2017年8月 4日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「冬の虹」渡辺光雄】
 1964年の昭和の東京オリンピックが開催される前年。過疎地となった東北の小学校に赴任した若い教師の奮闘記である。経済高度成長の勢いがあった時代ではあるが、そこには、大都市に人口が集中し、農業や炭鉱の産業が置き去りにされた現実がある。
 その地域で、義務教育の平等性をも守って戦った教育者としての矜持を描く。実体験なしでは書けない、数々のエピソードを力強い筆致で展開する。人々の因習と貧困のなかでの物語には、読者をひきつける魅力がある。同時に、豊かさに溺れ、ゆるんだ生活意識との生命力の衰退を感じないわけにはいかない。自然に輝いていた昭和時代の精神と、無理に輝きを作りだしているかのように感じる平成時代を感じてしまった。なぜか、胸につまったものがある。それは、現代におけるこの国の変わらぬ「貧しさへの認識である。
  田坂広志・多摩大学大学院 教授はメッセージメール「風の便り」(96便)で説く。「何年か前、参議院の参考人として招かれ、 議員の方々から、次の質問を受けました。ーー 国の「豊かさ」とは何でしょうか。どうすれば、我が国は、「豊かな国」になることができるのでしょうか。ーー この質問に対して、心に浮かんだのは、 ただ一つの思いでした。 我々は、どこまで豊かになれば、自らを「豊かな国」と考えるのだろうか。その思いでした。ーー
 半世紀を超えて戦争のない国。世界第三位の経済大国。最先端の科学技術の国。世界一の健康長寿の国
 世界有数の高等教育の国。ーー
 人類の歴史を振り返るならば、 かつて、こうした境遇に恵まれた国は、この地球上に存在したことはなかった。
 我が国以上に「豊かな国」は、かつて、存在したことはなかった。そのことに気がつかない。それが、この国の「貧しさ」なのかもしれません。2003年9月1日(田坂広志)。
【「橋を渡った女」牛島富美二】
 教師をしていた高浜が、図書館で昔の教え子の容子と偶然出会う。その容子が、誰かに殺害されていることがわかる。その推理を高浜がするという設定。高浜の視点と容子の視点が別になったような感じで、違和感を感じるところに妙な味わいをもつ。ミステリーでないという前提で読めば、の話だが。
【「再読楽しからずやーウイリアム・フォークナー?ミシッピー」近江静夫】
 アメリカ文学のフォークナーを読まずして、新しい文学の発想はないと思わせるほど、その手法の研究による日本文学への影響が大きかった。懐かしいと同時に、トランプの人種的差別主義で、再び脚光浴びるのかも知れない。アメリカ社会と文学の関係を再認識させるかもしれない、興味深い評論になりそう。
 発行所=〒981-3102仙台市泉区向陽台4-3-20、牛島方、仙台文学の会。
 紹介者=「詩人回廊」北一郎

カテゴリー:仙台文学

2017年7月30日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 この7月の先日まで、町田市で10日間開催した「文芸同人誌展示会」に展示されていた東海大学文学部の部誌である。レイアウトデザインが洒落ていたので、めくってみると、スマートな構成で、読む気にさせる。古典を交えた推奨紹介「デイボディ・ボッシュの洛書架にて」が前菜的な味わいで読書欲を誘う。また、試作品のレイアウトが大変文学性に富んでいる。そして第15回創作コンペ発表があって、伊井直行、山城むつみ、堀啓子。三輪太郎、倉数茂の5選考委員による入選作品が掲載されている。
【「パーフェクト・ライフ」川村和徳】コンペで優秀作となった作品。小児ぜんそく持ちのぼくが、小学2年生以来の千歳というやや生意気な少女と知り合い、数少ない友達になり、その後の思春期を迎えて再会するという、喧嘩するほど仲が良い友情の話。少年時代の出来事を描いて文学性を出すのは難しきものがあるのだが、ここでは、まず自意識という強調することで、ただの回顧による作文と明瞭な1線を引いて成功している珍しい例に読めた。
  余韻をのある雰囲気の作風で、きわどいいところで、文学味をだしているのも希な成果。小学生のころの自らの心理の記憶をたどるというのは、ませていて創作性が強い。選評にも指摘があったが、その分、人物像の統一的表現に不足がある。だが、小児ぜんそくなどアレルギー症状のなかで生活する少年の精神は共感をもって読める。
 その他、」佳作に「永遠の恋人」(北原慎也)、「山中渓」(山下海)、掲載作「美と嘔吐と修羅」(富所亮介)があり、その他、水準の安定した学生選考作品など力作が掲載されている。部員の文学的情熱が結集した充実した内容となっているので感心した。
発行所=〒259-1292平塚市北金目4?1?1、東海大学文学部文芸創作科。
紹介者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一。

「私人」第92号(東京)

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2017年7月27日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「名残の夜空」鳴沢龍】
 これは太平洋戦争で、敗戦国となった日本軍に捕虜となったカナダ人と、戦時には幼児であった日本の会社員との交流記である。語り手「私」は、世界展開している大企業メーカーか、商社のような有力企業の社員らしい。戦時中に、カナダ人兵士が、捕虜となって、強制労働をさせられた。その兵士Aが終戦後カナダに帰国したあと、来日するという。会社の応対が悪いと、反日的な意識を高められても困ると、広報部からその接待係を頼まれる。
 ところが、Aは日本の文化に興味があり、理解者であった。国内の行きたい場所や、会いたい人などの希望をかなえるために、私は奔走する。すると、Aはその取材をとおして、著書を刊行したり、文化表現力を発揮して、母校で成功をおさめる。
 その間の交際をとおして、日本人としての立場からの感情的な、好悪感と兵士Aの感情の動きなどが、細かく語られる。
 A兵士は戦争で、日本軍に虐待された。それを忘れることはないが、強く根に持つても仕方がないというような気分。一方で、「私」は、戦争の世代ではない。しかし、前世代の責任を背負って、応対する様子と、感情的な揺らぎがよく細かく描かれている。
  両者の感情的な応接の様子から、外国人との交際の難しさと、その機微を表現したものとして、優れた作品に思えた。
【「D・H・ロレンスの思い出(六)」尾高修也】
 ここでは、ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」について、その性描写の一部が引用されている。訳し方によっては、卑猥な描写になるようなものだという。そして、粗筋として、夫人コニーの夫クリフォードと、恋人のメラーズが支配階級と被支配階級の対立として描かれていることを解説。結局コニ―は離婚を決意し、メラーズの子供を身ごもっていることをクリフォードに告げる。クリフォードは茫然とする。結局コニ―は、実家に帰り、メラーズも別居中の妻と別れ、二人は別々の場所でお互いに離婚が成立するのを待つ。
 じつは、我々が読んでいる「チャタレイ夫人の恋人」は、三種類あって、二度書き直した末の第3稿であるという。
 その第2稿としての「ジョン・トマスとレイディ・ジェイン」という題で、大沢正佳氏の訳があるというのは、知らなかった。タイトルは、男性器と女性器をイメージさせるものらしい。それでも性愛関係の描写は、「チャタレイ夫人の恋人」の方が、長く露骨だという解説をしている。筆者は本書の特性として「小説の長い語りの末にしるされるのは、男と女のあいだの『小さな炎を信じ』ようという、ごく単純で控えめなことばである。文明論的な大きなことばのあと、日常場面の小さなことばで締めくくられる小説だといっていい」としてる。
 たしかにロレンスは、死と性に関する意識につい、て哲学的な意味での追求を考えさせる思想的傾向もつ。そこに、いわゆる恋愛における不倫関係など、刺激的な要素を取り入れているところは、純文学小説として、思想を小説にする技巧に優れた作家であることを再認識させられた。
発行人=〒364-0035埼玉県北本市西高尾4-133、森方。
紹介者=「詩人回廊」・北一郎。

カテゴリー:私人

「岩漿」25号(伊東市)

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2017年7月20日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「檸檬の木のある風景が」偲優一】
 私立高校の常勤講師を長年にわたって勤め、三年前に定年退職した「私」は、あてもなく町を歩く。同時に人生の越しかたを振り返る。
 「お祭りのような繁華街を抜け2時間ほど歩いていくと公園があった。遊具一つ無く、人ひとりいない小さな公園である。染井吉野の根元に血しぶきのように咲いているのは曼珠紗華。
 」ここに一つの伏線がある。死が目の前に横たわる意識を表す。そして、街歩きしながら、過程のこと、家族のことなどが、思い起こされる。すべて普通に順調な平凡な人生の過程が思い起こされる。だが、懐には、佳き妻であった彼女への離婚届が入っている。
 そして、この小説の小説らしさ示す箇所がある。
 それは立ち寄った画廊に飲みかけのペットボトルを置き忘れ、キャップを開けたまま忘れたことを思い出すのである。これが「私」の存在感を感じさせるのである。
 それに追い打ちをかけてーー刑法上の違法行為をしない限り刑罰を科せられないーーという条文をしめす。終章で「人の往来がまばらになり、街灯の間隔が遠くなり、星ひとつ見えない。ポシェットには二か月分の抗うつ剤と睡眠導入剤が入っている。5メートルほどの紐も入れてある。あの公園に水道はあるし、枝ぶりのいい染井吉野もある」で締めくくる。――社会的な参加のない老年の死をまつというか、憧れる情感を、きちんとした骨格にするための計算の行き届いたニヒリズムに満ちた完成度の高い文学的作品に読めた。
発行所=〒413-0235伊東市大室高原9?363、小山方「岩漿文学会」。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:岩漿

「異土」第14号(生駒市)

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2017年7月 9日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【評論「S・ベケット『ワット』―世界の意味が喪失するときー」紀井高子】
 冒頭にサミュエル・ベケット(1906?1989)の解説がある。アイルランドのダブリンで生まれた劇作家・小説家で、「ワット」は1943年に執筆され、1953年に出版された彼の2冊目の小説である。当然、「ユリシーズ」のジョイスと親交があって影響を受けたとされる。この同じ年に日本では、松本清張が『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞しているので、ごく近代の作家なのである。
 本誌の評論には、他にも、中里介山や火野葦平に関するものがある。「シラーの美的国家」論なども、安倍首相の好きな美しい日本とどう違うか興味深い。
  そのなかで、ベケットのこの評論では筆者が、前回の本誌でJ・M・クッツエーがベケットの「ワット」と「名づけえぬもの」を高く評価しているという評論を読んで書く気になったという。ベケットも彼もノーベル文学賞受賞作家である。
 自分も、いったいどれだけの人がベケットの「ゴドーを待ちながら」の演劇を観たり戯曲を読んだりしてるか、と思いながらこの評論を読んだ。よくぞ、書いてくれたという感がある。
 自分は、ある事情により 白水社の小説三部作(「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけえぬもの」)全3冊セットを持っていた。それも新本を買っていた。ジョイスの「ユリシーズ」は古本であったのに、である。これを読み切るというのは、自分の通常の生活であり得ないことだが、内容の理解はとにかく読んだのである。独白文体の効果や、物語にしてしまうと、表現から抜けて落ちてしまう思考を展開する作家がいることを知った。
  しかし「ワット」という作品について読んでいないので、大変参考になった。同時にベケットを読み耽った時代を懐かしく思い出した。
 それは、ともかく、紀井氏の解釈を読むと、人間のもつこの世界への認識把握というものの不確定についての確信を描いたものらしい。文学的に見ると、事実として、世界が不確定であるところに、確信はない。だが、不確定であると捉えた認識については、確信することがあるのだ。わけのわからない内容の小説に、その意味づけを他人に説明できないが、わけのわからない作品でした、とは説明できるのである。
 小説とは現象を描くことで、この世界の存在の意味付けを、いろいろなパターンで認識させ、それを深める機能がある。しかし、どうとらえても存在世界の全体を「知りえないこと」があるのを認識できるのは確か。
 この評論による「ワット」の引用に円を描いた「絵」の項目がある。そこに――無限の空間と無限の時間のなかをそれぞれある中心とその円を求めているのだと考えた時、ワットの目には押さえがたい涙であふれた(中略)彼の気分をたいへん爽快にしてくれたーー(「ワット」白水社/高橋康也・訳151ページ)とある。
 まさに、道元の「心身脱落」の姿を想い浮かべた。同時に、時間は常に現状の変化を強要し、人間はそれに逆らってもがくということか。まさに「ワット」は、「ホワット?」かも知れない。
発行所=奈良県生駒市青山台 342-98、秋吉好方、「文学表現と思想の会」
発行者=「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

<2017年07月09日 (日)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「檸檬のある風景画」偲優一】
主人公が背負ってきた、また今も背負っている不幸が綴られています。そんな人生での主人公の現実社会との距離の取り方や物事の捉え方がよく解ります。読者としては、結末が厳しすぎるように感じました。冒頭での情景描写や行動に、淡たんとした無欲で穏やかな日びを想像しました。不幸でも八方ふさがりでも生きてゆかなければならない。そんな現実を期待しながら読み進んだのですが。

カテゴリー:岩漿

2017年7月 8日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「SODMY」中野薫】
 主人公の「僕」は、オックスフォード大学を出た長身金髪碧眼の英国人。京都にいて、英語教師をしながら能の研究をしている。ホモである主人公が、少年を求めて、古都を徘徊する話。サトシという日本人の男と知り合うが、まだ深い付き合いに至らない段階で話は終わる。白人の「僕」のゲイ嗜好を日常化したものとして描いたmのであろう。現在の性的マイノリティLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)の社会的な認識が進んだ時代に合わせたものであるとしても、タイトルが宗教的な視点での表現で、作品に描かれたイメージとどこでマッチするのか、考えてしまう。
【「万華鏡」有森信二】
 日本社会が、高度経済成長に入ろうとする時代。作者の少年時代と重なるのであろうか。近代社会の後半の、農村社会の共同体のなかの家族の世界を描くことになると、作者の表現力は突出して素晴らしくなる。農家の子供である姉の美奈と弟の喬の姉弟愛が中心である。
 そのなかに、父親の妹である幸子が病弱で、働けず同居している。多少の家事手伝いをするが、喬はこの叔母が遊び相手をしてくれるので、好きである。
 いわゆる「みんな」意識で生活をし、支え合って生きた家族たち。父親と母親と子供たち、それに家長の妹が、作者の優れたリアリズム描写によって、生産関係に組み込まれた家族というかつての構造を、手堅い造型師の建造物のようにしっかり浮き彫りにしている。
 小説では家長制度のなかで、長男は喬であるが、まだ身体が出来ていないので、姉の美奈が水汲み労働を行う。喬は農業の家業を継ぐ長男としての役目を親から要求される。日本社会が脱農業化に変化しているのを察知したのか喬は農家を継ぎたがらない。
 そのことを象徴するように、父親が村人と酒を飲んでは、このところはみんなサラリーマンになっていると愚痴る。
 時代は、農業から工業へ人口移動がすすみ、核家族が進む。親がサラリーマンなってしまうと、子供は生産活動に参加できない。せめて買い物を手伝いするのだが、それは苦痛の伴う労働ではなく、消費者としてお客様として扱われる。
 核家族になれば、共同(みんな)で使っていた生活用品が、個人別に必要になる。住居も核家族すると足りなくなる。膨大な消費が生まれる元である。国内需要の増大によって、経済の高度成長時代がここから始まる。
 ここには、前世代にの生活スタイルが性格に描かれている。作者の眼は、世代断絶した我々の社会構造の変化の実態をよく表現されている。事件も何も起きないが、しっかりとしたリアリズム手法で描かれた作品なので、共感をもって読ませられる。
【「あちらこちら文学散歩」(五)】井本元義】
 ここでは、詩人から俗世界の商人になったランボーの足跡をたどる旅が記録されている。楽しめる読み物である。俗物である私でさえ、堀口大学の翻訳で、作品を読んでいる。本作の冒頭で、昨年にランボーの関係した拳銃がオークションにかけられた話があるが、これはたまたま、詩人の堀内みちこ氏も「ランボー小論」(個人誌「空想カフェ」23号、2017年6月発行)で、AFP通信2016年12月1日の記事を紹介している。井上氏は、その口径7ミリ六連発リボルバー銃の写真を掲載している。
 詩人から生活人に人生の舵を切ったランボーの話は、おそらく長く人々の関心をひくことであろう。
【「静かななる本流」井本元義】
 文学的表現力が抜群で、文章そのもので読みごたえがある。長篇の一部らしいが、まとまっていなくても、作者の文学性のこだわりが、伝わってきて退屈することがない。
発行所=福岡県太宰市観世音寺1?15?33、(松本方)「海」編集委員会。
紹介者=「詩人回廊」北 一郎。

カテゴリー:海(第二期)

「文芸中部」105号(東海市)

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2017年6月30日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌を手にすると、常連の作家の名が多くある。皆うまく書いているのだろうな、という先入観が生まれる。水準が安定しているのだ。100号が第6回富士正晴全国同人雑誌賞の特別賞を受賞したのも、雑誌の歴史的役割と作品の水準が高いところで安定しているのが、評価されたのであろう。
【「三人二題」三田村博史】
 文学論とかつての同人雑誌の活動を折り込んだエッセイである。辻原登「東大で文学を学ぶ」のなかで、「模索」(バスティ―シュ)を文学における最も重要な手法」と位置付けていることを軸にして紹介。横光利一が提唱した「純粋文学論」のなかでの、通俗小説の二大要素は偶然性と感傷性とかによってこそ生きるという説にふれている。そこで、辻原の通俗小説の偶然性は、快く読みやすいとしながら、現実生活における偶然性は、恐ろしいという。
 ドストエフスキーの作品の独自性を、ジイドとともに、この世界における偶然性と現実に光を当てようとしたと、引用をしている。
 現代において、文学的な視点での手法や価値観は、人々の持ち時間でみると、通俗小説の簡便さに比べ、世界への問題意識や認識のあり方を考えるには、時間を長く消費させるものがある。多忙である。
 これによって、文学的な芸術性に関心を持つひとは、減少傾向にある。作家を業をする人は、一定の読者の獲得が必要であり、同人誌作家は、同人仲間の評価を無視出来ない。
 そのなかで、独自の文学性を模索するには、ある程度の信念と意思の強さが求められるであろう。
 本エッセイでは、清水信氏の同人誌評が関西で大きな役割を果たしたことや、その後の「東海文学」などの動向について触れている。
 自分は、同人誌紹介をはじめたのは、文芸愛好家の作品から社会情勢を観察しようという意図があってはじめた。贈呈へのお礼を兼ねて、紹介文を書いてきたのだが、義務という感じではない。「文芸中部」を読み始めたのは、井上武彦氏の晩年の作品が読めたころで、神と人の生死の認識を深めるような作風に、純文学性を感じた。まもなく亡くなったことを知った。世の無常を感じたものだ。紹介しても無為のような気がしないでもないが、なにもないより、ましであろうと思う。また、各地の文学市民の生活環境が見えるので、興味は尽きない。
【「磨く」丹羽京子】
 主人公の「私」は、空港の清掃会社の現場で働いて20数年の女性。46歳になるが独身である。他人には蔑まれながら、磨くことは嫌ではなく、転職することもなく、仕事第一でやってきた。両親はすでに亡くなり、裕福なところの嫁いだ友人に、現場で出会ってしまう。そこで、彼女の義父の家の清掃を臨時で頼まれる。頑固なところのある老人らしい。
 頼まれた義父の家の仏壇が立派なのに感心しながら、手を抜くことなく、片付け清掃をする。すると、その老人から結婚を申し込まれる。それを軽くいなして、役目を終わらす。
 その後、その義父が亡くなったことを友人から知らされる。
 清掃の手順が手際よく描かれ、面白い。また、友人や義父の人物像も適度に描かれている。現代の独身アラフォーの生活スタイルが、表現されている。一種の社会の下層にいながら、それを自分の世界と割り切った精神が、作品をまろやかにしている。アクセントを弱めた書き方が、地味な印象を与える。とくに「私」の心情が、掃除好きだけ、でしか表現しないのは、物足りないところがある。だた、偉くなったり、裕福になるより、落ち着いて生活を優先する世相の風を代表するようなところを感じさせる。
【「愚痴る」堀江光男】
 詩となっているが、少年時代の弟と姉の記憶から、老いて亡くなるまでの、時の流れと情念を断片として並べる散文である。叙事詩であるが、省略をした散文で文学性がある。辻原のいう「模索」のひとつにして欲しい。
【「四人で一緒に」堀井清】
  独自のスタイルをもつ作家で、静かでなめらかな文章が、いつもの個性を感じさせる。話は、友人の妻と不倫を続けている男が、その秘密を同僚に知られて、脅迫的な存在になる。いつまでそれを続けるのか、と問われる。だが、当人には答えられない。そのうちに、不倫相手の夫が、それに気づき、妻にも知られる。男は友人に妻と不倫をしたらどうかという暗示的な提案をし、そうなる。それからどうなり、どうするかは不明なまま、話は終わる。当初から、行く先の知れない行動を描くことを、理解させながら、それを納得させるような文学的な作品。
発行所=〒477?0003愛知県東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。文芸中部の会
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

カテゴリー:文芸中部

<2017年06月29日 (木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「ステレオ-タイプ」中尾哲也】
昭和40年代が舞台です。子どもの頃に個人が背負った戦争の傷みが描かれています。その傷を社会の問題として理論的に論じる妻の発言が、傷の本質をより強調しています。文章の完成度が高く、情景描写が内容と合わさって作品世界が伝わってきます。

カテゴリー:鳥語

2017年6月19日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は、日本民主主義文学会・代々木支部のサークル誌で、年1回刊行とある。
【評論「『シンゴ・ジラ』は何を進化"させたか???続・怪獣映画のリアリズム考」谷本諭】
 非常にわかりやすく、主張のはっきりした評論である。まず映画の「シン・ゴジラ」(総監督:鹿野秀明、監督:樋口真嗣)が、2016年に公開され興行収入82億円の大ヒットになった。「日本アカデミー賞を」の最優秀作品賞、最優秀監督賞など7部門を獲得。いわゆる怪獣映画が、この栄冠を得るのは、史上初。さらに「毎日映画コンクールの日本映画大賞、「ブルーリボン賞」の作品賞など邦画各賞を総なめににし、歴史ある「キネマ旬報」の国内映画ランキング(2016年期)でも、「第2位」に選ばれているーーなど。
  続編なのに、きちんと理解できるように、説明がある。その評論の方向は、自衛隊を美化しているように観られてしまうか、政治的な意図を読みとられてしまうかなど、映画文化における社会的な意味性について論評されている。
 わたしは、「新世紀エヴァンゲリオン」の監督・脚本の鹿野英明が総監督であるから、ヒットしたのであろうと思うくらいで、また映画の意味性の議論もいわゆるマニアの世界のことと受け取りながら、関心を寄せなかった。もちろん映画もみていない。しかし、これを読んで、現代カルチャーの問題とする意味性について、概略を知ることができた。大変に勉強になった。
【エッセー「ビバ!『逃げ恥』リアリズム」谷本諭】
 これは同じ筆者のエッセーである。TBSTVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を「逃げ恥」と略して、話題になっていることは知っていた。が、ここにその魅力と各回の概略が記されていて、実にわかりやすく、面白い。内容紹介のまとめ方や、社会的なメッセージについて語るところなど、じつに手際よく解説してくれている。自分の作品紹介ぶりが、どれほど不器用で下手であるかを思い知らされた。とにかく、500円で読めるのだから、お勧めである。才能ある社会文芸批評家の起用をする北村編集者の柔軟な発想に敬意を感じてしまう。
 このほか、【エッセー「星野源が福山雅治とキムタクを超え、植木等になる日」コングロマリット橿渕】、【エッセー「小説で読むブラック企業と労働組合」北村隆志】など、エッセーと称しなが、前者はカルチャーを、後者は労働者たちの現代社会環境動向を良く表現した小評論に読める。
 ちなみに、友人と待ち合わせをするため喫茶店でこれを読んでいたら、友人がこの本を手に取って、「ぼくに貸してよ。これには読みたいものがある」といったので、「読んだあとでね」と言ったものだ。要するに、文学がカルチャーとして、ほかのジャンルに負けてしまっている現状からすると、その他のジャンルに乗り込むための文学性が必要だということを強く認識させられるのである。
発行所=〒調布市上石原3?54?3?210、北村方。「日本民主主義文学会代々木支部。
紹介者=「詩人回廊」北一郎。

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