2009年5月アーカイブ

弊ブログに「文芸同人 長崎の会」第3号掲載の作品について、記事を書きましたので、転載します。


今回読んだのは、「文芸同人 長崎の会」(あれっ? ホームページがなくなった???)第3号所収のあきらつかさ氏「糠床一代記」だ。

「文芸同人 長崎の会」は、今号が3号だが、第8回文学フリマの会場で、主宰の秋田しんのすけ氏とお会いして、聞いたところによると、すでに4号の企画が進行中とのこと。
この同人誌では、毎号企画が組まれ、3号では、「グルメ・食」をテーマとした小説やエッセーが集められている。

例えば、「零文学」も毎号特集を組んでいる。こうした企画もしくは特集は、雑誌としては面白いのだろう。また、売ることを考えたときにも、購買者が手を出し易くなる。
だが、正直に言えば、「零文学」のような批評・研究を主眼に置いた企画ならよいけれど、こと創作に関して特集を組むのは、危険がつき纏う。なぜかと簡単に言ってしまえば、難しいのだ。すなわち、書き手を縛ることで、「なにを」書くかという主題論的な難しさをより深めてしまう。

「深さ」とか「広がり」と言った評価の仕方があるが、企画や特集といった主題をあらかじめ設定することによって、まずその主題を魅力的に書く課題をこなさなければならず、例えば今回の「グルメ・食」について、薀蓄を垂れるなり、食べることの喜びを語るなりしたとしても、ここに驚きをもたらす(「深さ」)のは至難の業であり、そこで、むしろ「広がり」に頼ることになるのだが、広がるための階段において、すでに主題という一階梯を強いられて、あるいは、読み手もまた、はじめからその一段をあらかじめ知っているために、「広がり」とは認知されず、結果、広がりが足りないと感じられてしまう危険を孕む。
テーマ企画・特集には、そうとうな力量が求められるのだ。
ただしそれは、腕試し、自己鍛錬としては、有効だろう。腕試し、鍛錬であるならば、そこで完成した雑誌は、テキストとしての雑誌の領域を出ない。もちろん、あらゆる創作について、まして同人誌という場所であればなおのこと、テキストの可能性はつねに孕んでいるわけだが。

書き手たちに相当の自信がないかぎり、創作の特集企画は考えたほうがよいと思う。
正直に言えば、この同人誌の各小説をパラパラと覗いてみても、特集という縛りによる窮屈さが感じられてしまったのだ。

さて、それでもあきらつかさ氏の「糠床一代記」を読了した。
そうした窮屈さを、あきらつかさ氏はいかにして回避したのか?

まず、日付をふった日記スタイルの書き方があげられる。
ずるいといえばずるいが、例えば風景描写などを捨て去ってしまったのだ。
祖母の急死とその葬儀からはじまる、書き甲斐・読み甲斐があるはずの場面からはじまりながら、ほとんどワンセンテンスで改行する淡白な書きぶりで、風景も見せなければ、親類たちの様子もほとんど語らない。
例えば、17日の祖母の死から翌日の18日の日記の最後には、下の文章がある。

 これは19日の分と一緒に書いた。

物語を追う上ではまったく不要な一文だが、それでもなおこの段落が一行空きさえ挟んで、浮き上がるように置かれる。これが、タイトルにさえなにも書かれていなかったこの文章を日記たらしめている。もちろん日付がふられているのだから、ある程度は日記のつもりで読んでいるのだが、それでもなおこれが書き付けられる。
だが、それというのも、19日以降には妻との会話が表れると同時に、小説になってしまったのだ。

10月19日(木)
 今日は晴れていたが、それほど暖かさは感じなかった。
 通夜に続き、告別式。
 やはりスムーズに行われ、葬儀場から火葬場へ、そして再び葬儀場へ。

ここまでは、日付に続いて天候を書く素振りといい、体言止めや述語の省略という、文章組み立てに関する怠慢ぶりも日記を思わせるのだが・・・。

 精進落としの料理にあった漬け物を見て、妻がそういえば、と言い出した。
 「あたし  そういえば聞いたわ」
 ん? と聞き直すと、
 「ぬか、って一言。
 それだけなんだけど、お義母さんに言ったら、『あっそう』って言われただけだった」

カギ括弧の中でもなおワンセンテンスごとの改行が続くさまは、携帯小説を思わせて、あまりの改行の多さにさすがに辟易ではあるのだが、それはともかく、自分の「ん?」をカギ括弧に括らないことや、読点で改行するなどの工夫とともに、なにより会話の出現によって、この場が日記より小説的な場になってしまう。すると、長めのセンテンスこそありながらも、あくまでワンセンテンスでひとつの段落であり続けたこの小説が、短いセンテンスとはいえ、ひとつの段落に複数の句点をふくむようにさえなっていく。

 ぬか、などと言ったから何だというの。そういう気持ちだろう。

 小学生くらいの時はまだ、盆や正月には祖母の所に行っていた。その頃はまだ祖父も存命で、夏休みや冬休みの思い出の一つになっていた。

だからこそ、それでもなお日記であろうとして、18日と19日を連携させてしまった、同じときに書いているのだとわざわざ断らなければならなかったようにさえ思える。

物語に目を向けてみよう。
まずは単純に物語を要約すれば、祖母の家にあった糠漬を持ち帰り、かつて苦手だった漬物に夫婦揃って目覚めるとともに、妻は糠床のなかから糠漬のみならず、どうやら祖母が隠していたらしいものを次々と掘り起こして、「私」がしらなかった祖母を発見する、いわば他者の発見の物語である。

このとき、例えば、下の文章はまだまだ工夫が足りないなぁとは思いながらも生唾が出た。

 よく漬かっていて軟らかく、かといってクタクタではなく、実の感触を残しつつサクッと舌の上でとろける。ナスの甘みとぬかの酸味が絶妙に混ざって染みだして、やはりクドくない引き際で喉の奥に消えていった。

そして、広がりの方向は、「私」や妻がしらなかった祖母になっていく。このとき、いわゆる同人誌の小説にはそうしたお話が多くあり、純文学を意識したとき、それを踏襲してしまうのかと思わないでもないのだが、それらの多くは、自ら死者の過去を辿ろうと能動的に行動するのにたいして、「私」はおおむねなにもしない。離婚届にせよ、若い時の写真も、そして昔の恋人から届いたらしい駆け落ちを誘うラヴレターを発見するのも、妻である。そこまではいい。
だけど、やはりもの足りない。広がりが足りないのだ。
まず、写真を隠す理由がわからない。わからないながらに、想像を働かせて欲しい。例えば、ラヴレターを見つければ、妻が想像を膨らませている。そうした想像を妻でも「私」でもいいから膨らませるべきではないか? さらに、そうした妻の想像ももっともっと広がって、そここそを書いて欲しかった。あるいは、「私」にせよ妻にせよ、自分がしっているひとにも自分の知らないものがあることを知ったのだから、そうした見えていないものにたいするなにかが起きてもよいだろう。
なにより・・・

 「これは......人に歴史ありだね」

   そうか。

 その言でハッ、となった。
 今まで祖母を、ほんの一面しか見ていなかったことに気付いた。
 祖母の、人生の一端を見た気がした。

「その言」というのは「その事」だろうか? それとも「その言葉」だろうか? それはさておき、こう言ってしまっては終わりなのだ。これを描きたかったそのすべてを書いてしまっている。これは読者に感じとらせるべき部分ではないだろうか? そして、そこに「ハッ」となったならば、どうして、妻であれ父母であれ、「私」に見えているのが一面に過ぎないことに思い至らないのだろう?

食べ物の話から、祖母の人生に広がった物語によって、広がりが充足してしまったではないか、と疑わしくなるのだ。日記と小説というふたつの書き方のあわいを見つけ損ねたせいとも思えなくもないが、それは、改行の多さが、一行空きや二行空き、そして三行空きまでまねかざるを得なくなってしまう点にも表れているといえるかもしれない。

カテゴリー:文芸同人 長崎の会

「銀座線」14号

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弊ブログに「銀座線」14号掲載作について、記事を書いたので転載します。


第8回文学フリマで仕入れた本をあれこれと開いては、巻頭作を齧り読みしていたのだけれど、「銀座線第14号でようやく読了に辿りつけた。

ようするに私は多分に文章フェチなのであり、例えば「?なこと」とか直喩、あるいは体言止めが繰り返されると、それだけで辟易してしまい、読書スランプ気味の今ならなおのこと、読み進められなかったのだが、さすがは「銀座線」ともなると、安直な文章はない。いや、ひとつふたつ、意味をとりかねるセンテンスもあったのだけど、若書きにありがちのやけにきどって文学的に硬質になることもなく、スラスラと読ませてくれた。それが、「銀座線」第14号巻頭作、藤咲文さんの「隠れん坊」だった。
率直に言って、面白かった。

ただし、あらかじめ書いてしまうと、そうしたスラスラと読ませてしまうもの足りなさがあった。
すなわち、物語の面白さで先へ先へと読まされて、風景が見えてこないのだ。いや、絶えず描写を繰り返しているのだが、その描写に工夫がなかった。

 リビングのソファーに座った奈津江は、両手で包み込むようにティーカップを持ち、紅茶に口をつけた。いつもはわりと名の知れたブランドの服を着て、こぎれいなアクセサリーを欠かさない奈津江が、今日は胸元に染みの付いたグレイのスウェットにGパンという出で立ちだった。髪の毛はぼさぼさで、しばらくブラシを入れてないようだ。

これが書き出しだ。最初のセンテンスでさっそく直喩があるのだが、なにも直喩を使うなというのではない。比喩の危険性は、物語だよりの読者ならそれが比喩としれた時点で、ほとんど読み飛ばしてしまう、忘れ去ってしまうつまらなさ、もったいなさがある。比喩と描写はほとんど同義といってもいい。描写を優先させた読書を推奨したい私としては、簡単に忘れ去られる比喩を、もったいないと思ってしまう。だからこそ直喩は避けたい。しかし、上の直喩であれば、「両手で包み込む」という、それこそ比喩とも言えない状態の提示だからこそ、目に見る情景として、忘れられることもないだろう。直喩の使いかたとしては、このていどにしたいものだと思う。思うけれど、逆にいえば、直喩にする必要もなかったとも思う。
また、直喩の弊害として、曖昧化してしまうという点もある。上段の最後のセンテンスにある「しばらくブラシを入れてないようだ」というときの「ようだ」は、語り手の想像であり、そう言わずにいられない必然があるだろうが、上からふたつ目の段落を見ると。

 もともとわたしと奈津江は幼稚園の頃からの幼馴染で、中学まではずっと一緒の学校に通っていた。高校になり連絡は途絶えていたが、息子の祐輔の幼稚園で偶然母親同士として再会してからは、また時々電話をしたりお茶をしたりするような仲になっていた。

このときの、「したりするような仲になっていた」という段落の結びは、「ような」の必要が感じられない。にもかかわらず、藤咲さんはそこに「ような」と書きつける。
なぜだろう?
ここで書かれた物語が、サスペンスだからである。「いつもはわりと名の知れたブランドの服を着て、こぎれいなアクセサリーを欠かさない奈津江」が、「胸元に染みの付いたグレイのスウェットにGパン」で外出してくるサスペンス。
だが、あらゆる小説とは、須らくサスペンスになるべく宿命づけられている。なぜなら、タイトル以外のなにも情報のない小説を読みはじめるとき、すべてが謎のままだ。いつ、どこ、で、だれの、どんな事件が、どんな展開をするのか、なにもしらないのが読者だ。論文なら、タイトルとそれに続く書き出しで、そこで展開されるはずの目的が、あらかじめ書かれるが、行を追うごとに、文字のひとつひとつを追うごとに、それらのすべてが次第に明かされていくのが小説である。それなら、むしろいわゆるサスペンス小説のほうが、明かされていくべき謎があらかじめ提示される単純な構造にあるといえる。
そう、だからこの小説も、こぎれいなはずの奈津江が汚い格好をしているというサスペンスをあらかじめ提示したのだ。すなわち、「わたし」は奈津江が現在置かれている現状をわかっていない、その表明が、「ような仲」なのだ。

そして、この小説は、ふたつの語りで進行していく。すなわち、奈津江が語る現在と、それを聞きながら、過去を振りかえる「わたし」である。

あたかも傍観者のごとく「わたし」は奈津江の話しを聞くものであり続けている。だが、それもまた仕掛けであろうことは、容易に想像がつく。むしろそのまま聞き手に終わるならば、もの足りない。だから、「わたし」がいずれ奈津江を巡るサスペンスに重要な関係を持っていくだろうと予想される。だからこそ、ここにもうひとつの仕掛けを施して欲しかった。「わたし」を物語(サスペンス)を乖離する手立てとして、語り部の魅力をここに施していたなら、この小説はもっともっと完成度の高い作品になっていたと思える。すなわち、語りつつある奈津江とそれを聞きつつある今を描写するものとして機能して、語り部に徹すると思わせたなら・・・。

過去の因縁が、今という時の中で、奈津江を狂気に至らせる、その過程を過去をも含めて、二重の語りの中に、立ち上げていった構造も面白い。どこまでが真実でどこからが妄想なのか、その境界線も不確定のままで終わっていくのも面白かった。

もう一歩欲しかったと思うのが、上にも書いた「わたし」と奈津江の距離だろう。
読んでいるうちに、一人称が奈津江とも「わたし」ともつかなくなっていく瞬間が往々にしてあり、だけど、じつはちゃんと読んでいれば間違いようのないものなのだから、むしろ誉むべき文章マジックといえるが、そうした眩暈を起こさせる距離が、藤咲さんの意識外のところにあったように思えるのだ。そして、あくまでこのふたりの距離が先の「ような仲」にも似た余計なセンテンスを呼び込んでしまったのではないだろうか。曰く・・・。

 奈津江はことの経緯を話し始めた。

 「鬼」といえば思い出すことがある。

これらのセンテンスが、段落になって置かれてしまう。そうしたときに、「こと」という単語が出てくる点に注目して欲しい。「こと」は書かれるか、あるいは書かれているなにごとかを指しているのだ。まさに余計なセンテンスといえよう。それをあえて書かずにいられない点に、語り手として振舞う「わたし」の、出来事との距離を演出しているようにも感じられるが、サスペンスの中心である栄子との距離の中にこそ、それを作り出したほうがより効果的だったのではないだろうか。

それから、サスペンスの在りようとしては、あえてネタバレを控えてはっきりとは書かないが、最後の部分を考えると、冒頭部にある「今日久しぶりに我が家に奈津江が訪ねて来たのだった。」という文章は、ちょっとひっかかる。かなり考えられたうえでこの書き方になったのだろうとは想像するけれど、やはりはっきりと「わたし」が呼んだことにしてしまったほうが、納得できる。

カテゴリー:銀座線

「木曜日」25号

| コメント(2)

私のもとに、「けんた」さんからメールにて「木曜日」25号に関するご感想が届きましたので、ご本人の許可を得て、転載します。

皆様のそれぞれ一生懸命に書かれている作品、読ませていただきました。なかで一番好きだったのは、十河順一郎さんの「スコープ」(転載者注・「スリーストーリーズ メタモル」中の一篇)でした。
感嘆しました。凄いです。
屋敷内のうつりかわる不思議な景色が、映像のように浮かびます。鶏の色彩鮮やかさが印象的で、「豊頬長頤」の夫婦の奇妙な整然とした美しさが面白く、スコープに見える世界も、異世界へ読者を誘います。
こういう小説が書けたらいいな?、と思いました。どんなに「書く」ということが楽しくなることでしょう。

没法子さんの小説は、本当は寂しさのきわまりの「厭離穢土」なのですが、シュールな幽霊小説だからよけいに、でしょうが、妙に人間くさく可笑しいものがいっぱいまざっていて、何度かくすくす笑いました。これも、面白かったです。

カテゴリー:木曜日

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