留守の母に代わって妹を子守していたU君を庭先でガッチャマンごっこに誘い、夢中になって遊んでいる間に妹が居なくなる。妹が出て行く姿を主人公は見てたのだったが遊びに夢中で黙っていた。
 U君の母親が帰宅して妹がいないことが判り、U君の妹は近くのK館という温泉保養施設の前庭にある池に落ちて溺死していた。
 主人公は留守を守っていたU君を無理やり遊びに引き込み、さらに妹が庭から出てゆくのを目撃しながら今日までずっと黙って来た。そのことへの呵責がずっと主人公の心の中に生きていて、冒頭の水中の夢の描写となった。
 二段組8頁の短編だが、書き出しの段落の美しい描写に魅かれて一気に読んだ。
                                  (文芸誌O・小島義徳)

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カテゴリー:科野作家

「奏」第19号・2009秋(静岡県)

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2009年12月11日 (金)付、「文芸同志会通信」より転載いたします。

【「評伝・小川国夫――第1回」勝呂奏】と、同じ作者の【「資料・小川国夫――中学校時代ノート(抄)」があり、かなりのの厚さである。小川国夫といえば、『死の棘』を書いた 島尾敏男に同人誌「青銅時代」の「アポロンの島」を認められて世にでるきかっけになった話があるが、知る人は少ないであろう。この作家に詳しい作者のようだが、根気の要る仕事である。
 中学時代の書き物の記録を読むと、瑞々しくて、クリアな文章で、才能を感じさせる。私の記憶ではその後、志賀直哉の影響を受けたようなところがあるようだが、影響を受けなければ結構もっと売れる文章を書く作家になっていたのかもしれない、と思わせるものがある。聖書の文体も意識していたのかも知れない。

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