「岩漿」25号(伊東市)

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2017年7月20日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「檸檬の木のある風景が」偲優一】
 私立高校の常勤講師を長年にわたって勤め、三年前に定年退職した「私」は、あてもなく町を歩く。同時に人生の越しかたを振り返る。
 「お祭りのような繁華街を抜け2時間ほど歩いていくと公園があった。遊具一つ無く、人ひとりいない小さな公園である。染井吉野の根元に血しぶきのように咲いているのは曼珠紗華。
 」ここに一つの伏線がある。死が目の前に横たわる意識を表す。そして、街歩きしながら、過程のこと、家族のことなどが、思い起こされる。すべて普通に順調な平凡な人生の過程が思い起こされる。だが、懐には、佳き妻であった彼女への離婚届が入っている。
 そして、この小説の小説らしさ示す箇所がある。
 それは立ち寄った画廊に飲みかけのペットボトルを置き忘れ、キャップを開けたまま忘れたことを思い出すのである。これが「私」の存在感を感じさせるのである。
 それに追い打ちをかけてーー刑法上の違法行為をしない限り刑罰を科せられないーーという条文をしめす。終章で「人の往来がまばらになり、街灯の間隔が遠くなり、星ひとつ見えない。ポシェットには二か月分の抗うつ剤と睡眠導入剤が入っている。5メートルほどの紐も入れてある。あの公園に水道はあるし、枝ぶりのいい染井吉野もある」で締めくくる。――社会的な参加のない老年の死をまつというか、憧れる情感を、きちんとした骨格にするための計算の行き届いたニヒリズムに満ちた完成度の高い文学的作品に読めた。
発行所=〒413-0235伊東市大室高原9?363、小山方「岩漿文学会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:岩漿

「異土」第14号(生駒市)

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2017年7月 9日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【評論「S・ベケット『ワット』―世界の意味が喪失するときー」紀井高子】
 冒頭にサミュエル・ベケット(1906?1989)の解説がある。アイルランドのダブリンで生まれた劇作家・小説家で、「ワット」は1943年に執筆され、1953年に出版された彼の2冊目の小説である。当然、「ユリシーズ」のジョイスと親交があって影響を受けたとされる。この同じ年に日本では、松本清張が『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞しているので、ごく近代の作家なのである。
 本誌の評論には、他にも、中里介山や火野葦平に関するものがある。「シラーの美的国家」論なども、安倍首相の好きな美しい日本とどう違うか興味深い。
  そのなかで、ベケットのこの評論では筆者が、前回の本誌でJ・M・クッツエーがベケットの「ワット」と「名づけえぬもの」を高く評価しているという評論を読んで書く気になったという。ベケットも彼もノーベル文学賞受賞作家である。
 自分も、いったいどれだけの人がベケットの「ゴドーを待ちながら」の演劇を観たり戯曲を読んだりしてるか、と思いながらこの評論を読んだ。よくぞ、書いてくれたという感がある。
 自分は、ある事情により 白水社の小説三部作(「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」)全3冊セットを持っていた。それも新本を買っていた。ジョイスの「ユリシーズ」は古本であったのに、である。これを読み切るというのは、自分の通常の生活であり得ないことだが、内容の理解はとにかく読んだのである。独白文体の効果や、物語にしてしまうと、表現から抜けて落ちてしまう思考を展開する作家がいることを知った。
  しかし「ワット」という作品について読んでいないので、大変参考になった。同時にベケットを読み耽った時代を懐かしく思い出した。
 それは、ともかく、紀井氏の解釈を読むと、人間のもつこの世界への認識把握というものの不確定についての確信を描いたものらしい。文学的に見ると、事実として、世界が不確定であるところに、確信はない。だが、不確定であると捉えた認識については、確信することがあるのだ。わけのわからない内容の小説に、その意味づけを他人に説明できないが、わけのわからない作品でした、とは説明できるのである。
 小説とは現象を描くことで、この世界の存在の意味付けを、いろいろなパターンで認識させ、それを深める機能がある。しかし、どうとらえても存在世界の全体を「知りえないこと」があるのを認識できるのは確か。
 この評論による「ワット」の引用に円を描いた「絵」の項目がある。そこに――無限の空間と無限の時間のなかをそれぞれある中心とその円を求めているのだと考えた時、ワットの目には押さえがたい涙であふれた(中略)彼の気分をたいへん爽快にしてくれたーー(「ワット」白水社/高橋康也・訳151ページ)とある。
 まさに、道元の「心身脱落」の姿を想い浮かべた。同時に、時間は常に現状の変化を強要し、人間はそれに逆らってもがくということか。まさに「ワット」は、「ホワット?」かも知れない。
発行所=奈良県生駒市青山台 342-98、秋吉好方、「文学表現と思想の会」
発行者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

<2017年07月09日 (日)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「檸檬のある風景画」偲優一】
主人公が背負ってきた、また今も背負っている不幸が綴られています。そんな人生での主人公の現実社会との距離の取り方や物事の捉え方がよく解ります。読者としては、結末が厳しすぎるように感じました。冒頭での情景描写や行動に、淡たんとした無欲で穏やかな日びを想像しました。不幸でも八方ふさがりでも生きてゆかなければならない。そんな現実を期待しながら読み進んだのですが。

カテゴリー:岩漿

2017年7月 8日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「SODMY」中野薫】
 主人公の「僕」は、オックスフォード大学を出た長身金髪碧眼の英国人。京都にいて、英語教師をしながら能の研究をしている。ホモである主人公が、少年を求めて、古都を徘徊する話。サトシという日本人の男と知り合うが、まだ深い付き合いに至らない段階で話は終わる。白人の「僕」のゲイ嗜好を日常化したものとして描いたmのであろう。現在の性的マイノリティLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の社会的な認識が進んだ時代に合わせたものであるとしても、タイトルが宗教的な視点での表現で、作品に描かれたイメージとどこでマッチするのか、考えてしまう。
【「万華鏡」有森信二】
 日本社会が、高度経済成長に入ろうとする時代。作者の少年時代と重なるのであろうか。近代社会の後半の、農村社会の共同体のなかの家族の世界を描くことになると、作者の表現力は突出して素晴らしくなる。農家の子供である姉の美奈と弟の喬の姉弟愛が中心である。
 そのなかに、父親の妹である幸子が病弱で、働けず同居している。多少の家事手伝いをするが、喬はこの叔母が遊び相手をしてくれるので、好きである。
 いわゆる「みんな」意識で生活をし、支え合って生きた家族たち。父親と母親と子供たち、それに家長の妹が、作者の優れたリアリズム描写によって、生産関係に組み込まれた家族というかつての構造を、手堅い造型師の建造物のようにしっかり浮き彫りにしている。
 小説では家長制度のなかで、長男は喬であるが、まだ身体が出来ていないので、姉の美奈が水汲み労働を行う。喬は農業の家業を継ぐ長男としての役目を親から要求される。日本社会が脱農業化に変化しているのを察知したのか喬は農家を継ぎたがらない。
 そのことを象徴するように、父親が村人と酒を飲んでは、このところはみんなサラリーマンになっていると愚痴る。
 時代は、農業から工業へ人口移動がすすみ、核家族が進む。親がサラリーマンなってしまうと、子供は生産活動に参加できない。せめて買い物を手伝いするのだが、それは苦痛の伴う労働ではなく、消費者としてお客様として扱われる。
 核家族になれば、共同(みんな)で使っていた生活用品が、個人別に必要になる。住居も核家族すると足りなくなる。膨大な消費が生まれる元である。国内需要の増大によって、経済の高度成長時代がここから始まる。
 ここには、前世代にの生活スタイルが性格に描かれている。作者の眼は、世代断絶した我々の社会構造の変化の実態をよく表現されている。事件も何も起きないが、しっかりとしたリアリズム手法で描かれた作品なので、共感をもって読ませられる。
【「あちらこちら文学散歩」(五)】井本元義】
 ここでは、詩人から俗世界の商人になったランボーの足跡をたどる旅が記録されている。楽しめる読み物である。俗物である私でさえ、堀口大学の翻訳で、作品を読んでいる。本作の冒頭で、昨年にランボーの関係した拳銃がオークションにかけられた話があるが、これはたまたま、詩人の堀内みちこ氏も「ランボー小論」(個人誌「空想カフェ」23号、2017年6月発行)で、AFP通信2016年12月1日の記事を紹介している。井上氏は、その口径7ミリ六連発リボルバー銃の写真を掲載している。
 詩人から生活人に人生の舵を切ったランボーの話は、おそらく長く人々の関心をひくことであろう。
【「静かななる本流」井本元義】
 文学的表現力が抜群で、文章そのもので読みごたえがある。長篇の一部らしいが、まとまっていなくても、作者の文学性のこだわりが、伝わってきて退屈することがない。
発行所=福岡県太宰市観世音寺1?15?33、(松本方)「海」編集委員会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:海(第二期)

「文芸中部」105号(東海市)

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2017年6月30日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌を手にすると、常連の作家の名が多くある。皆うまく書いているのだろうな、という先入観が生まれる。水準が安定しているのだ。100号が第6回富士正晴全国同人雑誌賞の特別賞を受賞したのも、雑誌の歴史的役割と作品の水準が高いところで安定しているのが、評価されたのであろう。
【「三人二題」三田村博史】
 文学論とかつての同人雑誌の活動を折り込んだエッセイである。辻原登「東大で文学を学ぶ」のなかで、「模索」(バスティ―シュ)を文学における最も重要な手法」と位置付けていることを軸にして紹介。横光利一が提唱した「純粋文学論」のなかでの、通俗小説の二大要素は偶然性と感傷性とかによってこそ生きるという説にふれている。そこで、辻原の通俗小説の偶然性は、快く読みやすいとしながら、現実生活における偶然性は、恐ろしいという。
 ドストエフスキーの作品の独自性を、ジイドとともに、この世界における偶然性と現実に光を当てようとしたと、引用をしている。
 現代において、文学的な視点での手法や価値観は、人々の持ち時間でみると、通俗小説の簡便さに比べ、世界への問題意識や認識のあり方を考えるには、時間を長く消費させるものがある。多忙である。
 これによって、文学的な芸術性に関心を持つひとは、減少傾向にある。作家を業をする人は、一定の読者の獲得が必要であり、同人誌作家は、同人仲間の評価を無視出来ない。
 そのなかで、独自の文学性を模索するには、ある程度の信念と意思の強さが求められるであろう。
 本エッセイでは、清水信氏の同人誌評が関西で大きな役割を果たしたことや、その後の「東海文学」などの動向について触れている。
 自分は、同人誌紹介をはじめたのは、文芸愛好家の作品から社会情勢を観察しようという意図があってはじめた。贈呈へのお礼を兼ねて、紹介文を書いてきたのだが、義務という感じではない。「文芸中部」を読み始めたのは、井上武彦氏の晩年の作品が読めたころで、神と人の生死の認識を深めるような作風に、純文学性を感じた。まもなく亡くなったことを知った。世の無常を感じたものだ。紹介しても無為のような気がしないでもないが、なにもないより、ましであろうと思う。また、各地の文学市民の生活環境が見えるので、興味は尽きない。
【「磨く」丹羽京子】
 主人公の「私」は、空港の清掃会社の現場で働いて20数年の女性。46歳になるが独身である。他人には蔑まれながら、磨くことは嫌ではなく、転職することもなく、仕事第一でやってきた。両親はすでに亡くなり、裕福なところの嫁いだ友人に、現場で出会ってしまう。そこで、彼女の義父の家の清掃を臨時で頼まれる。頑固なところのある老人らしい。
 頼まれた義父の家の仏壇が立派なのに感心しながら、手を抜くことなく、片付け清掃をする。すると、その老人から結婚を申し込まれる。それを軽くいなして、役目を終わらす。
 その後、その義父が亡くなったことを友人から知らされる。
 清掃の手順が手際よく描かれ、面白い。また、友人や義父の人物像も適度に描かれている。現代の独身アラフォーの生活スタイルが、表現されている。一種の社会の下層にいながら、それを自分の世界と割り切った精神が、作品をまろやかにしている。アクセントを弱めた書き方が、地味な印象を与える。とくに「私」の心情が、掃除好きだけ、でしか表現しないのは、物足りないところがある。だた、偉くなったり、裕福になるより、落ち着いて生活を優先する世相の風を代表するようなところを感じさせる。
【「愚痴る」堀江光男】
 詩となっているが、少年時代の弟と姉の記憶から、老いて亡くなるまでの、時の流れと情念を断片として並べる散文である。叙事詩であるが、省略をした散文で文学性がある。辻原のいう「模索」のひとつにして欲しい。
【「四人で一緒に」堀井清】
  独自のスタイルをもつ作家で、静かでなめらかな文章が、いつもの個性を感じさせる。話は、友人の妻と不倫を続けている男が、その秘密を同僚に知られて、脅迫的な存在になる。いつまでそれを続けるのか、と問われる。だが、当人には答えられない。そのうちに、不倫相手の夫が、それに気づき、妻にも知られる。男は友人に妻と不倫をしたらどうかという暗示的な提案をし、そうなる。それからどうなり、どうするかは不明なまま、話は終わる。当初から、行く先の知れない行動を描くことを、理解させながら、それを納得させるような文学的な作品。
発行所=〒477?0003愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:文芸中部

<2017年06月29日 (木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「ステレオ-タイプ」中尾哲也】
昭和40年代が舞台です。子どもの頃に個人が背負った戦争の傷みが描かれています。その傷を社会の問題として理論的に論じる妻の発言が、傷の本質をより強調しています。文章の完成度が高く、情景描写が内容と合わさって作品世界が伝わってきます。

カテゴリー:鳥語

2017年6月19日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は、日本民主主義文学会・代々木支部のサークル誌で、年1回刊行とある。
【評論「『シンゴ・ジラ』は何を進化"させたか???続・怪獣映画のリアリズム考」谷本諭】
 非常にわかりやすく、主張のはっきりした評論である。まず映画の「シン・ゴジラ」(総監督:鹿野秀明、監督:樋口真嗣)が、2016年に公開され興行収入82億円の大ヒットになった。「日本アカデミー賞を」の最優秀作品賞、最優秀監督賞など7部門を獲得。いわゆる怪獣映画が、この栄冠を得るのは、史上初。さらに「毎日映画コンクールの日本映画大賞、「ブルーリボン賞」の作品賞など邦画各賞を総なめににし、歴史ある「キネマ旬報」の国内映画ランキング(2016年期)でも、「第2位」に選ばれているーーなど。
  続編なのに、きちんと理解できるように、説明がある。その評論の方向は、自衛隊を美化しているように観られてしまうか、政治的な意図を読みとられてしまうかなど、映画文化における社会的な意味性について論評されている。
 わたしは、「新世紀エヴァンゲリオン」の監督・脚本の鹿野英明が総監督であるから、ヒットしたのであろうと思うくらいで、また映画の意味性の議論もいわゆるマニアの世界のことと受け取りながら、関心を寄せなかった。もちろん映画もみていない。しかし、これを読んで、現代カルチャーの問題とする意味性について、概略を知ることができた。大変に勉強になった。
【エッセー「ビバ!『逃げ恥』リアリズム」谷本諭】
 これは同じ筆者のエッセーである。TBSTVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を「逃げ恥」と略して、話題になっていることは知っていた。が、ここにその魅力と各回の概略が記されていて、実にわかりやすく、面白い。内容紹介のまとめ方や、社会的なメッセージについて語るところなど、じつに手際よく解説してくれている。自分の作品紹介ぶりが、どれほど不器用で下手であるかを思い知らされた。とにかく、500円で読めるのだから、お勧めである。才能ある社会文芸批評家の起用をする北村編集者の柔軟な発想に敬意を感じてしまう。
 このほか、【エッセー「星野源が福山雅治とキムタクを超え、植木等になる日」コングロマリット橿渕】、【エッセー「小説で読むブラック企業と労働組合」北村隆志】など、エッセーと称しなが、前者はカルチャーを、後者は労働者たちの現代社会環境動向を良く表現した小評論に読める。
 ちなみに、友人と待ち合わせをするため喫茶店でこれを読んでいたら、友人がこの本を手に取って、「ぼくに貸してよ。これには読みたいものがある」といったので、「読んだあとでね」と言ったものだ。要するに、文学がカルチャーとして、ほかのジャンルに負けてしまっている現状からすると、その他のジャンルに乗り込むための文学性が必要だということを強く認識させられるのである。
発行所=〒調布市上石原3?54?3?210、北村方。「日本民主主義文学会代々木支部。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

「異土」第14号(奈良県)

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2017年6月18日 (日)(*)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 毎号大変充実した作品群が詰め込まれているが今号も300頁を超える冊子となっている。
 注目したのは秋吉好氏の作品「松永軍記」と松山信慎介氏の作品「甦る火野葦平と戦争文学」である。
 171枚の力作である火野葦平作品論は、戦争協力作家として戦後に追放された事に言及している。
 現在私が同人誌に郷土作家として発表予定の古山高麗雄(1920年- 2002年)の紹介でも重複するので後述したい。
 ここではもう一つの秋吉氏の作品を紹介することにしたい。
 政権基盤の脆弱な室町幕府を揺さぶり戦国時代の幕を開けた応仁の乱の当事者の一人の臣下の物語。
 室町幕府の二大巨頭。細川と山名。日本国の六分の一を所有する六分の一衆と言われ細川勝元。
 そして以後は国元の四国の統治をおこなうそ家老の三好氏が実権を握りのし上がってきた。
 京都の室町幕府を牛耳る三好氏。しかし更にその家老の松永氏が台頭する下剋上の戦国時代。
 その松永久秀の実態に迫る142枚の連載長編が今号では一番の興味をそそられた。
 かつては「歴史読本」等の月刊誌があり図書館で手軽に読めたので歴史ファンとして読んでいた。
 廃刊となり日本史関係雑誌が身近になく、この作品を興味深く学びながら読ませてもらった。
 氏は奈良県在住で当誌の発行人としての重責を果たしながら多くの作品を生み出している。
 徳川家康・豊臣秀吉などの歴史上の有名人は多くの作品になり読者も多い。
 私も新聞連載になった津本陽氏の織田信長記「下天は夢か」は毎日欠かさず読んでいた。
 しかし近畿地方の戦国大名の松永氏についてはあまり興味がなかった。
 「異土」が毎回送付されてくるので読みふけり松永ファンになりそうである。
 武士階級が平将門等で世に出た奈良時代から実力を蓄え平氏と源氏が時代の主役になった平安時代。
 そして源氏の鎌倉幕府。貴族階級の復古勢力による反攻期の南北朝時代後を抑えた足利尊氏。
 その足利幕府を支えた細川氏の家来たちの歴史としてこの作品を細かく読み込んでいる。
源平藤橘の話 源平藤橘とは日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏を まとめた言い方である
 源平藤橘(日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏を まとめた言い方)として現在まで日本の名家であり支配階級の根幹として連綿と続く家父長制度。
 日本人とは何か。それを基調にした視点で足利家の歴史の読みを行っている。
 発行所=奈良県生駒市青山台 342-98、秋吉好方、「文学表現と思想の会」(発行日=2017年6月)
紹介者=外狩雅巳・文芸交流会事務局長

「奏」34号・2017夏(静岡市)

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2017年6月16日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「評伝藤枝静男(第一回)」勝呂奏】
 表題の郷土の私小説作家の詳細である。冒頭に講談社文庫に藤枝の短編集が2点刊行されていることに触れ、没後も一定の愛読者が存在することの現象として捉えている。
 たしかに、私自身も「悲しいだけ」をもっているし、それ以前に幾つかの短編を読んでいた。40才頃から執筆しはじめた藤枝の作品が、師とする志賀直哉とほぼ同量の作品を残した、と指摘しているのには驚いた。なぜ、藤枝静男の作品が意外にも? 読まれるのか。自分はその理由は、家族関係が題材になっていることが多いことだと思う。
 家族関係は、人間生活の基本的な構造に由来する。したがって、読み物好きには、興味深く感じる。場合によればもっとも大衆的な素材である。人間の好奇心に訴える物語にミステリ―小説があるが、それと同等な世間話的な家族関係も大衆的な魅力がある。横溝正史の長編推理小説。「金田一耕助シリーズ」の大ヒットもそうした両面をもっているためであろう。
 同時掲載の【「藤枝静男『家族歴』ノート」勝呂奏】と合わせて、藤枝の家族関係の細部は、愛読者には参考になる労作である。
 本論一部を読んで、私なり注目したところを上げてみると、まず藤枝の自我の形成についての手掛かりがある。人間の自我形成は幼児期にあると見るので、これによる藤枝の自我形成には、祖父や兄によって、愛情を与えられて、そこから無意識な自己肯定の基礎ができたこと。
 同時に、人間像へのイメージが尊敬する先輩や偉人の姿に置くという理想主義があって、彼の自己肯定感を満たすには、この境地に達すること、というビジョンがあったこと。
 そのために、自己批判と自己否定感の影を負っていたと見える。常にそれと向き合っていただけに自分は自分という自己肯定感によって、困難に打ち勝つ精神が確立された。志賀直哉の我儘にも見える自己肯定の精神に藤枝が同感したのも道理である。
 これと対象的なのが、太宰治で、裕福な家庭内ありながら、家族からどこか充分な愛情を受けているという、充足感を知らず、愛情不足を抱えた精神が形成されたのではないか。無意識に抱く世界感について、寛容性を感受するより、不公平感を持つ。僻みっぽく、自己肯定的精神が弱い。他者の気分を伺い、それに感情が左右される感受性が生まれる。太宰治の文学的才気の繊細さと、藤枝の図太いような作風は対照的である。
 今後はそれに関連した話題として、示唆されると思うが、藤枝の私小説が、ただ事実をもとにしただけでなく、そこから次元を超えた日本の風土に根差した異次元世界への展開を含む、想像力による手法に果敢に挑戦したところが魅力であろう。
【「小説の中の絵画(第六回)太宰治『キリギリス』(続)妻の願い」】
 太宰の作品にこのような絵画の場面があるとは知らなかった。妻の独白体の引用文を読んでも、女性の感性を表現するのが巧いし、女性の孤独感より、夫の孤独感が想像させるのは、やはり巧さと才能を感じるしかない。
発行所=〒420‐0881静岡市葵区北安東1?9?12、勝呂方。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

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「群系」38号(東京)

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2017年6月14日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の36号が第6回富士正晴全国同人雑誌賞の大賞を授賞した。この賞は、徳島県三好市が郷土出身の作家・詩人の富士正晴を顕彰して同人雑誌に特化した賞で、地元で授賞式を行うことで、文学祭のような町おこし効果もあるようだ。特別賞に「水路」第20号、「文芸中部」第100号(名古屋)が授賞している。
 「群系」は文学史に残るような作家、作品の評論が主で、それが評価されたようだ。そのなかで小説もいくつか掲載されている。
【「青いアネモネからの風」荻野央】
 冒頭から「妻が交通事故で頭を強く打って意識不明となったその年の暮に、妹の亭主が自殺した。続けられたふたつの不幸によって今年の正月は、感傷が二重になってなまなましく、わたしにはきつかった」という説明があり、それを前提とした50代「私」の精神にかかわってアネモネの存在の様子が語られる。
 状況はかなり憂鬱な雰囲気にあるが、しかし、アネモネを観察観賞し、その美的な感覚を楽しむ「私」は、冷静な側面が半分あるようで、虚無的な精神から距離を置いている。散文詩的な感覚に、世俗的な出来事を組み合わせたもの。アネモネの存在する空気世界は、透明性をもった文章で光を帯びて明るい。詩的な一つの定型である憂愁のなかに、世界を悲観的なものとして受け取めない作者の向日性をもつ個性が良く出ている。
【「会長のファイル5『地縁・血縁』」小野友貴枝】
 市の公益社団法人・社会福祉協議会(市社協)の会長に就任した英田の組織改革の活動に向けた、地域の風土との調整の苦労を語る。地域の民間福祉団体が、各自治会を通じて会費が入っていることや、各種の利益還元もあり、会長はベテラン部下のすすめもあり、自治会の幹部に運営資料を届けるため、自宅訪問を行う。
 能率の良くない不合理なしきたりだが、実行してみるとそれなりに、風土と結びついた福祉活動の実体験として学ぶものを感じる。地域の民間福祉団体の組織活動の内部の実相が良く反映されて描かれている。実体験であるが故の曖昧な表現が、かえって想像力を働かせる余地を生み出し、それが多くの含みをもって、面白く読める。
【「大豆の戯言」野本恵理子】
 茅ヶ崎から三重県津市の別荘地に引っ越したこと、家族が3人であることなどが記さる。ある日、外出から帰ると煮込んでいた大豆が戯言を言ってるのが聞こえるたという。とりとめのない話だが、こうした断片の連続は、ツイッターの呟きを読むようで、今後の文学的手法の通り道を示すのかも知れないと思えた。
 メインの評論にも、いくつか興味をそそるものがある。いわゆる評論対象の作家について、読者がどれだけ知識があるかにかかる。データ―ベースの多い少ないに読者動向が左右される。その意味で、大衆小説やコミック、流行作家について評するのがてっとり早い。
 最近の「群系」には、そうした動向を掲載した編集がなされているようで、それが良い評価につながるのであろう。
発行所=〒136?0073江東区大島7?28?1?1336、永野方。「群系の会」
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:群系

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