2009年3月アーカイブ

「岩漿」第17号(伊東市)

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文芸同志会通信」(3月23日)より転載いたします。
(1)
【「流れ花」岩越孝治】
 編集後記の(み)という筆者は、この作品を「心を契る代わりに体で契る。咲けない花は風を呼び込み死んで『咲く』。不透明さは透明なものへの憧れと戸惑いの中から産まれた。愛されたい男の愛を容れずに、手渡す命のポエム『流れ花』」とある。
 死の病に見舞われている「私」は、妻であった千砂が渡瀬信哉という以前の男と心中をした川の岸辺に来て、彼女の残した詩や手記をそこに埋めに来る。
 そこから、詩を書いていた千砂との出会い、結婚生活、彼女のロマンを追求する性格などが、視点の移動を自由に活用して語る。冒頭の説明がしっかりしているので、自由奔放な筆使いなのに統一感のあるロマン精神の表現になっている。千砂は、私と同居してすぐ妊娠がわかったので、私はその子供が、彼女の以前の男、渡瀬の子供と知りつつ、子供を育て、成人させるまでが語られる。
世俗的にみるとリアリティが薄いところがあるが、文体となかに導入された詩作品によって(詩そのものは、平凡ではあるが)ロマン性の追求に説得力をもたせている。

【「穂積忠の周辺」橘史輝】
 穂積忠(1901?1954)という人は、著書「積木くずし」のベストセラーで時代を風靡した俳優・穂積隆信氏の父だそうである。歌人として伊豆地方の著名人だったという。北原白秋を歌の師とし、折口信夫(釈迢空)に学問的な指導を受けた。白秋には若山牧水の縁があり、折口には、柳田国男の縁があることから、当時の日本文化の高峰に同居していた人で、どちらの師にも愛されたようだ。
興味深い史伝である。編集後記の(み)という筆者は「弟子を争う高名な文学者と、その狭間で心の漂白を続ける穂積忠。その孤高と哀歓を怜悧な視線で解析する文学」と解説する。

カテゴリー:岩漿

「カム」誌vol.4掲載の「頭を打った女」(田中一葉)について、私のブログから転載します。

カムvol.4掲載の田中一葉さん作「頭を打った女」を読んだ。

面白がりながら、読んでいたのだ。すごく面白い、と思って、読んでいた。
いやはや、残念。

会社の呑み会のあとに、駅で顛倒、頭を打って、救急で病院に運ばれた女性が、前後の記憶が失われており、そのなんともいいようのない不安を託ったまま、翌日に精密検査を受けると、一時的な記憶喪失は頭を打てばよくあることだし、記憶が戻るということはないと告げられ、さらに、脳には問題がないし、傷も大したことはないから安心しろ、と言われる、それだけのお話なのだ。

物語はなにもない。だが、一時的とはいえ記憶が失われていることの、言いようのない不安がそこにはあるし、後頭部を三針縫う怪我に、午前4時の帰宅になったのに、夫は徹夜仕事で帰っていなければ、タクシーでの帰宅途上に打ったメールにたいする返信もないという、夫にたいする不信もある。それらが混交したように見せる悪夢もある。

 私と池田君は笑いながら、繁華街を歩いている。
 同期会があった韓国料理屋の通りを曲がり、どちらからというわけでもなく、お茶でも行こうかと話が出た。
 じゃあ俺が奢るから。池田君が言い、すぐそこにあったスターバックスに入った。アイスカフェラテを頼み、入口近くのテーブルにつき、何がおかしいのか分からないが、また二人で笑う。店内は平日の昼間みたいに、一人で来ている客ばかりが目立つ。私達の話し声がやたら大きく響く。普通に話しているのに、周りが静か過ぎるのだ。

部屋にたどりついてベッドに入った場面から、一行空きを挟んで書かれた場面である。すでに同期会は二次会を断って、池田君と「私」が連れ立って帰ったことは書かれていたとはいえ、その帰路にスターバックスに寄ったことは書かれていなかったし、それよりも、この「どちらからというわけでもなく」とか「何がおかしいのか分からないが」とか「平日の昼間みたいに」などなど、漠とした不自然さの気配を、漂わせて見せている。「私」のことでありながら、他者として語るような「歩いている」といった語尾にも、不思議さが滲んでいる。そう、ここは夢のなかだ。こののち、夫が現れた時点で、それがまさに夢あるいは妄想としか思えない様子が明らかになっていくのだが、夫が携帯電話で呼び出されたように、どこかのアパートに入っていったり、あるいは池田君と身体を合わせるなどという場面もあり、すると、夢のなかのできごととはいえ、記憶が失われていれば、それらはほんとうにあった出来事をもとに構成されているのではないかとも、「私」ならずとも疑う。そう、疑惑を「私」と読者が共有する。不安を共有する。
いや、だけど、目覚めた「私」は、「私」が池田君とセックスをしたかもしれないなどと、あるいは夫に女の存在を疑っている、といったことはいっさい書かれていない。これも見事だ。

そして、このなにも起こらないことが、頭を怪我したときに受ける診察の詳細とあいまって、いかにも私小説めく。すなわちほんとうらしく見えるのだ。まるで田中一葉さんが、こうした経験をしたのだろうと思えてしまう。じつをいえば、夢の場面はたぶんに創造にしても、そうなのだろう、と私は思ってしまっているのだけれど、だけど、私小説にしても、ここからもっと広がって欲しかったなぁ・・・。もちろん、上に書いた「これで終わり!?」という驚きには、面白がっているからこそもっと読ませろという、気持ちがあることもたしかなのだ。
例えば、その後池田君の顔を見て、その日の感謝はありながらも、やはり情事の夢を思い出して戸惑う、といったこともあるだろうし、失われた記憶はもどることはないとはいえ、ここで医者も言うとおり、周囲の言葉から、勝手に記憶を映像などさえ伴って構築してしまうこともあるといった部分も、自分自身についてと記憶の怖さとして広がっていけたのではないかと思う。

例えば、アメリカで実際に起きた事件で、自宅で強盗に襲われた主婦が、額に暴行を受けたことで記憶を失っていたが、医師からくれぐれも記憶を誘導するような発言をしないよう言われていたはずの母親が、その被害者が婚約指輪を示したことで、「○○(被害者の夫)が犯人なのか」と言ったがために、被害者の記憶が再構成され、夫は逮捕、そのうえ、裁判でも有罪となり長く刑務所に入っていたが、あるとき別件で逮捕された男が、自供したことから、夫の無罪がわかったという事件がある。それでも被害者女性の記憶が今さら修整されることはなく、自分を襲った夫の顔の記憶が鮮明にあるために、夫に会うこともできないそうだ。

記憶障害というある意味では自己同一性を脅かす出来事に出合ったのだから、これはもっともっと書けるはず。ぜひ、この出来事をもとに、さらにひろがった小説を、もういち度書いて欲しいと思ってしまう。

カテゴリー:カム

「文芸中部」80号(東海市)

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文芸同志会通信」の3月22日 (日)付より転載致します。
 同人誌「文芸中部」80号(東海市)(1)
【「空に落ちる」名和和美】
 田舎町の実家の両親がなくなり、係累のいない女性が主人公。会社勤めをしている。仕事が多忙で、ある時、自分が空に吸い込まれ落ちていくような感覚に襲われ、倒れてしまう。そのため入院となる。その後、虫課長と彼女が称している上司が親切にアフターケアをしてくれる。妻子のある男だが、そうした交流のなかで、男女関係にもなる。
 人間の生きる上での関係にこだわったように読める。故郷や両親との関係の切断、そこでの都会生活で、周囲の風景の中に溶け込もうとする。しかし、空の落とし穴におちてしまうという現象に表現される人間関係の喪失感。そして虫課長とのちょっと風変わりな関係、日常生活とすこし違う人間関係のなかに性的な関係が表現される。孤独な人間の感覚を一種の広場恐怖症的な症状で表現している。課長との関係は恋愛なのか、それとも現代人の通常の人間関係なのか、作家的な工夫の意図がさまざまに読み取れて面白い。

【「なるほど―――。」堀井清】
 これも創作的な工夫に満ちた小説。主人公は2人称の「あなた」である。2人称小説は、フランスの前衛的小説として一部に流行したが、この小説も作者と読者が実験を体験するようなところがあって、手法的な興味を合わせて物語りを楽しめる。物語には、90歳の「あなた」が街を歩き、そこで孫の夫婦の不倫関係のなかに割り込んでゆく事件が挿入されている。ありきたりの老後の生活から離れて、高齢者生活の小説を描こうとする作者の努力は、かなり成果を挙げている。2人称にしたことで、新境地開拓の基礎になるかどうかは疑問ではある。

カテゴリー:文芸中部

私のブログ「読書雑記」に「星座盤」vol.2掲載、内藤祐子さん作「この町の空は」について、記事を書きましたので、転載します。

さて、それで、この小説についてなにかを言おうとして、頭に浮かんだのは、凄いといえるなにかがあるわけでもなく、かといって、破綻もない、綺麗に書かれたと言えば聞こえはいいが、換言すれば、可もなく不可もないとも言える小説の、だけど、それでもここには内藤さんが達成しようとしたなにかがあるはずではないか、と言う疑問だ。
いや、むしろ達成しようとした、いわばテーマが明確にあるからこそ、そのスタイルは型にはまってしまったのではないか、ということだ。

それなら、ここには、小説的な作為はいっさい働いていないだろうか? もちろんそんなことはない。

いきなりネタバレ的にその物語を明かすなら、セックスレス夫婦の主婦が、自分の性的魅力を確認するために携帯電話の出会い系サイトを利用している、ということで言い切れてしまうだろうか・・・。このとき、そのわけが、セックスレスによるとしても、問題は、自分の性的魅力なのであり、「わたし」を抱かない夫がいるにせよ、夫を責めるわけではなく、あくまで自分の問題として書かれているように見える。
ちなみに、「わたし」は、サイトをつうじて出会った男に年齢を「三十三」だと言っている。

女性の性、セックスレス夫婦、出会い系サイト、これらの現代的かもしれない、すくなくとも、いかにも現代社会で問題化する言葉が集まったとき、綺麗に組み立てられてしまう。「わたし」の性的魅力が、夫以外の男のもとで発揮されて、自己の存在証明を得る物語であれば、ここには、内藤さんの「夫婦」や「性」にたいする意思表明が読み取れてしまう。「わたし」はアルバイトで仕事もしているのだ。

ところが、この小説は、セックスレスの夫婦関係から書きはじめられるわけではない。

 携帯の画面から目を上げると、コーヒーショップの窓の向こうは、すでに薄暗くなっていた。
 どのくらいの時間、メールをしていたのだろう。初夏の陽は長いというのに、窓の下の広場から伸びる柱時計からは、すでに時刻が読み取りにくい。
 再び携帯に目を落とし、時刻を確認しようとしたとき、携帯が震えてメールの着信を知らせた。
 もう着いています、と一旦は作成した返信を削除してから、私はもう一度文面を作成し直した。
  あと十分くらいだと思います。どんな服装ですか?

あとあとは「わたし」と書かれる一人称が、ここでは「私」と書かれてしまっていることも含め、ひとつひとつのセンテンスには、少々まごつきが感じられるとはいえ、場景としては、上手な書き出しではないだろうか? 携帯電話の光る画面から目を上げて、薄暗い景色を見る、その明暗の対称のあとに、時計の役目も果たすはずの携帯電話と柱時計を見比べるそのチグハグのなかで、携帯電話の振動とともに、一気に出来事が動きだす。
だが、これは書き出しである。すると、ここでは「私」と書かれている人物は、はたして何者なのか、読者はしらない。それでも、このやりとりから、およそそのプロフィールを思い描くだろう。すなわち、「携帯電話の出会い系サイトを利用して男を漁っている女」であるが、しかし、上にすでに私はそれが人妻であることを明かしてしまったが、この時点ではそれはわからない。独身女性であったとしてもいっこうにかまわない書き方を、書き手である内藤さんは選択しているのだ。
たとえ独身女性といえども、出会い系サイトなるものを利用することには、多少の後ろめたさが伴うとはいえ、そこには明確な罪はなく、それでも後ろめたさを伴う程度には背徳的でもあれば、いじわるな言い方をすれば、小出しにされた背徳性、あるいは罪悪感の出し惜しみともいえる。例えば、上の数行後に下の段落がある。

 携帯を握り締めたまま、わたしは窓の下の広場に目を凝らす。駅からすぐのこの広場には、わたしたちと同じように待ち合わせをしているらしき男女がひしめいている。グレーのスーツというだけでは、人を探すことは難しい。けれど、わたしは目に入ったスーツの男ひとりひとりを眺めて、空想してみる。わたしはこの男と寝られるか。わたしは欲情してもらえるのか。けれど、その間に暗闇はどんどん色を染め、目を凝らしても、男たちのは顔はおろか、服装も見分けがつかなくなってきていた。

出会いといっても、SEXが目的であることが、明かされている。
読書は、読み進むごとになにかを知っていく時制を負っているのだから、小出し、出し惜しみは、必然なのだし、そのシステムを最大限に活かしたスタイルが推理小説かもしれないが、この小説がそうしたサスペンスを選択するのは、なぜだろう?

現在の推理小説では、犯人探しはテーマになりづらい。松本清張以来だろうか、社会的であることがもとめられるとともに、5W1Hでいうところの、「Why」とせいぜいが「How」がテーマになることが多いだろう。かぎられた容疑者のなかから犯人を特定するのではなく、なぜそうした犯罪が行なわれたのかと、社会的な問題に摩り替えるのだ。いわば、犯人としての「社会」とも言えるだろう。
例えば、先日読んだ「告白」(湊かなえ)であれば、まず教育の崩壊あるいは、シングルマザーの問題が第一章で、犯罪の導引として語られ、すでにこの時点で犯人は特定されていた。第二章では、いじめや自己中心的な教育者が表れ、章を追うごとに、モンスターペアレントだのエイズ差別だのと、さまざまな現代的な問題が、ひとつの犯罪を発端に続いた一連の事件の導引になる。そう、別々の事件を関連付けて一連の事件とするときに、それらの社会的な問題がサスペンス、小出しにされるものになるのである。
ただし、「告白」は結果的に「社会が悪い」というよりは、現代社会の複雑さがもたらした事件として描かれていたのだとは思う。ひとつの事件の「Why」は、複雑な関係性と関連性のなかで起きるのだ、と。

「告白」のことはさておき、だとすれば、「この町の空は」という小説において、絶えず保留されながら、やがて辿りつく答えとはなんだっただろう?
とはいえ、この小説は、推理小説ではないのだから、なにがしかの答えにたどりつかねばならない義理はない。だが、こうしてすこしずつ見せていく方法を選択したとき、それはこの小説のテーマになってしまう。
ところで、「わたし」のアルバイトの場景がエピソードとして、この小説には差し挟まれているである。ここで話題になるのが、「幸せ」という言葉なのだ。まして、その言葉は、会話相手である若い同僚にとって、「結婚」に結びついている。このときに、わざわざ離婚したての女性が現れるあたりは、周到な出来事づくりである。若い同僚は「やっぱりー、幸せじゃないとー、ギスギスしちゃうんですねー」と言うのだ。
それなら、「わたし」のセックスレスの結婚生活が一気に問題化してくるだろう。
そうではない。結婚とセックスが同義であるわけがない。セックスレスでも夫婦関係は保たれ、かつ幸せでもありえるだろう。「わたし」の問題は、自分は「男」を欲情させられるか、という点である。それが問題化したきっかけは、セックスをしない「夫」であったとしても、「夫」を欲情させられるか、ではなく、「わたしは目に入ったスーツの男ひとりひとりを眺めて、空想してみる。わたしはこの男と寝られるか。わたしは欲情してもらえるのか。」と問う、あくまで自分の問題としてとらえるのである。それを独り善がりと呼んでもよいだろう。あるいは自己中心的と呼ぶことも可能だ。

しかし、ここにもうひとつ、この小説には重要なしかけが施されている。
1P目の最後の行から下の文章がはじまる。

 エスカレーターで広場の横に降りると、すこし遠回りしてから、花壇に向かう。あたりを見回していると、後ろから、低い声が聞こえた。
 「"もも"さん?」
 振り返ると、わたしよりも少し背の高い若い男が、こちらを見下ろしていた。
 「"ヒロ"さん?」

さらに、2P目の下段に下の会話だ。

 「"もも"さんって、本名、なんていうの?」
 とおしぼりで手を拭きながらたずねた。きれいに切り揃えられた爪が目に入る。
 「モモコ」
 あらかじめ用意しておいた名前を答えた。
 「だから"もも"さんなんだ」
 「"ヒロ"さんは?」
 「俺? ヒロカズ」
 へえ、と相槌を打って、意識して口角を持ち上げる。きっとどちらも半信半疑なのだから、名前なんて、あまり興味ない。けれど、楽しそうにすることに意味はある。それはきっと"ヒトカズ"のためでもあるし、それ以上にわたし自身のためでもある。

「モモコ」という名が「あらかじめ用意しておいた名前」であるなら、およそ偽名であろうと思わせるし、「ヒロカズ」という名を疑いながら、それでも、「わたし」は「モモコ」かのしれないのである。なぜなら、これ以降この小説に名前はいっさい出てこないのだ。職場でも、夫さえも、その名がこの小説の中に、会話はおろか地の文章にさえ、表れることはない。
これはどうしたことだろう? 「わたし」と「夫」と「女性」「女の子」そして「男」しか出てこないのだ。「わたし」以外は、すべて人称代名詞ですらない。ところが、最後の一行空きを挟むと、ようやく「彼」と呼ばれる者が登場する。それは「夫」である。「わたし」によって、名まえではなく、人称代名詞を与えられるのだ。
ラストシーンは、たしかに平和な夫婦の場景とはいえ、物語としては、なんの解決も、答えも見いだせない。しかし、「夫」が「彼」になることがこの小説によってたどりついた「わたし」の答えなのだとしたら、ずいぶん巧妙ではあるが、そのためには、その答えがなんでもかまわないが、やはりそこにいたるになにかがないと、ただ読み終えるばかりではないだろうか。
いや、その直前には、新たな「男」とのセックスが描かれていた。そこで、夫に見られたら問題化するような痣も負っている。それが問題にならないのは、ふたりがあいかわらずセックスレスだからだろう。とすると、セックスレスであることの言い訳が、「わたし」にできたことの安堵? たしかに、週末ごとに就寝時間を違える言い訳作りをしていた夫婦だが、いっそほかの「男」とのセックスを「夫」に見せてしまいたいとまで思っていた「わたし」なら、むしろ、その痣によって、「夫」に浮気をしられて、それでもなお、あるいはそれゆえにこそ平和な夫婦であるのかもしれず、この終わりは曖昧模糊として、はっきりいってわからない。
女性の性について、あるいは、結婚とセックスについて、なにかを語ろうすると小説を目論んで、そのためには、それらに関連した出来事を積み重ねるわけだが、そのときに、ひとつひとつのセンテンスもそうしたテーマをより伝わるように、伝達の役割に専心したとき、いかんともしがたく、型の中に埋没するしかなったようでありながら、なお、その落ち着くところが曖昧なままだったから、型からずれざるを得なかったようにも感じられる。いや、答えなど放棄してしまえばよかっただろうに、それでも、型にはまって、綺麗に終わろうとしたことこそ、この終わり方の浮薄さかもしれない。そして、その浮薄さ、曖昧さは、タイトルにまでなった町と空の、象徴としての弱さにも表れているといえるかもしれない。というよりも、綺麗なタイトルに合わせて、そうした象徴を書き加えたのではないかとまで、疑ってしまった。

さらに、「夫」が「彼」になるなら、「わたし」がかつて「私」であったこともまた、しかけのひとつだったのかもしれない。

カテゴリー:星座盤

3月9日 (月) 付、「文芸同志会通信」より転載いたします。

【「私は、いま」豊田一郎】
 新聞通信社の記者である「私」が、千葉支局の転勤することになる。それを機に東京で交際している女性に結婚を申し込む。そして、話は女とのベッドでの倦怠感に満ちた絡み合いを描きながら話を進める構図をとっている。
 ジャーナリズムにとって千葉といえば成田空港の三里塚闘争が報道の柱となる。昭和41年の建設計画から国家権力による、在民農家の田畑の強制収奪の認知をめぐって、左翼思想家や極左過激派の抵抗運動の象徴となった。その闘争は、平成21年に現在もまだ終焉していない。その地域は、当時の喧騒とは裏腹な、不気味な静けさが漂い、公安と活動家の暗闘の場としての空気が色濃く澱んでいるようだ。
 主人公は全共闘時代にセクトの一員として昭和46年の1月に反対派農家に泊り込み、地下壕整備などの支援を短期間行い、その後、東京にもどった経歴をもつ。
 そこでの副作用として、農家の娘と外部活動家の性的な関係、女性活動家の農家の男たちからの強姦の噂が飛び交う。
 そうしたなかでの、主人公の地元女性との過去の交流を背景として当時の出来事が語られる。千葉に赴任してその歴史を潜り抜けて、地元の飲み屋の女経営者とホステスとの交流を描く。
 話の性質上、どうしても成田闘争の歴史的経緯を語らなければならないので、その分、人間個人のテーマ追求が甘くなるのは、仕方のないところであろうか。社会的な時代の精神を描く道と個人の内面を描くという難しさが作品にそのまま出ている。
 書き方が解かり易く、すっきりしている分、欠けた部分が明瞭になるという面がある。印象としては、主人公のプチブル的なニヒリズムをもすこし追及を強調した表現にする余地があったような気がする。ただ、個人的には、成田闘争以後の民衆の雰囲気を書き手が維持しているので、一つの当時の時代背性の表現にはなっていると思う。
【「洪水は何時の日に」豊田一郎】
 これが上記の「私は、いま」の続編である。大手通信社の千葉市局長を勤めた男が、東京勤めに戻る。すると、妻が乳がんになり、その療養に時を過ごすが、やがて亡くなる。主人公は、定年退職後に千葉に舞い戻る。いま成田の町は、闘争の激動時代が過ぎ、地域はアスファルトとコンクリートの整地が進んだために、排水が機能せずに洪水に見舞われる。そこでかつての国家権力への反抗意識による洪水の水はどこに流れ去ったのか、と思わせるところで終わる。
 前作があるので、成田闘争の歴史的な経緯を語らないで済んでいる。その分、主人公の生活意識が良く出ている。ここでも水商売の女性が物語の狂言まわしに登場してくる。大手通信社のサラリーマン生活の一端を描いて、その部分の細部が推察できるのが、自分には面白かった。作品では、あまりやる気のない社員と見られているように描かれているが、設定が淡白にしすぎの感がある。もっと、社内闘争に組み込まれるような人物に仕立てた方が、話が引き立つのではないだろうか。

カテゴリー:孤愁

3月9日 (月) 付、「文芸同志会通信」より転載いたします。

【「白い闇の中へ(俳人蕪村の死)」小川禾人】
 与謝野無村が死の床にあって、口をきくこともできない瀕死状態になる。枕元に集まった弟子たちの様子は感知できる。走馬灯のようにかけめぐる思い出のなかで、作者は蕪村への想像力を働かせる。芭蕉の俳句に想いを寄せ、師の宗阿との師弟愛と接触愛を想い、最後に生命の輝きであるエロス的な想念にひたってこの世を去るという、作者の美意識に沿った創作。俳人の生活や精神の世界を描いて興味深い雰囲気小説となっている。

【「怒る女」坂本順子】
 語り手がS町のコーヒーショップに入ると、近くの席で黒い身なりの年配の女連れが会話をしている。その会話から葬式か法事の帰りで、癌で夫をなくした女性が夫の親類の応対に怒って不満を語っているのだとわかる。そして、聞き役の女性たちは、怒る女性の話しをとめどなくただ聞くことに徹している。それから、葬式帰りの彼女たちが60歳を過ぎた姉妹であることがわかるシーンがある。そこで語り手は、女性グループの姉妹たちを大変うらやましく思うという話。
 短いなかに、含蓄の豊かさといい、その切り口といい、感心させられた。(最近は感心ばかりしている)。見知らぬ他人の姉妹の様子を見ただけで、その長い人生の姉妹関係を洞察できる語り手の視線、また、それに羨望を感じる語り手の、不幸ではないが、現在のなんとなく裏寂しい心境を見事に表現している。洞察力を反映している。

カテゴリー:文藝誌「なんじゃもんじゃ」

文芸同志会通信」に3月7日 (土)付けで書き込みがあったので転載します。

季刊「農民文学」№.284(玄冬号)(1)
【「姥ヶ沼」前田新】
 昨年に農民文学賞を受賞した作者の受賞代一作である。村に特別老人養護施設があり、そこが村の人の職場を提供し「見晴らし荘」と称され、同時に身寄りのない年寄りの引き取り場所にもなっていることから「姥捨て荘」と呼ばれている。そこに身内を亡くし、5年前から入所の順番を待っていた91歳の独居老人のタネばあさんがいる。村の農業委員の丸山が、おタネばあさんの入所資格確保などの身辺整理をする役目をする。
 おタネばあさんの田畑は、夫も息子など身内が先に死んでしまって、登記が昔の所有者のまま放置してあるために正式に彼女の名義の資産登録をする。その資産を担保に入居資格がもらえるのである。おタネばあさんから丸山が話を聞いてみると、父親が強盗殺人の犯人にされ、(無実のとのこと)そのことからタネばあさんとその一家の苦労が始まる。それから波乱万丈の人生をたどることになる。日本の農民の時代に翻弄される変遷が、あらためて認識される。よく整理された物語にして、実感を伴った感慨を呼び起こす。
【「ふたつの鬼怒川」宇梶紀夫】
 これも農民のしかも前田作品と同じ女性の物語である。康夫の母親のフサエが80歳を超えて病に倒れる。そのフサエの病状が悪化し、死に至るまでを、康夫の視点を主体にして観察鋭く微細に描く。その上でフサエと夫の人生を、回想的断片をつなぎ合わせて、3人称スタイルを活用し自在な表現力を発揮している。フサエが死んでも、残った農民たちの土と集落の生活はつづく。長さを充分にとってあるため、フサエの葬式の風景から、西鬼怒川の岸辺に咲く花々、藪から姿をみせた蛇など、風景描写が胸にしみるようだ。なかで「フサエは凡庸でささやかな人生を生き、立派に死んで行った。なにを悲しむことがあろうかと、と康夫は思うのだった」というところがあるが、それまでの着実な筆致があるだけに説得力を持つ。じっくりとした粘り強い描写力で、農民の生活のすべてを語り尽くすことに成功している。作者の並々ならぬ、凄みのある筆力に、感銘深く読んだ。
 2作とも日本の農民の実態を描いて、小説とはいいながら、都会人には優れた実情レポートにもなっている。
 偶然、似たような視点の作品の競作なったようだが、前田作品には洒落た軽さを与えた工夫があり、長く書いた宇梶作品は、真正面から対象に向き合った重厚さがある。とにかく「農民文学」の書き手は皆すごい書き手である。

カテゴリー:農民文学

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