2009年6月アーカイブ

「文芸中部」81号(東海市)

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6月27日付「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載。
(1)
【「羽化」藤澤美子】
 子どもの頃の記憶で、お手伝いさんと思っていた人が、後になって産みの母だとわかり、ママと呼んで母親だと思っていた人は産みの母の友人だとわかる。産みの母は、夫の裏切りを知り、自殺をはかるが、助けられる。しかし、意識障害がのこり、廃人のようになって自死する。子どもの視点でメルヘンタッチの語り方。そうした内情をすこしずつ展開させる。その説明には一部で、大人の視点が入る。そのつなぎ目を微妙に調整して描き、メルヘン調を貫いた描き方をしている。マイルドタッチの文章の全編に死の影がつきまとう。
 その手法は、後半の宗教的色彩を帯びさせることで、合理的であるようにも読める。宗教的な側面も文体のなかに融合させており、話の境界を曖昧模糊としている。だから良いと思う人もいれば、だから良くないと思う人もいるであろう。自分は、文体の良さから、面白く読ませてもらい、どちらでもいいような気がした。作風としてのこれからの方向性を示す出来書き方。作者自身、まだそれをどうするか、決めていないようである。出だしの12行はやや弱い。もっとメリハリをつけて、アクセントが欲しい。

【「家のかたち」堀井清】
 老いた男が、自分の息子夫妻を追い出して、他人の夫婦を自宅に住まわせる。他人との家族生活を描き、なかなか現代的なテーマの物語。主人公の本間當一の時間の中を漂うような行動ぶりが、うまく表現されて面白い。雰囲気のある文体を維持しながら、変奏曲のようにあの手、この手をつかって老境の人間の心理を描く。この作者ならではの味わいを出している。読売新聞に黒井千次が老境エッセイを連載している。それと比較しても創作的な工夫がある分、本作品のほうが、頭ひとつ分があるかもしれない。堀井氏は、「音楽を聴く」というエッセイも連載している。デジタルはメロディ音を出すかも知れないが、音楽を聴かすのに適しているかどうか、疑問に思う方なので、これも共感を持って興味深く読まさせてもらっています。

【「辛夷の家」朝岡明美】
 「枝いっぱいに白い鳥が止まっているのかと思った」。この出だしが最高にいい。日本のグローイング・アップ、成長物語。年上の上品な女性と男子学生の淡き交流。女性の美しく書けていること。その途中もいいし、終わりもいい。出だしから読み手をノックアウトする。ほんのりと萌える気分が素晴らしい。きっちり几帳面な書き方ですっきりまとまっている。

カテゴリー:文芸中部

6月28日付「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載。

【「パートタイム」納富泰子】
 主婦がパートタイムで働きに出ようと、面接にいく。古美術商の事務所とかで、なんとなく怪しげな会社。いや、会社という建物ではなく、民家のようなところに机と電話を置いたようなもの。大勢の面接者がいたのに何故か主人公が選ばれる。仕事は留守番だが、誰もやってこない。そこで、パート勤務の様子が逐一語られるのだが、怪しげな社長とその振る舞い。そこに脇役で出てくる足に障害のある若者。それらがみんな面白い。作者の名を見れば当然かも知れないが、とにかく小説が上手い。書きっぷりに惚れていても仕方がないので、すこし理屈を言おう。
 まず、「私」の夫は海外に出張が多い。日本のビジネスは海外に舞台を移している。国内で仕事を探すと空洞化で、ろくな仕事がない。自動車関連工場は閉鎖されている。「私」が出会ったパートタイムの仕事も、実業には程遠い虚業。留守番を頼まれた家からは、隣のアパートの老老介護の現場の生活状況が見える。しまいには、お金を稼ぎに行った会社が自己破産で、金を借りて欲しいとまで言われ、ただ働きどころか、大損をしそうだ。辞めるしかない。一年経ってみれば、その民家も壊され跡形もない。日本の社会を現在進行形で見事に凝縮してある。現在、過去、未来と、どんづまり社会の倦怠を描く視線が鋭い。

【「運河」ひわきゆりこ】
 これは流れの遅い運河の話であった。時間ものんびりして悠長に流れる。納富さんと住んでいる場所と空間が違うのがわかる。それで内容が人間の澱んだ意識かと思えば、なんと愛情物語のようなもの。描かれた倦怠も相当なもので、次に何かが起こるのをじっと待つ女心の不思議さは伝わってくる。幾重にも折り重なった下にある女性の欲望の厄介さのようなものを感じさせる。

【「松林の径」桑村勝士】
 「私」は剣道の先生でもある兄が再度、入院手術をするというので、妻と共に福岡に飛行機で向かう。兄が体調を崩したのは45歳の時、胃を3分の2きり取った。それから、また再発したらしい。兄の死の予感のする見舞いをし、その後、妻から妊娠を告げられる。死と生のコントラストを効かした作品。同人雑誌的には文句はない。悪くはないけれど、どうもまとまりというか、イメージがはっきりしないところがある。
 書き出しの飛行機の不安感、後半での釣り場での海へ漂流するイメージ、寒々とした故郷の気候。きちんと書いてあるのだけれども、いまひとつ彫が浅いのではなかろうか。純文学を意識して、同人雑誌的な雰囲気に合わせようとしすぎのような気がした。読者としては、前作の出来からして、道場破りをする時の「たのもう」と声をかける緊張感のある気分が欲しいところ。

カテゴリー:胡壷・KOKO

 古美術商とはいうもののどこにも古美術品はなく、事務所もただの古いマンションも一室に過ぎないらしい、限りなく怪しい会社にパートタイムで勤め始めた私の視点で描かれているが、この会社や社長の胡散臭さがじつにうまく書かれている。こういう怪しく胡散臭い会社が実はたくさんあるのである。
 また、向かいのアパートの認知症と思しき老夫婦のやりとりと「オムツ替えてくださぁい」のリフレインが実にインパクトがあります。
 実は、私自身もこれに似た老夫婦を見知っていて、先に寝込んだおばあさんが「父ちゃ?ん、父ちゃ?ん」と叫んでいたのを仕事をしながら耳にしているし、その父ちゃんも妻が亡くなった後は二階の窓から顔を出し、通行人の誰彼なく呼び止めては「援けて下さい。うちの者がご飯を食べさせてくれないんです。おなかが空いて死にそうです。援けて下さい」と訴えていた。だから、「オムツ替えてくださぁい」が実にリアルに感じられてならない。
 人間という存在はどう贔屓目に見ても完璧な存在ではありえず、人間もこの世界もいわばバロック(歪んだ真珠)のようなものだと思えば納得がゆく。
 そういう視点に立ってみれば、この「パートタイム」という小説はまさに怪しく歪んで胡散臭い人間たちを、見事に描写している。
 そして一年半後にそのマンションとアパートのある一角を通りかかると、まるですべてがうたかたであるかのようにマンションもアパートも取り壊されて、無い。無いけれど、怪しい会社も社長もスミオも、向かいのアパートの認知症のおばあさんもその夫も確かに存在した。
 何ともみごとに、人間社会のバロックを描出した小説ではあります。

カテゴリー:胡壷・KOKO

 書くのも読むのも十人十色。
 ということで、私の「運河」読後感を書かせていただきます。

 先ずは私が思わず鉛筆でマーキングしてしまった二ヶ所。

 ひとつは23頁上段の最終行から下段2行目までの描写。

 裕哉は立ち上がって大きく伸びをすると、行ってしまった。自分が、取り皿に残った天つゆや大根おろしと同じように扱われている気がした。

 自分が、取り皿に残った天つゆや大根おろしと同じように扱われている気がした。
 すごい表現ではありませんか。

 それから、30頁下段、後ろから9行目から3行目まで。

 夕方にシャワーを浴びていた私は黙って歩み寄り、彼の腰の辺りに腕をまわした。温かく湿り気のある胸に頬を密着させると、いい匂いがした。彼も私の背中に腕をまわして柔らかく抱きしめた。いくら待っても、彼の腕にそれ以上の力が加わることはない。私が力を抜くと、彼もゆっくり力を抜いて躰を離した。
「じゃあ、おやすみ」

 うーん、すごい。これこそが、微細でありつつ人間という存在を表現してやまない、力ある文学の言葉なのだと感心いたしました。
 一字一句、無駄もなく欠けるものもなく、私と裕哉という夫婦の間のリレイションを、必要十分、如実に表現していて、恐るべし。
 私はこのふたつのセンテンスが書かれているだけで、この「運河」という作品に99点をつけさせていただきます。
 マイナス1点は、結末がそれらの綻びを繕って雲散霧消してしまうような予定調和に終わっている点、でしょうか。

カテゴリー:胡壷・KOKO

 私などにはまったく見知らぬ世界であるアパレル業界の、おそらくはその要に位置していると思われる縫製工場という一種強烈な生産現場、そこに勤める雪絵の視点から見える光景がありありと描かれていて、一気に読まされました。
 現代日本において(いや世界のどこでも)物を生産することはすでに割の合わない業と成り下がっているのは明白で、むしろ現代は物を生産せずに情報やお金でお金を稼ぐという、きわめて現代的錬金術としての第四次産業が世界をコントロールしており、生産の場はその支配下にあって「一円でも安く」という消耗戦に否応なく巻き込まれざるを得ない。だから、この作品に描かれているミネタもハラグチも、実は程度の差があるだけでどちらも割の合わない消耗戦の最前線にあるのです。
 そういう世界や日本や社会や企業の破綻=不合理が、生産の現場の向こう側から描かれ、照射されているようで実に面白い作品でした。
 小林多喜二の「蟹工船」が不意に売れ、読まれたというのも単なる時代の気まぐれなどではなく、むしろ現代の必然なのだと思わされました。そういう意味で、この作品も現代大阪の必然の綻びが真っ直ぐに描かれた作品なのだと思いました。

 ただ、ひとつだけ、欲目で言わせていただきますが、この作品の終わり方が私には不満でした。
 この世の不合理が、ひとつの小さな綻びとして、ミネタという四国の小さな縫製工場の社長の失踪あるいは自死という表現されているのに、どうしてその綻びを作者自身が繕ってしまうような結末にしたのか? 
 文学は現実を映す鏡なのですから、綻びは綻びのままに提示して終われば良いのであって、作者が結末で福ちゃんにメールを打つ形でこの世の綻びを繕ってしまうのはいかがなものでしょう。

 と、勝手に読ませていただき、勝手な感想を書かせていただきました。
 そして、その上もう一度書かせていただきますが、美月さんの創作姿勢、真っ直ぐでほれぼれとし、織田作の作品が連想されたりして、あれ? 
 私、不思議に関西人の友人が多いのですが、ネガティブを描きつつもポジティブ、それが関西のひとたちの魅力なのかもしれません。
  美月さんの次作が、また楽しみです。

カテゴリー:白鴉(HAKUA)

「胡壷・KOKO」8号

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HP「文芸同人誌案内」掲示板からの転載です。
kitaohiさん筆
【「運河」ひわきゆりこ作】
主人公である私(莉果)は父が亡くなってから再婚、離婚を繰り返す実母に育てられたが、義父が嫌いで、戦争で許婚だった人(晋ちゃん)を失い、その人を思いながら役所勤めをしていた瑞江さん(叔母)の養女となる。晋ちゃんの面影を追う瑞江さん、祐哉、カミヤ(神谷貴志)、岡本稜太、ひさごの女将の景子、神谷貴志が取材で会ったお婆さんなど、登場人物は多いが、分かりやすく纏められている。
文章もキチンとしており、主語の省略も上手く使っていて、非の打ちどころがない作品といえよう。会話に含まれている文章の内容も読者を納得させるものとなっている。たとえば、祐哉の「・・食事なんてものは・・美味いか不味いかは二の次かなあ」など、面白い。お婆さんの言葉も何故か妙に読者を惹きつける。
この作者の作品のレベルは、いつも高く、今回も高い。が、この作品に限って言えば、私はのめり込むことができなかった。誤字や当て字もなく、同人誌の作品としては最高レベルのものと思う。
しかし、何を書こうとしたのかよく理解できなかった。私自身はこの作者の作品は好きで、読み返す作品も多い。記憶に残る作品が多いのだ。「JUST」は好きな作品だ。ところがこの「運河」は、私は作者の意図が読み取れなかった。
私自身の能力不足かもしれない。また、いつかゆっくり読んでみることにしよう。

カテゴリー:胡壷・KOKO

「どくだみ」波佐間義之
(この作品は全国同人雑誌優秀作として「文芸思潮」第29号にも掲載されています。)
正直に言わせてもらえば、読み始めて「今の時代に、こんなカップルいるのかねえ」と思った。しかしそれは、女性が抱える暗部の伏線だった。読み進むにつれて、「いるのかねえ」から、「もし私だったら」になった。作品はカネミ油症二世の女性と青年の恋愛物語で、青年の視点で語られる。悲劇的な最後だが、読後感は爽やかだ。
九州で生活していると、「公害」は身近である。石牟礼道子さんの『苦海浄土』は水俣病を被害者の目線で生々しく描き出した。カネミ油症も発生当時は知り合いがライスオイルを食べていたりして、話題になった。しかし、それはどこか他人事という気がしていた。知ってはいても、実感しないまま通り過ぎてしまったものがたくさんある。そんなものを実感させることも、創作のひとつの力だ。

カテゴリー:九州文学

「いま伝法物語」吉保知佐
伝法曙市場の鮮魚店ウオマサの主人である将やんと、従兄弟の哲ちゃんとの遣り取りを描いた作品。暮らしの細部が生き生きと表現されていて、関西弁がとても効果的でした。鱧の使い方も、とてもいいです。哲ちゃんはかなり深刻な病状でホスピスに入っているのですが、普通の人が日々の生活の中で抱く気持ちが汲み取れて読後感がよかったです。何の取り柄もない普通の私でもこんな生き方ができるのだ、と暖かい気持ちになりました。

カテゴリー:AMAZON

「奏」2009 夏号

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6月4日 (木)「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載。
今回の「奏」18号には、「資料・小川国夫―未完の長編小説「浸蝕」第三章冒頭原型」というのが掲載されており、貴重な資料になりそうだ。小部分だが、19世紀的な作風の味わいがある。そのほか編集者・勝呂奏「小川国夫『速い馬の流れ』『あじさしの洲』論―『故意の言い落とし』と『照応』」がある。そこには小川国夫の飛躍的なところのある簡潔文の特性が語られている。「掌果集」と称する上質な寸編小説的な作品もある。
【掌果集「花びら」小森新】
 女性の独白体で、愛する男への情念を語る。愛と官能を結び付ける状況が密度濃く語られ、ほとんど完璧な仕上がり。言葉の働きが堪能できる。読後に寸編小説に自分が求めているのはこういうものかも知れないと思わされた。
【同「野茨」小森新】
 妻を失った独り暮らしの老人の日常と生活、回顧の想念を描く。生活の匂い、生きることの臭いというものを痛切に感じさせる描き方が、よく計算され効果的。死の床にたどり着くまでの時間の漂流が的確に表現されている。
【同「月下の門」小森新】
 俳句の結社を率いる先生は、死の病に倒れ入院している。「僕」が尊敬しているその先生を見舞う。その間に交わされる会話や行為によって、先生の句にたいする信念、死生観が表現されている。自然に書いたような巧みさとセンスが抜群の効果を生んでいる。
 三作とも、じつに味わい深い。どうしたらこのようなセンスがもてるのか、不思議におもうほど完成度の高さがある。

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