2008年12月アーカイブ

「視点」第70号(多摩市)

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12月24日付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/から転載。

本誌は70号をもって記念とする同人のエッセイを掲載している。第1号は36年前の昭和47年11月の発行だという。同人の野辺慎一氏のエッセイ「示せ、大類『視点』の意気込みを」で、2年ほどまえには同人仲間の浜田雄治氏が、オール読物新人賞を受賞した事実を書いている。その浜田氏は、現在も本誌に「コマチ」(5)という古代にタイムスリップした物語を連載している。
 メジャーの賞をとっていても同人誌に書くというのは、最近では珍しい現象である。
【「春を待つ」臼井明子】
 戦後間もない頃の話のようだ。史子が学生だった今の夫と結婚。生活の安定に苦労をしたが、落ち着いてきたので、夜間大学に通う。すると学校でMという同級生に出会い、愛を打ち明けられる。彼のプロポーズを逸らしてうちに、夫婦の間子供ができる。そこで夫の存在の重要性に気づき、Mとの間に何事もなく終わることが暗示されている。小説のスタイルではあるが、エッセイ風で、おそらく事実に即して書いたものと思われる。

【「マネー・ゲーム」清松吾郎】
 土地の値上がり神話が全盛時代。バブル経済の中で、不動産を転売して儲けようとする人々の話。

【「さよならルンバ」小松三枝子】
 夫を亡くし、35歳になる娘と同居している波子。今年、還暦をむかえた。近所の人に誘われてカラオケで遊んだ場所で男と知り合い、ラブレターを貰う。思わぬ愛の世界にひたることのできた新鮮さを描く。

【「深大寺・冬枯れに佇む」萩照子】
 冬の深大寺は、枯れ木ばかりで、咲く花もなく寒々しい。折角、冬枯れの寺を題材にしたのだが、昔の思い出ばかりで、もう少し突っ込みが欲しかった。
発行所=東京都多摩市氷山5?4?9、視点社

カテゴリー:視点

気賀沢清司さん(科野作家)の代理投稿です。

 文芸誌O、第43号を読ませていただき、圧倒的に面白かったのは、布施院了さんの「猫島・鼠島騒動記」でした。
 一般の書物や雑誌と同人誌の両方を読みますと、同人誌には当然のことながら同人誌らしい作品が多く、一種の同人誌パターンのようなものをどうしても感じてしまいます。
 家族のこと、友達のこと、自分のこと、それらを中心とした身辺雑記的な色彩がほとんどなのが現実です。もちろん、それこそが同人誌の同人誌たる所以であるとも言えるのですが。
 最近、ちょっとその傾向にうんざりしていましたところ、「猫島・鼠島騒動記」はそんなものをドカーンと吹き飛ばしてくれました。
 とにかく痛快です。1から3までのチャゲの登場のしかたもインパクト十分で華々しい。
 4で突然ロケットに乗り神と遭遇するところもいい。一見ハチャメチャのようで、どっこいストーリーが見事につながり巧妙に織り込まれていく。
 人間社会、特に日本・朝鮮半島などのパロディに変化していくところも面白い。
 チャゲがクラゲになりたいと言い出すところも頷けます。
 最後に桜田家のおばあさんが登場して物語をくくってくれるところもサービス満点。
 細部を取り上げて自分の好みで難癖をつければきりがありませんが、そんなことがおこがましく思えて、とにもかくにも、面白い。
 「同人誌だろうがなんだろうがとにかく発表する以上は、もっと創作しろ !!」
 そう一喝されているように感じました。
 力のある、読み応えのある作品でした。大いに刺激されました。

「猫島・鼠島騒動記」はネット上で読めます。

カテゴリー:文芸誌O

「婦人文芸」86号(東京)

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文芸同志会通信」<2008年12月21日 (日)付より転載>

【「幸せのかたまり」菅原治子】
 左枝子は結婚して3年目になるが、子供ができない主婦である。東京の都心に住んでいたのが、結婚して、横浜の丘陵地帯の開発地の1戸建てに住むが、本人も身内も、都落ちした気分になる。
 彼女は2人姉妹で、姉の高子は、養子をとり、父親の会社の後継となった。三年前に、左枝子が結婚すると、大きな家に母一人で住むのは不経済だからと、姉夫婦が今まで住んでいたマンションを売り、母親の実家を相続し母親と同居。左枝子には父の遺産として、横浜に小さな庭付きの建売住宅を買ってくれた。と、あるのだが、後半になるとローンを払っていることになるので、つじつまがあわないところがある。
 それはともかく、庭付きの家を買ってもらったということがわかると、昔の同級生が金を借りにきて、返してくれない。そこに、姉が引っ越すので、母親を預かって欲しいといってくる。抵抗感があったが、引き取る。すると、母親との同居生活はなかなか大変なことになる。
 こうして、肉親の感情的で、身勝手な論理の、うっとうしいやり取りが、細かく描かれる。女性でなければ書けないところである。悪人ではなく、根が善人で身勝手な肉親の表現は抜群で、男には読んでいて苛立つところがある。
 そのなかで、左枝子が、そうした女同士のやりとりや駆け引きに負けると、夫が優しく支えてくれる。彼女はそうした夫に愛情が高まり、夫婦の仲が濃厚になる。そのせいか、妊娠していることがわかる。女同士の世界を描いて、興味をそそりながら、タイトルのように、うまく予定調和的なハッピーエンドでまとめている。

【「公園のベンチ」淘山竜子】
 「夏にランニングをするのは、容子のこの数年の習慣だった。」こうした表現から小説ははじまっている。短編であるから、このはじまりが意味することを、読者は予感として受け取ろうとする。それから東京郊外の公園を舞台に、35度を超える真夏日に、ジョギングしている最中に見た風景を描いていく。そして別の日の真夏日に、また走る。後半部では、児童虐待をしてしまう親の話を聞く。その社会現象は、しかし、容子にはあまり関係がなさそうだ。真夏の昼にジョギングをするくらいなので、容子に自虐的な心理があるのだろうが、年を重ねても成熟しない女性を描いたようでもあり、謎解きのような作品に読めた。

【エッセイ「書くためにすること」河内和子】
 20年前に英米小説の翻訳家であった作者が、出版社から新しい小説の依頼を受けたが、自分の文章表現力をもっと磨こうと思う。そこで、横浜の朝日カルチャーセンターのセキカワ・ナツオ先生と、ヤマグチ・ブンケン(フミノリ)先生の指導を受ける。書いたものの添削をそのまま記録しているのが、実際的で面白い。作者が指摘された添削の箇所を読むと、自分も同じツメの甘さを始終していることに気づき、大変参考になった。反省して、気をつけよう。

カテゴリー:婦人文芸

12月19日付・「文芸同志会通信」より

「我らの行方」赤松健一
 会社の経営者たちの権力闘争における栄枯盛衰の物語。大阪の中堅設備工事会社・五光電設は年間売り上げ65億円規模。社長の西脇は、経理部員から社長に成り上がったやり手経営者である。株主は創業者の息子の根岸相談役である。
 西脇は根岸のお気に入りの杉山が次期社長を狙っており、近いうちに自分が退任させられることを自覚している。ある日、根岸から呼び出され、彼が財テクに失敗し、東京のひとまわり大きい会社、東日設備に株式を売却し、買収に応じたことを知らされるところから話がはじまる。すると、次期社長を約束された、杉山は買収された会社の社長となるしかなく、経営者としての権力は、親会社の下でしか発揮できない。また、系列関係の根強くある取引先にも影響が大きい。
 多視点の三人称小説で、登場人物が次々と現れ、社内の地位をめぐって出世争いの勝者と敗者の駆け引きが展開される。歯切れの良い、ストーリーテラーらしいスピードのある文章で、ぐいぐい読者を引っ張ってゆく。かなり長いものであるが、読み進めるうちに、五光電設をめぐる人間模様のなかに、会社という組織にかかわる仕事人間の生態を象徴的に描いているように、読めてくる。入れ替わり立ち代り現れる人たちが、ながながと会社人間的な哲学を述べるあたりに、サラリーマン化した日本人の一つの典型を見出すことができる。
 会社の業務上の繋がりなど、手堅く説得力をもって描かれ、面白く読み通せる。文芸的な味わいも随所にあり、単純な読み物から抜け出た品位を感じる。

カテゴリー:

文芸誌O同人 佐武寛さんの代理投稿です。

 80歳半ばの椎名理恵の独白のように綴られた文章は、なんのブレもなく終わりまで私を連れて行った。東都文士クラブの60,70代の文士たちとの会食や二次会の喫茶店での模様を、理恵のヒガミのようなセリフを通して、楽しませてくれる。何よりも圧巻は電車の中の酔いどれの若者との出会いである。その会話も情景もリアルで納得する。終わりの別れ方が子持ちの会社員の演技をたくみに推察させる。理恵の個性が巧まずして出ている迫真力のある作品と感嘆させられた。    それにしても、文士たちとはやっぱ、付き合いにくい生き物だと思わせてくれました。理恵婆さんの意地悪そうなのも文士であるからなのかなあと勘ぐらせてくれました。外資系商社の青年がこの雰囲気を打ち破る明るい光のように感じられたので、コントラストがよく効いていたようでした。  舞子ビラの名が出てきましたが、コイズミ改革後のことのようですから、有栖川宮の療養所であった昔の舞子ビラとは全く違って、コンクリートの殺風景な建物ですね。海岸も埋め立てられて下水処理場が建っています。海浜の松林も90%なくなっているのです。理恵さんは多分、以前の木造建築のビラとその庭をご覧になったのでしょうね。今だったら、このビラの直ぐ側から海峡を渡っている明石海峡大橋の威容に触れずにはおれないでしょうね。ビラから真正面に見えるのですから。この青年はきっと見ていたでしょう。明石海峡大橋は平成10年4月5日に開通しました。

ちなみに「構想」45号の内容はここです。実は私もまだ「横須賀線」を読んでなかったのですが、面白そうなのでこれから読んでみます。(euripides)

カテゴリー:構想

佐武寛さん(文芸誌O・同人)の代理投稿です。

 この小説を読んで、小説書きの上手さを感じたのだが、それが引っかかりながら、モチーフを探りたくなって、読むほどに、ファーブルめいた感じがした。親子の絆の儚さを寓意した展開のようで、幻想世界と現実を溶け込ませている手法に、引っ掛かりを覚えた。何か立体絵本からプリン氏が飛び出だしてくる。動物園というハコモノをこの親子がさまよっている。生き物は数々名前が出るのだが、生きて騒ぐ姿が見られない。この親子は素通りしている。生き物との葛藤があれば面白いし現実感が伝わるのだが、なぜか食べ物に集中している。このあたりの書き方は、普通の親子の姿を写したように見える。動物園の中の遊園地であろうか、ブランコが出てくる。子供・PJの幼さがブランコする姿で描写されている。その後の記述を読んでいると、ロバートとこの子は他界しているようである。その亡霊が地上に降りてきた設定になっている。「空中へと歩くように上昇していく」、「残像のように浮かぶ二人の体の抜け殻と、その向こうに広がる空の青さ」で締めくくっている。そこで気になったのは母親の存在だ。その生死は定かでない。  再び、この小説のモチーフが気になる。何を訴えようとしたのか。生き身の人間と霊との交流を描こうとしたのか。それほど宗教的ではなさそうである。或いは親子愛の実体に迫ろうとしたのか。死に切れずに迷って出てきた親子を浮遊させたのか。それにしても母親が隠されているので情念を感じない。なんだ、夢だったのかで終わるのかもしれない。上手にあっさりとまとめすぎているという感じである。淡白である。

*注 「ロバート・プリン氏の動物園」はデジタル文学館で読めるようになりました。

カテゴリー:デジタル文学館 カテゴリー:樹林

文芸同志会通信」さんが、掲載作について、記事を書いておられます。
以下に転載しますが、元記事はこちら


 発行者の勝呂奏氏は、さきに亡くなった作家・小川国夫によく傾倒していて、小川氏の年下の友人か弟子のような関係なのか、ほかの文芸雑誌などの書いた追悼記などが特集のように掲載されている。
【「還りなん」小森新】
 入院していた母親が危篤状態になって、病院へ通う日が続き、そして亡くなるまでを、「俺」の立場で描く。母親は、父親の後妻に百合子という中学生を連れ子してやってきた。継母である。しかし、「俺」には優しくしてくれた。義理の妹の百合子は、「俺」を慕っていたが、成人して間もなく自殺してしまう。そのときの母親の心境はどうであったか、母親や百合子の人生と、俺との係わり合いが、葬儀の風景を描くなかに、文体の裏側に表現されている。本当の肉親の葬儀のような悼ましさがにじみ出て、自分のことのように感情移入ができる。よくいう、身につまされるというものだ。継母ではあるが、肉親の病死を描いて、味わいのある筆致がよく活きていると感じた。

【評論「川端康成『招魂祭一景』ノート」勝呂奏】
 横光利一ともに、新感覚派の川端康成の作品を論評し、その根底にチェーホフ「ねむい」、正宗白鳥「玉突屋」、志賀直哉「剃刀」などの作品と共通の主題があり、若い娘のよるべのなさ、を通して、哀しい孤独が表現されているとする。自分はこの作品を読んでいないが、引用された作品部分から、川端の群集のなかに垣間見る乙女の美、埃のなかの女肌の美というもの対する嗜好の強さを感じた。この評論でも、群集のなかにいて、彼の世界は自分の視線と対象となる女肌に絞られる。川端の乙女の美への耽美的な嗜好が読みとれる。

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ブログ「文芸同志会通信」に、以下の作品について、記事がUPされました。

「森のなかのボーリング場」阿見幸恵

「夢の途中」磯部勝

なお記事は、ここです。

「文芸同志会通信」さんは、記事の転載をお許しくださっているそうなので、下に、全文転載します。

【「森のなかのボーリング場」阿見幸恵】
「森野ボーリングセンター」のインストラクターをしている「私」が、職業人として持つべきコツや、ストライクをとった時の人々の得意顔を、観察して較べる話など。話は面白い。だが、散漫のまま終わるのと思っていたら、結末の数行に意表をつく、恋のやり取りがあって、そこが冴えていて、巧いストライクでおわっている。

【「夢の途中」磯部勝】
 伊勢湾台風という大洪水災害があって、その時代の様子が詳しく描かれているので、ちょっと驚かされる。筆致が若々しいのか、若い人が調べて書いたのか、と不思議に思った。そのときにミカというはすっぱな女がいて、その行状について、姿を消すまで描く。話も面白いが、かつての災害の記憶として、思い出させるものが多い。

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長崎の会」の第3号は、「グルメ・食」を特集しているそうです。
ブログ「文芸同志会通信」に、以下の作品について、記事がUPされました。

「麺と俺」赤木保

「狼になれない」裏次郎

「白」小林圭介

なお記事は、ここです。

「文芸同志会通信」さんは、このブログに記事の転載をお許しくださっているということなので、以下に転載します。

今号は、「グルメ・食」小説・エッセー集である。
【「麺と俺」赤木保】
 アニメに夢中の大学2年生の「俺」は、アニメだけに関心がある生活で、もっぱら下宿で、カップめん愛用の生活を送っている。そこで突然、風邪を引いて寝込んでしまう。すると、同じサークルの影のうすい井上という女子学生が、食事の支度をしてくれると、下宿にやってくる。「俺」はアニメを愛して、女性を愛すまでには至ったってないので、彼女の心をよく理解できない状態から、理解するやっと理解する段階までを書く。面白い。ライトノベルのスタイルの中で、いろいろ工夫して書き分けているのには感心した。文章の呼吸がよいのに驚かされる。

【「狼になれない」裏次郎】
 主人公は家電量販店の臨時雇いの店員で、仕事に夢や希望を持てないような職場に働く。そこで「正社員」にすると店長に言われる。ちょっと、うれしがっているときに、いつも店で会って、食事時に顔を合わせる女子店員が、結婚退職をすることを告げられる。そことで、つまらない勤めのなかで、彼女との会話がどれだけ貴重であったかを知る。狙いはいいし、面白いが、味わいはいかにも、ライトノベル的。話術の運びは巧い。

【「白」小林圭介】
 ホラー話。遭難して山小屋にたどり着いた男が、傷による出血死している。調べると、救助がなく飢え死にしそうになる。仕方なく、自分で自分の腿の肉を切って食べていたことがわかる。まあ、怖いけれど、いまひとつヒネリが欲しかった。
 本誌全般に読んで面白い。読者を退屈させない技術には長けている。先には純文学への道筋がありそう。

カテゴリー:文芸同人 長崎の会

「質屋の娘」西芳寺静江作を読みました。それぞれに宝石の名を冠した4つの連作短編です。第二次大戦後間もなくの生活記録のようで、「市民結婚」、「シューシャインボーイ」、「オンリー」など当時を偲ばせる言葉も多く出てきます。第三話「ルビー」を特に印象深く読みました。4話すべてが奈々子という質屋の娘の視点で書かれているので、最初は同じ物語かと思いました。内容の辻褄が合わなかったりするので、読み進んでから別の短編だと気づきました。同じ作者の「外務省警察」も併せて、小説というより、他の形で書かれてもよいのではと思いました。作者の、どうしても書いておきたい、という想いが伝わる作品でした。

カテゴリー:水晶群

「日々の泡」というタイトルだけで目が光ってしまう、どうにもVian狂いな私・euripidesですが、Lydwine.さんがご自身のブログ「読書雑記」で、しばらく前に「てくる」誌第4号に掲載の光野公彦さんの「日々の泡」について書かれている
書かれているご本人がここに記事へのリンクを張るのは抵抗があるかもしれないので、代理でリンクを張らせていただきました。
以下に、全文を引用させていただきます。


先日受贈した「てくる」誌第4号に掲載の光野公彦さんの「日々の泡」という小説を読んだ。「てくる」誌は発行所を大阪に構える関西の同人誌だ。

まずは、この大胆なタイトルについて、ちょっと考えてみよう。
どうしたって、このタイトルを見たら、ボリス・ヴィアンを思い出す。とはいえ、読み終えてから考えてみれば、この小説のほうがヴィアンの同名小説よりも相応しいタイトルだと言える。いや、読み終えるまでもなく、いきなり最初のセンテンスの一部分である2行目に「その日その日が白い泡のように感じられてならなかった」と書かれているほどだ。だがこのときふと、ヴィアンのフランス語は「うたかたの日々」という翻訳(伊藤守男訳)にもなっていることを思い出す。ほとんど同義である「うたかた」と「泡」の違いといえば、「うたかた」のほうがより抽象的になるだろう。「儚く消えやすい」といった意味合いを纏う。もちろん「泡」だって儚く消えやすいのだが、そうした比喩的な意味合いがより強い、ということだ。ましてそれが連体修飾語として使われるなら、「うたかたの日々」とは、「泡の日々」というよりは、「泡のような日々」とでも言ったほうがより相応しいだろう。言い換えれば、「泡」という言葉のほうが、より水泡などのイメージに近く、「うたかた」は名詞でありながら、あたかも副詞的なニュアンスを持っていると言ってもよいかもしれない。それならば、「日々」の在り様を喩える言葉としては、その副詞的な効果に頼るのも手ではあるが、それよりも、「泡」のイメージ(映像)のほうを優先した、ということかもしれない。
このとき、さらなる顛倒が起きる。まさに顛倒。「日々の泡」と「うたかたの日々」という主格の顛倒だ。ヴィアンのフランス語の原題が、どちらに近いのかは私はしらない。まして、今の話題は、光野公彦さんが書いた「日々の泡」なので、ヴィアンの話は置きながら、なおやはり、光野さんがヴィアンの小説を知らずにこのタイトルをつけたとも思えないので、あえて、「日々の泡」か「うたかたの日々」かという選択に拘ってみよう。
「日々の泡」と言うと、どうも日々のなかの泡といったものを思い浮かべやすい。すなわち、それぞれの日のすべてが泡であるよりも、そのなかに泡のような時間があるように見えるのだ。それに対して、「うたかたの日々」≒「泡のような日々」というならば、日々のすべてがそれぞれにひとつひとつの泡沫に感じられる。いや、かならずしも「日々の泡」が日々のそれぞれがまるごとそれぞれの泡ではないとは言えない。どちらにも受け取れるということだ。それを広がりと捉えることもできるが、日々を泡に喩えると言う抽象的な表現の、ましてそれがタイトルであるならば、言おうとするところをより明確にしてしまったほうがよかったのではないか、と思える。そのうえで、「泡」のイメージを保持しようとするなら、私なら「泡沫(うたかた)の日々」としたかなぁ・・・。

と、タイトルに拘るのも、上にも書いたとおり、このタイトルは、ヴィアンを思い出させながらなお、タイトル負けせずに、ヴィアンのそれ以上に、このタイトルが相応しかったからにほかならない。
「私」の「日々」は、確かにまるで「泡」のように浮薄なのだ。

 そのころ、といっても十年は経っていないけれど、まだ二十代だった私には、その日その日が白い泡のように感じられてならなかった。毎朝、朦朧とした意識でマンションを出て、夢遊病者のような足どりで会社にたどりつく。午前中をうつろな眼をして怠惰にすごし、午後三時をまわったころ、拡散し浮遊しつづけていた意識が凝集してひとつの形をとりはじめる。陽が暮れると同時に、精神がピンと張りつめ、とぎすまされ、眼のまえの仕事に没入する。夜の力が、集中力を極限まで高めてくれると感ずるのは気のせいだろうか。仕事に区切りがつくたびに充実感などは持ちようがなかったけれど、少なくとも解放感にみちびかれ、上司や同僚につれられて夜の街をさまよい歩く。だが、いつもおなじような顔ぶれで酒を飲むものだから新鮮な会話は望むべくもない。いつか、どこかで、誰かが、何度か、語ったはずの話題に、曖昧な相槌をうちながらぼんやりとやりすごし、しきりに煙草をふかして喉を痛め、吐き気に顔をこわばらせる。適当な時間できりあげようと思っているのに、つい深夜までつきあってしまう。そうして気力も体力も消耗させ、黒いアスファルトや白いコンクリートを踏みしめ、よろまき、誰も待っていない部屋に戻ってくる。乱暴に衣類を脱ぎ捨てて狭いベッドに倒れこむと、つかのまの睡眠だけが自分に残された推移角愉しみではないかと思えてくる。身を横たえたまま部屋の灯りを消そうと手を伸ばしてみるが、指先はスイッチの紐をかすめるばかりである。空を掻くその五本の指の動きは、溺れる者が何かをつかもうとしているさまに似ていなくもない。

回想から、その頃の状況説明になってしまうのだけれど、この段落の終盤にいたると、それがいつものことならやはり状況説明でありながら、なお、「私」の動き、風景になっている。
このあとも、ひたすら仕事や職場の説明に終始していくのだが、例えば、職場での一日の在り様を説明するとき、「そうこうしているうちに正午になる」などといった、すこしずつ違うことも交えながらも、いかにも毎日がその繰り返しであることを示していく。

 エレベーターで一階におり、まばゆい夏の光に満ちた表通りに出ると、どこからともなく軽トラックの無許可営業と思われる弁当屋があらわれ、すぐに会社員が群がってくる。地下にはネクタイ姿や制服姿の会社員がひしめきあっている。飲食店街は匂いと声にあふれてにぎわっている。中華料理店、定食屋、ラーメン屋、蕎麦屋、カレー屋......。毎日誰かといっしょに行くのだけれど、どの店も注文してから五分と待たされることはない。だが、腋臭の者や蒸れた汗でシャツを湿らせている者などと、肘がふれあうほどの狭い空間に押しこめられているのには閉口させられた。落ち着かない気分で料理を胃に流し込むと店を変え、行きつけの喫茶店のソファでスポーツ新聞をひろげて、昨夜のプロ野球の勝敗結果をたしかめたり、週末の中央競馬の馬券予想をしたりして、一杯二百八十円のコーヒーをすすってから、また事務所へと戻っていく。

これまで、「私」が二十代の頃の漠然とした時間にいたが、夏に限定していきながらなお、ただ夏でしかなく、語られつつある場の「今」は曖昧化されてしまう。
この小説には、いつまでたっても「今」がないのだ。

ところで、どうでもいいことだが、ソファを使っていながら、コーヒーが280円って、東京ではちょっと考えられない。ドトールの椅子はソファとはいい難いよなぁ・・・。

どうでもいいことはさておいて、その頃の日々の在り様をひたすら説明するしつつある上の引用はまだ一日が終わっていない。

 午後一時の事務所はどこかせわしなさが感じられるものの、誰もが食欲をみたされて室内の空気は澱んでいる。やがて午後三時を迎えると、それぞれの部署の女子社員が紙コップにコーヒーを淹れて配りはじめ、あちらこちらから談笑が聞こえてくる。広告部のふたりに対しては、机が隣あわせの商品課の女子社員が淹れてくれた。

ふたたび、夏でもいつでもよい、日常の説明だ。しかし、最後のセンテンスの語尾には、微妙なズレがある。そしてこのズレが、いきなり「今」を呼び込むのだ。

 「......!」  「......?」  さしだされたコーヒーをひと口飲んで、その甘さに眉をしかめた。私はコーヒーにミルクは入れても砂糖は入れない。向かい側の席でちょうどおなじように自分の淹れたコーヒーに口をつけた女子社員が、明るい茶色の前髪の下で切長の眼を瞠っている。どうやら甘いものが好きな彼女は、砂糖なしのコーヒーに口をつけたらしい。  「もしかして、これ?」  「まちがえましたネ、あたしのと。もう一度淹れなおします」  「別にいいよ、もったいないし」  「じゃあ、あたしのと交換しましょ」  「いいって。気をつかわなくても」  「気をつかってるンとちゃいますよぉ。あたしが苦いの飲みたくないだけです」
だが、これは本当に「今」だろうか? こうした事件が起きるのが「今」なのではない。これもまた日常の在り様なのだ。「私」の正面に座っていたのは、こうした女子社員だったということである。それでもここには、そうした日常の在り様を、事件として、「今」たらしめてみせる。現前化だ。というのも、この女子社員は、このエピソードの後、「私」に絡むことはない。 ここでも些事をひとつ。「机が隣あわせの商品課の女子社員」が、「私」の「向かい側の席」にいるというのは、迂闊だろう。広告課がふたりきりの部署なら、商品課と島を同じくしていることには不思議はないが、隣あわせと書いてしまったからには、向かい側は迂闊だ。

些事は置き、この小説には皆目時間がないのだ。いつともしれない過去の回想が錯綜しながら、その頃の「私」とその周囲を淡々と積み上げていく。そのとき、日常の説明が、コーヒーを間違える上に見たようなある日の出来事に摩り替わる。これは面白い。こうした文章のつながり、情景のつなぎめに小説の醍醐味を感じてしまうのは、私だけだろうか? 私は、小説を書く一番の楽しみは、文章や情景の繋ぎだと思っているくらいだ。これでやろうとしてのは、まさにそうした試みだった。

ところが、この小説は、やはり落ち着きどころを見いだしてしまった。

 部長が出張しているあいだ、私は彼がしなければならない原稿の校正まで任されている。業者から電話がかかってくるたびに、部長が出張から戻ってくる日にもう一度電話をかけ直してもらうよう依頼する。長期出張の場合は初日に部長の戻ってくる日を告げておけば、二、三日は電話のかかってこない静かな日々をすごすことができる。だけど、部長不在のときも、別の誰かに誘われてまっすぐに帰ることはない。たまにはひとりでゆっくり休みたいと思っているにもかかわらず、誘われると応じずにはいられない。俺は誘惑に弱い、とあきらめにも似た境地で、きっと無条件で誘われた相手についていくころになる。  「これからどう?」  「いいですね。行きますか」  ある金曜日の午後八時すぎ、電算課の先輩が前触れもなく声をかけてきた。彼は色白の、丸縁の小さな眼鏡をかけた、長身の男で、年齢は三十代後半といったところだろうか。ひと目見たところは知的な容貌で大したインテリに見えるのだが、何かともめごとを茶化したり皮肉をいって薄笑いを浮かべたりして、平素はめったにまじめな表情を見せない人物である。

前半は、はやり「私」の仕事の説明だし、そのころの誘われると断れない「私」の在り様なのだが、カギ括弧を使うと途端に、「ある金曜日」になって、ついに、この小説の物語の場は、そこに落ち着いてしまった。このとき、再三この小説に現れていた「部長」も、背景に過ぎなかったのに、「先輩」だけが特権的に、語られる。というわけでもない。「部長」にしても、そうした背景に過ぎないにもかかわらず、書きすぎではないかと思えるほどに、書かれていたから、「先輩」がどれだけ社内で嫌われているかと説明されても、やはり「部長」同様に背景なのだ。
そう、「私」をはじめ、誰にも名まえが出てこないことも、ここにはなにもない、この小説の時間のなかには、とりたてて語るべきなにごとも起こらなかったと言い立てている。たとえ、「先輩」の「ロマンチック」だか「ドラマチック」だかの恋愛・結婚・離婚の顛末を聞いてもなお、「泡」なのだ。

それなのに、その翌朝に、駅のホームで目覚めた「私」は、

 やがて特急電車が駅を通過するために注意を喚起するアナウンスが響きわたった。  ふと気づくと、私は渾身の力をふりしぼって立ちあがっている。向かい側のホームでぼんやりと電車を待っている者たちの姿が陽炎で歪んで見える。私は一歩ずつ、ゆっくり進みはじめる。ふらふらと、のろのろと、這うように、前へ。

「泡」の日々だからこそ、衝動に駆られるというのも、わからなくはないのだが、それにしては、「先輩」と風俗店を訪れる金曜日が特権化してしまったのではないだろうか? あるいはそここそがこの小説だったというなら、それまでが長すぎる。余計な部分が多過ぎた。「先輩」のエピソードも含めて「泡」のままであったなら、説得力を持ち得たかもしれない。

この物語が過去語りのスタイルを書き出しで表明していれば、「私」は衝動のままになったわけではないことを、読者はしっている。そして、「恩寵のように感じられ」る出来事に落ち着いてしまう。

タイトルの泡のような日々が描きたかったのか、恩寵のような出来事が描きたかったのか? 泡のような日々のなかで起きた恩寵のような出来事が描きたかったのだろうな・・・。それには、それらの配分がチグハグだった気がする。
私としては、泡のような日々の、ある意味退屈ですらある書き方に面白さを感じていたのだけれど、後半はそれが失われて、物語に堕ちたように思えてならない。

そういえば、時間のなさといい、後半の物語化といい、納富さんの「水の音」を思い出さないでもないけれど、時間の曖昧化の仕方には、こうした遣り方もあったのだなぁ。勉強になった。



ちなみに「てくる」は文學界2008年12月号掲載の「全国同人雑誌リスト」によれば、大阪市で発行されている同人誌で、

「てくる」はてくてく歩く、手で糸を繰るようにして、ことばをたぐり寄せ、HPやブログが闊歩する世の中で、敢えて同人誌という形式にこだわっていたい人種の集りです。
とのことです。

それにしても、Lydwineさんの記事を読んで、私も光野さんの「日々の泡」を読んでみたくなりました。個人的にお願いして「てくる」を送っていただくよりも、光野さんの了解がいただければ、Lydwine.さんが推薦者となって、デジタル文学館へお入りいただいたほうがいいのではありません?  (^_^;)

カテゴリー:てくる

Lydwine.さんの読書雑記の、このページで取り上げられています。
以下に全文を引用させていただきます。


読破したのだから、楽しんだわけだが、今ひとつ乗り切れなかった。どうも長い小説の梗概のようにも、あまりに長い時間を短くまとめてしまった感がある。そのまとめ方は、こなれているとも言えるし、場面も作り出してはいるのだけれど、山がなくて、淡々と、あるいはダラダラと読まされてしまった。三人称ながら寄り添いどころをふたつもち、いわばふたつの視点で書かれているのだけれど、それは寺山さんの前作「矜持」がそうだったように、その往還の具合が、今ひとつ足りないと感じられる。往還のたびに、章を分けてしまうあたりも弱いのではないだろうか。前半が京三に寄り添ったまま長すぎて、5章で芳乃に移ったときには唐突の感があり、じつは京三だけで描きたかったけれど、それでは語りたいことが描き切れないから、芳乃も描いたといった妥協的な身振りに見えてしまったのだ。
その中で、ふたりをひさしぶりに対峙させて、互いの視点を往還した10章は、寄り添いどころを持たないのではなく、寄り添いどころをコロコロと変える三人称を実践したと言える。この章の書きぶりを進展させたら、なにかが産まれてくるかもしれない気はした。それでも、語りが誰かに寄り添わずにいられないことが、心理描写に終始して、風景を見せてくれないことにも不満が残る。せっかくひとところに寄り添いきらぬ三人称を選択したのであれば、寄り添うことをやめて、俯瞰してしまう度胸も欲しかった。

 馥郁......ありきたりな言い方しかできないのは不満だが、やはり牡丹は百花の王、西洋の花などとは断然違う。そう思って眺めるうちに、ふと、芳乃の実家の中庭で見た牡丹を思い出した。

主格としての京三が省かれ、まして最初のセンテンスは、続く「そう思って眺める」のが京三に違いなければ、京三の心内語であり、いわば主格を欠いた自由間接話法だが、牡丹が見えてこない。自由間接話法の不自由さの一端がここにある。

最後の最後に、物語の中に一度だけ現れた京三の友人を、わざわざもう一度引き合いに出してみせる仕儀を見ても明らかなとおり、寺山さんは、丁寧なのであり、そしてとても慎み深いひとなのだろう。三人称を選択しながらも、京三や芳乃に語らせて、語り手の気配を慎重にも丁寧にも消してしまうのだ。
この小説は、晩年の場からはじまり、上の引用が「思い出した」という語尾を持つとおり、章を改めてはいるが、その直後に、物語の場は芳乃の家をはじめて訪問した日に遡るのだから、全体としては回想の構造であり、それなら、語りつつある場は絞られているように見えなくもない。例えば、その芳乃家初訪問の場が下だ。

 はじめて芳乃の実家に行ったとき、庭に牡丹が咲いている奥座敷に通された。古い大きな牡丹の株に大輪の花が咲いて貫禄があった。まわりを若葉の生垣にかこまれていたから、余計に鮮やかに感じたのだと思う。そのときから、この花が好きになった。だから井の頭公園近くに家を建てたとき、真っ先に玄関脇に牡丹の木を植えようと提案して芳乃を喜ばせた。

牡丹を頼りに時間を遡りながら、見えかけた風景をあっさりと遣り過ごして、家を建てる話にまで早急に時間が飛んでしまう。すると、この一篇の小説は、あたかも京三の半生回顧譚の様相を呈していると言えないだろうか? にもかかわらず、京三が知らないはずの芳乃の思いが入り込んでしまう。ここにはいかんともしがたく構造上の違和感がある。一人称ではないのだから、構造の破綻とまでは言えず、だからこそこれもまた面白い試みだと言えば言えなくはないのだが、だからこそ、影のように、幽霊のように、あるいは神のように、三人称の京三や芳乃を語るものの気配があったなら、成功したかもしれないと思う。
では、影のように、幽霊のように、あるいは神のような語り手の気配はどうすれば実現するだろう? その都度、風景を見せて欲しかったのだ。描写するもの、風景を語るものが、語り手になり得るのではないか、と思う。抽象的な言い方をすれば、その場の空気だろうか? 互いの感情の機微とその変化が書きたかっただろうし、そのためにこそ、京三のみならず芳乃にさえ寄り添っていくのだが、そのときに、牡丹や、あるいは芳乃が作り始める人形が立ち上がってこない。なぜならそれらが、京三や芳乃の言葉だからだ。京三や芳乃の在り様を語るばかりで、京三や芳乃の在り様とは別にも存在するはずの牡丹にせよ人形にせよ、あるいはベトナム料理にせよ、その色彩や形や匂い、味が感じられない。読者がその場に立ち会えないのだ。
そして、それこそが、梗概を読むように感じさせてしまうのではないだろうか。

とはいえ、齧り読みのなかから、読了に至った小説であり、その牽引力はなんだったろうか、と言えば、由紀子という、京三が単身赴任先で手を出してしまった人妻にして、その挙句に芳乃と別れて、再婚する相手の、なんとも生々しいほどに普通の科白、在り様だった。小説は、ときに、あるいは往々にして、語りが寄り添わない人物こそが魅力的だったりする。なぜなら、その心理とか、背景が謎のままで、その科白などから、読者は想像を掻き立てるしかないからかもしれない。この小説の由紀子の科白には、深みなど感じさせず、謎などないのだが、そうした由紀子という人物の在り様を、科白から読み取るのもまた、読書の愉しみの一端だ。



(なお、作品は文芸誌O、43号)で読めます。

カテゴリー:文芸誌O

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