詩の精神のノート 一から一五 - ポイエーシス

「詩の精神のノート」は詩誌「エウメニデス第三期」42号に掲載しました。web公開誌「エウメニデス」でも読めますが、一六から二九までをブログに公開しましたので、続けてお読みいただけるように、ブログに転載しました。


詩の精神のノート                            小島きみ子

はじめに
万緑の中や吾子の歯生えそむる(中村草田男)

 万緑、という季語を発明した中村草田男のエッセイを夢中で読んだ時期があった。それは、木の気持ちを知るためだった。外はまばゆい緑。梅や桜の開花前の枝先というのは、そこに血液が流れているように朱いというのをご存知ですか。それから花が咲いて、散って、緑の新芽が出てくると、その木はこんもりと繁って、そこに緑の「気もち」が満ちている。気持ち。というか、緑の「精神」が表現されている。木は、緑の芽を出すことによって、木の「精神」を表現している。人間も髪や服を整えて自分のプロポーションを表現するけれど、春のみどりの木は「木の精神を表現している」と思う。表現の言葉はその源泉から送付されてくる。源泉とはスピリットのことで、人間も動植物もほんとうのことは、魂同士でしか会話できない。表現とは、魂と魂との会話の記憶を取り出すこと、織ることだと思う。
 佐久盆地も田植えが着々とすすんでいる。水田にひろがる緑と樹木のみどりと、山の青さは、「夏がきた」ことを知らせてくれる。私は、エクセルのセルに数字がしっかりと入った本格的な数字の夢をみるようになった。
けれども武満徹は、「夢の縁へ」を見た。『「ひとつの深層から生じている」というところが芸術表現にとって重要なところでしょう。(矢崎彦太郎 presente フランス音楽の彩と翳からVol.4「武満徹とフランス音楽 一 」)矢崎彦太郎氏が武満から受け取った八三年一月一四日付の手紙には、書きミスの訂正の後に、次の様に書き添えられていた。「音楽は変拍子の多いゆれの多いものですが、それに全く単純な旋律的動機に終始していて、指揮者にとっては立体感をつくるのが、やっかいなんではないかと思いますが、色彩的な空間が出たら嬉しいです。とりとめのない夢のように、相互に連関のない音楽的イメージの砕片が、実はひとつの深層から生じているというようなものです。」(武満徹「夢の縁へ」)
 記憶とは、何だろうと思う。眠りの「夢」も夢という体験で記憶されていく。現実の体験も記憶となって未来へ引き継がれていく。書き散らしたノートの夢の縁を辿ってみたい。この「記憶」のさまざまな色彩が、言葉の表現へと私の形姿のプロポーションを整えていくだろうから。

1.まっしぐらにその「志」のあるところに向かっている
佐久市の短詩型文学祭で出会った女性が、詩を二編書いて送ってきてくれた。彼女のプロフィールはまったくわからないのだけれども、びっくりしたのは、二〇〇八年に発行したわたしの詩集を購入していたことでした。ほんとうにびっくり。新幹線駅近くのギャラリーに「飾ってあった」ものだったのですから。彼女の手紙と作品は、彼女の現在の生活と心の情況をつぶさに物語るものでしたが、年齢を重ねてのあらゆる困難のなかで、その志は「詩に向かって」歩んでいるものでした。純粋でした。純粋な心に出会うことは、良い詩に出会うことと同じです。火事によって家財や金銭という物質を失っても、心を保つことができていれば、ひとはもっと優れたものを獲得するはず。命を維持できる最低限の生活であっても、彼女は今、まっしぐらにその「志」のあるところに向かっている。五月のいま、私は高速バスに乗っている。高地を走る高原バスなので、山の緑、田畑の緑を楽しめるのだが、往復の行程で足りない睡眠を補っている。長野市内に入って街路樹の桂の木のなかを行過ぎる。白いシフォンのフレアスカートと流れるみどりの髪の若い女性の姿を見ながら、「夏がやってきている」と思う。やっぱり「若いって、いいな」。眠れなくて早く眼が覚めるなんて年上の人々を笑えない年頃となった。けれども、もしかしてそれは、過去の記憶と、眠りのなかの経験とで、目覚めておきる前に、一日をやり終えているのかもしれない。それは、「永遠の一日」と名づけられるものかもしれない。

2.バイブルの原語バール
有機的な自然への問い。それへの応答として思索のうえに立つ詩の創造ということを試みること。神とは、愛という感情が変容して現象するもの、というように今は書いてみたけれど、バイブル(Bible)原語のバールには、隠れたものを前に出す、という意味がある。神とか、神の愛について、を詩のなかに書くとき、言葉をどのように仮装させるか。神や愛をどのように表象させるか。わたしにとっても、有機的な生命への問いが詩の創造であるからだ。

3.辛い
手術をしたKのお見舞いに総合病院の成人病棟へ行くと、痛々しい、いろいろな患者さんの姿に遭遇する。外科手術は、だんだんと快方に向かい、ほとんどは、完治していくのだ。と考えていたけれども、右膝から下を失った青年を見て、辛い。病棟の廊下の隅のテーブルで持参した御茶とメロンなどを食べながら、ボソボソと話す。窓から雪の山や春の濁った川を見ていると眠くなってきた。残業がたたっている。寝不足。病人も夜は術後が痛くて眠れないので、このテーブルへきて、時間をやり過ごすらしい。話していると、ピンクのユニホームを着たナースがやってきて、「夕べは眠れナカッタですか? 」と訊く。「エッ? 」「見ていましたよ、つらかったら座薬出しますから。」「そう? ありがとう、見ていてくれた? 」「ハイ。」と、いう会話を聞いて、なぜだかホッとして帰ってきた。「辛い」ということを見守っていてくれた人がいたのだ。

4.死の直前のオフィーリア
病院から帰ってきて、イメージしたことは、あらたなる誕生。変容と言ってもいいけれど。わたしは、ジョン・エヴァレント・ミレイのオフィーリアが好きですが、それは、ロセッティの妻となったエリザベス・シッダルをモデルに、細密な写実描写で表現される、死の直前のオフィーリアの姿です。死、というのは残酷な出来事ではあるけれど、創造の世界では新たなる誕生と隣接しているからです。黄泉の国への旅立ちは、肉体は失うけれども、ほんとうになにも無くなるのだとは思えない。仏教でも「霊」から「仏」になるまでは命日までの一年がかりですから、そのあいだにいろんな段階を踏んで、死者は、死の心構えができるのではないだろうか、などとボンヤリした頭で思う。

5.愁いと情熱
岡本太郎を読もう。と、いうわけで勤め帰りに、また文庫本を四冊買ってしまった(二八二〇円+税)。筑摩書房、岩波文庫、朝日文庫、そして創刊のぎんが堂文庫から各一冊ずつ。ぎんが堂の「人間は瞬間瞬間に、いのちを捨てるために生きている」岡本太郎著(六百円+税・重松清解説・二九八ページ)は、太郎の魅力にひきこまれてスラスラと読める。おすすめです。例のカッと見開いた目が表紙。エッセイは今年の三月にも一冊読んでいたけれども、岡本太郎の文章の才能はすばらしい。「青春の森」は太郎のパリでの学生時代のことで、愁いと情熱がからまってなかなかよい。彼はとても小柄な人だけれどもとても女性からはモテたらしい、そのことは別な文章で読んだ。純粋で美しい心が表現されていて、恋愛詩みたいだと思っている。

6.ゴルゴタの丘
「神」について書くことは、とにかく「理性」が求められる。人々の苦しみの源泉がどこにあるか、その場所が精神医学や心理学の発達によって明らかにされてきた。現代では、苦しみや、悩みから解き放たれるための神の存在は弱く、人々の苦悩の場所が明らかにされたとき「人」は自分で自分を救済することができる。カウンセリングはその人を導く教育の力がある。苦しみも悩みもそのクライアントの言葉によって表現されるのだけれど。ユダヤ教哲学の翻訳書も読んでみた。ゴルゴタの丘の教会内にはキリスト教も含めて三つの宗教が毎日別々の宗教行事を行っているという。読めば読むほど人間とは何か、という問いが、神とは何かよりも、「人類とは何か」のほうが興味のある問いとなってくるのは自然なことだった。鳥族、という詩を書いたことがあって、日本の古代の人の葬儀の儀式は鳥葬で、モガリの家で確かに死んだのだと得心がいって高い木の上に死人を安置して鳥葬とした。鳥に啄ばんでもらって骨だけになる。アルトーの演劇論を読み直す。

7.光の帯のうえに注がれてあるもの
(根拠の脈絡)と(実態的紐帯)としての人間の身体が光の縁で溶け合うとき。もう、あなたたちの姿をこの部屋のなかで見つけることが出来ない。だが、わたしは忘れない、きょうのこの瞬間にとらえたものを、だから、泣いてはだめ。光の帯のうえに、注がれてある、Grund(根拠)を導き出すために。

8.ザビエルの生涯
ヨーロッパの美術や文学のことを理解するにはキリスト教世界の理解が必要。「御旨」のことを調べているうちに、ザビエルのことを改めて知る。ザビエルがロヨラの弟子であったとは。ロヨラとザビエルの間の書簡はとてもこころが打たれる。誠実な志とはこういうことなのだと。終わりのない究極的ないのちに至ったとき、われわれは安らぎ、見る。見て、愛する。愛して、たたえる。(聖アウグスティヌス)そして、ローマの街のジェズ教会にある、ザビエルの右手をwebで見る。ザビエルは、パリの大学でロヨラと知り合って仲間になったが、この時ロヨラは四年間もザビエルを誘い続けたのだということ。イエズス会は最初十人で創立した。宣教の道は困難の連続で時には命の危険も、悲しみの涙にくれることも度々あったのです。それでいて彼の心が萎えることはなかった。彼が日本の鹿児島に着いたのは一五四九年の八月十五日のことだった。「祈りを忘れてはならない。心をこめて祈るならば、そのたびに新たな感情を覚え、新たな意味を見いだすだろう。そこから新たな勇気もわいてくる。」と、言ったのはドストエフスキー。ドストエフスキーを読む。

9.パオロとフランチェスカのこと
「パオロとフランチェスカ」は、イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリ(一二六五年?一三二一年)の『神曲 地獄編』の第五歌に登場する同名の恋人達の物語が土台になっている。古代ローマの詩人ウェルギリウスに地獄に導かれたダンテは、そこで「愛欲の地獄」でなすすべも無く彷徨う魂の姿を目にする。その中でも「比較的軽やかに風に舞う、よりそう二人の姿」が目に入り、興味を惹かれたダンテは二人のこのようになってしまった経由を聞き出す。フランチェスカは政略結婚によって、隣国の城主のジェンチオットの元に嫁ぐことになる。だが、醜男なうえ、性格にも問題があったジェンチオットは、見合いの席で結婚を拒絶することを恐れて、聡明で美しい弟のパオロを身代わりに立てた。『一目見て、二人は互いに恋に落ちました。』「でも偽りの式とはいえ、私は城主ジェンチオットに嫁いだ身、パオロとの恋は所詮道ならぬものでした。」「卑怯とは言え兄は兄、私がフランチェスカを愛することは、兄をないがしろにすることを意味します。」『二人は燃える心を、秘めました。』(谷口江里也訳)だが、二人の思いは抑えることができず、ジェンチオットの留守中に思いを遂げ、それを知ったジェンチオットはフランチェスカとパオロを、毒を塗った剣で殺害してしまう。死後、二人は愛欲の地獄に落ち、互いに寄り添ったまま永遠に彷徨いつづける。

10.経験について
ブーバーは、「我」それ自体というものはありえないというところから出発しました。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのです。存在するのは根元語の「我?汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがあるだけというのです。これが交互性(Wecheselseitgkeit)もしくは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものです。「何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とは、われわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。」では、どのようにすればこの「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのでしょうか。「私」という「我」の中に「汝」を見出すべきなのです。そのことによって「私」の「我」は「汝」のさまざまなものごとによって成立している光景に出会うでありましょう。ですから、「経験」とは「我」から遠ざかることであって、それが了解できれば、「私」の「我」が「汝」からの「遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に出会うことができるはずなのです。「私」が「我」と汝に出会うのは、「私」が根元語を「私」の中の「汝」に問うことによって受け取る、人間の輪郭と言語の輪郭が融合する言語の辺縁のようなところからやってくるものであると思う。裂かれることによって、開かれ、溶け合うことによって知る、言語の輪郭です。言葉が生まれる場所に、私のなかの「あなた=汝」は生まれる。それでも、とにかくここには「発話する主体」があります。
(参考)ウィーン生まれのユダヤ人マルティン・ブーバー(一八七八年?一九六五年)は、青年期から反律法的なユダヤ神秘主義ハシディズムに関心をもち、精神的シオニズムともいうことをしだいに思索するようになった。主にドイツの大学でユダヤ哲学を講義しつつ、聖書のドイツ語訳にも取り組んだ。一九一六年から十年間は雑誌「ユダヤ人」を編集した。しかしナチス政権がしだいに台頭してくると、パレスチナに移住(一九三八年)、キブツ運動を支持してヘブライ大学で社会哲学を講じた。ブーバーがたえず「真の共同体」を重視したのは、こうしたハシディズム体験、パレスチナ体験、キブツ体験にもとづいてもいる。ブーバー『祈りと教え』(理想社)、ブーバー『キリスト教との対話』(理想社)。

11.母性的養育の喪失(マターナル・ディプリベーション:Maternal Deprivation)
 Maternal Deprivationは心理学の術後で日本語に翻訳したものは、ほかに日本語で「母性剥奪」。 乳幼児期 に母性的な養育を受けられないことをいう。これだと「母性棄却」と混同するおそれがあるので、母性的養育の喪失とした。
ジョン・ボウルビィ(John・Bowlby,一九〇七?一九九〇)は、 イギリスの医師、精神分析家、さらに母子間の絆研究の開拓者としても知られている。ボウルビィは、「乳幼児と母親(あるいは生涯母親の役割を果たす人物)との人間関係が,親密かつ継続的で,しかも両者が満足と幸福感に満たされているような状態が,精神衛生の根本である」と述べ,このような人間関係を欠いている子どもの状態を「マターナル・ディプリベーション」と名づけた。そして,これは子どもの人格発達に重大な悪影響を受けることを明らかにした。「苦しみ」の過去を知るとき、幼年期の育ち方に配慮した会話や訊き方が必要だということ。人への接触に際して生かされる傾聴の技術となると思う。それは私の精神を育てる。

12.記号とはなにか。
芸術作品は、ものであると同時に、意味するはたらきとしての記号である。それは物質的なものを受肉した存在である限りわれわれの面前にあって、感覚的、対照的に把握される。」というこの文章は市川浩さんであった。ハイデッガーの「有る」が実体を意味しない「有る」であるところからの虚体ではなかったか。虚体はヴァレリーも使っていた。つまり「現実」は外界の「写実的描写」ではないということです。表現もまた同じ。
詩の希望とは、「表象」が危機的状況にあることを見据えた批評なのだ。以下は、板巻康司さんのボヌフォア論からの引用です。ボヌフォアは魅力的です。 「ボヌフォアはのっけから「私は詩を希望と結びつけたい」という一言を観客に投げかける。それは、「詩」がもはや「希望」や「愛」、「夢」などといった言葉とともに語られなくなり始めた時代に発せられた、ある意味で「詩の危機」を自覚することばであったろう。それでは、なぜ、「詩」が「希望」と結び付けられねばならないのか。そして「希望」がないとは「詩」にとって、どういうことなのか。それは、「語」がもはや「事物」との関係性を失ってしまった事態であることがボヌフォアによって直ちに明らかにされる。」つまりこれは、(「表象」が危機的状況にあることを見据えた批評なのだ。)
言葉を知ることは、生活習慣を知っていることなのだと思わされる。イギリス語の翻訳の誤りを指摘したものを、植物図鑑などで調べて見ると、指摘したそれにも微妙な間違いがある。語の意味の正確さとは何だろう。物の名は、ヨーロッパの語の起源に遡るものだけれど、ラテン語の意味の名残りがあったりするからむずかしい。日本に渡ってきた植物の名を、日本の生活習慣よって親しんだイメージで読むと誤るかもしれない。花、と思っているとそれは薬草のハーブであってその効用は人の特徴と重なることもある。毒草もまた同様に。

13.見えない空間に生きること
 このごろ、休日に食品の買出しに行くスーパーを変えてみたのだけれど、それは向かいが無人駅のホームで、その駅の奥のほうは、カメラを製造していた会社のグランドで、この会社を取り囲む道路は美しい桜並木。今は、桜も終わって、幾本かの柳の枝が緑の新芽をなびかせている。季節ごとの草木の移り変わる景色を楽しめる場所というのは、忘れていた何かを蘇らせてくれる、また、こうした感情は疲れた心に活力を呼び起す。詩とは、見えない空間に生きることです。空間を見えるようにすることは、数値で示すことです。数値とは何だと思いますか。数値とは、時間の形式です。これをどうやって言語に与えればいいと思いますか。言語に形式を与えること。それは言語背景に詩の論理を持つことだと思う。詩論という物は「詩人論」だけをさすのではない。見えない空間に生きる「生き方」を見出すことだと思う。

14.賛美歌四六一番
 小高い場所にある王城公園を見ると桜が満開となった。
(さくら、さくら、四月の空に、シフォンのリボンになって舞い上がれ
(ああ神様わたしはきょう一日ただ夢中で働きました何も考えず
(いえ考えていましたデカルトの方法序説への反論を企てていました
(この空間を見えるものにすることは空間を数値で表象することです
(ですがそれって、おお!わたしの得意な表象の擬態です
(えっ? 擬人法ではありません擬態です表象の
(それは目にはみえません魂で語りあうのですから
(見えるのは伸びた髪ときのう買った服
(あなたに私の魂は見えません
(私はあなたの魂にひびく波長となりました
(あなただけにまるでそれはあなた自身の声のように
(あなたの喉にひびくのです
(Jesus Loves Me 
(主我を愛す主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ

15.あなたに
小さな村の教会の結婚式は素敵でした。明るく生きること。正直になること。正しい道を歩む。礼儀正しく生きる。他人を自分のように愛すること。思いと行いで清く生きること。それが本当の幸福につながるとすればいい。(Happiness comes from,feeling deeply,thinking freely,and enjoying simply.幸福は、深く感じ、自由に考え、そして単純に喜ぶことからやってきます。)
外はもう初夏です。あなたに、高原のまぶしい緑とあまくやるせない白い花の香りを届けることができたらどんなにすてきでしょうか。いまは、アカシアの香りが村を包んでいます。向こうから、こどもたちは、見たこともない未来の服を着て田植えの済んだばかりのあぜ道を一列になって歩いてきます。(どこから来たのでしょか? )
「あぜ道」には、白い花が積もっています。あとからあとから風に乗って、花は散り、こどもは地面に吸い込まれて消えていきます。空は、白く霞んでいます。さっきまで聞こえていた灰色の鳥族の羽毛であるかもしれません。(だれですか? )と言ったのは、こどもたちの先頭に居る人です。その人の気配はあるのですが見ることができません。(だれですか? )と私に訊いたその声に、聞き覚えがあり、未来の世界の私であるらしいのですが、まだよく見えません。未来から聞こえる声は、霞む空のようにぼんやりしているのです。
 こどもたちがすっかり居なくなったあとで、あぜ道の花を摘んで、花瓶に挿しました。花瓶には中国の古典的な絵が描かれていて、その険しい山道と雲のうえから、しろい母子草、きいろの父子草を、花瓶に活けたのでした。小鳥が忙しく鳴いていて、その声には聞き覚えがあり、しばらく見ていたのですが、風と雲と花が絶え間なく降り注いでいて、私は私を見失うのでした。すると再び大勢のこどもたちがやってきて、私を白い花が積もっている「あぜ道」まで送ってくれたのです。私は、空を見上げていました。降り注ぐひかり。「あぜ道」に積もっていたのは、白いこどもたちの声でした。偽装されたアニミズムとでも呼べばいいのでしょうか。声の音を模倣するとき、そのものの外観を原始言語に似て美的に想像するとき、見えている、文字の姿。あなたに、きょうのこどもたちの白い花の声をとどけたいのです。


<2013年 4月11日(木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

「エブリホームの女たち」(水木怜)

 達者な文章、素晴らしい構成で、いつもこの作者の作品は一気に読んでしまう。
高齢者専用賃貸マンション(高専賃)エブリホームに64歳で市からの助成金と親の遺産を処分した資金で、健常者として入居した杉子が主人公である。4階建てで20名ほどの入居者がいる。高齢者専用ではあっても賃貸マンションなので各自が部屋で食事をする仕組みになっている。
 杉子の左隣りに金本さん、右隣りは綾乃さんだ。綾乃さんは67歳で人懐っこく、杉子とすぐに友達になる。綾乃の部屋は足の踏み場がないほどの散らかりようなので、いつもお茶を飲むのは杉子の部屋と決まっている。
 男性も何人か入居しているが、その中に進藤さんは67歳、元税理士で大学時代の仲間と今でもジャズライブをし、クラリネットを吹いていおり、このホームの人気者だ。その進藤さんと綾乃は親しくなる。
 ストーリーは、綾乃、綾乃の息子隆之の妻という美祢、その息子の哲(ケイ)、進藤、杉子の俳句仲間の梅子、本町先生などを中心に進むが、更に重要な役割を担う占い師がいる。占い師は、杉子が天神から警固町に向かって歩いているときに声をかけてくる。
 作品は原稿用紙で100枚近い大作だが、筆力のせいだろうか、ストーリーは込み入っているが、一気に読んでしまった。ほのぼのとした作品だ。高専賃といった高齢者を対象とした高級な賃貸住宅内の住人を対象にしており、これからの高齢社会を考えると、こういった作品をどんどん発表してほしいと思う。

「夜の足型」(上原 輪)

 舞台は北欧なのかカナダなのかよく分からないが、雪が降り、寒い地域が舞台だ。主人公は「あたし」(リッリ10歳)、おととい父親が死んだのでその足を粘土で包み、足型を作り、そこに水を入れ氷でできた足型を外に置いておく。そんな時に旅人のケンが来る。母親は5歳の時に家を出て行き帰ってこないが、お金を時々送ってくる。おばあちゃんもいるが腰が悪くて入院している。
 以上の登場人物で異空間を創り、シラカンバの木、朽ちかけた教会などを配置している。言語は英語ようだが、おばあちゃんは英語が苦手らしい。作品を読んで感じたことは、異空間にリアリティがなく、10歳の男の子が1人でどのように生きているのか、隣家は車で15分というので7、8km離れており、おばあちゃんは車で40分というので20km以上離れたところである。ここの住民はどのようにして繋がり、生きているのかイメージができない。氷で作った足型で作った足型が融けるまで遺体を埋葬できない習俗があるようなのだが、その習俗を守っている村(集落なのか)はどういうところなのか、また、奨学金の試験に合格したとあるが、取って付けたような感じだ。
 異空間を創り、そこでストーリーを展開する手法はいいとしても、読み手が納得できるような作品にしてほしかった。

「短編小説集」(水木怜)

「マリアの風」
 幸吉は48歳だが、リストラされて仕事がなくむしゃくしゃしていた時、地区の子供たちが植えたチューリップの花を傘で横なぎにしてとってしまう。傘に名前があったことで幸吉が犯行とと分かり、派出所に連れて行かれ始末書を書かされる。帰り道、母親の知り合いのヨシに会う。ヨシは60歳を過ぎている。ヨシに家に連れて行かれうどんを食べさせてもらう。その後ヨシと男女の関係になり、更に幸吉が事故に遭ってからはヨシの家で一緒に住む。しかし、ヨシの好意をわずらわしく感じヨシに冷たく当たる。幸吉はヨシを捨てて家を出たが金に困りヨシの家にくる。そこでヨシの年金が入った茶封筒を盗み逃げようとしたところをよしに見つかる。小男のエゴ、女の微妙な心の動き、男に尽くす気持ちが本当に細かく書いており、いい作品だ。

「遊境」
「私」が息子信夫の嫁伊代の盗癖を掛かりつけに医師に話すことから、物語が始まる。医師のところには週に1回行くことになっている。指輪がなくなったこと、食べ物も食べていないのに、先ほど食べたというなど、伊代の虚言癖も話すようになる。信夫ではない他人から「おふくろ、・・・。」といわれるようにもなる。
 高齢者の多くがたどる道を、段階を踏んで書いており、感心してしまった。

「階段」
 総子は夫信一郎を15年前に亡くした。その夫の13回忌を終えたときに脳梗塞で倒れる。夫の13回忌をする1年前に1人息子和夫をバイク事故で失う。夫の13回忌を終えたことにより脱力感に襲われたが、そのことにより脳梗塞になってしまい、1年近い入院生活を送る。退院後2階の部屋にはいる。ヘルパーの清水さんが親切に面倒を見てくれるが、なかなか2階から降りる勇気は出ない。寝ながら総子が見る夢は、信一郎や和夫のことばかりである。そんな時に和夫の夢を見て2階から降りる勇気を貰う。ヘルパーの清水さんに助けられながら何とか降りる。自分が寝ていことにより止まったままだった時間を、階下に降りたことで考えてしまう。
 そんな時に和夫の学生時代の友人の山元が単身赴任することになったといって訪ねてくる。ほのぼのとしたいい作品だ。

「陽のあたるベランダ」
昔の映画「裏窓」のような作品で、作者にしては珍しい推理小説っぽい仕上げとなっている。薫と梓はミーナマンションで隣り合わせに住んでいる。薫は洗濯好きだ。薫の住むミーナマンションの向かいにあるベルコーポの2階がよく見える。そのミーナマンションの2階の洗濯物の干し方に異変が感じられた。そこから事件性を嗅ぎ取る。テレビのドラマによくある流れで新鮮味はないが、面白い作品だ。

「水滴」
 子供ができない夫婦の物語だ。咲と雄一夫婦には子供ができない。咲は29歳で結婚したが、32歳になっても子供ができない。物置には野良猫が棲みつき5匹も子供を産む。その5匹の子猫はイタチにやられてしまう。そんなこともあり咲は医師に診察してもらうが、咲には全く問題がなく、夫の雄一が無精子だったのだ。咲が40歳になったときに、夫の雄一は、新聞広告を出し、坂上民生という青年をバイトで雇う。坂上民生の血液型は雄一と同じO型だった。血液型が夫と同じだと分かり、咲にあることが芽生えた。よくあるストーリーだが、作者はうまくまとめている。

「目」
 成子は浩一郎と結婚して35年にもなる。電車の中で一目ぼれした浩一郎が、人を介して結婚を申し込んできたのだ。成子は結婚して浩一郎の性格を知ってから、ますます浩一郎を嫌いになる。その浩一郎と地下鉄祇園駅の階段を上るときに階段をふざけながら下りてくる高校生に浩一郎が飛ばされ、階段の下まで落ちていく。その際、浩一郎は成子に助けを求めるような目をしたが、成子は助けなかった。その後成子は、浩一郎の助けを求めるような目の幻覚に悩まされる。作者にしては珍しく救いのない暗い作品にしている。

「夏の残り」
 セツ子と寛太は5年前からセツ子の家で暮らしている。2人は割烹「魚苑」に勤めており、寛太は魚苑の料理人だ。中卒でこの世界に入った寛太は掃除、鍋磨き、皿洗い等を経験し今では魚に手を付けるまでになっている。ただ、ここまで来るには、吃音であることにより人付合いが悪く、苦労したようだ。一回りうえのセツ子がそこを姉のような感じで面倒を見ているうちに、男女の関係になる。その寛太が3か月前にセツ子に世話になった礼をいって家を出て行ってしまった。理由は、寛太の隣で信号を待っていた女性が走ってきたトラックに飛び込み自殺を図る。寛太はその女性を助けることができたのに助けられなかった責任を取って、手を失った女性と生活するためだった。
 本来的には自分に全く関係のない女性と生活するために、永いこと世話になった女性を捨てて出ていくことに不自然さを感じるが、作者は男の責任感の強さを書きたかったのだろうか。

2013年4月10日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 淡路島ゆかりの地域文芸同人誌である。錚々たる面々というか、実績のあるひとたちの執筆陣。発行者の北原文夫氏の第7号に掲載作品「秋彼岸」が、「季刊文科」に転載された。同氏が今号の編集後記に、掲載作品の簡単な紹介をしている。親切でいいですね。 ? そのなかで、同人のお孫さんで高校2年生の作品があるというので、読んでみた。 【「水車小屋」鈴木航】 ? 水車が好きで見たいという七歳の弟のために、彩子は弟の手を引いて川の上流に向かう。すると、どこからか老婆が現れ、やはり水車が好きという。弟の水車が好きという一途な心を大切にしなさい、とアドバイスしてくれる。帰りに気がついてみると、公園の時計は四時なのに、彩子の腕時計は六時を指している。タイムスリップの区域に入っていたらしいーーという話。弟の表現で行間に愛の満ちた良い調子があって、清々しい詩的散文である。この世代にしては、むずかしい理屈を言わないところは、詩人体質なのであろう。

【「下宿を変わる話」宇津木洋】 ? タイトルの通り、学生専門の下宿にいるエヌ君が、就職活動しはじめて、下宿を出る羽目になり、お寺に下宿を変えるまでのさまざまな出来事と、その気分を描く。小説というより、住民の雰囲気や風物をのびのびとした筆致で描く散文。散文小説主義をもつ私の好みかも知れないが、へんに作った小説より文学的である。とくに終章の崖崩れの描写などは、破壊の危機感とその風景の美の表現でじつに何かを感じさせる好いものがある。 ? そのほかの作品は北原文夫氏が記した編集後記からの紹介ですーー。

【大鐘稔彦「父と子」】 ? 作者は医師・作家・歌人。ベストセラー「孤高のメス」(幻冬舎)の作者。新しい同人として歓迎し、「父と子」を巻頭にした。平家物語に造詣の深い方だが、平家の武士武将瀬尾太郎と小太郎父子を冷静な目で捉え、武士のありようを歴史のなかに位置づける筆力はさすがである。

【植木寛「最前線の軍医」】 ? 激戦のルソン島に樋口軍医のような人がいたのかと驚かされる。宣布医療のためであるが、現地住民の治療にあたって住民の信頼を得、米軍のパイロットを密かに治療する。兵団転戦のおり動けない傷病兵に自爆用手榴弾が配られるが、自爆をするな、捕虜になって手当てを受けよと説得し、洞窟入り口に赤十字のしるしを何枚も掲げ、アメリカ軍に手当の依頼を英文で書いて本体へ追いつこうとする描写は、はらはらとさせながらもさわやかである。(以下略)

?発行所=〒656-0016兵庫県洲本市下内膳272?2、北原方、淡路島文学同人会。

「詩の精神のノート」はエウメニデス第三期・四二号に掲載したのですが、その続きの小論をブログにアップしました。時間のあるときにお立ち寄りくださいませ。                


一六 光を引き出す
 社会福祉協議会のスポーツ大会でのことです。「この子らを世の光に」とは、福祉を学ぶ者たちには有名な言葉です。でも、この格助詞「を」は、最初「に」だったのです。スポーツ大会は福祉学を目指している高校生、短大生、専門学校生、大学生のボランティアがトラック競技を支えてくれている。スポーツ指導員や私たち主催者の職員が総出しても、人は不足している。好天。怪我人なし。後片付けまで時間内に終了。きびきびとした、楽しい、さわやかな一日だった。競技登録の名前を問われて、指導員に名前を教えられ、自分がだれなのかを知って、懸命に走る青年。走る、という純粋な筋肉の動き。「しっかり手を握っていてください。」と自分から言って、白い杖を地面に置いて、八十メートルを私と一緒に走った視覚障害の女性。「光」は、どこからやってくると思いますか? 皮膚から肉を突きぬけ、脳の中を串刺しにする「光」は、その日、一緒に八十メートルを走った女性の「あっ。テープが見える」という言葉でした。ほとんど視力のないはずの目に、ゴールテープが見えたのです。人間に触れるとは、「言葉が肉化」されていくことです。私のなかに存在するものが、「有る・在る」ことを問われて「裂かれて」「開かれて」名前を呼ぶものに向かって、融合していくことです。初めて出会った私を、信頼しきって手を強く握り続けた女性。この女性の身が受けた「ゴールテープ」は、「光」でした。
ブランショの「文学空間(粟津則夫訳・出口裕之訳.現代思想社刊)」に、「作品は暗黒のものから光を引き出す。それは関係をゆるさぬものとの関係であり、遭遇が可能となるより前に、そして真理の欠如している場所で、存在に遭隅する。本質的な危険である。われわれはその場所で深淵に触れる。その場所でわれわれは、どんなに強くても強すぎることのない絆で、非真実にわれわれ自身を結びつける。そして真ならざるものに、本来性の本質的な一形態を結びつけようと努める」。「真理を介して没落する(底部に触れる)ことのないように、われわれは芸術を持っているのだ。と言う、ニーチェはまさにこのことを暗示している。......われわれは、われわれをして底部に触れしめることのないように、芸術を持っているのだ」と。


十七 「高野喜久雄詩集」を読む
眠っているときの「記憶の束」の体験は「夢」という幻想なのでしょうか。夢での体験に知識が加わると、それは新たな経験となっているのは、研究者の知見によって次第に明らかになってきています。ここで、ボードリヤールの言葉に触れておきます。「現実なるものはひとつの欺瞞でしかない」と。それから、二〇〇六年五月に亡くなられた詩人の高野喜久雄さんも生前に大変に興味深いことを言っておられます。『鏡に映る自分は左右対称であるが、何故、逆さまではなく左右対称なのか。鏡は左右対称という現実を映しているが、それは本当に現実なのか』と。映像と言語のことを発展させて考える時、私は、言語の形象(image)を思考するということは、プレザンスということと深い繋がりがあるだろうと思っています。言語の形象はこのとき、思考するものの「精神の身体」を烈しく揺さぶって、「詩的なもの」を顕示してくるように思います。喚起されたものは、言葉という素材を使って「詩」という物質になるでしょう。物質とは、もちろん「物」ではなく、肉体の裏側に存在する自然を指しています。この自然とは、天然自然のことではありません。人間の知性が加わった人工の自然のことです。この現実は科学的事象とは違って、その現実を生きる人、それぞれの視点によって異なったものであるからです。また、ニーチェを超えようとしたバタイユの思索はラテン語とキリスト教を棄てることでした。ですが、この世界の存在連関のすべてを否定しさることはできないだろうと思います。言語の姿は、母語だけではなく多数の言語に照射されてその輪郭を顕すのだと思うからです。
高野喜久雄さんが、二〇〇六年五月八日、鎌倉のご自宅で亡くなられて、もう六年経つ。高野さんの詩は、平林敏彦さんの戦後詩を調べているときに出会った。高野喜久雄詩集を買って読んだ。「みずみずしさ」とは、人間のなかのその存在者の言葉が深まっていくことなのだと思った。たくさんの啓示をその作品から受け取った。人間が深くなるとは、「わたし」というものが、自分以外のもののために、その命を賭して、他者を生かそうとすることによってなのだと思う。母は、わが子を守るためならば、自分の命を差し出すことは惜しくありません。高野喜久雄詩集(一九六一年刊・思潮社)より、作品を紹介します。

「 帰れ」
帰れ 帰れと呼ぶ声は二つ/帰る家は二つもあったか/ぼくのふるさと 正と負の無  限遠点/どだい帰れるはずのない辺境よ//されば生きてもやらむかな/「もう死んじゃってました」のいのち/つまり依怙地なゼロのようにだ/正と負の裂け目のいのち/ひとりただ此処にとどまり//
「手は」
手は たどれ/逆の道/つかんだものを/ひとつずつ/はなし はなして/その手には/何ものも 残さぬ道を//手は たどれ/逆の道/失うものの/すべて 尽きはて/その空(くう)よ/その空の手は/きびしく あわせ//
「いのち」
いのちとは ただ/待ちぼうけの ことではないか/来るはずのない 何か/巨き過ぎるものを 切なく/待ちわびることではないか/水すましは その眩暈/ジラフは頚で 薔薇は棘/人は言葉/向日葵は芯で/ただ 待ちわびる ことではないか//

何年か前のことですが、テレビを見ていたら、長野県内の産科の医師が東京で記者会見をしていた。遺伝学的には孫になる子どもを、子宮を摘出した娘に代わって、娘の夫の精子と自分の卵子を結合させて代理出産したというもの。(おお)と思った。難しいことが起こった。いつだったか、アメリカでのこうした代理出産のドキュメンタリーを見た記憶が蘇った。それは、交通事故で死亡した息子の精子と彼の母の卵子を結合させ再び母の子宮内に戻し、母は遺伝学的には孫となる子を、息子と瓜二つの子どもを、出産した。というものだった。祖母と祖父に駆け寄る幼子。息子を失った悲しみ。息子の子を得た喜び。(なんて、いうことだ。)と思った。また、交通事故で夫を失った妻が、冷凍保存された夫の精子を自分の卵子と結合させ、死んだ夫の子を身ごもり無事出産したということも。夫を失った悲しみから立ち上がった。(子どものいのちってなに? )誕生した命は、永遠ではない。子どもであるものはいつか、父と母の死に立ち会うだろう。現代社会は長寿となったが、それはすべてに等しく与えられたものではなく、突然の死はいつでもどこからでもやってくるものだと思う。人は、死ぬ存在として生まれるのです。
 愛し合う二人が、二人の子どもを欲しいと思うのは当然なことで、子どもの存在は、家庭を豊かなものにする。けれどもさまざまな事情により、どうしても叶わない「ねがい」を叶える方法として、前述の手段を選択して生まれてきた子どもをどのように育てていくか。難しいと思う。「愛情」と「倫理」の間で、モミクチャにされるのは大人ではなく、「子ども」です。法律の整っていない日本の社会事情のなかで、その子どもの人としての尊厳をどうやって守り抜くかを十分に研究してからでないと、生まれてきた子どもの人権を守れない。子どもが欲しいという親の欲望は叶っても、その子どもを守り抜くには決死の覚悟と愛が要る。

高野喜久雄詩集から「いのち」という作品を紹介しておきます。
お母さんのおなかの中で/だれのいのちも/はじめは一つ/たった一つの細胞だった//そしてその時 もう一〇〇〇冊の/しかも一冊六〇〇ページもの暗号が/びっしりつまっていたなんて/ほんとにいのちは すごいと思う//お母さんが知らないうちに/お父さんも知らないうちに/だれがそんなに書いたのだろう/まちがわず くれたのだろう//いのちがいのちになってゆく/プログラム/わたしがわたしになってゆく/命令を//くださったかたは だれだろう/たった一つの細胞を/二倍二倍にふやした力/そしてしまいは一〇〇兆個//脳には二〇〇〇万冊もの知識/しまえるよゆうをくださったかた/でも 死ぬまでに使うのは/その一〇〇〇〇分の一だとか//知れば知るほど/ふしぎないのち/くださったかたは だれだろう/くださったかたは だれだろう//


一八 ウィリアム・シェイクスピアについて
生け花によるインスタレーションを考えていて思い起したのは、オフィーリアが作った花冠のことです。オフィーリアはウィリアム・シェイクスピア(一五六四?一六一六)の戯曲「ハムレット」のヒロインです。悲劇のオフィーリアの絵画はいろいろな画家によって描かれています。十九世紀のイギリスの画家でラフェル前派のジョン・エヴァレット・ミレイ(一八二九?一八九六)の「オフィーリア」や、幼い頃をイタリアで過ごした、同じくラフェル前派のイギリスの画家・ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(一八四九?一九一七)の「オフィーリア」(一八九四)などがあります。ウォーターハウスはこのオフィーリアをテーマに、3枚の絵を描いています。
オフィーリアが作った花冠の花に含められていたのは、「死人の指」といわれる英名lords-and-ladiesという野生のアラムで、「水芭蕉」のこととされています。ハムレットは、壁掛けの奥で物音がしたのを聞き、王と勘違いして、オフィーリアの父ポローニアスを刺し殺してしまいます。オフィーリアは、正気を失い、歌を歌ったり、取り留めのないことを口走るようになるのです。そしてある日、野に出て行き花冠を作って柳の枝にかけようとして、枝が折れて、川に落ち、死んでしまいます。彼女の死は、王妃ガートルードの台詞によって語られます。『ハムレット』第四幕の最後にこの一節があります。
*日本語訳は木下順二です。

柳の木が小川の上に斜めに、
白い葉裏を鏡のような水面に映して立っているあたりで、
その小枝をとりまぜてあの子は珍しい花冠を作りました、
きんぽうげに、いらくさ、雛菊、それから紫蘭、
あれはいたずらな羊飼いたちがもっとはしたない名を付けているけれど
貞淑な娘たちは死人の指と呼んでいる
垂れ下がっている枝にそのかわいい花冠を掛けようと
あの子が登っていったとき、
意地の悪い小枝が折れて、
花輪と一所にあの娘は
啜り泣く小川に落ちてしまった。
衣裳の裾がひろがって、
それに支えられて、
人魚のように暫く浮かんでいるあいだ、
あの娘は切れ切れに古い祈りの唄をうたっていました。
まるで自分の不幸が分からない人のように、
でなければ水に生まれてその中に
棲みなれていた何かのように。
けれどもそれもつかのまのことで、
やがて着物が、
水を吸い込んで重くなり、
かわいそうなあの子の唄は川底の泥へ
引き込まれて消えてしまった。

シェイクスピアの劇中に出てくる花のことを研究した方に、熊井明子さんがいて、彼女の著書「シェイクスピアの香り」はとても楽しかった。ハーブのことを理解していないと、オフィーリアの花冠のその場面での意味が理解されないのです。(*熊井 明子(くまい あきこ、一九四〇年?)は、ポプリ研究家、エッセイスト。夫は映画監督の 熊井啓。 日本にポプリを紹介することに大いに貢献した人物)私が、この一二月に制作予定のクリスマス・リースは、ワイヤーの上にヒムロスギを張って形を整えたあと、ドライフラワーを飾っていきます。花は薔薇とセンニチコウ、カイザク、ケイトウ、ドライオレンジ、シナモンなど。ヨーロッパでは娘がお嫁に行く時に母親が薬草をリースにして持たせたのだそうです。シェイクスピアのハムレットの中でのオフィーリアが作った花冠についても、この花たちを調べてみるのもおもしろいことです。シェイクスピアは「毒と薬」をとても効果的に用いていると思います。
小田島雄志さん翻訳の「ロミオとジュリエット」を読んでみました。小田さんの自己紹介の言葉に「人間はどのような存在であるか、どのように愛し、憎み、喜び、悲しみ、迷い、決断する存在であるか、ということをいちばん考えさせ、感じさせてくれるのは、ぼくの場合、演劇であり、特にシェイクスピアです」とありました。シェイクスピアの作品は、当時の社会に生きるさまざまな階層の人の心をとらえていると思いました。ソネット一二九も読んでみました。ほかのソネットにもみられる[u]と[v]、そして[I]と[j]の混用があります。日本語も外国語も、言葉は人と人を深く導くために、求める人のところにやってくるのだと思えます。


一九 虚無と絶望の表現形式として「詩」は発話する
 現在は、モデルニテの喪の時代だと言います。中世ヨーロッパのマニエリスムは、反宗教改革によって閉塞するが、十九世紀末にバロックが、社会と現実へ「芸術」を復帰させ、マニエリスムは再発見されます。バロックは、一つの時代の終りに立ち会う者が経験する、虚無と絶望の表現形式として、モデルニテと通低する。詩は言葉の根源に還ろうとしています。「実存主義はモデルニテの一様相ということができる」とは、日本の哲学者・坂部恵氏の言葉です。実存主義の第一世代のハイデッガー(一八八九?一九七六)と同世代に属するのは、ベンヤミン(一八九二年?一九四〇年)ですが、近代の抒情詩人・萩原朔太郎(一八八六年(明治一九年)? 一九四二年(昭和一七年))と資質や素養の面でとても近いところにあり、朔太郎とベンヤミンの共通の根として、フランスの詩人ボードレール(一八二一年?一八六七年)が考察されます。朔太郎の鬱々とした「メランコリー」の感情の背景を考えるとき、現代の抒情を考える新たな視点となるでしょう。わたしの個人的見解として、現在の現代詩は、「メディア・スーツ」を着た肉体感覚の変化がもたらした「超 抒情詩」へ向かっているのだと考えています。日本の抒情詩のサンスは、語の音の存在連関による《性=gender》の表象の擬態として、発話する主体を表現していくのではないでしょうか。社会環境の変化による肉体感覚の変化を伴う人工的自然は、多次元の詩的コスモスを創造していくことを目指すでしょう。これは「超 抒情詩」という出来事です。
 二〇〇八年六月八日の秋葉原無差別殺傷事件という、テロ(=恐怖)行為も言葉は無力だった。人が段階を追って成長するには、DNAの記憶のほかに、脳が想像するミュトス(物語)が必要なのです。人間の感情の奥底に潜む暴力を伴う恐怖は、『言葉は命』という認識を疎かにしてきた社会言語の弱まり、というように感じます。言葉の霊性は、人間性を回復することで、ありそうもない御伽噺を信じる力を育てることです。詩は、そのありそうもないファンタジーの世界に関わっているのだと思うのです。それは、時間と、時間を超えたものの統合のうちに現在の場所で、言葉との新しい関係を開示することなのではないでしょうか。「変身につぐ変身という純粋行為」とはヴァレリーが「魂と舞踏(清水徹訳)」のなかで「舞踏」についてソクラテスに規定させた言葉です。「エウパリノス」のなかで、ソクラテスはかくも言うのです。「魂は、それらの芸術が魂に伝えるこの物質的で純粋な調和に対して、魂がやすやすと生み出す汲みつくしがたいほどの夥しい数の説明を神話で答えるのだ」と。 「現代を表現する詩」とは、めまぐるしい社会環境の変化の中で、「変身につぐ変身という純粋行為」に言葉で触れていくことであるかもしれない。


二〇 農耕(agriculture)思想から文化(culture)へ
長野市の善光寺へ初めてお参りに行ったのは、六歳のときだった。七年に一度のご開帳のときだったのだと思う。そこでの法話がいつまでも記憶に残っている。そのときの集合写真があり、なんとまあ、子どもは私ひとりしか写っていない。いつも大人のなかで、「おとなしくていい子だね」と言われてきたので、母はいつでもどこへでも私を連れて歩いた。
お坊さんが、多分...人生の無常を花の散るのに喩えた話をしたと思う。桜が咲いている春だったからね。そのあとで、絵本を買ってもらったと思うのだけれど、お寺での法話のあと、お坊さんが絵本なんて売るかなあ、と思うけれど、どうだったのだろう。でも、やはり、「安寿と厨子王」の話を聞いて、絵本も買ったと思う。人買いに売られたと安寿と厨子王が、盲いた母に再会する場面は悲しかったので、思い出した。こうした物語の発端は、桜の花見の宴席でその家の主君が、杯に桜の花びらが舞い落ちるのを見て、人生の無常を悟り、出家したのだった、と思うけれど再読してみる必要がある。いま、思い出すと記憶があちらこちらに飛ぶので、怪しい。

それで、両親と境内の桜の花の下を歩いているうちに、もらった風船が手を離れて、飛んで行ってしまい、「あきらめ」を知った最初だった。仏教的な無常については、「無常の春の風忽ちに花の御姿を散らし」(平家物語巻十一)の光景に法話は重なる。当時の我家は養蚕と水稲の専業農家だったのだ。一族郎党総出で「春蚕」をあげたあとで(「蚕あげ」といい蚕が繭になること)善光寺へバスを仕立てて、お参りに行ったのだった。養蚕はこの年を境に廃業した。養蚕は母の仕事で、この蚕のための桑畑を、別の業種に変えたのは、私が七歳のころだった。養蚕が女性の仕事であったのは、中世のころからで、桑の管理と「蚕」という生物の育成が、女性に任されて、さらにその収入も女性に管理されていたことは、女性と職業の歴史を考えるうえで興味深いことでもある。蚕という生物を育て、その繭から絹糸をとるまでの仕事は、大変ではあるけれどおもしろいものだったに違いない。母は染織もやっていた。
これをいつも見守り助言を与えるのが、農業改良普及所の養蚕教師でこの教師も、自然気象と生物とこれを育てる桑という植物について、母と私に良く教えた。子どもだったのによくその話を聞いていた。桑という植物の畑は、蚕の成長に合わせて何種類も植えられていて、春蚕と秋蚕では、与える桑が違った。日本の中世では、養蚕は国の仕事で、桑も国が管理していたが、部分的にはそれで個人的な収入を得る者もあったはずだ。女性という存在が、家に従うものとされた歴史の変遷を考えてみたいと思っている。家庭というものが伝えてきた、家庭教育のなかにあった良い意味での日本文化が、失われていくと感じるからだ。家庭教育が、家庭で学校の宿題を教えることだと考えている母親が多いが、それは誤りだ。家庭とは日本の文化を伝える場、なのではなかったか。地方の田舎の家は旧く、土地と気象と生物との関係のなかで、関係しあいながら人間を育ててきた。「育てる」、ということはとても重要なことだ。無機と有機の関係のなかで、成長する命の有り様を、存在の仕方を、生き物の観察を通して知ることは重要で、それを行うのが家庭の教育、だったはずと思う。

文化と存在のことを考えてみる。「在る」ということと「成る」ということを、農耕(agriculture)の思想から、どのような文化(culture)へと、植物と自然を通して考えは進められてきたのかを、旧い家の暮らしから見つめてみようと思っている。「文化」には「耕す」という意味が含まれているからだ。たくさんの時間を必要とするし、思索だけで終わりそうな不安もある。いつも自然というものを考えるとき、ギリシャ以来の存在論の伝統からbeing(存在)とphysis(自然)を考えるのは、日本の神話を読むと並行してギリシャ神話を読んできたからだろうと思う。自然と存在はつながっているとする、ハイデッガーの考えにそって考えをすすめていくのが、私には親近感がある。そうした方向から文章を書いていくのは、すでに私のスタイルとなった。この先、東信州で農耕生活をしながら、文化の中の詩を考えていくことによって、metaphyscaを乗り越えていくという、大それた野望をここへ書いてしまうと、人間という種族を捨てて、「鳥族」になるしかないだろうなと思う。


二一 同時代の芸術家たち
パウル・クレーのプロフィール(Paul Klee, 一八七九年?一九四〇年)は、二〇世紀のスイス出身の画家、美術理論家)クレーは一九一六年から一九一八年まで第一次世界大戦に従軍。一九二一年から一九三一年までバウハウスで教鞭をとった。彼は芸術理論にも通じ、多くの理論的著作を残している。 一九三一年から一九三三年までデュッセルドルフの美術学校の教授をした後、晩年の数年間は故郷ベルンで過ごした。最晩年は手がうまく動かない難病にかかるが、背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返したという。その天使の絵に心を打たれた日本の詩人、谷川俊太郎は「クレーの天使」という詩集を出している。
「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたクレーの作品は、通常のキャンヴァスに油彩で描いたものはむしろ少なく、新聞紙、厚紙、布、ガーゼなどさまざまな支持体に、油彩、水彩、テンペラ、糊絵具などさまざまな画材を用いて描いている。サイズの小さい作品が多いことも特色で、タテ・ヨコともに1メートルを超える「パルナッソス山」のような作品は例外的である。二〇〇五年六月には故郷ベルンに彼の偉業を集大成した「ツェントルム・パウル・クレー(パウル・クレー・センター)」がオープンした。
ヴァルター・ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』で語られる高名な「歴史の天使」論は、クレーの『新しい天使』に触発されたものである。ベンヤミンは、ドイツからの亡命途中ピレネー山中で自殺するまで、この絵を携行したのでした。


二二 仮面の秋
 名前とその意味のことは、解答を求めたりはしてはならないのだと思った。風も樹木も、その名前を知らないずっと前から出会っていたのだし、知っているということは、幼年時代から現在までの「記憶による連合」によって喚起される感受性だったからだ。
これまでもこれからも仮面の「彼ら」は、都会で暮らす、会うこともない「彼ら」はずっと親しく私の身近に存在する(もの)になるだろう。水のイメージにひかれて長野県南佐久郡小海町にある松原湖を見に行く。湖畔にあるギャラリーから、友人のBの個展の通知がきたのだ。オーナーは、自分のボートを持っていて、いつでも貸してくれると言うのだった。
神は、ほんとうに「光、あれ」と言ったのだろうか。神もまた人のペルソナの下にその仮面を隠したのではないのか。人とともに在るために。木を映す湖の冷ややかな水面には、空の青さも、雲のかたちも、私という(もの)の姿も、私が見ているように「彼ら」に見えているわけではなかったが、「彼ら」のなかに私は混ざっていたし、「私」は彼らのなかに溶けていた。水の鏡に映される、それぞれの仮面のペルソナと呼ばれる人称。空は水の中に(青)という光を隠している。雲は漣のうえにその形を歪ませている。木は私という(もの)の中に木を隠す。私は無情のものを映す水鏡の面の奥に、さらなる私を隠蔽すると同時に、水面に自我という実装の仮面を剥がしてゆく。


二三 内的自己(self)と我(cogito)
日常の自己を超えていく主体を獲得するとは、無意識の底に沈んでいる世界を意識の上に反転させ、旅することです。作品世界のなかに「わたしのなかのかれ」を創造できるとき、詩はその作者個人を離れて、読者のなかの「他者」と通底する、ユングの言葉で表現すれば「セルフ(self)」と出会うのです。心理学者や哲学者がさまざまな言葉を用いて、その人の視座でその人の母語でこの(self)を表現しているわけです。
 倉橋由美子さんのエッセイ集に「わたしのなかの彼へ」があります。これもやはり「セルフ(self)」の人格表現であると思うのです。VOGUE 二〇〇三年五月号掲載文章に「私」の行くべき場所はどこにあるのだろう。という文章があり、参考になるものです。部分を引用します。『「私」の行くべき場所はどこにあるのだろう。アメリカから帰って三五年以上がたった。その後も倉橋さんは泉鏡花文学賞受賞作となった『アマノン国往還記』や『大人のための残酷童話』など、「もう一つの場所」、もう一つの場所との行き来、「往還」を小説空間の中に構築する作業を続けてきた。「私の作品は、取材をしたり、自分の経験を次々に書いていくというのではなくて、いろんなものを吸収し、引き出しに貯め、それが自然発酵して滴り落ちてくるものを待つというかたちで仕事をします。その上、過去の文化遺産、過去の小説や神話などと出会って、そこから何かヒントをもらうことでしか書けない。現実に見たものだけでは嫌だし、どんな感動することがあっても、それをただリライトするようなものは書きたくないんです」』
再び セルフ(self )の人格表現に戻って考えてみる。内的自己(self)と我(cogito)そして唯識の意味世界へ作品のことばの宇宙に在るのは、仏教の唯識の「空(くう)」の意味世界で、哲学の人称的世界でいうところの「我(cogito) 」と「汝cogito=self」が出会う場所となる。唯識における「空」の原語「シュンニャター(sunyata)」は「ゼロ」という意味だが、「何もない」という意味ではない。わたしたちが、(ある)と思っているような意味で物や人が(ある)のではないということ。あらゆる命のつながりのなかで存在している、すべてのものの本質は「一つ」である、という意味で「ゼロ」と「一つ」の二つが奥深いところで「一つ」とわかる悟りの世界が「空」である。


二四 岡本太郎
画家の岡本太郎は八五歳で亡くなったのですが、TVのCMにおいての「芸術は爆発だ」の言葉が社会をどんどん一人歩きしてしまって、岡本太郎という芸術家を正確に知る機会を失ってしまっていたように思っています。十八歳の岡本太郎が父親の取材旅行に母(岡本かの子)とともにパリに渡り、寄宿舎に入り、十年以上もの間パリ大学ソルボンヌ校等で学んでいましたが、第二次世界大戦にドイツが参戦し、パリにドイツ軍が侵攻してきた年に日本に帰国したのは二十九歳のときでした。二十七歳の時に、「贈与論」で有名な民俗学者マルセル・モースからモースの全体性理論を学んだ唯一のアジア人であることはあまり知られていません。帰国してから民俗学の著書も顕しています。岡本太郎が考えたことは、芸術によって「いかに社会に影響を与えることができるか」ということでした。画家としての岡本は「対極主義」という独自のアイデアを発展させていきました。
 岡本太郎の生き方に興味があったのですが、特にモースから直接に民俗学を学んだアジア人、それも唯一の日本人と、思っていたのです。それが偶然に、東京大学の考古学の資料サイトの集合写真のなかに、モースの後方に「中谷治宇二郎(なかやじうじろう)」という若い考古学者を発見したのです。考古学者中谷治宇二郎は自費でパリ大学に留学し、三十歳という若さで亡くなってしまいました。日本の縄文時代における研究に多大な影響を与えました。パリ大学ソロボンヌ校でマルセル・モースから学んだアジア人は二人いた。その二人は日本人で一人は画家で、一人は縄文の考古学に新しい道を開きました。
なぜ、こうしたことに興味があるかというと、私は三十代に長野県埋蔵文化財センターというところに勤務し、若い考古学者たちと学ぶ時間を持てたことがあるからです。人は地上の歴史ばかりに眼を向けていますが、地下に眠る歴史を知るとき、人の世の無常をありありと知るのだとそのとき実感したのです。
 

 二五 「死を怖れないために」
 公園を散歩していると白い帽子を被った女性が二人、お互いをいたわりながらこちらへ向かって歩いてきます。もう、かなり年配の女性たちです。近くのグラウンドでマレットゴルフの試合があったようですから、その帰りなのでしょう。亡くなった叔母を思いだします。戦争で夫を失った彼女は、一人息子を大切に育てて、彼はそんな母をいたわりよく勉強してこの地方の優良な企業へ就職して、たいへん重要なポジションで働き、今年退職した。叔母はマレットゴルフが大好きで、その道具を息子からプレゼントされて喜んでいた。こんな明るい六月の日、ポプラの緑の葉に、オレンジ色の光がリボンのように射す日、叔母は、息子を会社へ送り出してから具合が悪くなり、病院へタクシーで行き、お昼ごろには意識不明となり、私が夕方の六時ごろ行ったときは、もうすっかり諦めて、心の準備をしなくてはならなかった。子どもが一人しかいなかった叔母は、私を娘のように可愛がってくれたから、叔母の急変を従兄が知らせてくれたのだ。次の朝早く起きて、病院へ行くと、彼と妻とで交代で叔母の脚をさすっていた。叔母の脚はポカポカと温かった。心臓のペースメーカーは、直線を表わしているだけだった。家へ叔母を迎える準備をしなくてはならなかった。医師が来て、「もう呼吸はしていません。心臓の機械に電流を通しているので、胸が動いているのですが」と言った。従兄は、「ありがとうございました」と、言った。すぐに、電流が止められた。彼と妻と私は処置室で、叔母の死に至る病名と治療とを聞き、死後の処置が始まった。叔母は美しい表情をしていた。すべてをやり遂げて満足そうだった。医師と看護士に任せて、私たちは忙しく自分のやるべきことをやるために処置室を出たのだった。
六月のポプラの葉叢が、今度は薄いシフォンのワンピースのように揺れる。人が、死を怖れずに還ってゆくことができるのは、この緑の光のなかに迎えられる、という幻想を夢見ることができる力があるからかもしれない。「なぜ、あなたは詩を書くのですか」と、問われれば「死を怖れないために」と思う。


二六  中也の「みちこ」
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九?一八四九)の「リジーア」を何回も読んでいた。そして、小林秀雄の「中也の思い出」という文章を読みながら、中也全集を読んでみると、中也の「みちこ」はポーの「リジーア」のように「みちこ」という女性の美しさを讃えていることを知った。中也の「みちこ」は美しい、「みちこ讃歌」だと思った。
(そなたの胸は海のやう おほらかにこそうちあぐる。はるかなる空、あをき浪、涼しきかぜさへ吹きそひて 松の梢をわたりつつ 礒白々とつづきけり。またなが目にはかの空の いやはてまでもうつしゐて 並び来るなみ、渚なみ、いとすみやかにうつろひぬ。みるとしもなく、ま帆片帆 沖ゆく船にみとれたる。またその額のうつくしさ ふと物音におどろきて 午睡の夢をさまされし 牝牛のごとも、あどけなく かろやかにまたしとやかに もたげれ、さてうち俯しぬ。)これは去っていった女性への追憶ですね。それでも妙にこころが落ち着いて、どんなにこの女性を愛していたかが、中也にもわかった、というような狂おしい気持ちが最後に表現されています。(しどけなき、なれが項は紅にして ちからなき、嬰児ごとき腕して いとうたあはせはやふきし、なれの踊れば、海原はなみだぐましき金にして夕陽をたたへ 沖つ瀬は、いよとほく、かしこしづかにうるほへる 空になん、汝の息絶ゆるとわれはながめぬ。)


二七 詩人ヨネ・ノグチとポーについて
エドガー・アラン・ポーをもうひとつ興味深くさせるのは、ノグチヨネジロウの存在だ。「ヨネ・ノグチ」は明治二八年に渡米し詩人ウォーキン・ミラーの学僕として仕えた。「ヨネ・ノグチ」がアメリカで発表した詩はポーの剽窃と叩かれた。 だが、彼は「私は第二のエドガー・アラン・ポーである」と堂々と言ったのであった。好きな詩人に心酔するとは、そういうことだ、そしてその作品は他人がなんと言おうが「ヨネ・ノグチ」の作品なのだ、と思う。詩を好きになるとは、こういうことだと思う。
 以前から読みながら中断していた「ポーの冥界幻想」(佐渡谷重信著)を再読した。朔太郎は、エドガー・アラン・ポーを好んだ人だった。「ポーの冥界幻想」の「第六章 ポーと萩原朔太郎の心霊美学」。この第六章の扉の言葉に、エピクロスの「私が存在するときには、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」を引用したアナトール・フランスの印象深い言葉がある。「しかしもしも、死はわれわれを襲いながらも、われわれを存続させておくとすれば、われわれは墓のかなたにおいても地上にあった時の自分と全く同じ自分をみいだすであろうと思って間違いない」 この部分だけでもかなりいろんな刺激を与えられる。朔太郎はポーと自分に遺伝的な天性気質の類似性を感じていた。朔太郎にとってのポーは「あらゆる狂気じみた神秘のなかで最も内奥的な気味悪し神秘」としている。そして「ポオとドストエフスキイは僕の藝術であり、ニイチェは僕の生きた生活だつた」と言っている。朔太郎は、人の妻となってしまった「遠い実在」の女性ナカを死によって失ってしまったことによって、「かくて私は詩を作る」のだ。愛するものの永遠の喪に服することが、萩原朔太郎の心霊美学的な生活と詩だったと思う。


二八 「絶望」を遣り尽くす熱情を。
詩人であり思想家であった吉本隆明が亡くなってから二ヵ月半が経った。読み通してある著書は『共同幻想論(1968)』だけで、例えば「書物の解体学(中央公論社)」は、部分的に強引で、読むのを止めたのだった。それは「ヘンリー・ミラー」のところで、『なぜ、ミラーがヘッセの「シッダルタ」のような愚作かもしれない作品に、のめりこんだのかは明瞭である』と書いている。手塚富雄の名訳で読んでいるのに、信じられない読み方だと思った。それはそれとして、現代詩手帳五月号特別付録の吉本隆明2009.6.20講演「孤立の技法」は良かったし、追悼特集の追悼文は心に沁みた。佐々木幹郎が吉本隆明の文章を引いて「詩人は詩を作るが、詩もまた詩人を作ることを知らない」を反芻している。「詩が詩人を作る」とは中原中也、そして「詩人が現代思想を語った」のが吉本隆明だった。
 さて、「自由詩」というものが書かれる背景に必要なのは、「詩法と詩論」だというのが私の持論です。日本という国の自然事象と社会事情は昨年の3・11以来、大きく変化した。東北の国土を襲った津波と地震は、いかに人間の作ったものが脆くはかないものであるかを、まざまざと見せ付けた。大勢の人々の理不尽な死による絶望と、国への失望を見逃して詩を書いていくわけにはいかない、という思いが心に暗く存在する。国民が受けた痛手を、国政はどれだけケアしていくことができるか。芸術の表現者が感性に受けた痛手は大きいけれども、物書きは物を書き続けることが生き延びる方法だと思う。そして、自由詩の抒情の感性が、どのような心の仕組の変化で、今日を乗り越えようとしているかを探っていきたい。
                 
 思潮社の現代詩手帳六月号の特集は、「現代詩手帳賞の詩人たち」で、第五〇回記念作品特集だった。第一〇回現代詩手帳賞を一九七〇年に受賞した伝説の詩人、大久保正博氏(帷子耀)へのインタビューは「帷子耀」を生きた時間が語られていて、ゾクゾクした。この特集では作品を断念している。インタビューは、詩への熱情が語られている、と私は感じた。本名での新しい仮面を被って再デビューするのだろうか、わからない。
「詩人が詩を作っている」のが現在の詩の状況であるとすれば、人々の心が希望を失っているときに響いていく言葉は、日本語の語音の連鎖から沸き起こる、美しいものへの郷愁ではないか、と思う。今は、どうしているのかな、と思っていた人も、ずっと書き続けている人も、3・11以後の日本の放射能汚染の現実を見つめれば、生き残っていることと、困難にめげず、しぶとく生き続けることによって、新たな「詩の感性」が芽生えてくるはずだ。感性とは、人の心をどのように理解し、自分の心を人にどのように伝えるか、という能力で、外界に対して情報を発信する能力である。自然が人間に与えていた恵みは、現在は、恵みとして受け取れない地域に暮らしていないと、目に見えない物への脅威は実感されない。それらを書くとしたら、芸術上の「見える物を越えた光」のなかへ、絶望を取り込んで表現できるかだろう。
特集作品に戻ると、新しい感性として、立原道造の持つ郷愁を感じさせながら、チクチクと胸を刺すのは望月遊馬氏。不安によるストレスが大きくのしかかっている時代には、こうした詩句は、人の心を甘くとろけさせる。六月号の作品も凍えるような青春の痛みがある。「太陽のなかで方眼紙を包む娘のようにあばずれの美を想いたい」という、純情をどこまで輝かすことができるだろうか。最終連を引く。
「魔法がとけてしまうから、はやく。あなたがあなたでいられなくなるから。雨のなかでびしょぬれになったときは眠りから覚めてしまっていて。夜の町は輝きだした。美しい。夜景のなかでいくつもの歌が始まりまた終わる。まだ、あなたのことを信じさせて。はやく。カモミールの匂いのする町をぬけて。あなたは子どものままでいて。輝いている。輝いている。輝いているから。」
 土曜美術社出版販売の「詩と思想」六月号の特集は「詩人賞、今年の顔」だった。該当作無しは、小熊秀雄賞だけで、あとは十一の各賞・詩人賞・受賞者のインタビュー。なかでも日本現代詩人賞受賞者で、さきごろ九七歳でご逝去された故・杉山平一の「意外な驚き。感謝の思いで一杯です」という言葉に、感動した。九七歳の詩人が、日本人に向かって書いた「希望」の最終行「負けるな」という言葉。それは、やはり「書き続けよ」という意味であろうと思う。天上への凱旋の光が迎えに来るまで書き続けた詩人だった。
また、中也賞受賞の暁方ミセイ氏の「一生にわたって変貌を遂げ続けながら、現在を去り続けること」という言葉にもなんという潔さよ、と思った。「鞄の中身は、死んでしまった少女のまなざし(スーイサイド)」で現在を去り続けていくのだろう。
詩論では、「詩論へ4(首都大学東京現代詩センター)」は、北川透・藤井貞和・福間健二・瀬尾育生の四氏がじっくり取り組んだ論考で、個人的には、「純粋言語」について考えていた最中だったので、瀬尾育生氏の「純粋言語論/山村暮鳥と萩原朔太郎」は興味深いものがあった。
五月に届いた、散文詩誌「サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち5」がおもしろかった。榎本櫻湖氏の雑誌編集の狙いと、同人たちの作品は、榎本櫻湖という詩人の熱情に感電している青年たちの良さが表現されている。榎本櫻湖氏の「春の祭典」の構成は良いと思う。「乙女よ、処女よ、処女膜よ、」は、語呂はいいのだがもうどこかで何度も聞いた台詞のように感じたのだが、いかがか。
絶望の時代が、芸術に望んでいるのは「美と精神(スピリット)」ということではないだろうか。この二つに含まれているのは、美に拡大されたグロテスクと怪奇だろう。ランガージュという言語の舌の熱さで、言語の襞、まだ見ぬ精神(スピリット)の芯を、眼の上に生えた獣の眼で見させることだろう。詩の希望とは、絶望を遣り尽くすことだからだ。その意味で、「耳空」vol.8.の毛利一枝氏の「写真・迷い道シリーズ」は、「美と精神」を獣の息で見せてくれたと思う。


二九 現実と幻想の境界を跨ぐ「モノ」

ロンドンオリンピックが始まって、猛暑が続いている七月の午前二時半、激しい悪寒に襲われて、布団を被っても治まらずに嘔吐し三九度の発熱。朝六時に再び悪寒に襲われて、時間外の緊急外来で、血液検査の血を採られて、ミネラルの点滴をしてもらうために、ベッドに寝かされていた。リアルな夢の中で「惜しいな、せっかくここまで現代詩について書いたのにね」と何度も思った。詩を書いてwebへアップするたびに、その新システムでは読者の「パチパチ」という絵文字拍手が劇場の拍手のように鳴り響くのだった。拍手はいいな、《現実と幻想の境界を跨ぐ「モノ」》をいま、書いているしねと、熱病の夢の中で思って、快楽のように絵文字拍手の音を聞いていた。

詩人とは、幾種もの人間と獣のマスクを被って詩を書く人のことかもしれない。興味深い詩集や、雑誌が届けられる。それらは、その詩人の個性がたった一種類の人間の種族の皮でできているのではなくて、もともと神話の時代の物語は両性であった人間の一種類ではないセックスを表現している。
動物や植物のDNAが、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル男爵の言葉による「内的環境世界」として、日常言語と重なって詩の世界を創造したとき、言葉は新たなる驚きを読者に伝えてくれるはずだ。言葉の美しさとは、直線的な時間をなぞらない、なまなましい新鮮な現実が文字で表現されている、ということだ。間違えてはならないのは、それは個人の病状の心的告白ではなく、表現者としての「内的環境世界」に「発話する主体」が生まれていることだと思う。一九世紀のフランス象徴派の詩人ランボーがハシシュによって見た幻覚ではなく、人間が制作したバーチャル世界を見る通して、経験なしに超越した感覚を取得した現代人が、言葉を通して/現実と幻想の境界を跨いでいくのだ。

首相官邸を取り囲むデモの参加者がどんどん増えている。大規模な国政への抗議デモというと六十年・七十年安保闘争のデモを連想する。市民が子連れで参集するのは、暴力に訴えないからだ。「ことば」の呼びかけに応えて集まる人々。こうした人々の姿が、「原子力は安全」と思わされてきた日本人の言語感覚をどう変えていくことができるか。3・11の苦しみを経て、日本人の言語体質が「変容」するときが来ている。吉本隆明を読むことにした。日本を支えていた団塊世代の人々が退職をして数年過ぎた。この世代は、安保を経験し、吉本隆明に影響を与えられた人々の時代だったと思う。七月前半は、『〈信〉の構造 吉本隆明著・全仏教諭集成19445?1983・9 春秋社』を読んだ。『歎異抄』の解説はたいへん丁寧で、親鸞への洞察は鋭い。「悪」とは何か、「善」とは何かに迫っていると感じた。「歎異抄について」のなかで、親鸞という一個の人間に衝き当るために、『僕たちは弥陀とか、往生とか念仏とか云ふ一見重要に思はれる概念を捨ててゆかねばならぬ。さあれ僕は来世などを信ずる気にはならぬ。生きることが死よりも遥かに辛く悲しいことを少しも疑わない。僕たちの感官は「所労」のために痛まず、むしろ精神のために痛むからだ。煩悩の無い奴は人間ではないと親鸞は僕たちに繰り返してやまぬ。いやむしろ煩悩のない奴は人間の資格がないと、僕にはそのやうに聞こえてくる。』などは、現在の「いま」に通じるほどに「生(なま)」な言葉だ。吉本隆明の『〈信〉の構造』の良寛の捉えかたも優れていると思う。吉本の〈信〉を巡ることが、人間の意識の起源を巡っていくこと、意識の歴史性を巡っていくことに出会えるといいと思う。

『思想は散文の中に住むが、ポエジーを手伝い、監督し、またこれを導く』と、ポール・ヴァレリーが言っている。七月に読んだ詩集では、倉田良成詩集『グラベア樹林篇〈非売品〉』が、倉田良成氏の言葉の野生を表現していておもしろかった。「グラベア」とは解説によると〈神の名づけ〉というものであるらしい。ここは、もう少し詳しく解説すべきだろう。どうもよくわからない。散文詩篇のほとんどが一段組み三〇行内に収められ、二段組み二頁の解説が付くというスタイル。文語文の豊かさというのは、日本の季節感と文字で表す言葉が一体となっていることだと思う。折口信夫の古代篇やモースの贈与論による「祝祭」が、倉田詩篇となって表現されていると思う。ここで扱われる「祝祭」は、もう少し厚みが欲しいと思った。神話における「祝祭」とは、日常と非現実を繋ぐ「仮面のカーニヴァル」なのだから。

榎本櫻湖氏の第一詩集「増殖する眼球にまたがって(思潮社)」も、おもしろかった。本の装丁とデザイナー、栞文と執筆者、という造本に関わる人々の超贅沢さに眼をみはる。野村喜和夫氏の解説文にあるように、この詩は人間の口から出た言葉ではないと、思えば拒否反応は起きないし、榎本櫻湖という詩人は、二十一世紀の言葉を通して/現実と幻想の境界を跨いでいる人の一人であるかもしれない。野村氏は「正当な異常性」という、ルネ・シャールの言葉を榎本櫻湖氏に贈っているが、「榎本櫻湖」というペンネームとともに、ここで用いている詩形、現代日本社会の世相など、極めて正常な地平から見た地形を地下に潜らせ腐らせ、あるいは服の中に隠されてあるべきものを、突出させて「見せた」のだった。言葉の繋がり、言葉の意味、というものは言葉を扱っていると、言葉が自由にその人間の意識を深いところへ連れて行くことがある。人間という生き物に潜む多重性に出会うことになる。感情の畸形や怪奇なものは、その辺りに潜む。こうした無意識を詩の「装置」として、詩法に引っ張りあげているように思う。この詩集のもう一人の解説者・福田拓也氏の文章も魅力的で、この若い畸形で怪奇な(賛辞です)詩人へ惜しみない優しさで、空海の文字=身体論との邂逅までを述べている。さて、櫻湖は文字と文字が呼び合う、声の出会う、身体が抱きしめられる境地までたどり着けるかどうか、見つめていよう。

広瀬大志詩集「ぬきてらしる(私家版)」は、こんな奇怪な本を見たことがない。書名からして、何のことかわからない。小説のようでもあるし、「ぬきてらしる」という米櫃に巣食う「コクゾウムシ」の出現事実を、これも時間線を無視して語っている。今は今なのか。過去は過去なのか。「コクゾウムシ」は好きなように出現するのだ。これこそ、人間という種族の精神に飛び移った「ぬきてらしる」の内的環境世界が、広瀬大志という詩人の人間の口を借りて述べられた詩集だった。

最後に、ルネサンスの両性具有神話の反映を見ながら、ルネ・ホッケを孫引く。『生命はそれ自身のうちに男性的なるものと女性的なるものとを結合している。つまり、人間は、もともとアンドロギュヌスだったのだ。だからこそ、彼らは神々にとって危険な存在となった。そこで神々は人間を分割した。』とある。女性なるもの、男性なるもの、その両方の性に自然は自然の性と動物の性の記憶を埋め込んでいる。あらゆる芸術の創造世界の豊かさは、「変容」というパッションへの驚きであるだろう。


44号は、ゲストのたなかあきみつ氏と小島きみ子の作品です。今まで送付していた方には発送します。切手500円分を送付いただければ発送します。ご連絡ください。web版は準備が整い次第お知らせします。
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花と緑のある暮らし - ポイエーシス

マジカルキャンドル
夏は白い
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秋になると薄紅いろになる
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ハートの薔薇のオブジェはいろいろなものに侵入して
その美しさを応用することができる
薔薇と薔薇の実と千日紅とミモザ
この小さなハートの台座の上に2012年の夏から秋
そして2013年の春までの野生の命が込められている
バースデープレゼントです
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2013年2月から3月は、「詩客」の詩時評のための雑誌を読んで書き継いでいたので、あまり本は読めなかったが、後半に読んだもののうちから。
 西崎憲編訳『短編小説日和』筑摩書店 「ミセス・ヴォードレーの旅行」おもしろかった。この作品中で二重括弧による会話はそれ自体が幻想の世界。気が狂っていると思われるような夫人と怯えて従う少年との過去の会話は、極めて詩的で個人的には愉快。現在の普通の括弧の会話は現実で、この二つの会話によって進行していく、ミセス・ヴォードレーの庭と図書室における出来事は、「ミセス・ヴォードレーの旅行」なのだと思った。少年のときに経験した「ヴォードレーの謎」という怪奇を二重括弧で、大人になった現在の会話を普通括弧で語るという構成で、夫人の「旅行」は最後まで、屋敷内から庭に運ばれたその場所に閉じ込められたままで終わる。いろいろなことを想像させるが、すべては不明で、事故死というものを「旅行」と名付けてみればそうかもしれない。アルコールを飲みすぎて倒れたまま息を吹き返さなかったかもしれない。そのことへの回想は、そこに『しろにんじん鳥』が埋まっているということなのかもしれなかった。一番最後に置かれているアンナカヴァン著・西崎憲訳の「輝く草地」というのが好きだった。脅迫観念といえばそれまでだが、後半の部分は詩のようだ。421P.「私は幻を見た。夥しい草の葉、絶え間なく増え続けるそれら。静かにしかし異常で圧倒的な力で地表に現れ1分ごとに千倍にも増えるそれら。あの草地でいかに草が貪欲に瀰漫していくことか、ありえないような破壊的な強さで成長し、周囲に破壊をもとらしてゆくことか」。そして短編小説とは何かの解説もまたおもしろかった。
 西崎憲『エドガー・アラン・ポー短編集』ちくま文庫この文庫本の表紙カヴァー、どこかで見たことあるなあと思ったら、松井冬子さんの「完全な幸福をもたらす普遍的万能薬」でした。私は松井冬子さんのファンでもあります。ポーの短編集って中学生のときに読んで以来なので楽しみです。西崎さんの解説すばらしかった286P.に「熱を備えた虚無」というところに共感した。私は、詩誌エウメニデスで「ポーとルドンにおける暗黒のファンタジー」という文章を書いています。(上の記事をツイートしたら、西崎憲さんご本人がtwitterへ返信してくださったので、書いておきます。「短編集を読む際の何かの役に立つかも。『エドガー・アラン・ポー短篇集』は4年かかってしまって最後は泣きながら訳していて、ポーが嫌いになりそうになりました。でも今はやっぱりかなり好きかなって思っています。友人になるのも難しい性格だったような気がしますが。「ウイリアム・ウイルソン」が大変好きです。「ミセス・ヴオードレーの旅行」はかなり地味なので、あの位置におくかどうかものすごく迷ったのです。わたしはあのそこはかとないユーモアがすごく好きなのですが。たのしく読んでくださると嬉しいなあ。」)

葦の荒地における読書ノート - ポイエーシス

これを読んでいると、2012年の夏はたいへんな日々であったことがしのばれる。39度の熱を出して市立病院の緊急外来へ続けて2日も通院したのだ。途切れた文章だが、紛失したフォルダから救出したばかりなのだ。(葦の荒地。野焼きの跡は、宅地になっていた。その半分は背丈を越す、ヨモギ。側溝の蓋の下を流れる清流の隙間から芹が伸びている。また空地。高速バスの駐車場だ。そして本屋。J.キャンベル「神の仮面」を読む夏の逝く日。)
神の仮面 西洋神話の構造(上)(下)J.キャンベル山室静訳・晶文全書812P。
1)東洋と西洋の神話と祭式の境界はイランの台地である。東には、インドと極東との二つの精神的地域があり、西にはヨーロッパとレバント(小アジアの地中海沿岸地帯をさす)がある。東洋を通じて、存在の究極の根拠は思考、想像、定義を超えるという観念が優勢である。定義づけることができないのだ。そこで、神、人間或いは自然が善い、正しい、慈悲深い、或いは親切だと論じることは、問題に届かないのである。人は同様の適当さ、或いは不当さ、で、悪、不正、無慈悲さ、或いは悪意をもつものと論じえたろうから。すべてこのような神人同性的な叙述は絶対的に合理的な考察の彼方にある実際のエニグマ(謎)を遮閉するか仮面をかぶせるかするのだ。しかもこの見地によると、まさしくそのエニグマが、われわれ各人の、またあらゆる事物の存在の究極の根底なのである。かくて、東洋神話の最高の目的は、その神々やそれと結びついた祭式のどれをも実体的なものとして確立することではなく、それらを通してその彼方に行く経験、内在的でもあり超越的でもあり、しかもそのどちらでもなく、ないでもない、かの存在通の存在との同一性を提示することなのだ。『知るとは知ることではなく、知らないことが知ること(インドのケーナ・ウパニシャッド2章3節)『おお、なんじ、行ける者よ、なんじは行けるなり、彼方の岸に行ける者よ、彼方の岸から船出せる者よ、悟り!ようこそ!(般若波羅蜜多心経)』神話的思想と想像の西の系列では、人間だけが内部に向かって、ただ彼自身の被造物としての魂の経験をすることができるのだ。『ヨブ記』が示すように、彼はおのれが神の荘厳を見るところのものを前にして、自己の人間的判断を放棄するかもしれない。「見よ、わたしはまことに卑しい者です。あなたに何を答えられましょう?(ヨブ記40章2)」と。或いは他方で、彼はギリシャ人がするように神々の人格を審くかもしれない。*発達と伝播の新石器時代時代村落の段階において、あらゆる神話と礼拝の中心の姿は、生命の母で養育者で、また再生のための死者の受け取り手なる、物惜しみしない大地母神であった。彼女の礼拝の最初期(レバントでは紀元前7500年から3500年頃)では、このような母神は多くの人類学者が想像するごとく、ただ地方的な豊穣の女守護者とかんがえられたのかもしれない。青銅時代が週末に向かうにつれて、古い宇宙観と母神の神話は急激に変形されて説明しなおされて、おおまかにいえば抑圧されさえした。突然に侵入してきた父権的な戦士の部族によって。*母神:イヴ:皮を脱いで若さを取り戻す蛇の不思議な能力は、そのために世界を通じて生まれ変わりの神秘の師匠たる性格を得た。その天における徴が、満ちては欠け、その蔭を脱いではまた成長する月なのだ。月は生命を創造する子宮のリズムの、それと共にまた、それを通して存在が来たり去ったりする時間の主でまた尺度であり、誕生と同様にまた死の神秘の主なのである。蛇は死の果実のようにぶらさがる。★近東の早期の神話組織では、後の聖書の厳格な父権的組織と対照的に、神聖は男性の姿に劣らず、女性の姿で表現されることができ、資格づける姿そのものは、究極は無限定な、あらゆる名と形を越えてしかも内在的な、原理の単なる仮面にすぎぬことを認識する。知恵(悟り)の実と不死の生命の実。つねに死にゆき、つねに復活したシュメルの神。月がその影をぬけだし、蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、死んで宇宙の大母神の彼女の許に帰ることで、その神は再生する。ブッダの教義と伝説では、死からの解放の観念は1つの新しい心理学的説明を受けた。エデンの園では、主なる神はアダムが善悪を知る知恵の木の実を食べたと知ったときは蛇を呪い、天使に告げた。「見よ、人は善と悪を知ってわれらの一人のようになった。だから、いま、彼が手を伸ばして、またもや生命の木の実をとり、それを食べて永遠に生きることのないように」と。★「隣人を愛し、敵を憎め」マタイ伝5章43?48・敵を愛し迫害するもののために祈れ。このようにすれば、あなたは天にいます父の子となるであろう。キリスト教神話の起源はペルシャの影響による旧約聖書の思想からの発展として説明できるように見えるかもしれない。愛と、恐らくは特にユダヤ人という代わりの人類の観念の強調を除いて。
★(下)ケルト族の地域:430P。ドルイド僧について。

ひとりの愚者とは。 - ポイエーシス


ところで、吉本隆明著『〈信〉の構造・全仏教諭集成19445?1983・9 春秋社』では、「信」というものについて次のように解説する。「だれも〈信〉の周辺を離れずに〈信〉を解明するほかないし、ばあいによってはすべての解きうる課題を〈信〉と〈不信〉のあいだの差異の問題に還元してしまう動機を、はっきりと内省できない。解明して残余を残すものだけが〈信〉の本質なのだが、解明して理念で織られた布目のように対象を半透明なものに転化させたい無限の衝動をひき起こさせるのも〈信〉の本質である。つまりわたしたちはほんとは〈信)をめぐっているつもりで、ついには意識の起源をめぐっていることになっているし、また意識の歴史性をめぐっていることにもなっている。」

ひとりの愚者とは。
ルターとの比較において。
  親鸞の思索の中でも、この「信」は最初からあったわけではない。修行のなかで「信」を掴まえたのだと思う。現在の私たちにおいても信仰の追随なしには親鸞の「信」を知ることはできない。何故、吉本隆明の文章や思想が七十年代の学生に熱狂的に受け入れられたのか。思想というよりも、信仰探求の純粋な態度が受容されたのかもしれない。青春の苦悩を分かち合うというような心情への共感が先にあると思う。同書50Pでは、「歎異抄について」のなかに「僕はかつてルッターの「ハイデベルベルヒの論争」を読んで、諸家が仏教に於ける親鸞の位置をキリスト教におけるルッターに比較する理由に合点したが、資質は更に親鸞の方が悲しきである。」と、ルターをここで出していることに注目する。ルターの宗教改革の特徴的なところは、一般の信者にもわかりやすいように、コラール(歌)でその信念を示した。当時のコラールは流行歌のようなもので、酒場でも歌われた。思想を浸透させるよいアイデアだと思う。「信」とは「愛」であると思う。民衆を愛する「愛」がなくては、「革命」は成功しない。親鸞の「信」は民衆への「愛」があったと思う。ゆえに「ひとりの愚者になりたい」と述べたのではないだろうか。52Pでは、「彼はすべての善は不要であると説く、それは念仏にまさる善はないからだ。人間のやる悪などたかが知れるのだ。」と、親鸞の考えを説いている。現代の現実を生きる人々は、どんなふうに感じ取るだろうか。〈神の子〉とは、利益を棄てていく人で、傍目には最高に愚かなものに見える。修業とは、「棄てる」ということを徹底的に取得していくことだ。そののちに得るものが、「信=愛」。純粋な魂を震えたたせる思想である。仏道における、「遊び」とは、日常性に対して、非生産的で、目的を持たず、「聖なる行為」に類似していると言われる。詩人という存在もまたそのようなものであるかもしれない。

親鸞に関する読書計画とメモ - ポイエーシス

 昨年の8月に立てた読書計画だったが、夏には発熱して終わりにならなかった。いろいろなものを追加して2013年の2月から3月にようやく短い文章が書けた。3月29日にweb公開誌「詩客」に書いた「詩人という「道化」」の書き出しの数行にすぎないが、理解してくれた人は一人二人いたので、それで良いと思う。
過去の記事でも書いているかもしれないが、とりあえずフォルダから掬い上げたので、メモ。だれかの何かの役に立てたらいいと思う。全体の感想としては、きみは、きみが「自己」と呼ぶさまざまな秘密に満ちている。きみは、きみにある未知なるものの声だ。 というところへ辿りついた。

?親鸞の大地 津曲淳三著(弥生書房)...津曲淳三の師、曽我量深師の髄門日録。「阿弥陀の浄土は十万億土の西にあるとは昔の教えであるが、人間の宗教本能というところに根がある。」「人間の宗教本能、その本能のあるところに本願がある」「本願は即ち本能ではない。理知、理性の所に建てられているのではなく、本能の深いところに本願はある。」「信心とは、己を知り、如来を知る。信心の体は南無阿弥陀仏」「往生の生は、生産とか生きるという意味を持っている」「正しい宗教に眼を開くと仕事をすればするほど年をとっても老いることはない。生きている限りは生きる。そういう意味が往生の生にある。浄土真宗の〈平生業成〉〈現生不退〉というのはそういう意味をもつものに違いない」「法然上人は御自身の了解が言葉に教えにならない。それを親鸞聖人は自分の往生極楽について突き詰めてお質ねなされた。聞いている方は一言一句も忘れない。教える方は忘れている。先生の方は忘れてしもうた。生徒は覚えている」「心が安立する世界が浄土。念仏によって浄土が廻向される。念仏がないと廻向されない。」
?最後の親鸞 吉本隆明著(春秋社)
?親鸞 親鸞講義 増谷文雄+遠藤周作(朝日出版社)
この本は1979年に発行されている。増谷文雄さんには2回お目にかかった。1979年は職場にお招きして「歎異抄」の読書会だったと思う。翌年は蓼科の女神湖夏期大学セミナーで「歎異抄」の講義をされた。当時、私は教育委員会の職員だった。上司が知り合いでその縁だったように思う。もう三十年以上もむかしのこと。さて、「親鸞講義」聞き手は遠藤周作。始めから核心に触れていて惹き付けられる。*二〇代のときに「歎異抄」を読んだが、さっぱりわからなかった。最近、「悪とは何か」を考え始めて、「善」は西洋哲学とキリスト教的な考えであるに対して〈信〉とは日本的な、親鸞の「歎異抄」こそ〈信〉を探求しているのではないかと思うようになった。*親鸞52歳のとき『教・行・信・証』書き始めた。従来の仏教では『教・行・証』の3つが根本的な考え。そこにあえて〈信〉を入れたというのは、親鸞の内側で次第に熟してきたものがある。ということではないか(遠藤周作)
?原始仏教 中村元(NHKブックス)
?神の仮面 西洋神話の構造[上] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)
?神の仮面 西洋神話の構造[下] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)
?原始仏教の実践哲学 和辻哲郎著 (岩波書店)
?仏教倫理思想史 和辻哲郎著 (岩波書店)
?北欧の神々と妖精たち 山室静著(民族民芸双書)
?トリックスター ポール・ラデイン著皆河宗一訳 カール・ケレーニイ著高橋英夫訳
 カール・グスタフ・ユング著河合隼雄訳 解説山口昌男
(夏のメモ;親鸞の大地 津曲淳三著(弥生書房)親鸞 親鸞講義 増谷文雄+遠藤周作(朝日出版社)を読了して、いま読んでいるのは、神の仮面 西洋神話の構造[上・下] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)819P.ある。このあと、最後の親鸞 吉本隆明著(春秋社)原始仏教 中村元(NHKブックス)から仏教倫理思想史 和辻哲郎著 (岩波書店)へ進んでいく。最後はトリックスター ポール・ラデイン著皆河宗一訳 カール・ケレーニイ著高橋英夫訳となるだろう。)

春の北アルプス - ポイエーシス

2013・4・8 朝の気温12度。晴れ。
北アルプスが青空に映えていました。
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クローバーのなかの瑠璃いろの星
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紫色のクロッカス
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誕生日プレゼントを制作
ミモザの花束とモロゾフのキャンデイ
ピンクリボン、赤い和紙のバースデーカード箱入り
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中原中也のソネットから「一つのメルヘン」を紹介します。この詩は2013年3月の短詩型文学祭・現代詩部門の座談会で60分間のスピーチを行ったものです。参加者に朗読してもらいながら、「読むこと」によって理解するという講座にしました。何度も何度も読んでいくうちに解っていきます。
4行構成の14行詩ですが、韻を踏んでいるわけではありません。敢えていえば、彼方、小石、河原の「K」の音。もっとも重要なのはオノマトペで「さらさら」。河原は小石ばかりで水が流れているわけではありません。「さらさら」は「陽」が射している音なのです。二連目の「やうで」の重なり。ここでも「さらさら」に注意をはらってください。一連では「陽」。二連では粉末の珪石の「音」。三連は転調があって、「蝶」という存在の影は、命。レーベン(命)と存在(being)が重なってきます。四連は蝶という存在は失われて、いままで流れていなかった川床に水が「さらさら」と流れ出す。
どうですか。この河原には、「水」はないのです。「さらさら」と射している「陽」は、水のように川床に流れています。流れていない水を流れさせたのは、「蝶」です。現在に存在しているのではなく「過去」からやってきた「命」です。過去の時間に在った水の流れが「いま・ここ」に現れているわけです。それは「詩人の目」を通してだけ見える「命」と「存在」の現れです。「現れ」とは仏教用語で言えば「現成(げんじょう)」ということです。

一つのメルヘン              中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、

小石ばかりの、河原があつて、

それに陽は、さらさらと

さらさらと射してゐるのでありました。

陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、

非常な個体の粉末のやうで、

さればこそ、さらさらと

かすかな音を立ててもゐるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、

淡い、それでゐてくつきりとした

影を落としてゐるのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、

今迄流れてもゐなかつた川床に、水は

さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました......

この原稿は2007年、市民への現代詩講座のために書いたものですが、何かの参考になれば良いと思います。改稿して『人への愛のあるところに』に含まれています。とりあえず(1)のみ載せておきます。

(1)詩とはなにか

  詩の言葉は、いつもその時代の社会背景を敏感に感受して、思想と感覚の最先端を走り抜けるものだと、私は思っているのです。それにしても、「現代詩」とはなんでしょうか。近代詩と現代詩の分かれは「萩原朔太郎」を境にしているといわれます。文学というものが探求する人間の存在の核は、この世界に誕生したものたちの「命」というものの在り様だと思います。自然という外界と、人間の脳髄という内界を巡る、無機と有機の事物(もの)の融合を、人間の輪郭を離れた外界から、言語の内側を覗く命がけの仕事。それが詩作というポイエーシス(Poesie)でしょう。

 詩学、という言葉の初めはアリストテレスですが、ポイエーシスについてはプラトンが、『饗宴』のなかで、巫女ディオティマに、こう言わせています。「存在していないものから存在しているものへと移る場合、その原因となるものは、すべてποιησιs(ポイエーシス)です。したがって、およそ技術のなしとげる仕事はすべてποιησιs(ポイエーシス)であり、それに従事する者はποιητηs(ポイエーテース)です」。さらにつけ加えて、「技術のなしとげる仕事」に従事する者すべてが、ποιητηs(ポイエーテース)と呼ばれる訳ではない。「つまり、ποιησιs(ポイエーシス)全体のうちから一部分、つまり音楽と韻律に関する部分だけが区分され、それが全体の名前で呼ばれているのです。そして、これだけがποιησιs(ポイエーシス)と呼ばれ、この部分にたずさわる人たちだけが、ποιητηs(ポイエーテース)と呼ばれるのです」。

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ポイエーシスとは「出来たらす」という意味です。自然(ピュシス:physis)という大地から、誕生した命が、生まれるて在ること、死へ向かって本来の姿に成る事、が詩作と大いに関係があることですが、ピュシス(physis)と存在(being)することに連動する事柄です。日本の詩は、すべてが抒情詩であると思うのですが、この抒情の近代と現代を分けるものは何でしょうか。

 今回、この場所では萩原朔太郎の「青猫」の詩を中心に考えてみようと思います。言語の根源へ降りて、言語を知覚する無言の音から始まるオノマトペイア(onomatopoeia)まで考えてみたいと思います。

 萩原朔太郎の「青猫」の序文に次の様な断章があります。

「詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである。されば詩集の眞の評價は、すくなくとも出版後五年、十年を經て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、發表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遲きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の淺薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。 詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空氣に高く超越して、もつとも高潔清廉の氣風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。」

 公平なものの見方や考え方が浸透している現代社会において、「詩が常に俗衆を眼下に見くだし」というのはあまり好ましい表現ではありませんが、「詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである」というところは、詩の言葉を探求するものとして納得もいくものですし、理解もされるでしょう。

 若者たちの言葉や服装がその時代の最先端を走るように、詩を書くたくさんの人々のなかで、「來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知する」詩人は多くありません。詩の言葉の瑞々しさは、年齢には関係なく、そしてまた「詩を書いていること」と「詩人であること」は等しくありません。言葉を使ってそれを詩として差し出す行為は、本来はもっと厳しいものであって、現役を退いた人の贅沢な趣味の道具ではありません。けれども、詩を必要としない現代人よりは、近代詩と見紛う詩を書く人であっても詩を必要とする生活を生きる人の方が詩人であるでしょう。詩人会に加入していれば詩人ともいえず、彼や彼女が差し出した物が「詩」という物であるかどうかは、ズボンやスカートのようにはっきりした形がありませんから、マネキンにその詩を着せて「詩」という物になっているかどうかを確かめることはできません。ですが、趣味の範疇で詩を書く人も、詩を求めいる人の人口が増えることは「詩」という芸術を本気で志す若い人々の詩の未来を切り開くことになると思っています。詩という言葉を探求することは、日本語の文化を育てていくことになるのだと思っています。言葉に親しむことは、言葉によって「わたし」というものが社会とどのように関わっていくか、社会のなかでどのような存在であればよいかを経験していくことなのです。

 「言語芸術」という表現は、人というものが外界という自然とどのように共存していくか、その「いのち」をどのように育んでいくかを表現することです。言語を探求することは人間を探求することで、事物(もの)と事物(もの)がその核心を融合させるとき、その輪郭は溶けて意味を推し測ることが困難な《音素》になっているのではないだでしょうか。私に詩がやってきたとき、それはとても大きな悦楽であって言葉を得ると同時に言葉から開放されていく喜びであり、それは心臓の「ドキン」とする音になっています。

 抒情の《深化》を考えるとき、言語学上の《音素》という言葉よりも、「語の音(おん)」あるいは「語音」のほうがふさわしいかと思って、オノマトペイアに係る論を書いてきています。それは、「語」というものが人間の存在の在りようとの関係において、「語」が「事物(もの)」として人間の存在の前にどのように存在するか、まだ見えてこないからです。網膜に映るものが現実の存在の真実であり、網膜の手前にあるものを脳の心理で表現した言葉は現実の真実ではなく、実相のキョタイ(虚体)であるとすれば、「語」が現わすものは、その事物(もの)の網膜に映ったものでは意味を成しません。けれども、脳の心理が芸術の真実であるならば、言葉は意味から解き放たれていくだろう、という考えがあります。意味を表さない、求めない「語の音」こそが詩の言葉ではないのかと考えられます。それは、時間の形式の美である音楽に限りなく近づいている状態ではないかと思います。エモーショナル[emotional]な言葉への動きが、まったく新しい言語の存在を喚起するパッション[passion]、そこに詩はやってきて言葉は生まれる。詩の言葉の探求とは、そように言葉の種を見つける鳥の眼になることだと思えるのです。言葉は光の種のような存在であると思うのです。

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1 過去からの光の光沢

 (Light cone)とは、過去の光の光沢です。二〇〇九年では、新年から梅雨の初めまでの思考の通路は、エウメニデス34号の「詩的意識の構造についての断章」で述べてきました。この続きの二〇〇九年の夏から秋までの「詩との過ごし方」を述べていきたいと思います。求めていると、求めているものが過去から送付されてくると感じるのは、「偶然」という時間も過去からの効果の現われのような気がするのです。「詩」のことをもっと知りたいと思って、詩を読み、詩を書いてきました。それは、「考える自分」を発見していく過程でもあり、それこそが「詩への通路」であると今は思えるのです。詩への通路とは、自分のなかに「考える自分」を発見すること。それが、ランボーのいう「見者」です。見者をも超えた人が、スーパーヒューマンであると思いますね。あなたはどう思いますか?アルチュール・ランボーが、ポール・ドムネーに宛てた『見者の手紙(1871/5/15)』はとても魅力的な文章です。「彼は未知に到達するからだ」とは、芸術を志す者、それを夢見る者の限りなく憧れの天国と地獄であるでしょう。

『詩人が見者となるがためには、自己の一切の官能の、長期間の、深刻な、そして理論的な紊乱によらなくてはならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼は自らの内に探求し、自らの内に一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人間的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、---そして絶大の知者になる!---なぜなら、彼は未知に到達するからだ!---すでに自らの霊魂の錬磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になっているからだ。すなわち彼は、未知に到達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、少なくとも彼はすでに一度それを見たのだ!彼が見たおびただしい前代未聞の事物の中に没し去って、彼が一身を終わったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現れるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!」(アルチュール・ランボー『ランボー詩集』堀口大學訳、1951年)

 ランボーがあらゆる種類の恋愛と苦悩と狂気をこの身に引き受けるには、「アフリカの砂漠」が必要だった。「詩」が誕生するであろう憧れの天国と地獄に到達する「通路」が一瞬見えたように思えてもまたすぐに、自己を脱出するために裂いた背中の疵は閉じられている。それは千に裂けた目と手を獲得するために。「光錐(Light cone)」という過去の光の光沢を見る目であるだろう。遅れてやってきた光をこの手で受け止めるには、裂けた手が必要であった。ランボーはパリの詩人を放棄して砂漠の人なったとき、こうした「光錐(Light cone)」のような、過去の光の光沢にたどり着いたのではなかったのか。「偉大な呪われ人に」なったのではなかったのか。

 では、二〇〇九年八月からの詩集と詩書を振り返りながら、詩の言葉のさらなる考えを見いだしていきたいと思います。

2 二〇〇九年八月・ルリボシカミキリが舞って来た夏だった

 八月一日。信州佐久地方独自の古い言い伝えに従ってのご先祖様のお墓参りを済ませて、帰ってくると、玄関でルリボシカミキリ(瑠璃星天牛、瑠璃星髪切)がバッタリ倒れているではありませんか。カミキリ虫を見るのは、ほんとうに久しぶり。このカミキリを図鑑で調べてみても、正確な名前がわからないのですが、とても美しい水色の点々が胴体にあり、それはあの長い触角にまで及んでいたのでした。昆虫写真愛好家のブログを見ると、それぞれ微妙に色彩が異なる。これは棲息する地域の食餌によるのかもしれない。カミキリは天敵がいないのでしょうか。ほんとうに美しい模様です。斬新なデザインのブローチみたいなのです。日陰に置いて、あとで見ると居ませんでした。気絶してただけだったのですね。

 郵便受けに届いていた詩集と詩誌を読んで、雑誌や詩集のお礼状などを書いて、気がつくとまたもや激しい雨が降り始め、いまはすこし静かです。一つずつ片付けていくと、心のなかも片付いてくるし、散らかったり、うず高く積まれた本も片付いて、読まなくてはならない本が見えてくる。二〇〇九年八月の詩誌の紹介と感想を述べたいと思います。

七月・八月の詩誌

★橄欖第85号/2009/8/15(日原正彦)この詩誌の表紙にはいつも注目している。もちろん詩作品も注目している。清楚な女性の肖像画が多いけれども、今回はヴィルヘルム・ハンマースホイの「若い女性の肖像」★モーアシビ第18号2009/7(北爪満喜)★花眼(huayan)no.8 2009.6(北爪満喜)北爪さんの詩と写真のこと、また、詩を発見する「まなざし」のことが真摯に語られていて、北爪満喜という詩人の詩と言葉に触れる文章。魂の告白といってもいい。★花粉16号.JUN.2009(山本勝夫)綴じてない、お洒落な個人誌。リーフレットが何枚も重なった詩の束。★ポエームTAMA65(池田實)編集者の情熱と迫力の月間の個人誌。旬の詩人がいっぱい。★ぱぴるす86.87(ぱぴるす詩人会)岩井明)パソコンによる手作り誌。椎野満代さん等が参加している同人誌。★部分40.2009/8(三井喬子)★coto.vol18.Aug.2009(たなかあきみつ)20号で終刊になるらしい。漫画がいつもヘンで可笑しい。★紙子17.2009/6/20(たなかあきみつ)この雑誌は七月に読んだのだろうか。重複したかもしれません、たなかさんの作品と渡辺さんの作品だけ読んで、きょう改めて全体を再読すると、國重游さんの「アリエッタ(エッセイ)」はベートーヴェンの最後のソナタ、ハ短調作品111についてだが、56Pがおもしろかった。その前に詩作品の「アリエッタ」もあるのがが、「桜」という花の色彩は「しろ」なのか?と弱く疑問を感じたけれども、愁いや幽かな憧れや、見果てぬ夢や希望や、(春)と(さくら)のなせる幻覚かもしれない。こうした「愁い」の深い感情は年齢的に若い人ではなさそう。それから、最後のページで「ヒマラヤ」のことが書いてあった。そうそう、ヒマラヤってね、ヒマ+アラヤで、アラヤはインド仏教の「阿頼耶識」のことです。「アラヤシキ」は釈尊の原始仏教を継承する瑜伽行唯識学派の根本認識です。★環.133.2009.7.23(若山紀子)名古屋で発行されている二人の男性と七人の女性とで構成される同人誌。133号だから、長い。三〇年以上。鈴木哲雄さんの「言わなかった」を小説のように読んだ。一人称で物語りは語られているけれど、彼は教職にあった方と思うから、「私」のなかの、他人のお話だとは思うけれど、昭和二三年の秋、という始まりが生々しい。★酒乱.vol.33.2009/7.(森川雅美)特集 八十年代詩を考える.はアンケートの回答がおもしろかった。みなさんが物凄く真面目に几帳面に、一九八〇年時代を思い返しているのが、詩人て善人なんだと思った。詩的八〇年代と実生活的八〇年代と、社会的八〇年代とがあると思う。言葉がどこから発してくるかが推量されておもしろかった。それから、年間2号発刊ということであるけれど、表紙デザイン、目次から奥付けまで、なかなかのものだった。伊藤浩子さんの「作品」はなんていうか、地震男が出現するのがあまりにも唐突ではあったが、これでもいいかもしれない。夫と自分との間の不可解さの始まりは、じわじわとした背筋の冷たさが結構良かった。こんな不可解さは、もしかしたらこれからあるかもしれない、とさえ思えた。得体の、知れない不安。これは、地震男の出現にあるように、天災とか街を歩いていて突然に起こる、何かへの怯え。体内に宿したものは、なんだろう。まだ、はっきりしない。

★???????? 地球148号.2009july (鈴木豊志夫)特集:秋谷豊追悼・今号で終刊となる。奥付けまで288P.定価2,000円。同人それぞれが秋谷豊さんの思い出を語っていて切ないものがある。豊かで大きな存在でした。やさしさに溢れていた。巻頭にある、韓国の芸術院会員:金氏の追悼の言葉が深くしみる。『空の人、その新しき御能力にて、世界の平安と、詩と詩人への祝福を』とありました。そのように思うものです。すばらしい言葉です。★Griffon 24号.2009/6/30(川野圭子)拡げるとB5のカードの両面印刷でホチキス止めなし。川野さん横山さん吉田さんによる詩誌。限られた紙面を詩作品と短文と見事に使い切っている。年間2回発行で300円。定型封筒で80円で送付できるところが二重丸でお見事。同人誌は雑誌の価格以外に送料の負担をどうするかが悩みと思う。★鮫 2009夏 118号2009/6/10定価500円・(鮫の会)季刊誌。A4版で視力が弱ってきた私にはとても読みやすい活字。上下がたっぷり空いていて散文は2段組で詩作品は1段組。巻頭の「鮫の座」はいろいろな参考になる。今号では大河原巌さんの「日本のシュールレアリスム詩(承前)」です。★柵.2009/8/20/no.273.(志賀工房)84Pに「戦後詩の言語空間」という評論があります。十回目・森徳治・故木島始さんの「蚤の跳梁」という長詩の解説です。陸軍の生物兵器についてです。生前、木島氏に詩集をいただいたけれどもこの作品は、読んだのか記憶が薄れている。印象深かったのはやはり、妻との愛情に満ちた会話のある詩だった。

散文集

中津悠子著「戦跡巡礼(2009/8/15/コールサック社刊・1500円)」

 この本はどんな内容の本なのかを、あとがきの一部を紹介してみます。「私は長い年月をかけ、戦で逝った人々を偲びながら、多くの戦跡を訪ねました。ここでは一人でも多くの人に読んでいただけるよう、各地を巡礼した時に詠んだ俳句に読みやすい短文をつけました。」と、あります。第二次世界大戦についての身近な現実を見ると、出征した兵士であった人々が八十歳の後半となってきており他界されていきます。夫や恋人を待っていた、銃後の女性たちもどんどん亡くなっていきます。日本が終戦を迎えた一九四五年から一九五二年頃、アメリカ軍が進駐してきた時期に作られた陶器には、オキュパイド・ジャパンと書かれていたことをご存知ですか?日本が戦争をしたころ、日本の若者たちは國を愛していました。國とは、母であり、妻であり、恋人であり、妹でした。か弱いものを守るために自分の命を投げ出したのです。決して日本のカミのためではありません。けれども彼らの魂と肉体に課せられた「死」は権力による虐殺でした。著者は、戦跡を訪ねて歌を詠んでいきます。強い、と思いました。俳句と短文ですが、彼女の魂は強いです。國が滅びずに、生きているのは、戦争を見つめてきた彼女のような「まなざし」があったからです。明日は八月六日です。八月九日、八月一五日と、続きます。レクイエム「怒りの日・ディエス・イッレ」を聞くにふさわしいときです。それは、鎮魂とは愛する者を失ったことへの悲しみではなく、激しい怒りを現わすことなのです。あなたの死を奪い返したい、と思うこころ。それが理不尽な死に対する肉親の愛なのです。

3 Critique of Pure Reason

 どうして?はドイツ語では、warum(ヴァルーム)とも表現できる。どこがどのようにどう事物が変化していくことなのだろう、を考えるなかで、二〇〇九年八月の詩集を読んでいた。六月に一つの文章を書きたかったのだけれども、体力が続かなかった。誰かも言っていた。評論を書いていくには体力をつけないと、途中でへたばる。手ごわい詩集を読みながら、思ったことは西洋哲学に影響を受けた作品は、その定義できない本質の問いとは、神への問いにほかはなく、神が存在する、から出発するものは、本質の本質であり、その理由の「理」を根拠付ける論が必要。それがどこに述べられているかが、書評を書いていくときには重要な視座を与えてくれると思う。理性とは理由。英語ではCritique of Pure Reasonだろうと思う。それで、後日にまた考えるためにメモ。「光のモチーフ(カントP142)自らを明らかに示す=啓示=自然の光とされてきた能力」「理想とは何か(カントP205)目が見た像ではなく、視覚能力自身の機能であり、理念は物理的実在でなく理性自身の能力の投影像にすぎない)」。とある。

 道徳と政治の学および雄弁にもたらす不都合(ヴィーコ)の入り口で

 辺りがシンとして、雨が止んで久しぶりに晴れたので、みんなどこかへ行ってしまったらしい。「み空」が晴れて明るい。家で勉強するにはもってこいの静けさ。こんなときになぜか中原中也の詩の光景を思い出す。山羊の歌の「心象?」にあるフレーズ。『亡びたる過去のすべてに 涙湧く。城の塀乾きたり 風の吹く 草靡く 丘を越え、野を渉り 憩ひなき

 白き天使のみえ来ずや あはれわれ死なんと欲す、あはれわれ生きむと欲す あはれわれ、亡びたる過去のすべてに涙湧く。み空の方より、風の吹く』み空の彼方より風が吹いて、天使のカタチした鳥の羽毛が眼の中を舞う。この静けさのなかに、涙がしぜんと湧く。いつもは隣家のテレビや、錆び付いたガレージのシャッターのきしむ音や、庭の芝刈り機の音や、生活音がするのだけれど。静かだな。と、思いきや、天使ではない黒い鳥族のカラスが四羽来て騒々しい。電柱を見上げると、カラスに上から見られている。視線が怖いので、急いで家に入る。 本を読む。キリスト教神学について、ヴィーコの「学問の方法」も意外なところで参考になった。と、いうことであとでまた見つけやすいためのメモを書いておこうと思う。『七  われわれの学問方法がそれの目的と関連して道徳と政治の学および雄弁にもたらす不都合』『また、一方、この学問の申し分のない方法したがって、そこからあたかも支流のごとく、道徳的とよばれ、キリスト教にふさわしい善の目的、徳と義務についての規定を定めるもう一つの神学が流れ出ている。それの神の学、それの祭典の清浄、それの道徳理論は、それぞれ、その真理において、威厳において、徳性において、かくも卓越したものであるので、キリスト教は、他の宗教のように力と武器によって人々を絶滅させてしまう仕方によってではなく、徳といかなる苦難にも耐え抜く堅忍不抜さとによって、ギリシャとローマという史上最も賢明な二つの民族のなかに、そしてまた地球上で最強の帝国のなかに浸透していったのであった。(ヴィーコ:学問の方法85P)』

インゲニウム(創造力)について。これは、とてもおもしろい見解が述べられている。ヴィーコは詩の想像力についても述べている。デカルトを批判したヴィーコであったけれど、真理は一つなのだろう。このことは、註の6についての解説が非常に丁寧になされていると思う。別なゲルマン民族とキリスト教に批判的な本を読んでみると、『キリスト教は、他の宗教のように力と武器によって人々を絶滅させてしまう仕方によってではなく』という箇所は見解が分かれるところ。それぞれの時代におけるものの考え方を知っておくことが、ものを考えることを楽しくさせると思う。

5 知の編集工学

 西洋の神と日本の神を考えるための一つのヒントとして、「知の編集工学 松岡正剛

 (朝日文庫640円)」に「主と客を入れ替える方法」として奇妙な逆転があるというところが、重要なヒントを与えている。「外国の神は大文字の「主よ」と呼ばれるGod.であるが、日本の「神」は客人(まろうど)である。」と、いうところ。「 」内の言葉は、200P.201Pより引用。それから、ブッダの言葉を経典として伝えたナーガルジュナ(龍樹)の経典を「編集」と考えるところが凄いと思った。ブッダの行為を言葉に表現したのは確かにそれは編集だろうから。ここから波及して、客人(まろうど)を考えてみなくてはならない。客人(まろうど)を考えることは、日本の「神」を見ることになるからだ。それで、折口信夫の単行本があったことを思い出して探して読んでみた。「折口信夫(筑摩書房880円)」「春来る鬼」よりまれびと 403P.に。まれ人(まれびと)というのは、終始海から来ている。それがだんだん平地の生活が始まってくると、「山人」が考え出された。なお、それにもかかわらず、海岸地方では、海から「神」がこなければまとまりがつかない話が多い。そういうことは、「詩人と詩の場所」を考えることでもあった。いつも思うことなのだけれども、同人誌や個人誌を発行するということは、商業誌とは別な視点で、何を発信していくのか。一つの変わらない主張が必要だと思う。言葉への。それで、松岡正剛氏の「知の編集工学」はデカルト以来の「考えとは何か」を考えさせて十分におもしろくさまざまな方向へ繋がっていく。考えたことを行為に移すことはもうそれは「編集」なのだと思った。

6 Garden of Eden)で、眞神博詩集「姿としての言葉(ダニエル社刊)」を読む

 神は天地創造が完成した七日めを祝福して安息日とした。日曜日は明日だけれども、午前中は眠気にひきこまれる。急性腰痛は快方に向かいつつあるもののコルセットは外せない。この頭痛は新型インフルか?とすこし不安。論については、論の根拠というか、どこからというソースを示すことが重要。「神」について書くことは、とにかく「理性」が求められる。人々の苦しみの源泉がどこにあるか、その場所が精神医学や心理学の発達によって明らかにされてきた。現代では、苦しみや、悩みから解き放たれるための神の存在は弱く、人々の苦悩の場所が明らかにされたとき「人」は自分で自分を救済することができる。カウンセリングはその人を導く教育の力がある。苦しみも悩みもそのクライアントの言葉によって表現されるのだけれど。ユダヤ教哲学の翻訳書も読んでみた。ゴルゴタの丘の教会内にはキリスト教も含めて三つの宗教が毎日別々の宗教行事を行っているという。読めば読むほど人間とは何か、という問いが、神とは何かよりも、「人類とは何か」のほうが興味のある問いとなってくるのは自然なことだった。

 「鳥族」という詩を書いたことがあって、日本の、古代の人の、葬儀の儀式は鳥葬で、モガリの家で確かに死んだのだと得心がいって高い木の上に死人を安置して鳥葬とした。鳥に啄ばんでもらって骨だけになる。それで、詩集評で気になっていたこともあり、アルトーの演劇論を読み直す。気がつかなかったこと、以前に気がついていたのにまったく今の自分に影響のないことを知って可笑しかった。と、笑っていると、一週間ほど前に失くした白い腕時計が本の間にあった。良かったけれどもまだもう一つピンクのが見つからない。栞のかわりに挟んだのだった。詩の構成では、時間の流れとしては「さて、」と、「それゆえに、」の間までのことだった。眞神博詩集「姿としての言葉(ダニエル社)」を読むことに戻る。四四編で四六ページ。タイトルだけですでに思想の核心に到っているのだ。本も真っ白な表紙に啓示のように「姿としての言葉」と記されてあって一本の横棒の下に詩人の名前があるだけ。シンプルを通り越して、姿、だけが文字の声を現わしている。今、キリスト教神学について読み込んでいる。細いピンクの腕時計は、どの本へ挟んだのだろうか。眞神さんの詩集は、タイトルのフレーズが言葉の姿として立ち上がっている。本を読んだり、探し物をしている日常の他愛の無い時間のなかで、またしても中也の『亡びたる過去のすべてに 涙湧く。』というフレーズが、白い天使の羽毛のように忽然と舞いあがるのだ。

7 好きな・物・に接触すること

 十月のいろいろなイヴェントのお知らせが来る。是非にでも行きたいと思うそれは、ギャラリーが日曜日は休日で、平日しかオープンしていないとか、土曜日が初日であるがそれは別なのと重なっていて、その日はもう予約を入れてあってずらせないとか、調整ができるのか、わからない。それに十月の週末は家でやらねばならない仕事がたくさんあるし。エウメニデスの発送とか。送られてくる詩の雑誌を読みながら、結局は「どんな詩が好きか」ということに尽きると思った。詩とは何か、などいうことよりも、「感動とはなにか」を見つけて行くことが「詩と接触」することだと思う。接触とは、大げさな言い方をすると、人生の目標、だと思う。「詩が現象させているもの」に接触したいと思う。言葉が前衛であるのは、過去から送られてくる「遅れて」やってきた効果を「いま・ここ」に現象させるからだ。いろいろな本を読んで、忘れないうちに感想をノートにできるだけ書くようにしている。このごろ思うには、忙しいときは直接にパソコンで入力しているが、本来はノートに文章を起こすほうがよいと思う。そのノートとは、まったく違う文章になることが常であっても、「手」が考えた文章は大切。後日読んだときに、役に立つ。読んだときに、更新されるのだ。書く、という行為の前の自分が更新されて、新しいノートの前に立つのだ。それは、経験の知の変状であると思う。経験とは、体験によって知ったことと、書物などによって知ったこととの融合であるし、この二つの経験を記していくことがノートの役割でそこに現われているのは、送付されてきたその瞬間の「痕跡」が言葉の形をして残っているのだと思う。

8 辻邦生の日記

 四月から九月の初めまで「武満徹 御代田の森のなかで」という企画展がミヨタであったのだけれども、この時期は決算期の仕事でエクセルのファイルの下敷きになっていたと思う。それで行くことができなかった。二十五冊のフォルダが、今年前半の私にとってもう一つの仕事の完成だった。と、いうわけで連休というか、お休みの初日は先ず、軽井沢町の軽井沢高原文庫と、セゾン美術館へ。高原文庫は良かった。今回の辻邦生展は長野に縁があり、旧制松高に在籍し、南佐久郡の稲子の湯にも来ていたらしい。そこで出会ったのが後の「どくとるマンボウ」の小説家北壮夫だった。辻邦生は軽井沢の山荘は建替えや新築で長く暮らした。きょう、とても感動したのは、辻邦生の日記で、ノートにブルーのインクでびっしりメモを書いていたこと。それから、物を書く人は当然ではあるけれど、構想のための下書きが理論的であること、画もその傍らにあって、なるほど、と思った。今まで、ものを書き進めていくためのノートで心を惹かれたのはドイツの詩人・ノヴァーリスの「青い花」の構想だった。物を形にするための構想、それは「文体」であるけれど、そのことを知ったのは「青い花」だった。辻邦生もノートにびっしりメモが書かれていた。やはり、構想はペンで書く事が重要。週末に本の整理をしながら、ノートに浮かんだ詩の断片が書かれていて、自分のことながら懐かしかった。本の感想もあり、これから物を書くときの参考になるだろうと思った。それは、そこに「意識の流れ」があるからだ。被験者というほど大げさなものではないけれども、心理の深層に降りていく意識の流れは、無意識と意識の狭間で物事を押し広げるための手がかりとなるからだ。瞬間、というものを掴むことが大切、瞬間、は全ての芸術の入り口を押し広げるために訪れる啓示だからだ。

9 イサム・ノグチの野外彫刻「Cloud Mountain(1982)」

 「手」が作業すること、文字を書く事が大切と、思った。ので、「手」が作業する「画」を見に行った。子どもたちが小さい頃に連れて行った、セゾン美術館が懐かしいので行って見た。美術館の敷地内に川が流れていて、こんなに水量も多く流れも速かったのかと驚いた。この美術館が創立したときに来て以来と思う。自分が若いときは、自然への怖れというものが薄かったのか。水の量とか勢い、流れの速さというものが、若くて未熟なときはそれが及ばす脅威というものへ思いが到らなかったのだろうか。あるいは、自分のなかに満ちているエネルギーが、身近な自然が持っている音や動きに対して、充分に対抗できるという意識が、何も感じさせなかったのかもしれない。むしろ、自然の動きと子どもたちの動きは、同じ自然界の動物同士の動きですらあった。坂路を駆け上り、濡れた葉や地面を踏んで、虫を追いかけたり、樹間から揺れる光の微妙な影もなんでもなかったのだ。

 道路から、ゲートを入ってすぐ川が流れていて、橋をわたる手前から庭のイサム・ノグチの野外彫刻「Cloud Mountain(1982)」を見ることができる。二十年前に見てはいるのだけれど、庭が広くて、全部を見ることはできなかった。なにしろ、腰痛で二週間も外出しなかったのだから、足が弱くなっているのに自分でもびっくりした。

 イサム・ノグチの彫刻は、わかりやすい。木漏れ日の射す、ゴーゴーという川の音を聴きながら見ると、光に打たれているように思う。川の水の音が凄くて、車を降りて歩き出したときは「雨の音?」と思ったくらいだ。美術館のなかにあったものよりも、そとの冷たい空気と、激しい川の音と、イサム・ノグチの彫刻と、なだらかに波打つ芝生に射す秋の日差しと、遊歩道の上からこぼれてくる生い茂った、スイコやトラノオやミズヒキソウの、野の草の暗い葉ずれの音の方が、不気味でおもしろかったのだ。「不気味」という言葉の感情が、冷気と日差しのなかに、漂っていたのだ。ここに確かに在るものが醸し出す、生の息づかい。それはなんと不気味なのだろう。そのことの感動。そんな自分の感情に触れておもしろかったのだ。自分の脳と、身体の感覚が、別々に感じられたのだ。人が手入れした芝生に射す光と、道路端からあふれこぼれる草草の暗い勢いのうえに射す重い光も、ゴーゴーという川の音が、この世の光として、存在の有り様を目に映る様として、かきまぜていくのだ。心、というものは恐ろしいくらいに無邪気に、美を求めつつもグロテスクのなかへ入っていけるものだったのだと改めて思った。

 九月の詩集

★吉村伊紅美詩集「夕陽のしずく・(コールサック社/2009/9/23/2100円)著者は現在岐阜県在住で英語俳句の会の代表。1944年、京都生まれの方。66Pに「映画館の詩人」という作品があります。幼いときに詩に触れた最初のことが書かれています。映画館で「詩」の朗読がされていた8歳のときの記憶に遡っているのですが、とても興味深い内容です。京都の河原町三条の朝日会館で当時、詩の朗読をしていた「詩人」て、誰だったのでしょうか。何かの資料とかは残っていないのでしょうか。知りたいです。

★北川朱実詩集「電話ボックスに降る雨(思潮社/2009/9/17刊。2400円)」二十二編の作品からなる上製本。帯に「生きることは 見たことのある光景に 息をのんで出くわすことだ」とある。その下に比較的小さな文字で編集部の文章と思うけれども「この詩集にはたくさんの雨が描かれる。インドに海に、そして電話ボックスに。」北川朱実さんは、所属する詩誌「石の詩」に「三度のめしより」という文章を連載して2009年9月発行の74号で28回目となる。北川さんの文章は力があってグイグイひきつけられる。詩もやはり、力があってまったく予期しない方向から、手が伸びてきてグイグイ引っ張られていく。「電話ボックスに降る雨」は巻頭から2番目に配されている。これは,我がことのようにすこし胸が痛む、のだけれども遠いものを懐かしむのだと思う。たとえそれが悲しみであろうと、悲しみも懐かしいのだと今の年齢になると言える。引用する。「厨房で/一心不乱に料理を作る人のうしろ姿を/眺めていた//その人は/スープを素早くかきまわしたかと思うと/キャベツを刻み/熱くなった油の中にパンを粉をつけた魚を入れると/流しに走って皿を洗った/中略/いつだったか けんか別れした人に/公衆電話をかけたことがあった/長い沈黙のあと彼は言った/ー今、どこにいるの?//私は海に降る雨のことを思った/音もなく海面を叩いて/魚たちにすらきづかれぬ雨/名前のない場所のまん中で/耳から/何百年も前の音をふれさせて/遠い人の声を聞き取ろうとした//」

この詩集でわたしが一番好きだったのは、「舌あそび」でした。これは「キリン」の「舌」のことなのですが、おもしろかったですね。わたしもやってみました。

★鈴木比佐雄詩選集一三三篇・コールサック詩文庫vol1(コールサック社・2009・10・26刊・1500円)コールサック社の新しい企画、詩文庫のvol1.鈴木比佐雄さんは社の代表。詩誌COALSACKの編集発行人。この詩文庫に収められた一三三篇は、既刊詩集七冊からの自選と未収録詩篇、詩論とからなる。解説・詩人論は、三島久美子、催龍源、石村柳三の三氏。巻末に著者略歴。1954年生まれ。第?詩集は1981年に七月堂からの「風と祈り(1981年)二十七歳の時ですね。同じ世代の方なので、言葉に時代のノスタルジアをしばしば感じてしまう。ハイデッガーを読んできたということにも。それで、「詩文庫」は、もうすぐvol2.が出るらしい。鈴木さんは野の花の名前に詳しい。千葉の柏の方で散歩の途中で自然と植物を観察したことによる、自然への眼が培われた。すでに七冊もの詩集を出している方と知りおどろいた。その間に詩誌コールサックを精力的に編集・企画して、この詩文庫まで駆け抜けてきた。それは、ひとえに「詩への熱情」であったのではないだろうか。

★柴田三吉詩集「非、あるいは(JUNCTION HARVIST 刊・2009・10・20/2000円)」著者五年ぶりの新詩集。柴田さんは1952年東京生まれ。現在葛飾に在住。草野信子さんとの二人誌・詩誌ジャンクションに発表されてきた作品のまとめと思う。北川朱実さん、鈴木比佐雄さんと続いて柴田さんも同じ年頃の方です。3人ともわたしより二、三歳上の方たちですが、みんなご自身のしっかりとした領野から新詩集を発信されています。柴田三吉さんの詩集では、28Pの「つるん」が好きな作品です。人間のたくましさや、純朴さ、人間の存在の尊さまで感じてしまった。一行目を引用しておきます。こうした光景に見入る柴田さん、これを作品化する柴田さんの存在の深さや広さも感じた。「人が脱糞している姿を見た/うすい日が差し込む 午後の公園(28P。つるん より)」

 九月の同人詩誌・個人誌

★???????? ぱぴるす88号(ぱぴるす同人会・2009・8/発行/400円)同人8人の詩とエッセイです。★ポエームTAMA66(池田實氏の月間個人誌 詩と批評 2009/9/5/300円)4人のゲストの作品と池田氏の詩論と時評。ウェブと紙版の同時発行です。池田さんの詩論と時評の迫力が凄い。18P19Pの『日本の「ふるさと」はこうして作られた(池田實)』の論は「遠くから眺めると「ふるさと」だが中を歩いてみるとまるでテーマパークである」と日本の文化遺産「白川郷」について。思わず的確な視点になるほどと納得です。★COALSACK64号(2009.8・31/1000円コールサック社)特集は、詩集評論のほかに、四詩人小特集と・「大空襲三一〇人詩集」出版記念会全記録です。★どうるかまら5号.(瀬崎祐 2009/1/10/500円)★風都市20号(瀬崎祐個人誌 21年夏刊)ゲストは中堂けいこさん。瀬崎さんは2つ作品を書いているのですが、後の「訪問販売員は既視感を語る」は読んで連想したのはカフカの「変身」だった。あそこに描かれているのは、毒虫の既視感だと思ったことがあったので。自分が見慣れて知っている自分と、外側から自分を見ている他人の視線は違うのだけれども、他人が今ごろになって自分を見ている視線は既に自分としては、体験済みの知っている自分の形姿なのだ、ただ自分の外側にいる人がそのことを知るには、こころの形を外の方に添わせないと知ることができない。しばらく前までの瀬崎さんは亡くなった方と邂逅する作品を書かれていましたが、最近では、自分のこころが自分から抜け出して、自由に快活に、野原で椅子になったりしています。この作品は「訪問販売員」である私が「1.商品を見失う」?「2.男の人に案内される」?「3.山でふるえる」?「4.くりかえされる」を経験するのですが、でも私の眼は1?4を別な場所で見ているのです。もう、知っていた出来事でした。作品で魅力的なのは、ここに登場する人々の表情の危うさです。片目のあたりが暗くて見えない男や、鼻のあたりが霞んでいたり、するのです。「ここ・」はどこでしょうね。一度は案内されて山小屋まで行くのですが、気がつくと山の麓の小川の傍らに戻っています。そして、また小屋の窓枠にしがみついて寒さに震えているのです。何度も何度もやりなおして、いつかわたしたちは、ほんとうに片目の辺りが暗くて見えない男や、鼻のあたりが霞んだ女になって、こちらなのかあちらなのか、足を踏み込んだ人を案内したり、元の場所へ送り返したりして、現実世界と心の世界の均衡を保つ詩人になっているのでしょうか。★詩誌鹿116号(埋田昇二・2009/8/25/500円)★石の詩・74号(2009/9/20/700円・渡辺正也)三重県で発行されている詩誌です。ここでは、いつも楽しみで一番さきに読むのは北川朱実さんのエッセイ「三度のめしより」です。今号で(28)です。また、雑誌の最後に書かれる同人や、会の発行人である渡辺正也さんの文章も楽しみです。今回は伊良子清白が村医として住んだ診療所兼住宅の移築のことが書かれていて興味深い内容です。★まどえふ第13号(2009/9/1 秋号 水出みどり)水出さんも含めて7人の同人誌。表紙デザインは三神恵爾さんです。筆の痕跡が凄い迫力です。裏表紙の写真の複雑な襞と中心部の楕円の闇、その奥のほの明るい襞と、その奥の湖にも似た「暗い底」に惹かれます。これって何の輪郭ですか?仄かなエロティシズムが漂っていて、ダンテの煉獄の風景にも似て、いったいなんだろう。★雲の戸7(山本萠さんの個人誌)山本さんの写真と詩・文章。大き目の定型封筒に入る細長いカード状態。長さ約64センチ、幅10.5センチを三つ折。これですとホチキス止めなく、両面印刷で定型封筒に入ります。年3回発行・2年分1500円送料とも。この紙はしっとりした手触りで厚め、モノクロームの写真が表紙1枚・本文(詩作品)の表紙裏、1P目に1枚・本文の2・3P目に折り線を挟んで1枚、本文3Pの裏にミニエッセイに1枚、2Pの裏あとがき文、(裏表紙に相当する)に小さな写真1枚、裏表紙21センチ、幅10.5センチの中に、あとがき、写真、奥付けを入れている。無駄の無い見事な作り。感嘆します。★鮫 2009秋 119(鮫の会)編集発行は原田道子さんと芳賀章内さん。巻頭言「鮫の座」は、井崎外枝子さんの「濱口國雄詩集・「地獄の話」成立をめぐって」です。濱口國雄という詩人は没後三十三年になるということです。初めて知る名前です。一九六四年に第三詩集として「地獄の話」という詩がタイトル詩として公にされたとあります。第二次世界大戦中における北部ニューギニアでのできごとを、外崎さんは「ほんとうに人肉を食べたのか、殺したのは敵兵ではなかったのか」というような疑問のうえに、濱口國雄の「詩」として記述された「地獄の話」について書かれている。現在絶版となっているこの詩集の新装版を(土曜美術出版販売)準備中とある。おぞましい話しであるけれど、いつだったか、南方の激戦地から帰還した兵士の話としてテレビで、衝撃的な告白があったことを思いだした。この夏から読んできたキリスト教神学の「悪あるかぎりに 神います」をふと思った。悪は悪のなかから生まれるのではないこと、悪は善のなかに存在するのだということなどを。単純な論理で応えは出せない。いま、書いているこのことも実際にこの詩書の新装版を読んでみない限りは、これ以上のことは書けない。★ひょうたん38.2009.6.5(小林弘明)十六人の同人のうち、会ったことのある方が二人いらした。相手はもう忘れているかもしれない。小林さんの詩集「分極論」はとても手ごわい詩集だった。感想文はエウメニデス?.35号で書く予定。どーして、こんなに難しいことばかり考えているのかな。でもそれが普通なことだとしたら、この世界の精緻な意味で満ちた襞を全部覗いてみようしているのかもしれない。それはきっと、世界のいのちの不思議に好奇心があるからだろう。

散文集

★三木英治 「21世紀のオルフェ ジャン・コクトオ物語(2009/9/7刊・編集工房ノア・2800円+税)「志画工房」から隔月で受贈頂いている「柵」に「コクトオ覚書」を連載されていてその文章で知るコクトオの文学上の情報は興味深い内容でした。一冊の本になるといいな、と思っていました。「柵」の連載はどこかで終了していたようです。「柵」では、二十年間続けたということです。「柵」を読み初めてまだ五、六年ですからその文章量は重量があります。それ以前の文章も、今回の本に編集するに当たって構成しなおされて、ソフトカバーで513Pに纏められました。コクトオとラディゲの宿命的な出会いや、ロシアバレエ団のパリ公演のことや、ニジンスキーの「薔薇の精」のポスター制作はコクトオであったこと、ココ・シャネルとの出会い等、知りたいことがたいへん読みやく編集されています。

? 「愛」が成長を遂げるとき、「夜の向こうへ、行こ」と思った。

1.??? 過激な「ジジイババアをびっくりさせてやって」を読む

 湿り気の多い文章を書くと気持ちが落ち込んで、エウメニデスの編集作業に悪影響があることが判明した。それで、趣味の園芸に精を出すことにした。九月の終わりに、実家で摘んできた酸味の強い、プレジデントという鶏卵の大きさのプルーンで、ジャムの手前のもっとフレッシュで砂糖の少ないあまり煮詰めない、「フルーツソース」を創ったら十本ほど出来上がって、お送りした。完熟果実に熱を通し砂糖を加え、一瓶ごとの少量を作っていく。熱を加えて、固めていく程よい甘さ加減がむずかしいところ。近くの友人には、日曜日などに会って手渡したり。自分では「プルーン・ソース」と思っていたが、コンフィチュールと書いてきた方がいたので、調べてみると、コンフィチュールで商品化しているお店があった。なるほどね。ジャム (英: jam) は、フルーツの果実や果汁に重量比10%から同量程度の砂糖や蜂蜜を加えて加熱濃縮し、保存可能にした食品で、スプレッド類の一つ。コンフィチュール (仏: confiture)やコンフィテューレ(独: Konfitüre)ともいう。(参考:wiki)それで、ヨーグルトに混ぜて食べるとおいしいということが判ったので、来年はまたたくさん作って、送れなかった方にお送りしましょう。色も鮮やかなワインレッドで食欲をそそります。これとは別に、もうすこし小粒な従来のプルーンは、やはり生で食すのが最適でした。これも同じように作ってみたのですが失敗でした。これは普通のイメージのジャムが向きます。果皮が厚いので、煮込む必要があります。今年の前半はテレビを見たり、本を買ったりしてNHKの「趣味の園芸」を参考にして、いろいろ試みてみました。一番は、庭で育った三本のフルーツトマトは美しく見事な出来映えでした。お借りした野菜畑で収穫された「豆」は、南米からやってきたクリスマス・ライマ・ビーンズ(赤紫と白色:とてもおいしい豆ですが、当地のオバチャンたちはペッチャンコマメとよんでいる)です。義母が整骨院の先生にもらったのです。次は北海道からきた白地に黒のパンダマメ(パンダ模様だから)です。これは夫が友人にもらったのでした。今更ですが、物が成長していく様子は、感動です。葉の緑や花の素朴さは、「純粋」とはどういうことかを教えてくれます。喜びを与えてくれます。滞っていた血流が活性化します。

 と、いうわけで気持ちが明るくなってきたところで、十月早々にお送りいただいた詩誌の、ウルトラ13から、見ておもしろく、読んでおもしろく、考えておもしろく、思い出しておもしろかった詩について。

 速度太郎の世界?(11P)は松本秀文さんで、1.白と黒の間にある世界を愛せ!から始まり 14.タバスコ刑事(41P)までの長編力作です。42Pのオマケ 批評家Xからの手紙(口語自由詩の失敗  がいちばんおもしろかったので、引用する。「からだも臭い高齢者」には過激かも知れませんが、気にせずに引用してみましょう。これは、ダブルバインドの表現だとは思います。「本当に生活臭だらけの才能を感じさせない退屈な表現がウンザリするくらい世の中に溢れていた。そんな表現は、紙媒体のものについては資源の無駄で、こちらの方が死にたくなるような気分だった。そういう時代を俺は、革命的にアグレッシブな方法によって、ジジイババアをびっくりさせてやって、とことん止めさせたところだったのに。君みたいなクソ若造が挑戦状のように、刃向ってくる。馬鹿野郎1!!何が「速度太郎」だ。言語革命のつもりなのか。恥を知れ!

 このページに松本さんの仕事を掲載できると、一目で「あー。そーか。」とわかると思うのですが、言葉で漫画を描いているというように感じ取ればいいのではないだろうか。「おっ」とか「ほほっ」って感じ取れば、世界は晴れて楽しいものです。それだけではないと思うけれども、それだけでもいいだろうと思う。

 十月の詩集

★橋場仁奈詩集「ブレス/朝、私は花のように(荊冠詩集 箱入ソフトカバー・二冊セット2800円/2009/10/16刊)一冊目「ブレス」は23篇108P.二冊目。「朝、私は花のように」は23篇100P.2冊で46篇208Pの行分け詩です。一番の魅力は、けっこうグロテスクですが、キュートですね。かなりなおしゃべり文体ですが、人間の脆さや弱さの核心へ、ヘロヘロとした言葉使いでちかづき、グサッとするようなことを言っては、とってひきかえす、というふうなところもあります。スピード感のある文体で、饒舌ですが若さ故ではなく、悲しさや寂しさ苦しさを、早口でしゃべることによって紛らわす自己救済のような感じもあります。脆くて傷つきやすいかわいい女性だと思います。わたしより年上の方であると確信しますが。札幌の方。「まどえふ」の同人。グレイの箱入、背表紙に銀色タイトル文字のみのシンプルでオシャレな二冊セット。

★中村藤一郎詩集「神の留守(コールサック社 2009・11・1/2000円)」第一章から第四章までの206Pの上製本。第四章は俳句。現在八十五歳の方の始めての詩集です。二十二歳のときの作品から現在までの自選ですが、たいへんにみずみずしいです。もちろん日本と世界との戦争を経験されていて、この戦争のことも、痛みや苦しみ悲しみの辛さが、感情に流されずに、けれども熱い思いで語られています。清冽な情熱を感じさせます。中村さんが暮らした現実社会が、現われています。12Pの「雨」は秋の雨音を聞きながらこころが濡れて濡れて、感動します。生徒の純粋な気持ちに泣かされます。『生徒たちは、ただ黙って歩いていた。鉄砲の銃身が白く光って、ゆれながら進んでゆく。たしか昭和十六年七月六日の夜のことだ。生徒たちは、校庭に整列したとき聞いたM教官の鼻にかかった声だけが頭にこびりついて歩いていた、いくら雨が強く降っても流れはしない 傘をさして歩くのは支那の兵隊だぞ!雨合羽なぞ置いていけ! (中略)越谷、草加、千住、上野、白い洗い流された夜の舗装道路の上を、日本の生徒達はへそまで濡して歩いている。 支那の兵隊じゃないんだ、日本の青少年学徒だから、濡ているんだ、濡てもいいんだ、濡ているのがいいんだ、濡て、ずぶ濡て歩いているから僕達は英雄なんだ と。  それから間もなく、あの戦争になりました。』

 批評、ということはとかく政治や国を相手に、正義を述べたがりますが、ほんとうの社会批評は、この社会に生きて、日々の糧を得ている自分自身の有り様が、批評の背景に無くてはならないと思っています。日本が戦争をしたとき、どこにいて何をしていたか、何を考えていたか、そうした社会生活が述べられて初めて「自分と政治経済」、「自分が居た日本」が浮き彫りにされるはずです。戦争反対、当然です。その当然の反対を、自分ではない誰かを悪者にして述べる「戦争反対」は空虚ですし、そういう詩は嫌いだし、書きたくもないのですが、「日本の青少年学徒だから、濡ているんだ、濡てもいいんだ、濡ているのがいいんだ、濡て、ずぶ濡て歩いているから僕達は英雄なんだ と。  それから間もなく、あの戦争になりました。」この純粋な気持ちを、「駆り立てたもの」の正体を、見極めるまなざしを持っていることが、社会言語を背景にした「現代」の日常へと通じる「戦争反対」でしょう。

★中本百合枝詩集「蝶であった日(書肆山田 2009/9/25 2500円+税)」著者二冊目の詩集。二十四編の行分け、122P。表紙の装画は三好豊一郎さんで、二株のギボシが薄い日差しのなかで花を開かせている。清楚でつつましく奥ゆかしく、芯がしっかりとしていて、整った言葉使いです。全体の印象は、実家の母から譲り受けた小紋の和服を虫干しするような、そんなたたずまいの詩集。それなのに、なぜか「死」の影が色濃くただよう。わたしと同じ世代の方です。生きることや死のことが深く掘り下げられている。身の回りにいる人々がどんどん老いて、死を迎えるからです。老いや死を直接に扱ってはいませんが、言葉の世界に存在するものをみる眼差しが清澄です。おばあさんが何人かでてきます。以前の詩集も「月に吊るした玉葱」にはおばあさんが出てきたと思います。事物を見つめて行く先にある時間の経過が示すものは何か。わたしたちの「未来」って「老いる」ことだったんだと、ドキリとした。このごろ老眼の兆しが見えるわたしが強く思うことは、肉体の衰えや、容貌の変化を超えて、自分が強い精神とともに言葉への情熱を滾らせていたい。若いときに見たもの、感じたもののインプレッションが「いま・ここ」で醸成されるような、言葉との関係を見いだしたいと思っている。この詩集には、そうしたことを深く見つめて「さしだした手」がある。表紙絵のギボシって普通は群落をつくると思うのだけれど、二株だけで咲いているのは何故だろう。その株だけに眼を凝縮させたということかもしれない。寄り添う二株の花に。とてもしっとりとした大人の女性の詩集です。

★清岳こう詩集「風吹けば風(砂子屋書房 2009/10/15初版2500円)」?、十二編。?、十三編。?、一四編。?、十二編。で構成される91P、A4版ソフトカバー。帯文は詩人の辻井喬さん。「兆」「ERA」の同人です。中国の大学で日本語を教えていたと聞いています。大陸での生き生きとした生活が書かれています。明るくて元気な彼女のこころが中国の学生たちにつたわっていく様子や、彼女自身が大陸に暮らす漢民族、朝鮮民族、モンゴル民族、などの民族のなかへ大和民族としてほとんど素裸のまま入っていきます。潔い。わたしは大和民族よ!と宣言して敗戦国日本人として堂々と入っていく、そのありようが気持ちいい。カラッとしています。教育者として中国の青年の心を全身で掴まえています。日本人の良心が気持ちよくスツキリ書かれています。それは、教育者として、現代中国と言う国へのまなざしが、ハッキリとスッキリ、クッキリしているということです。

★???????? 鈴木孝「詩 作品集(P&T出版企画2009/10/10発行9800円)」

表紙から手が伸びてきそうな、繊細な肩をむき出しにして、秋の始まりにフランス文学者の鈴木孝さんの「詩 作品集」が届きました。巾四・5センチ、554Pの箱入豪華上製本。P&T出版企画。2009・10・10発行。9800円。薔薇色の箱の絵と表紙カヴァーが同じ絵です。とてもオシヤレなルビーオレンジが混ざったような明るい薔薇色。左上方で、上半身裸の青年が腕を広げています、少し下がって鼻と唇が。この唇からこの本の詩のことばは語られるのだ、というメッセージがあります。裏表紙はこの青年が穴あるいは水の底から開いた左手を掲げています。「僕に余計なことを言うなよ、つまらんことはいうな。」みたいに挑戦的な眼。でも繊細な肩をむき出しにして、さらに繊細なうすい唇を半開きにしている。作品は、「まつわり :1957燔書房」「nadaの乳房:1960書肆ユリイカ」「あるのうた:1971青土社」「泥の光:2000思潮社」です。詩誌「宇宙詩人」の代表です。宇宙詩人発行の都度、ゲストを招いての朗読会を開いて精力的な詩活動をされています。こうして二十代から現在までの詩人の写真を見ながら作品を読むと、そのときに1つの詩を読んだのとは違って、過去から現在までの時間の流れのなかで、このようにしてこの言葉がここにある、という「ある」のことが表紙の薔薇いろに染まるように、染められてわかってくる。別な詩人であってもそうなのだが、その人の息のしかた、言葉の発し方が好きになるということだと思う。そうすると、その言葉がこちらへやってくる。過去からの「息」がページを捲るとき指に触れてきますよ。この詩人の純粋さや思いやりや、それらを慈しみ守る強靭な精神の「息」が文字のうえにあります。

十月の詩誌

junction 72 2009 autumn(ジャンクションハーベスト2009・10・200円)柴田三吉さんと草野信子さんの二人誌。柴田三吉さんの詩集がこの間届いたばかり。珍しく草野さんが二行×25連の長い作品で、20行目の後が6行で変調させて再び2行を繰り返して、25連。「胸のあかり」というタイトルは美空ひばりの「悲しき口笛」の歌詞の一節による。「丘のホテルの赤い灯も 胸のあかりも 消えるころ」が、三回効果的に使われている。

★???????? ウルトラ13 (2009・9・25 編集 及川俊哉 500円)特集吉増剛造「言葉の黄金の葬列に『詩』という名を名づけて」 特別企画吉 増剛造氏インタビュー(聞き手和合亮一)「詩と非・詩との間で」 紙面の「紙」の白さと印字される文字の黒さというものに絵的に挑んだ詩群。34P35Pの見開き下方に左から右へ 今の人間の詩は無だ っていうのはなんか広告の文字みたいだった。悪い意味ではなく、単純に、なんのセールだ?と思った(笑)。この号に山内功一郎さんが77Pに作品を書いている。このごろ寝るところが狭くなってきたので、部屋を片付けていたら2001年2月号の現代詩手帖148Pに山内功一郎さんの『「無ー意味」の要請』という文章があって「おおっ」と思って付箋のかわりに絵画展のDMを挟んでおいたのを、今、読んでいる。「無」は「つまらないもの」だったの?いま、台風がきているので、これ以上は読めません。またあとで書きます。台風の風を避けるためにはと、窓際の本を片付けたときにこの雑誌がどこかへ行きましたので、出てきたときにまた書きます。★宇宙詩人11号(2009・10・15発行 代表鈴木孝 1000円)韓国現代詩紹介 訳・紹介ハン・ソレ。評論・書評 中村誠 評論 久野治 詩 太田昌孝ほか。★黄薔薇187号(2009・10・10発行 高田千尋 500円)タイトルに一工夫あればもっといいのにな、と思うのは川越文子さんの「三歳児へ」観察記録ではないのでタイトルが惜しいと思う。「もう夜だからおうちに入ろう/と誘うと/まだ外にいたいものでひと言/「夜のむこうへ行こ」//これからねんねというとき/布団に顔をうずめてひと言/「さみしい、さみしい」//」夜のむこうへ行こ、ってなんかいいですね。今のわたしの気持ちにピッタリします。布団に顔を埋めて「さみしい」なんて言う子どもがいたら、それは私の自己自身にほかならないだろうから。

「詩論は詩になりうるか?」を考える

★薔薇色の詩集・山田兼士第一詩集「微光と煙(思潮社・2009・10・25刊2400円+税)

 庭のピンクの薔薇が三本、真紅の薔薇が一本深い霜に打たれてもけなげに咲いてくれています。あとは秋の黄色の菊や、初冬の白いシクラメン、誉めてあげたら元気にいくつも咲いたムラサキツユクサなどが、今年の最後の花となりそうです。ピンクの薔薇、やわらかい色で「こんな寒い朝に咲いてくれてありがとう」って言ってしまう。

 フランス文学者で詩論家の山田兼士さんの第一詩集「微光と煙(思潮社・2009・10・25刊2400円+税)が届きました。淡い薔薇色のカヴァーにボードレールの横顔が滲んでいます。タイトル「微光と煙」はブルーの文字で、詩人・谷川俊太郎さんによるもの。薔薇色とブルーの文字はたいへんに相性のいい色調です。山田兼士さんのこだわりがあるようです。それは、ボードレールの「薔薇色と青」。帯も表紙と同じ紙質で、エウメニデス? 28号に寄稿してくださった作品でもある「マリ・オン・ザ・ブリッジ」からの引用です。この作品は、「詩論詩」としての構成が見事です。それでいてなお、山田兼士さんが翻訳したアポリネールの「ミラボー橋」の歌

(ここはミラボー 忘れ得ぬ  二人の 恋を映すセーヌ きみの姿 もう見えぬ......)

が聞こえてくるようです。マリーローランサンはアポリネールより長く生きましたが、彼女は自分の死に際してアポリネールからの手紙を柩に入れて冥界に旅たって行ったと記憶しています。エウメニデスには、31号にも寄稿してくださって「師走のカトラン2007」もこの詩集に所収されました。エウメニデスに寄稿してくださった作品が2篇所収されています。いつも、力作を送ってくださるエウメニデスの、ゲストの皆様のお力添えを頼もしく思います。

 本の帯の背に「詩論は詩になりうるか?」とのメッセージがあります。この詩集は、 それへの試みでもあり挑戦であると思います。このことは、山田兼士さんの詩論、評論、翻訳詩、学生たちとの「別冊・詩の発見」や、その統合的な詩活動としての「びーぐる」の編集において、詩人山田兼士さんの現代詩の新しいジャンルへのメッセージで、私としては「勇気と希望」を受け取りました。私自身もそうした試みに深く共感を覚える者であるからです。

今は中也の67Pの「正午のサイレンは」から読み始めました。

「そうか、ハワイが足りなかったんだ」って。

★及川俊哉詩集「ハワイアン弁財天(思潮社・2009・10・25刊・3200円)」

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 きのうは、息子たちが小さかった頃に読んで聞かせた福音館の「絵本」を探していたら、箪笥の上からドサッと落ちてきたフォルダのなかに「ウルトラ1号」が、、キューピーちゃんの表紙絵とともに出てきた。なかをペラペラと捲るとアンダーラインなどが引いてある。これは現在の「ウルトラ」の創刊号なのかな、たぶん。などと、思っていたら、きょう、詩誌ウルトラの編集長である及川俊哉さんの第一詩集「ハワイアン弁財天」が届いた。ソフトカバー、230Pのこれも迫力です。軽量の紙を使用していて、手にしたときに、わたしなどは腱鞘炎で握力が無いので、本が軽いのはいいことだと思う。表紙カヴァーの「ハワイアン弁財天」の文字が毛筆なのですがド迫力です。たしかになにかが「降臨した」ような眩しさ。帯に「そうか、ハワイが足りなかったんだ」と詩の一部分からの引用があるので、詩集とは関係ないのだけれども「常磐ハワイアンセンター」のスパの内容を検索してみた。映画フラガールで一躍注目を浴びた「日本のハワイ」です。商店会のスタンプを溜めて行く旅行や、農家の農閑期に行う慰安旅行なども「ハワイアンセンターへ行く」と言うのをよく聞いたものでした。あまりにも現実的な生活において「常夏の島ハワイ」というファンタジーを求めていたのでした。ですから、この詩集を手にしたときから、タイトルを読んで、なにかしら、おおらかな日本の神を感じて引き込まれます。「現代日本社会の空疎感に抵抗する。現代日本文化の閉塞性に抗議する。地球人類の霊性進化に貢献する。―すべての言語を光に還元し、新しい世紀を行き抜くネットワークを構築する。(帯文より)」また、」帯の背に「あなたとともにくるしみあなたとともによろこぶとある。うーん、よろしくお願いしますよ。と思わず言ってしまいす。74Pの「ひかりのその」はユーチューブで朗読ライブをやっていますから見てください。とご本人に代わって宣伝してしまいます。それと、エウメニデス? 32号に寄稿してくださった作品「偽華 十一」が124Pに所収されてあります。この作品のおもしろさは、「飛び回る(ゆ)の若々しさ瑞々しさ」であって、ほかに何の意味も求めることなど要らない。鋭さと、やわらかな感受性という筋肉の言語を持った大胆不敵な及川俊哉の呼吸を感じれば良い。それは、詩人の魂の力そのものだし「(ゆ)の感受性及び、硬質な社会批評」は彼の霊性さえも発揮しているだろう。

 詩集には入っていないが、エウメニデス?34号に寄稿してくれた作品「可及的速やかに風化せよ 十四」は、古臭い言い方かもしれないが、日本の社会への正義や愛を感じた。図柄や絵柄のような文字は、理不尽な物事への烈しい抵抗や抗議が、詩と言う表現を媒体にして「霊性」となって発露されたのだと見るべきだろうと思う。

 この詩集を読んで感じたことは、及川俊哉は健康な身体と、健全な霊性を持っている、ということだった。日本の頼もしい青年の詩集だった。この殺伐とした、絶望した青少年が希望を見出せない社会にあって、彼の母のような私でさえも「さあ、行こうあしたへ」と思ったのだった。どんなに今日と言う日が辛くても、きっと明日はスバラシイのではないのかと思って生きていきたい。弁財天で思い出して、箪笥の引き出しを捜すと、日本三代弁財天の「江ノ島弁財天」のお守りがありました。それで、この詩集と「江ノ島弁財天」のお守りを並べて机のうえに飾っておくことにしました。江ノ島では坂で転んで足を捻挫したけれどもそろそろ良いことがあってもいい時期ですから。ハワイでなくても、休日はスパもいいでしょう。紅葉を見ながら山の温泉もいいかもしれないと思いつつ、窓の外はすでに赤い日が射しはじめ、黒い鳥族が電線で騒ぎ出す時間です。

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私にとっての「さとり」の原型とは 、「空(くう)」との邂逅でしょう。(シュンニャター)の日本語訳「空(くう)」と釈尊仏教の「一(いつ)なるもの」への展開に、極めて詩的な「息」を感じるのです。

存在するというbeingが性差を越えているとき、「geben《与える》」というドイツ語の非人称表現(es gibt)と無関係ではなく、与える(gift) がこの「being」に深く係っている。そこから、また始まるでしょう。ナトウーラ(natura):フュシス:ビーイングという、ギリシヤ語の「自然」というピュシス(physis)と、女性という肉体が生み出す「出産」という二つの野生の命をコントロールするものであるというところから、何かに出会うことができると思う。?

解る詩と解らない詩の間にあるものは、思考の飛躍だと思う。語順の転倒。時間が整序されていて、思考が順番になされている。日常の常識を逸脱しない。これらは詩を読者と共有するためには、重要なことには違いない。だが、それで「詩が書けて解ってどうする」と思う。表現することによって、何を目指すか。それによって言葉は解ると解らないに、別れていく。芸術の苦しみと喜びを快感と呼ぶのであれば、自我の深淵から脱出して、裂かれることによって、「言葉は明るみに立つ」だろう。リアルとは、現実への衝撃力を持った「現実性」にあるのです。現代詩の詩法とは、この「現実性」への探求なのです。

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 *草間彌生のと。

4月10日に発行される詩誌「エウメニデス」に「Infinity Net」という詩を書きました。草間彌生の作品とはあまり関係がありません。写真は、彼女の出身地・松本市立美術館の中庭の入り口にある作品です。都会的な家族のヌードにも水玉模様。草間彌生の自伝『無限の網(作品社)』に、「模様は地球のマルでも太陽のマルでも月のマルでもいい。形式や意味づけはどうでもいいのである。人体に水玉模様をえがくことによって、その人は自己を消滅し、宇宙の自然にかえるのだ。」とあります。 あの水玉模様はそうして生まれて、発展し見事な成長を遂げていきました。

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3月25日以降4月末までに届いた詩集・詩誌などを紹介していきますが、すべてを書くわけではありません。選択させて頂きますので、悪しからず。

1詩集
?八覚正大詩集『学校のオゾン』洪水企画1800円+税
  著者が教師時代の生徒と教師という自分との日々の格闘。生徒と先生の関わりが、目に見えるようにリアルです。理想ではなくて、現実が語られています。教育に関わった方は、教育理念を詩の中で書く方がたまにいますが、八覚さんの詩集は、ほんとうに教室の現実がリアルに描かれています。著者の感情も、高みから生徒を見るのではなく、教師であって教師でない場所から教育と日本の社会全体を見ているように思います。読んでおもしろく、あとからじんわり考えさせられます。小説家の批評の眼が思念を描き出し、詩人の眼が詩想を語っているからでしょう。


2,詩誌
?ガニメデ57号(銅林社)今回は、また随分と厚い本で390Pあります。たなかあきみつさんのブロツキイの翻訳、紙に描かれた文字が美しい。散文詩も行わけ詩も、誌面が美しい。贅沢な雑誌だなああと思う。藤本真理子さんの「哀、そしてアイ」も悲しく美しい誌面。高岡修さんの〈俳句進化論講座〉、五句の自註。第四段階に分けての俳句創作のプロセスは、詩作にも通じること。中嶺さんの四行詩がとてもおもしろい。お元気だなあと感嘆。

3.詩論
?詩論へ5(首都大学・現代詩センター)
・・・誌名の紹介だけしておきます。全部を読み切れていませんので。2月後半に宮沢賢治を読んでいたので、・瀬尾育夫/宮沢賢治アレンジメントは大変に参考になった。福間さんはtwitterでも140行詩をどんどん生産しているので、凄い。北川さんは、facebookで不定期に「通信」を書かれている。藤井さんは、少しわからない。
・北川透/ 三島由紀夫『豊饒の海』論
・藤井貞和/ 聖獣霊獣抄
・福間健二/ 詩について語る
・瀬尾育夫/宮沢賢治アレンジメント

『海峡派』季刊文芸同人誌より転載

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創作
白夜のナイチンゲール ・・・・・ 布施院 了
ロシアの古都ノヴゴロドの、タマーラという18歳の少女が「歩く」ことにこだわり続けている。タマーラは、歩く日々の中で、白樺文書記念館に努める父と父を「お父さん」と呼ぶかつて養女だった女性と会っているのを目撃したり、ルカという絵を描く少年に告白されたり、ルカが死んだりと、わだかまりを抱えている。タマーラは不眠や食事をとれなくなってしまった。ベランダから聞こえてくる合唱隊の歌声に幻の少年の声を聞く。絵を描く少年の銅像の写真から喚起させるストーリーも、白樺文書などの創作も高レベルの質感を感じさせる。とてもおもしろかった。

シャネル七番 ・・・・・・・・・・ 武居 明
リュウとマヤは、列車でのヨーロッパ横断をしている。列車という閉鎖的な空間で繰り広げられる小さなロマンスの数々。ちょっとあやしげなヨーロピアンな雰囲気が旅心をそそる。

寄る辺 ・・・・・・・・・・・・・ 内村 和
八十過ぎのサトは過疎の村に一人暮らし。東京に住む長男和也が訪ねて来て、そろそろ施設に入らないかと勧める。サトは昔のこと、母が肺病で死に、治美が新しい継母になったこと、姉のミヨの腕に赤い爪痕が残っていたこと、結婚して出て行ったミヨは女児を残して死んだこと・・・などを思い出す。二男哲も職を変え、苦労しているが、村には戻らない。それぞれの人生を生きるしかないという諦観のようなものが伝わってくる。

3月25日の雑誌 - ポイエーシス

web公開誌『詩客』の詩時評公開は、3月29日になる。私の当番は、これで終了のはずでしたが、5月の記事を追加で1回書いて終了となります。
詩友から、ガニメデ57号が届きました。今回は、また随分と厚い本で390Pあります。武田さんの後書きを、笑いながら読みました。 ほんとうに、スカッとしますね。文章は、真剣の剣で本音で書くということですね。たなかさんのブロツキイの翻訳、紙に描かれた文字が美しい。まだ、これからゆっくり読みます。

2013年3月20日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「ネコババア」奥端秀彰】
 少ない年金生活でアパート住まいの高齢者、美津子は猫に餌をやっている。同じアパートに3年前から住んでいる30代の男が近所迷惑と文句をいう。美津子は男が気にいらず復讐心や殺意まで抱く。美津子の社会的な存在である男への悪意がやがて自分に向かい、それが刃物三昧にまで発展する。
 老婆も男もなんとなく、世間での存在意義を失った人間のように描く。それは現代という時代の気配でもある。宙ぶらりんで、誰もが自己存在の定位置が見えない時代の空気を切り取った短編のようだ。
【「道行く」淘山竜子】
 高之という喫茶店経営者のやりくりを通して世相の一面を描くーーというように読める。商売の大変さというか、商売に向き不向きの人柄の様子が、仕事ぶりが細かく描かれているので、それなりに現代商店の事情が読み取れる。小説としては、風俗小説的な側面が強いが、心理的な説明とストーリーを結びつける構造づくりが複雑なのか手薄なのか、小説の登場人物のイメージよりも、作者自身の倦怠感や閉そく感が随所ににじみ出ている感じだと、思った。

<2013年 3月17日(日)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:和田伸一郎>

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「銭」   もろひろし
 はじめに夢が登場する。この夢に出てくる男を主人公文雄は、斜め上方の視点から追う。文雄の分身であるはずの男なのだが、そこにはある距離間があり、男に対しての感想が挟まれる。しかし、この主人公「文雄」と作者の間にはほとんど距離間が感じられない。
 したがって読者は、文雄が夢の男を見ているような位置から文雄を見ることになる。文雄は電子部品の町工場の経営者で、社員ひとりひとりの家庭の事情をよく知る立場にあり、会社とは運命共同体の大家族みたいなものだと考えている。
 文雄は仕事が激減した新しい現実にうまく対応することができず、その現実を認めるよりそれをもたらした親会社を恨み、裏切られたと感じる。これは、下請け制度というある程度自律的な内閉的空間を作り出してきた日本の企業社会が、アメリカからやってきたグローバル化という大波に移行しようとしていたことによる。
 この変化は文雄にとって、許容できないことだった。下請け制度自体が親子関係を象徴するような構造と秩序を要請され、「親」に逆らうことは御法度だった。文雄にとっては、いきなり親に荒野に連れ出され、あとは一人でやっていきなさいという、アメリカ型親子関係を押し付けられたようなものだ。文雄は、荒野に出て孤独とたたかいながら決断していくビジネス界の経営者のようにはわりきれず、きわめて日本的情緒に流されてしまう家長的存在として描かれている。
 妻のたか子は、社内においてもパートナーだが、文雄にとっては「母」に哀訴する子どもとそれを拒む「母」というかくされた関係が存在することが読みとれる。文雄には、「母」の胸に顔を埋めて乳房をもてあそんでいたい衝動が見え隠れしている。その「母」は、実は親企業でもあるのだ。下請け制度という擬似親子関係を機軸とした日本的な企業社会崩壊のドラマは、親が生き延びるために子どもを騙して家から追出してしまうという、グリム童話の寒々とした世界を連想させる。

<2013年 3月17日(日)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:和田伸一郎>

「穴を掘る」 河内きみ子
 かつては漁師だったが、製鉄所の進出で海が埋め立てられ、補償金を元手に農を営む老夫婦の回想物語である。農や漁の回想には、常に自然が挿入されている。それは景観としてではなく、身体の延長としてごく身近なものとして語られる。この作品はそうした自然を人物のように重きを置いて登場させているのが特徴だ。
 作物が失敗作でも、自然を相手に暮らす無意識の教養が老夫婦の生活処方ともなっている。書物から得られる教養にはないのびやかな視点が、忙しくあくせく暮らす現代人が忘れていたものを思い出させてくれる。
 地方語の会話とともに、過去と確実につながっている時間の流れは、遠く太古までもほうふつさせるものがある。私にとって、興味深い作品となった。

「蟻」     中山茅集子
 台所で料理を作りながら蟻をひねりつぶしたことを「ほんの少し後悔した。」ことから物語は始まる。主人公直子の自意識が、マンションの周囲の情況となじむことができない。その自意識が景観を切り取り、解釈を加えながら物語は進む。同じマンションに住む一人暮らしの男との出会いも、自意識を根底から揺るがす事態には運ばない。
 散歩の途中、バラの前でたたずんでいる男のひと言「おまえ、えばりくさっても、ハマナスの棘には勝てねえべえさ」が気になった。その男に話しかけ、男の育った北海道の荒海に思いをはせる。その荒海がはぐくんだ無意識が、直子の自意識を溶解していく。そうした過程が作品に見事に反映され、自意識をもてあましている現代人の心の隙間に分け入っていくのを感じることができる。

2013年3月16日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「うさぎの椅子」西澤しのぶ】
 安アパートで独り暮らしをする井上隆に突然、東日本大震災の被災地から電話があり、姉一家が被災し、おぼろという姪だけが助かり、おぼろが親戚である井上のところに世話になりたいというので、引き受けて欲しいという。この辺から、この話の現実性なさが出ていて幻想小説という印象を与え始める。実際、かなり長い話が続き、書き手にとっても読み手にとっても、いわゆる癒しを主体とした小説形式。
 突然やってきた姪おぼろのために、いままでの自分の部屋を提供し、同じアパートの安い部屋に住む。隆の生活はおぼろの自律のために尽くすことに変る。二部屋分の家賃やおぼろへの生活支援のため、会社で禁じられている夜のアルバイトなどもする。猫や小鳥のペットを与えることで、なんとか幸せになって欲しいと、努力するがおぼろは彼の望まない道に進んでしまう。偶然やエピソードには、唐突さや通俗的な手法もあるが、重苦しく夢のない現実から逃れる時間を過ごす読み物になっている。
【狂言「御深井焼き」三田村博史】
 お宝なんでも鑑定団の影響で骨董ブームが続くが、これをそれを揶揄し、うんちくを楽しむ内容。名古屋弁がこんなに狂言に相性がいいとは、まった気がつかなかった。これを証明する発見的創作。
発行所=477-0032東海市加木屋町泡池11?318、三田村方。
紹介者「詩人回廊」伊藤昭一。

2013年3月13日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 低コストで制作できている同人誌だと聞いているが、潤沢な資金で泥くさい同人誌があるなかで、いつも垢ぬけした粋な感じを与える。
【別荘団地自治会長・実記「意地」杵淵賢二】
千号の15号では、番外編で新興宗教の信者が住民として紛れ込んで、大騒ぎになった顛末で大変面白かった。その後、指名手配中の信者が、自首したラり逮捕されたり、東京城南地区を騒がした。とくに川崎から多摩川を渡って大田区に来て捕まった男などは、かなり堂々と行動していて、見た見たという情報を警察に入れていた人が多かった。懸賞金がかると違うものだ。捕まったのは、それからしばらくしてからである。それをそのまま、小説にしたら、おそらくそんな行動をする犯人なんかいるものか、とリアリティがないとされるであろう。
 今回は会長の立場で総会を開催するが、対立勢力の動きに腹を立て、総会を済ましたあと辞任するというところで最終回。ちょっと説明不足のところがあるが、ドキュメンタリータッチの表現力に才気が感じられる。
【連作・S町コーヒー店(14)「桜の季節は...」坂本順子】
 コーヒーショップのお客の会話を横できくという定番スタイルで、人情話風のコントに仕上げる、。ほとんどプロの手腕である。文芸の芸が光る。桜の季節の詩情を俗世間の噂話を綺麗に並べ、身近なところを素材に見事な散文詩にしている。
【「私のヘルパー日記「君子さん」飯塚温子」】
 こういうのも、ひとそれぞれの晩年があり、人生があるのを実感させられる。
【エッセイ「お客さーん」島 麻吏】
 介護に疲れれて、食事をしたあと支払いをしないで店を出た時の恥ずかしい思い出を語る。お疲れさんです、という気持ちにさせる。
【「長明曼荼羅」小川禾人】
 鴨長明の心境を描く。俗に生き、世捨て人に生きる二面性を表現。小川式長明解釈。
発行所=〒286?0201富里市日吉台5?34?2、小川方。

2013年3月12日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「桜桃」石川友也】
 父親の兄夫婦が亡くなって、その娘の菊江が引き取られてきた。和也より4歳上の小学6年生の従姉である。思春期に入る前の姉弟の楽しい交流が描かれる。そして、菊枝は自分の境遇に押しつぶされそうになり、体調を崩すが、少しばかり臥せっただけで、健気にも、その寂しさから立ち直るまでを和也の視点で描く。素直な筆致で詩情を漂わせて味わいが良い。
【「記憶」大川龍次】
 産みの母親を離縁し、後妻を娶った父親。やがて、私は他人の会社経営者のところに養子の出される。その後の生活の苦労を語る生活記録だが、私小説なのかフィクションなのか人生の一面を大雑把に描く。
発行所=123?0864東京都足立区鹿浜3‐4‐22、(株)のべる企画

2013年1月 6日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「地の塩の聖人」宮本肇】
 「地の塩の箱」運動の創始者で、詩人・作家の江口榛一が1979年に千葉の団地で自死したという新聞記事から始まる。65歳だという。「地の塩の箱」運動とは、余裕のある人は箱にお金を入れ、お金がなくて困った人はその箱の金を使って良いというシステム。一時は流行って世界の各地で実行されたらしい。奉仕の末に破滅する人生の運命人を追い、作者自らその娘さんに会って取材したドキュメンタリーになっている。また、作者が中学生時代に体験した特殊な悟りのような境地も興味深い。作者は冷静に江口を評価しているが、わたしはなんとなくドストエフスキーの「白痴」の主人公の矛盾した存在を思い浮かべ感銘を受けた。
【「含笑些話異聞(八)花占い」中村浩己】
 お笑いコントネタを連載していて、ピリ辛の笑いがある。笑いをつくるのは難しい。同人誌だけですませるのはもったいない気がする。かつての私の友人は、自分の好きな噺家や漫才師に台本を直接渡しにいって、ネタに検討されたが、ネタの外部提供は現在はどういう仕組みになっているのだろうか。
 発行所=相模原市南区古渕4?13?1、岡田方「相模文芸クラブ」。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

<2013年 1月 8日(火)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「双葉山に勝った男」明石善之助】
九鬼猛夫は多発性脳梗塞による認知症になり、老人ホームで暮らしている。今では妻も判別できず、生活全般において介護を必要とする。そんな九鬼が「俺は双葉山に勝ったことがあるんだぞ」と言っても、誰も相手にしない。昭和10年代に活躍した双葉山は国民の英雄だった。九鬼には小学生の頃、地方巡業に来た双葉山を負かした思い出がある。妻のことも判らなくなった今でも、ふっと双葉山に勝った時の記憶の断片が浮かぶ。そんな時、九鬼の感情は豊に動いているのだろう。外から見れば九鬼は不幸な状態なのだが、いろんな能力を失ってもまだ感情を揺さぶるものがあるのは羨ましい気がする。九鬼のそれまでの人生や老人ホームの描写が、九鬼の内面を補強している。

靴職人。 - ポイエーシス

校正が終わったので休憩。靴屋さんから「靴の修理できました」という電話。町には昔からの職人さんがいる。外は風が強いし、春の手袋をして出かける。左手が血行不良なので。
とてもよい出来栄えだった。また、1足お願いしてきた。パンプス2足。ショートブーツ。「よい靴です」と言われて嬉しい。大切にしたい。
・・・今日は午前中「校正」で終わり。午後は、ドライフラワーの制作。プレゼント用。新しい詩を書いている。と、書いておかないと、フォルダが見つからないので。

★きょうは、東京在住の詩人の北爪満喜さんの「詩と写真展」を見に前橋に行きました。前橋は、彼女の出生地です。商店街のイベントということでした。フレンドの鈴木さんにも朔太郎の生家跡まで案内していただいて楽しい散策でした。会場では、前橋の詩人、房内晴美さんにもお会いできてよい1日でした。みなさん、どうもありがとう。3月は「胃の痛む日々」だったのですが、帰宅したら治りました(笑)。写真はゲスト詩人のヤリタミサコさんの朗読。ヤリタさんにも久しぶりで会えました。パワフルな「音声詩」の朗読。彼女の朗読を聴いていたら、元気がでてきた。音声詩、力強い。

3月19日の希望。 - ポイエーシス

1,ドライフラワーを作っているのですが、部屋の中は、青い血液の匂いでいっぱいになっている。満開の花のドライフラワーが一番美しいのです。

2,疲れたなーと思う。きょう届いた同人誌までで、しばらくは同人誌を読みません。書きません。月末にまとめて読みます。頼まれてもいないのですが。

★大阪芸術大学の山田兼士さんが編集する『別冊 詩の発見第12号(澪標発行 500円)』が届きました。ありがとうございます。詩人27人と文芸科の学生による、卒業に記念に贈る雑誌。特別企画は脚本家・浦沢義雄インタビュー「白紙からの言葉」。大学生による詩集レビューと、山田兼士さんの「詩集カタログ2012」が凄いですね。書評を4?5行でまとめるという技。疋田龍之介さんが学生の作品から、詩人の作品へ移ったのが、とても感慨深く、成長しましたね。楽しみに読みます。


★なぜか、手が伸びて買ってしまった岩波文庫でした。谷川俊太郎さんの自選による173篇。どこからでも読めて楽しい本です。
初めて読む詩がある。「泣いているきみ」泣いているきみのとなりに座って/ぼくはきみの胸の中の草原を想う/ぼくが行ったことのないそこで/きみは広い広い空にむかって歌っている//泣いているきみが好きだ/笑っているきみと同じくらい/哀しみはいつもどこにでもあって/それはいつか必ず歓びへと溶けていく//

★南原充士さんの詩集『にげかすもきど』届きました。
『にげかすもきど』って日月火水木金土 のことですよ。
谷川俊太郎さんの帯文の「文字であるとともに声である詩」って、
私も「文字の声」「声明」のことを考えて文章を書き始めていました。
この詩集は、ライトヴァースの詩集です。
「悪態」なんておもしろいですね。
「下品なのはきらいだが/たまには悪態をつきたくなる/くそっ/それからはらわたが煮えくり返る/くそーっ/ついに頭から湯気が出て髪の毛が逆立つ/これ以上血圧をあげると爆発しそうだ//くそ/くっ/くぅ/自動ガス抜き装置が作動したのか/見る見るしぼんでいく風船みたいに/悪態がしおれていく/もっと品の悪い態度をとれ/やじり倒せ/殴り倒せ//(省略)

ミモザ祭り - ポイエーシス

飯能市の詩友から、
大好きなミモザがダンボール箱入りで届きました♪
節ちゃん、あなたからのワイルドな愛
♪♪ありがとう
♪♪♪草野心平は「いり卵のような黄色のミモザ」と言いました
♪♪♪♪嬉しい朝です。

ミモザ祭。
豪華な素材。
枝の形状を3種類に分ける。
壺とガラスの1輪挿しに活けてみました

★『福永武彦を語る2009-2012』を読む。必要があって信州に関わりのある部分を取り出してみる。
まず、菅野昭正さんの8P.「塔」と言う作品について。『高原』と言う雑誌が1946年の終戦直後に、片山敏彦、堀辰雄、山室静、の3人の編集で信州で作られた。当時としては豪華で高価な雑誌だった。中村真一郎の『死の影の下に』の冒頭部分も掲載されていた。そういう雑誌。「『塔』における原音楽」。という難しい言葉。16P.山田兼士『死の島』への道。「詩的小説」あるいは「詩小説」というのは、フランスの作家ジュリアン・グラックが使っていた言葉。福永武彦作品こそが「詩小説」と呼ぶにふさわしい。詩で小説を書いた最初の日本人。福永武彦は、ボードレール研究者でもあったわけで、「コレスポンダンス」すなわち「照応」、好感の詩学から「原音楽」という概念を抽出してきた。19P.「死すべき自己」である主人公と「生きるべき主人公」である語り手の2つに分裂した。「死者の眼差し」と言う言葉は福永武彦がしばしば使う言葉、
26P.●方法意識と「死の島」
清水徹 「幼年」からの引用。「幼い子供が眠りながら手足をびくつかせ、声にならない声をあげておびえる時に、彼はその中に閉じ込められているのだ。といのは悪夢の酵母ともなるべき現実の恐ろしさを子どもは未だ知らず、両親に見守られて安らかな眠りを眠っているはずで、彼を苦しめる筈の影はどこにも射してはいない。としてもその実際の記憶を  わたしがもっているわけではなく、、」記憶を、で改行して、続く。

球根の芽 - ポイエーシス

★球根の芽は、夜になると急に伸びて、壁の前で、ひそやかに微笑んでいたりする。弱いきみどりいろの光が、そこの部分を照らして、今、何かがやってきたことを伝えている。

<2013年 1月 8日(火)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:ひわき>

【「絆」島有子】
小説となっているが、作者の実体験が語られているように感じた。細部が生き生きと描写され、祖母への思いが伝わってくる。明治末期のことだろう。15歳の祖母は機織りを覚えるため、徒歩で新潟から群馬県の桐生へ行く。そこで桶屋の後妻になり、死別後は年の離れた寿司屋の後妻に入る。幼い頃いつも祖母に遊んでもらっていた作者自身も年を重ね、祖母をより身近に感じている。現在とは異なる人びとの生活状況や、人と人とのつながり、優しさや思い遣りを味わった。

【「枯れ菊」北大井卓午】
高齢者の様ざまな状況が正雄によって語られる。どのエピソードも納得ゆくものばかりである。マスコミは介護の現場や内容など多方面からの情報を流し、有料老人ホームの折り込みチラシが新聞に挟まれている。私自身もこの先どうなるのだろう、と考える。認知症になるのは悲しいことだが、躰の自由を失って頭脳ははっきりしているのも辛い。誰もが老い先に暗いイメージを抱いている。しかし、誰もが確実に老いてゆく。いったい、そこに何が残るのだろう。語られる正雄の思いはよくわかる。結局は、その時まで築いてきたその人自身の暮らしが残るのだろう。小さな対象にも心を動かし、積み重ねてきた記憶のどこかに結び付く。そういうことが年を取ることの豊かさかもしれない。

文化人類学者の山口昌男さんが、きょう3月10日に死去されました。
『トリックスター』を再読するところでした。『文化と両義性』などのご著書からはいろいろなことを学びました。合掌。 http://www.asahi.com/obituaries/update/0310/TKY201303100023.html
★そういえば、きょうまでの目標であった10冊。
?思潮社現代詩文庫『永瀬清子詩集』このことは、書いてある。

?山崎佳代子詩集『鳥のために』・・・「木の葉」木の葉が鳥の死骸のように落ちてくる/少年は帰らない/季節風のせいではない/ 汚れてしまった空のせいだ//木の葉には床屋 駄菓子屋/墓地 肉屋 豆腐屋 鳥居 裏通り/少年の手書きの地図が書き込まれている//雨の中を思い足取りの男が帰ってくる/靴底に踏みしめられると/木の葉は遠い土の香りを放つ//木の葉は落ちて来る/季節の記憶を/きみの足音に取り戻すために//少年の消えた季節はずれの空から//(スラッシュは行替えの位置。引用のためにつけた。)表紙画がとても素敵です。たぶん、この詩集の舞台となったであろうベオグラードの少女が、記念撮影のように草花を左手に持って、教室の黒板の前でこちらをしっかり見ている。足元には、古楽器が置かれていています。表紙カヴァーを折り返した部分にこの詩集が編まれた背景が書かれています。1990年冬から1994年夏、ユーゴスラビア、ベオグラード。今また繰り返される悲劇のさなか、ひとりの異邦人として、黄昏の野原に行き倒れる旅人として、血を流しねじ曲げられる時間を見つめ、記憶から消されてゆく声を記しとどめる・・・・。とある。詩篇は3行、4行で続いていく行分け。散文詩ではなく、非情な寂しさや悲しみを感じる。1995年に書肆山田から発行された詩集。著者はそのときベオグラード在住。

?『吉原幸子全詩?.?(思潮社1981年版)』山室静先生の文庫の本であるので、吉原さんのサイン本となっている。銀色ペンのサインでオシャレ。吉原幸子が感じていた春がいい。「春」春は耐える/花は自分の春に耐える/乳いろの空にもぎれこむけどおい昼に/やさしすぎる雨に涙ぐみうなずく夕べに//そうして 愛は風に似て/におう闇の底を落ちながら/花ははじめて 花びらの重さを感じる//(吉原幸子全詩?の巻頭詩) ユーズド本を購入したいと思う。 


?『宮沢賢治とドイツ文学(植田敏朗 大日本図書)』この本は1989(平成元年)年に発行された本。宮沢賢治の研究書は図書館へ行くと、書架にたくさんあって数えたら60冊以上あった。・・・とドイツ文学という視座が、今までは読んだことがなかったので読んでみることにした。著者はドイツ語の先生。
最初からおもしろく、「心象」と言う言葉がどのように用いられたかというと、1921年(大正10年)末に書かれたと思われる「冬のスケッチ(四)」の「おもかげ」がおそらく最初ではないかということ。「心象の燐光盤に/きみがおもかげ来ぬひまは/たまゆらをほのにやすらふ/そのことのかなしさ//天河石、心象のそら/うるはしきときの/きみがかげのみ見え来れば/せつなくてわれ泣けり// 。「心象スケッチ」という言葉は『注文の多い料理店』の宣伝文にも用いられている。この本のなかで一番おもしろいのは、ホルツの「『ファンタズス』の諸原稿である。
 

?『文語詩人 宮沢賢治(岡井隆 筑摩書房)』筑摩書房からは吉本隆明の『宮沢賢治』論も出ているのだと知る。冒頭から、文語詩の発見 吉本隆明の初期「宮沢賢治論」をめぐって。「雨ニモマケズ」は駄作ではない。が興味深い。私はこの詩がとても嫌いですが、駄作ではないと思う。現代詩手帖昭和38年6月号に掲載の文章を引いている。雨ニモマケズは詩ではなく、「手帳より」と表記されているように、書きなぐったメモであり、公表の意図はなかったのだから、詩作品として「春と修羅」などと比較して論ずるのは妥ではない。然り。算用数字で11.3のメモが手帳にあるようだけれども、これを十一月三日とした、編集者の編集意図が表題化への意識があっただけで賢治にはただの数字メモだと思う。吉本隆明の「論」を追っていく、論。だと思う。

?ハンス・ケルゼン著・長尾龍一訳『ヤハウェとゼウスの正義(木鐸社)』 「神は正義である」この思想こそ、キリスト教の最も重要な要素の1つである。神は絶対者であるから、神的正義は絶対的正義、すなわち永遠不変の正義である。正義の神を奉ずる宗教のみが社会生活のなかで役割を果たすことができる。神は正義であるとして、宗教を人間社会に持ち込もうとするこの傾向は、非合理なものを合理化しようとする傾向を示す。
●パウロはユダヤの律法を否定した。イエスはなお自己の教えが少なくとも原則的に、ユダヤの律法に反するものではないような外観を維持しようとしたが、パウロはさらに一歩を進めた。パウロは「今や我ら律法より解かれたり『ロマ書七・六』「人の義とせらるるは律法の行為に由らず、唯キリスト・イエスを信ずる信仰による。律法の行為によりては義とせらるる者一人もなし『ガラテヤ書二・十六』

?マルセル・モース/アンリ・ユベール著・小関藤一郎訳『供犠』84P.? 神の供犠。神的犠牲は犠牲としての神ではない。宗教的事物が持つ聖なる特性は一定した神話や儀礼の対象であり、かつ、人から神と呼ばれる。犠牲が神のために死ぬのと同時に、それはまたあらゆる植物種の中に分散し、それに生命を与える、そして再び漠とした、非人間的なものとなる。

?カール・ケレーニイ/カール・グスタフ・ユング著/杉浦忠夫訳『神話学入門(晶文全書)』
前書きがものすごく素敵だ。女が何物であるかを男はどうして知ることができましょうか。女の一生は、男たちのそれとはまったく違うのです。神がそのように創りたもうたからなのです。男は割礼を受けた時から老いさらばえるまで同一人物です。・・・だが、女が最初の愛を体験したその日に、女の障害は二つの部分に分かれます。女はその日を持って別人になるのです。・・・」 序説に。「音楽とは何か。詩とは何か。これらはすべて、対象そのものに対する既存の現実的関係なくしては、いかなる考察も成り立ちえない。しかし、神話にはこういった現実的関係というものはない。「神話」という言葉はあまりに多義的であり、使い古されて、曖昧である。むしろ「神話素ミュトロゲーム」。ギリシャ人がミュトロギァーと呼んだものの生き生きとした動的性格。ポエジーと同列の芸術である。

?ポール・ラディン/カール・ケレーニ/カール・グスタフ・ユング著/皆河宗一郎・高橋英夫・河合隼夫訳/山口昌男・解説『トリックスター(晶文全書)』創造者であると同時に破壊者、善であると同時に悪であるという両義性を備えて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで、両端に引き裂かれた価値の仲介者としての役割を担う。トリックスターの醸し出す痛快な笑い、風刺、ユーモア、アイロニーは、多次元的な現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して世界の隠れた貌を顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を切り開く優れた精神の技術である。第1部の1.「ウィネバ語族ウサギ物語群」は1?24までのウサギの物語。このウサギは人間のように考えたり、物を言ったりするのだが、果たして彼は、ウサギなのだろうか。・・・ここで用いられている、文章の形式や区切り方や、文章の中に流れる「意識」はポエジイのようでもあって参考になる。詩形というものを考えるときに役立つだろう。
●295P.「ふつう人類学において構造理論を導入したのは、レヴィ・ストロースであるということになっている。しかし、構造論に同情的であり、学説史にいくらか通じている人たちは、ライデン学派という極めて魅力的な研究環境が存在したことを知っている。トリックスターとは、仲介者の意味である。レヴィ・ストロースに「20世紀神話のトリックスターは誰だと思いますか?」の質問に「マルクス兄弟です。もちろん彼らが自らの役割を演技の上で分析していますがね。神話的ディスク?ルが見事に彼らの作品にあらわされています」と言った。「文化、自然、仲介者の三元的構造」(後書き1974年4月)

の9種類10冊を3月10日までに読了するという計画。
?と?は夏の読書の再読となる。

★2年前の今日の夜は、右足を骨折して病院にいました。手術はしなくてもいいことになって応急処置をしてもらって、11日の朝は再び病院に行き、ギブスをして帰ってきて、なんと言っても決算期ですから、痛み止めを3時間おきに飲んで、午後から仕事に行き、PC.画面に向かっていると、ものすごい揺れが来たのでした。駐車場の車が倒れるかと思うほど揺れていました。4時頃まで仕事をして、帰宅してテレビを見ると、日本はとんでもないことになっていました。東京にいる息子たちが、マンションに着いたのは午前1時でした。それから、日本という国は、ずっと国民は不安定な気持ちを押し殺して、普通な貌をして生きるようになりました

2013年3月 5日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【評論「ポーの美について(ノート)」柏山隆基】
 (詩の原理、コールリッジの影響、創作技法、詩作から小説へ、等)という副題がある。その通りで、ポーについての生活と作品の関係がよくわかる。小説の巧さと詩的な神秘主義者としか思っていなかったので大変参考になった。「詩の原理」は萩原朔太郎は読んでいたが、ポーに同名の書があるとは知らなかった。こういう理論は、朔太郎の場合、実作作品より良いとは思えなかったが、ポーの場合もそれほど良くないのかも知れないと思った。理論で創作のインスピレーションは明らかに出来ないのではないか、と思っている。
【「暗渠」大城定】
 教員が60歳になって故郷に帰り、知り合いの葬儀に出る。そこで、認知症のような、ホームレスのような老人に世話をすることになる。そこで、年老いた父親の最終的な時間を過ごした記憶がよみがえる。語りの手順に工夫があり、特に新しい手法とは思えないが、何といっても家族の現代の事情と、時代を超えて不変な親族愛が、同時に描かれて感銘を受けた。
【評論・映画監督のペルソナ「川島雄三論」石渡均】
 出版本になるはずだったものが、不運にもできなかった評論だとある。映画にはくわしくないが、著名な監督であったことはわかる。映画監督は、そいうものかと興味深く読んだ。
発行所=〒241?8021横浜市旭区中希望が丘154?3、多田方。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

2013年3月 3日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 「日曜作家」という同人誌は以前からあるように思ったが、それは個人誌でその方が亡くなったことで、友人たちが同名の同人誌を発行したものとある。
【「優雅なるトマトケチャップ」?甲山羊二】
 1980年代の下宿暮らし大学生のキャンパスでの恋。恋した彼女には先生の彼氏がいた。それでも複雑なのが女子大生の女心。結果的に男心を翻弄する。そのいきさつが超ロマンティックな筆法できれいに描く。スイートメモリーそのもの。これで十分完成度が高いと思われるが、連作だという。
【「小説・編集後記」妻永二】
 なんのことかと思って読んだら、自らが参加している同人誌「北回帰線」についての散文であった。小説はどう書いてもいいというような考えがあるようだから、これも散文小説として面白い。作者は道路・橋梁設計事務所いて建設の専門家であるという。工学理論に詳しいが同人誌に掲載できないのが残念そう。こういうのが面白い。じつは私は、何年前かにタンカーや橋梁の設計に必要な荷重負荷バランスを計測する会社の動向記事を頼まれた。ある社長に取材したら、「あなたもご存じのように、地球上のエネルギーは6分力の方向にあるので、それが建造物にどう働くかがわからないと設計ができません」という。「ええっ、そうなんですか。知りませんよ」と聞いてびっくりしたことがある。
 文中に同人誌に「仕返し合評」があるどうだが、仕返しでもなんでも読んでいるのだから、いいのではないか。
【「雲流れる・連載一回」大原正義】
 山上憶良の遣唐使派遣員の話。貧乏と酒の歌は知っていても、歴史的な存在意義は知らなかったので、解説的歴史小説として楽しめた。
なお、「日曜作家」では、当誌掲載と副賞5万円の「日曜作家賞」を公募している。
発行所=〒567―0064大阪府茨木市上野町21?9、大原方。日曜作家編集部
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

2013年2月 4日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「後三年合戦最後の日」宇津志勇三】
 ていねいに書かれた歴史小説である。1087年ころになると源氏勢力が東北へ勢力をのばしはじめた。その手はじめが清原勢力との連携であったろう。そのなかで清原勢に溝ができる。これは源氏勢には有利な材料となる。この源氏勢への北への進出を強めたのが「後三年合戦」である。これが単なる「合戦」か、もっと大きな「役」になるのか微妙なところだが、この作品によると、先代の合戦で郎党が逃げて、他所に逃げていたのが、戻ってきたとあるので、これは武士による合戦であったらしい。地味ではあるが粘り強い筆遣いで読ませる。
【「阿武隈の風(後篇)」高橋道子】
 東日本大震災の津波と福島第一原発事故の現場を舞台に、その現実を小説化したもの。単なる詠嘆に終わらず小説化することが市民の間に広がることを歓迎したい。
【「泣き笑い年末始」安久澤連】
 正月過ぎての突然の便秘やなにやら、体調の異変に対応するさまをユーモラスに語る。読んでいて人ごとではない感じだ。身体の調子が加齢によって思わぬ変調をきたすひとには、必読の書。わたしもある日突然、思わぬ便秘と腹痛、圧迫感に苦しみ、医師に相談したところ「よくあることですよ」と笑って薬をくれたが、よくあるからと言って、自分が楽になるわけではない。腹をたてたが、この作者はわたしより先輩で、腹が据わっている。次々と医師がさし出す課題を乗り越えてしまう。尊敬するしかない。こちらは検診など受けようものなら、つぎつぎと病気状態を発見され、検査の予約で人生のスケジュールが埋まってしまうと敬遠して逃げている。それがここでは、笑いを入れて楽しくない話を楽しく読ませる。
【「芥川龍之介詩1編の謎『沙羅の花』凋落」牛島富美二】
 芥川龍之介が室生犀星宛ての手紙に詩を書いているという。これは興味深いので作品からまた引用させてもらう。
    嘆きはよしやつきずとも
    君につたへむすべもがな
    越しのやまかぜふき晴るる
    あまつそらには雲もなし
 作者はこれは森鴎外の詩「沙羅の木」の影響があるのではないかと推察している。
    褐色の根府川石に
    白き花はたと落ちたり
     ありとしも青葉がくれに
    みえざりしさらの木のはな
 牛島氏は芥川が沙羅の木に「凋落」のイメージを込めていると解説。その後、芥川が美貌の歌人で人妻の秀しげ子と不倫の恋との関連を述べている。そして女心に悩まされる現実も示す。沙羅に関する詩では、鴎外の方が冷静で出来が良い。芥川のは犀星もそれほど褒めなかったのではないか。ただ、犀星が芥川の恋の悩みを理解してれば別であるが。
【「詩本論」酒谷博之】 
 詩論というのは、誰が説いても面白いものだが、情熱のある論調で続きが楽しみ。「資本論」のように長くなるのか。もっとも資本論は経済学批判であるので、詩学批判になればさらに興味深いのでは。
発行所=〒982―7891仙台市泉区向陽台4?3?20、牛島方「仙台文学会」。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

2013年1月26日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「芝居の値段」中村治幸】
 この作者は不思議な持ち味を変らずに持ち続けている。私は「物語」カテゴリーで、この人の麻葉加那史の筆名での作品を出してある(二日酔いの朝は憂鬱で哀しいという意味であろう)。
 日本の近代文学の伝統的な私小説の作風をかたくなに守っている。40年以上前から変わらない。そのころからわたしは、古臭い文学手法しか知らない文学青年だと思っていた。文学ではあるが、いかにも時代遅れだと思っていた。しかし、世間の変化に平気で取り残されて行ってるのにこうまで、スタイルを変えないとかえって新鮮である。立派な文学老年である。
 今回の作品は、随筆になっているが、日本の伝統的な形式として存在する私小説であろう。昇は65歳でフレンチレストランの洗い場で働いている。久しぶりに池袋の映画館「新文芸座」に行く。映画は三谷幸喜監督脚本「素敵な金縛り」とさだまさし原作、瀬々敬久監督脚本の「アントキノイノチ」であった。昇にとって映画は、昔から好きであった。友の会にも入っている。何回か入るとポイントがたまり、タダで見られる時があるのだ。いまは映画観賞が労働の疲労を回復する手立てなっていることがわかる。そして、その映画館の客が減っていることに気がかりを持つ。トイレの正面に映画館の友の会の勧誘張り紙がしてある。昇は映画館の入場料が高くなるのを心配している。その視線が、昇のつつましいなかで娯楽を見出して満足してきた庶民的境遇とそれを自然体で受け止める姿勢を物語っている。
 ここには昇が読書会で知り合った鈴木さんという男の話が出ている。彼は歯科医の息子だったが、父親と同じ職業を選ばず、若い頃アメリカに留学して、帰国してからもいろいろな職業につき、65歳で退職し現在は年金で母親と暮らしている。彼は舞台演芸が映画より料金が高いのはおかしいと文句をいう。鈴木さんという人は怒りっぽくて、いつもなにかに怒っていてそうせずに居られないものが心の中にあるようだという。
 おそらく、昇と親しくしているのは、やはりつつましい生活を送っているのであろう。それは劇場の料金が高いという考えからも推察できる。そして、昇とは異なり、つつましやかな庶民生活に安住できないでいるらしい。誰かに下積みの生活を強いられているように感じて、裕福な生活をする人が存在する社会に対しての怒りがあるのかも知れない。昇が喜劇の話をするのだから、怒らないだろうと思ったら、それでも怒りだしたという、ところに何とも言えぬユーモアがある。
 また、昇という語り手が、金銭的な価値観から独立した芸能を愛し、つつましく生活を楽しんでいるという設定が、文芸作品としての核になっている。喜劇すらもお笑いという味気ないものに変ってしまい、真の芸能の理解者が居なくなるという、さびしい現実の感傷的要素が、文学的な味わいとなっている。
 もし、これを映画館の入場料や現在のテレビ中心のお笑いへの批判だけに終わっていたら、それは新聞の投書蘭の意見、オピニオンに過ぎず、作文であって文芸ではない。老年、映画館のトイレ、貧しさ生活に安住する精神、これらの細部の意識的な組み合せがあって、スタイルが古くはあるが文学の領域に存在しうるものになっていると思わせる。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

★。教室でも、廊下でも、校庭でも、男の子と遊んでいて、男の子だと思っていた。R.なんて名前、どこにもいなかったしね。『初めて会ったとき、男の子と思っていたら女の子だったR.生意気なのに、泣き虫で、とてもかわいいのに、わざと顔に土をつけてきたり、かわいいと思った日が「さよならの日」でそのことがいつまでも悲しい3月の別れの日だったね。』

3月8日の希望。 - ポイエーシス

私の詩作品「凍える文字」の冒頭にはニジンスキーが登場します。大好きなロシアのバレエダンサー・ニジンスキー(1890年3月12日 - 1950年4月8日)の「薔薇の精」の跳躍は素晴らしいのですが、ユーチューブで見つかりませんでした。フィギュア・スケートのプルシェンコが「ニジンスキーに捧ぐ」を踊っています。こちらも素晴らしいです。
http://dic.pixiv.net/a/ニジンスキーに捧ぐ
★『凍える文字』
?
こどもたちは、ニジンスキーが踊った「薔薇の精」のような花びらの服を着て、田植えの済んだばかりのあぜ道を一列になって跳んでくる。どこから来たの? 薔薇の精たち。地面には、白い花びらが積もっている。あとからあとから風に乗って、花は散り、地面に吸い込まれていく。空は、綿毛のようなものでいっぱいなのですが、さっきまで聞こえていた鳥の声は灰色の鳥族の羽毛であるかもしれません。


リルケはロダンに出会って彫刻のように詩句をイメージすることを学びましたが、「物」を作ることは、言葉というものの輪郭に物で触れていくように考えています。リルケはパリでロダンに出会ったころ、ニジンスキーのバレエを見ていたはずです。

3月7日の希望。 - ポイエーシス

★詩の寄稿依頼がきたので、書く。散文の依頼ばかりのなかで、詩がくるとやる気が出る。本は、見つからなかった。明日も駄目なら、別な方向から考えるしかないな、と思う。たぶん、近づいている。詩を書いていることはいいことで、考える力も失われずについてきている。腱鞘炎ぽいので、休憩。自分で決めた課題図書を片付けていかないとね。

3月6日の希望。 - ポイエーシス

果たして、そうなのか。病みながら書き、書きながら病んでいくということが、望んだ場所へ到達するということなのか。
?投稿原稿の選考と選評ができたので送付する。
?今月の目標の本を読破していく。同人雑誌評は、3月10日到着までのもので締め切って書く。
?新しい原稿を書く。
?散文はリライトで臨む。

                         ●
雑誌
?すぴんくすvol18.(佐伯多美子・海埜今日子 250円)後書きまで12P.
?hotel第2章 no,31(hotelの会 500円)34P.

3月4日の希望。 - ポイエーシス

また、寒さが戻ってきています。氷点下2度。晴れ。きのう、たくさんの詩を読んだので、目の「高野喜久雄疲労」がとれませんが、熱いコーヒーを飲んで、月曜日の始まりです。高野喜久雄詩集」に「宜う」いう言葉があり、「むべ」の花との言葉の関係を考えていて、、目の疲労でした。『むべなるかな』ということばに由来するアケビ科の植物の「むべ」 。「むべなるかな」は「うべなるかな」に同じ。「宜う」の文字。アケビ科の「むべ」
http://www.hana300.com/mube00.html

詩集・句集★ありがとうございます。?永瀬十悟句集『橋朧ーふくしま記』・・「ふくしま(コールサック社)」50句で、角川俳句賞受賞。緑色の本です。「避難所に春来るキャッチボールかな  ふくしまに生まれて育ち鳥の恋  騒がねば振り向かぬ国ひきがへる   みごもるといふ知らせあり虹かかる 貝風鈴吊るあの浜のあの店の」など。
?神子萌夏詩集『白をあつめる(ジャンクションハーベスト)』・・・福井県生まれの方の詩集です。これから拝読。表紙カヴァーのミニシクラメンが我が家のシクラメンの趣に似ている親しさ。

1)立っている「木」のことを考えていた。木を見に行き、木を忘れないように、写真を撮ってくる。チューリップツリー〈夏の終わり)。赤松〈冬の初め)。不明(秋。プラタナスの若木?)、、、書き溜めているものを連結する「手」を見つけに、明日、またその場所に行って見ることにする。

2)おもしろいなあと思う。その人のそうした感受性というものが、どの皮膚を刺激して内臓に到達したのか。その映像を脳はどのような心理に変えたのか。「欲する」という形の木をような人だ。

★詩集も届いていますが、2月27日のところへ紹介しました。あまりにスケジュールが混んでいますので、「タイトル」「発行所」の紹介にとどめておきます。お許しを。

雑誌
ガーネット2013.3VOL69(神戸市・高階杞一・年会費1,500円)同人7人。68P.詩とエッセイ。詩集、詩誌の紹介も丁寧に書かれている。高階杞一氏は第8回三好達治賞を受賞された。
Space 108 2013.2.20号(高知市。ふたば工房)この雑誌は「非売品」と表紙に書いてあるので、貴重品かもしれない。2年前に、ある方から、貰ったことがあるので、印刷版を久しぶりに読んだ。

午前中は、メモを辿る。ヴェルレーヌの詩「月の光(Clair de Lune)」の中に登場するbergamasques」ベルガマスク。仮面の道化師、アルレッキーノの恋のことです。文章ばかり書いています。昨日、再読する資料も図書館で見つかったのでよかったです。このメモは、facebookフレンドの藤井わらびさんのウォールで、「月の光」を話していて思いだしたのだった。フォルダの整理も大事ですが、「ノート」も大切です。これが、本筋ではなくて、辿る道筋の目印にすぎません。

                        ●
 忘れることの方が多いので、とにかく書く、書いておく。このブログも古くなったので、引っ越しをしたい。詩誌、「黄薔薇」は永瀬清子さんが立ち上げたもの。永瀬清子詩集を市立図書館の山室静文庫より借りてきた。きのう、借りてきたそれらの本も、一応メモをして先に進もうと思う。

                        ●
3月10日までの読書計画10冊
?思潮社現代詩文庫『永瀬清子詩集』?山崎佳代子詩集『鳥のために』?『吉原幸子全詩?.?(思潮社1981年版)』?『宮沢賢治とドイツ文学(植田敏朗 大日本図書)』?『文語詩人 宮澤賢治(岡井隆 筑摩書房)』?ハンス・ケルゼン著・長尾龍一訳『ヤハウェとゼウスの正義(木鐸社)』?マルセル・モース/アンリ・ユベール著・小関藤一郎訳『供犠(ウニベルシタス叢書)』?カール・ケレーニイ/カール・グスタフ・ユング著/杉浦忠夫訳『神話学入門(晶文全書)』?ポール・ラディン/カール・ケレーニ/カール・グスタフ・ユング著/皆河宗一郎・高橋英夫・河合隼夫訳/山口昌男・解説『トリックスター(晶文全書)』の9種類10冊を3月10日までに読了するという計画。?と?は夏の読書の再読となる。確認していく作業。前半の詩集は、3月15日締切の「詩客」原稿のための資料となる。
あとは、夏に書いたエッセイ仕上げるため。

                       ●
 早朝に、「詩と思想」5月号読者投稿欄、投稿原稿が到着する。91篇。先月より5編少ないが、2月が28日しかないので、その影響であると思う。若い人々の新鮮な作品に出会いたいと思う。

去っていく3月の始まりは曇り。気温1度。氷点下ではないと温かいと感じます。市立図書館へ本を返しに。花屋さんでミモザが買えるといいですが、どうでしょう。「生を愛するがゆえに死を恐れる思想は欺瞞であり、生の苦痛を征服し、自殺する勇気をもった新しい人間こそ、自ら神となる。ドストエフスキー『悪霊』」


きょうの?俳句の季語は「ミモザ」であったらしい。午後、花屋へミモザを買いに行く予定であったけれど、内科医院、郵便局、図書館と巡って、時間オーバーで行かれなかった。宅急便で詩友から「土佐の文旦」と「愛媛のいよかん」が届きました。嬉しいです。どうもありがとう。


作品「JESUS LOVES ME」に登場するイルミネーションツアーは、毎年12月になると、長野県軽井沢町の役場前からバスツァーが、あります。それとは別に友人たちと巡ったのでした。当時の写真を発見しました。夏に朗読会を再び計画中ですが、「JESUS LOVES ME」だけで15分かかるので、詩劇のようにアレンジしていく予定です。

「JESUS LOVES ME」5 イルミネーションツアー

 …鍋の蒸気で曇った台所の窓を遠慮がちに叩く人がいて、車で森の「仙境都市」へ教会のイルミネーションツアーに行こうと言う。エミリアだ。よし、行こう。今夜は暇だし。彼女は、密かに尊敬する女性詩人だったし。ちょうど新しいムートンのコートを買ったばかりで、着る機会がなかったので、それを着て出かけることにした。私とKが設計した街を荒らす動物は毛皮にはなれない。殺してはならないからだ。森の「仙境都市」の奥へ入っていくと、(JESUS LOVES ME)のイルミネーションがくっきり見える。落葉松の切り株につまずいて、飛び上がった途端、トナカイのキャップを被った青年が、キャンデイをどうぞって籠をさしだした。(あれっポール?どうしたの。)(アルバイトです。)(いつから?)(今晩だけです。)それにしてもあれは、トナカイ(シカ科の哺乳類・名前はアイヌ語の(トナカッイ)からきている)がポールの模倣をしているかのようでもあった。ときとして模倣の行為が現実のときもあるのだけれど。

★ Whitney Houston - Jesus Loves Me ジーザス・ラブズ・ミー
www.youtube.comこの曲が亡くなる二日前のナイトクラブでワンコーラスだけ歌った曲です。 残念ながら、人前で歌った最後の曲になってしまいました。

2月の詩誌。 - ポイエーシス

逃げていく2月も今日で終わり、去っていく3月が明日から始まります。2月28日までに届いている雑誌名です。同人誌に集うのは、その雑誌の創刊時の思いや、志の継続にあると思うのです。雑誌の形態などを紹介していきます。編集発行人の苦労が忍ばれるからです。詩誌の価格も参考までに入れておきます。

?黄薔薇197号(倉敷市・高田千尋・500円)奥付まで64ページ。表紙の写真がいつも美しい。永瀬清子さんが創刊した詩誌。永瀬さん亡き後197号まで継続されているのは、「永瀬さんの理想と詩を慕っているからだ」と後書きにある。25人の同人のうち、この号に参加された方が亡くなって次号は追悼号。大勢の方を纏めていくのは、たいへんなことです。発行人の高田さんには昨年3月の、日本現代詩人会の関西大会で初めてお会いしたのですが、ユーモア溢れる方だった。
 ところで、永瀬清子という詩人の個別の作品は読み知っていたが、詩集を読んではいなかったので、1990年思潮社発行の現代詩文庫『永瀬清子詩集)』を読んでみた。飯島耕一の解説に共感した。「村にて」という作品に触れて「永瀬清子は美しい風景も、美しい労働も、他者(共同体)と分かち合いたいという強い願いを持っており、それのみたされない時、限りない失意を覚えるのである」と。私も、そういう位置にたって、そういう場所で詩を書き続けたいと思っている。

?ぱぴるす102号(土岐市・頼圭二郎・400円)パソコン印刷で、中綴じ本。22ページ。椎野満代さん、岩井昭さん等7人の詩誌。岩井昭さんの「なみきくん」にノスタジイを感じた。


?現代詩図鑑 第11巻・第1号 2013年冬号(大田区・ダニエル社・真神博・700円)110ページ。 この詩誌は同人誌ではなく、季刊でその都度の会費制による発行。今回の参加者は、28名。巻頭の書評は海野今日子さん。榎本櫻湖さんの「それを指でたどって」は、行替えや、文頭の文字下げもなく四角の箱型文字の模様で始まり終わる。北欧と思われる風景から。「フィヨルドの北端から川を溯って国境を跨ぐと、つまりその辺りの地図を眺めていて、」で1行目が始まる散文詩で、今まで見知っている櫻湖さんとは違っていて、静かな内面に向かいつつある言葉のエネルギーとこの地図旅行による詩法が、果たす言葉の行方を想像した。今度は何をしようと企んでいますか、櫻湖さん。次の散文詩は倉田良成さんの「三叉路」。倉田さんの散文詩も最初の書き出しの行頭が1文字下げで、あとは行替え無しで一気に最終行まで突き進む。こちらは、自分が見知った中華街の雑踏のなかの、三叉路までの意識を飛ばして行く歩行。現実にその場所を歩いているわけではなく意識が流動する。三叉路を中心に巡る意識。戻れない現実の自分の恐怖が最後に現れる。この2つの散文詩のおもしろさは、経験のない想像の地への意識のめぐらし方、経験して知っている地への意識の流れ。最後には、「ここ」へ意識を戻して来なくてはならないのですが、後者の方が難しいのです。

?まどえふ第20号(札幌市・水出みどり)14ページ。女性六人の詩誌。巻頭作品は、橋場仁奈さんの「ぼうし」。面白い作品なのだけれども行間と文字間が空きすぎていて、とても読みづらいと感じる。行わけ詩だとあまり気にならないが、散文詩だと間延びして、文字が飛び散っていく。

★逃げていく2月に届いた雑誌・詩集・DVD・・・書名のみですが、いずれまた。
ほかにもまだ届いていると思いますが、逃げていく2月も明日で終わります。机の周囲にある本を紹介します。紹介だけですみません。ブログの機能が低下しているので、facebookへ画像は挙げます。

●詩誌:
折々の no.28(広島市 松尾静明・300円)14人の同人中、男性が2名。全員が行分けの詩を書く。後半に「連弾」という小文のページがある。松尾静明さんが、詩人が書いた短冊について書かれている。

花 第56号(中野区 菊田守・700円)43人の同人という大所帯。白い表紙に「花」の文字のシンプルさ。一段組と二段組を用いて後書きまでまで76ページ。エッセイ、書評は3段組でポイントを下げていて読みずらく感じる。


●DVD『反歌・急行東歌篇』(出演 藤井貞和・監督 武村正人)前半に詩人・和合氏の3・11にまつわるツイート詩集を批判する人々を批判する部分に全体の調和として、違和感があった。和合氏の詩集について、野沢啓氏がブログで、最近になって書いていることがあって、こちらの文章の方に妥当性を感じた。

●秋野かよ子詩集『梟が鳴く(コールサック社)』未知の詩人で和歌山県和歌山市生まれの方の第2詩集。第5章まであり、140ページの大冊。
●東梅洋子詩集『うねり(コールサック社)』この方も未知の詩人です。岩手県大槌町生まれの詩人。2011年に詩集『うねり』を発行したのち連結詩『うねり』をこの3月11日に発行するに至ったということです。帯文が女優の吉行和子氏。弾き語りコンサートで朗読をしてくれたのが、であいのきっかけと、発行人の鈴木比佐雄氏の栞文にある。159ページの大冊。

●対訳歌曲詩集・山田兼士訳『ドビュッシー・ソング・ブック』

「詩と思想」3月号が届きました。特集は「書簡体の詩」。巻頭エッセイは、金子忠政さん、永方ゆかさん。3月号より読者投稿欄の選者を小川英晴さんと小島きみ子で担当します。どうぞ、よろしくお願いいたします。今号の投稿作品は2か月分ですので、167篇でした。投稿規定は、184Pにあります。
★さらに深い美を、「合唱」の扉を。
 言葉は、「物」そのものではありませんが、感情が対象の核心に接触するとき、言葉は物の輪郭を現象させて、物質化します。美は成熟してさらに深い、醜という美に変容するのです。詩は、その変容を鎮めて、再び文字に形を与えることです。言葉という物質が「合唱」するのです。「合唱だ、無力と欠乏とを鎮めるために(ランボー『地獄の季節』小林秀雄訳より引用) 」さらに深い美を、「合唱」の扉を開けていきましょう。

2月24日の希望 - ポイエーシス

佐久市野沢会館1階にある、「ハート・カフェ」で10時半より「小島きみ子・詩の朗読会」。いつもは、日曜日はクローズなのですが、きょうは特別にオープンしていただいて、満席のお客様が来てくれました。ゲストの朗読のあと、小島きみ子詩集『その人の唇を襲った火は」より10篇を朗読して、12時10分までで終了。1時10分まで昼食を挟んで歓談。帰りのバスの時間もあるので、それぞれの家路へ。高速バスを使って長野より120キロの旅をして、来てくださったAさんありがとう。朝方、吹雪のなかを来てくださったSさん、ありがとう。きょうは、長野県詩人協会のメンバー、現代詩研究会のメンバー、佐久市短詩型文学祭で知り合った人々、佐久・小諸市民新聞を見てきてくださった方、旧職場の同僚のみなさん、どうもありがとう。楽しんでもらえて、とても嬉しかったです。夏ごろ、また開催しますので、よろしくね!!!

きょうは、第8回佐久市短詩型文学祭でした。現代詩・短歌・俳句・川柳の部門ごとの入選者との座談会が午前中。「現代詩」という名称がとても気になるのですが、「中原中也のソネツト」について1時間のレクチュア。午後は、小中学生部門の入選者の朗読と賞状授与。一般の人々は、人数が多いので名前の紹介だけです。写真は、2年前のものです。記念講演は信州大学の西一夫教授による「万葉集のナゾ」でした。疲れましたねえ、、、、。

氷点下10度。冷え込みました。晴れ。日中はどのくらい上昇するでしょうか。よい、日曜日でありますように。
*先日、私の著書の表紙画を描いてくださった、滋賀県在住の若き画家・宮原勇作さんの紹介をしました。エツセイ集の絵はモノクロですがブルーブラックのようなブルーにしてあります。2005年に発行した、エウメニデス第2期の25号の表紙画も描いてくださっています。自立と気品にあふれた女性の横顔です。彼のますますの活躍を期待しています。facebookのフレンドにもなりました。facebookの楽しいところです。
*詩誌「エウメニデス」?.25号より。

暁のそらから、           小島きみ子
暁のそらから、ほら、紅薔薇が降ってくる。
あれは小鳥。
はげしいユニゾンの囀り。
牛乳配達の少年よりもはやい朝の、
紅薔薇の茂みの、はばたき。
すずやかなかぜのこえみちて。
小鳥の羽に集まる薔薇いろのひかり。
暁の門を飛び越えて。
どこへ。
((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((((
((((((((この世界の暁のことは紅薔薇だけが知っている)))))))))
)))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))))
べつの小鳥だね。
えいえんのひかり、さし招き。
ほら、……また。
あの茂みで、あたらしい命が生まれる、

2月15日大雪。 - ポイエーシス

気温0度。雪が舞ってきました。大急ぎでゴミだし終了。お洗濯をして、出かけます。市民新聞が、24日の朗読会の取材をしてくれます。
外出先から帰宅しました。雪が、この冬(立春すぎましたが)一番の積雪。もう10センチを超えています。道路から、家に入るのも一苦労。車を降りると、足が雪の中にスッポリ入ってしまいました。休憩したら、雪かき、雪かき。
積雪25センチ。雪かき、ひとまず中止。まだまだ降りやまぬ。路地裏の道路に除雪車がくるのは、夜明けとかだと思う。子どもたちの下校が始まる。母親が家に居ればお迎え。そうでない子はたいへんだろうな。見守り隊は交差点にしか居ないし。「学童保育」があった。こういう日は助かると思う。

ドストエフスキー - ポイエーシス

「ドストエフスキー」を読もうという気持ちは以前からあった。『罪と罰』を中学生の時に読んで、旺文社の「読書感想文コンクール」に応募して、入選の「盾」を貰ったという思い出がある。その後、カラーマーゾフの兄弟は何度も挑戦している。けれども三冊もあって、本は購入してあるけれども二冊しか読んでいない。雑誌『現代思想』の2010年4月臨時増刊号『ドストエフスキー』を2年前に買った、そのときは、残業の多い「労働」に追われて読み通すことができなかった。興味を持って読んだのは、清水正氏の「『罪と罰』の深層舞台 批評の醍醐味はテキストの解体と再構築にこそある」という184P.からの論考だった。

市民が安定した生活を得るためには、「労働」によって賃金を得ることが必要。なのに、昨年の1年間は社会での雇用関係を離れて、農耕と生活にいそしんだ。理由は、過酷な労働に「疲れた」のだ。それで、家を占拠していた不要な雑誌をどれだけ棄てたかことか。記憶にないくらい棄てた。棄てた雑誌と同等の量が、また増えた。そんな中で、もちろん棄てずに残した雑誌の1冊だった。心がけていることは、家に溢れて片づけられない印刷物を山積みしないために、できるだけ市立図書館とアマゾンのユーズド本を利用していくつもり。いま、市立図書館から借りてきているのは、J.M.マリ著・山室静訳「ドストエフスキー」。大江健三郎・後藤明生・吉本隆明・埴谷雄高著の「現代のドストエフスキー」で、これらと一緒にこの雑誌も読んでいく。
そのようなわけで、吉岡忍の「ドストエフスキーが小説家になったとき」から読み始めている。『死の家』からの引用の2行が印象深い。「わがロシアではどれほどの力と才能が、ときにはほとんど日の目を見ずに、自由のない苦しい運命の中にむなしく消えていくことであろう!」とドストエフスキーは獄中で気づいたとき、描くべきテーマを持ったドストエフスキーになった。
そうか、『死の家』か、読もう。このごろの考えるのは、「自由」とは、「人権の尊重があっての自由」と思う。憲法というものが、どれだけ国民の「自由」を守ることができているか。「暮らしと命」という基本的な人権は、住むところがあって、働く場所があって、健康と安全が守られる食事ができて、寒さや暑さを凌ぐ衣服を纏えること。最低の生活が保障されて、税金や年金を収めて、路頭に迷わない老後を確保できる。と思うのですが、どうなのか。原発事故によって、「即時に健康被害はない」という放射能が降っている現実。年金受給年齢は65歳ですが、その年齢までの「収入がない」という現実。希望の持てない暗い現実ばかりです。国民の不満の根は、「不安」なのだと思う。文学を志す者にとって、この「不安」に言葉と文字で、挑戦していくことができるだろうか。
吉岡忍の文章は、かれ自身の政治的な活動による逮捕、留置場経験から「下着に縫い付けてあるタグの「綿100%」などという文字ひとつでさえ、そこでは新鮮に感じられた」と述べているのです。「文字」が文学を志す者へ与える、勇気と希望とは、そういうことなのだなと思いました。文字を渇望すること。詩の希望というものもまた、言葉を渇望することだという思いに到ったのだった。

2月12日の希望。 - ポイエーシス


★「エッダ」「サガ」の書かれた時代は、年代からいえば中世に属するが、キリスト教伝播以前のより古い精神を示して、北欧では古代文学とすべきものだった。「トリスタンとイソルデ(北欧ではイソンデ)」などの騎士物語が流入したのは13世紀半ば。北欧人は、ゲルマン民族中のいわゆるノルマンである。彼らが占拠したのが、スカンジナヴィアとユトランドの2半島やその周辺。古代北欧文学は、「エッダ」と「サガ」で代表される。その世界が、古代ゲルマン的な異教世界であって、キリスト教の影響は殆ど感じられない。(山室静:北欧文学の世界)

★鼻顔稲荷の初午祭に行って来ました。日中は混むので、午前中に出かけたのですが、さむーい。ので、大船渡復興支援の「サンマつみれ汁・100円」のところで休憩。サンマのつみれ、おいしーい!古いダルマを供養していただくように湯川の河川敷に置いてきました。夕方、一斉に火が放たれて燃やします。参拝土産の福飴と鼻顔稲荷ずし、たこ焼きなどを買って帰ってきました。午後は、お日様がでてきて、どんどん人が混んできました。
★このブログをお読みいただいている皆様にとっても、たくさん「福」がきますように、お祈り申し上げます。初午祭の「福飴」。初午祭の日だけに売られる縁起物です。ピンクとブルーでかわいい子どもの顔の福飴と、ぶっかき飴、味噌バター飴。なつかしい「カルメラ」なども「飴屋」で売られます。

★カルメラとは。*宮澤賢治の『水仙月の四日』にカリメラ=カルメラのことが出てきます。
「ひとりの子供が、赤い毛布(けっと)にくるまって、しきりにカリメラのことを考えながら、大きな象の頭のかたちをした、雪丘(ゆきおか)の裾(すそ)を、せかせかうちの方へ急いで居りました。 (そら、新聞紙(しんぶんがみ)を尖(とが)ったかたちに巻いて、ふうふうと吹(ふ)くと、炭からまるで青火が燃える。ぼくはカリメラ鍋(なべ)に赤砂糖を一つまみ入れて、それからザラメを一つまみ入れる。水をたして、あとはくつくつくつと煮(に)るんだ。)ほんとうにもう一生けん命、こどもはカリメラのことを考えながらうちの方へ急いでいました。宮沢賢治『水仙月の四日』

2月10日の希望。 - ポイエーシス

★私の2月24日の朗読会では、2011年発行の「その人の唇を襲った火は(洪水企画)」を全篇朗読します。私の詩集の詩の特徴は、前半にダイアローグが多いので、会話の部分を若い詩友の塩塚加奈子さんに手伝っていただきます。「JESUS LOVES ME」では、彼女は、私の部下の「K」であり、女友達の詩人「エミリア」であり、カソリックの男友達の「ポール」の声に変身する。彼女は職業を持っているので、休日であるきょうの午後から打ち合わせをして、先ほど終了。練習してみて、あまりのおもしろさに「びっくり」と自画自賛でした。他にも手伝ってくれる人が二人いるので、なんとかなりそう。この詩集の17P.グラツィア(優美)は重要な内容で、ポールの言葉で語るのです。
★吉原幸子さんの散文集『人形嫌い(1976年・思潮社)』を読んでいる。おもしろいなあ。後半に平仮名の「う」に点がついた、キーボードでは打てない『「うえが祭り」始末記』というのがある。カタカナの「ウ」に点だと「ヴ」なのだが。この同人である、女性8人のメンバーからの、アンケート葉書とその解答が、すてきで楽しい。
★見守っていると、見守られているのかもしれない。成長して咲こうとする意志。そしてまた、枯れて、芽を出して、咲こうとする意志を繰り返す。
♪「100年初恋 シクラメン」 http://www.youtube.com/watch?v=g6pAZ-0KVFk

2月9日の希望。 - ポイエーシス

★きょうは、暦の上では初めての「初午」です。近くに「鼻面稲荷神社」があります。初午祭があるはずなのですが、祭りは2月11日に行われます。・・・楽しみです。
★初午祭とは。
初午祭とは、2月最初の午の日に行う稲荷神社の祭礼をいいます。稲荷神社は全国各地にありますが、京都伏見の稲荷神社が総本社となっています。京都伏見の稲荷神社には、和銅4年(711年)の2月の初めの午の日にここの祭神が、降臨(こうりん)されたと伝えられ、平安時代から初午参拝でにぎわいをみせ、参拝者が、稲荷山の杉の小枝を折って帰るという、いわゆる「しるしの杉」と呼ばれる風習がありました。
★鼻面稲荷神社とは。
400余年前の永禄年間に、京都の伏見稲荷から勧請されて創建された。湯川の断崖に朱塗りの柱で支えられた空中楼閣の社殿は、京都清水寺と同じ懸崖造り。毎年2月11日は、初午祭としてダルマ市や露店が建ち並び、県内外から参拝者で賑わいます。

                          ●

2月8日の希望。 - ポイエーシス

★午前中は内科医院へ薬を取りに行って終わってしまった。午後は、文学祭のレジュメを整えて、印刷して終わり。朗読の練習の初め。これが時間がかかる。あとは、朗読会の看板を書いたり、なんでも自分でやるということで、マス目模造紙に筆ペンで会場入り口とカフェ入り口の看板を書く。3分で書けてしまった。ペンや模造紙を買いに行く、というのに時間がかかる。なんでもそうだが、材料がそろっていると、あとは簡単なのである。

★詩作品の原稿依頼が2件あったので、それようの作品にとりかかる。これは、なんとかなる。
あとは、難しい依頼が1件。猛勉強をしなくてはならないが、今は、文学祭のことと、朗読会のことで、いつぱいだな。「ドライフラワー作品展示」がかぶっているのが大変なのだ。作品搬入がどのくらいの時間で完了するかだな。ドライフラワーは未知の世界。華道師範教授免許は取得してあるが、華道の規範を超えて「アート」であるのは、どうだろう。美術の人に「えー!?アートやるの?」って言われてしまった。昨日、新聞社のイベント情報担当に、「どうやって書けばいいですか?」と訊かれたので「朗読会って書いて」と言ってしまったので。そんなわけで、薔薇のオブジェを壊れないように持っていく梱包の方法を考え中。

2月7日の希望。 - ポイエーシス

★気温氷点下3度。晴れ。積雪8センチ。パウダースノウは軽い。庭の雪かき終了。昨晩、投稿原稿の選考と選評が完成したので、郵便局経由で図書館へ。参考文献を整える作業。
★シェイクスピアの『マクベス(福田恒存訳)新潮文庫』を読み直し。ハムレットとの比較。詩の雑誌「エウメニデス」の誌名由来の魔女の台詞「きれいは穢い。穢いはきれい。さあ飛んで行こう、霧のなか、汚れた空をかいくぐり。」も第1幕第1場に出てくる。
★詩誌「エウメニデス」誌名由来: 古代ギリシャの悲劇詩人アイスキュロスの『恵みの女神たち』にコロス(合唱団)として登場するエリニウス(復讐の女神たち)のことであり、劇の終りに変容してエウメニデス(恵みの女神たち)になる。 詩を形づくる言葉のみに限らず、われわれが日常に発する言葉のひとつひとつでさえも、復讐する女神としての側面と恵みの女神としての側面とを合せ持ち、人間はみずから発する言葉に復讐されたり生かされたりする。 ……きれいは汚い、汚いはきれい……という、シェイクスピアのあの有名な魔女たちの背理に満ちた台詞にも呼応すると思うのだが、このような言葉の持つ毒と薬とをあわせて意識に置くために「エウメニデス」を誌名とした。http://eumenides.sakura.ne.jp/eu/

2月6日の希望。 - ポイエーシス

★投稿原稿96篇を選考して、選評を書き終わる。2月3日の夜から、3日半。前回は、「死」を書いている人が多かった。今回は、恋愛の苦悩を書いている人が多い。恋する男女は、沈黙する。と、言ったのは亀井勝一郎であった。この人の本、なんだったかな。中学生のころ、よく読んだな。教科書にも文章が載っていたような気がする。「書く」という仕事が、たまっている。
★朗読会のことを考えながら、「ドライフラワー」作品を考える。植物と、言葉と、文字と、人間の感覚のことを考える。露草の押し花が綺麗にできたので、これを使いたい。「感覚」と「感受性」が文字を呼び寄せるといいと思っている。

2月5日の希望 - ポイエーシス

 気温0度。晴れ。夜中の風が止んで、清々しい朝です。春めいて、嬉しい火曜日です。少し忙しくなってきました。日本の国の危機的状況についての情報も知るにつれて、本気で文章を書いていきたいと思っています。原発の事故後、日本の自然環境は悪化するばかりです。環境と生命に与えた甚大な被害に対して、「即時に健康被害はない」というのは誤りです。  言葉への希望とは、今までの「ある」とはまったく違う「ある」を獲得することだと思っています。よい1日を。

先月は、2か月分で167篇だった。今月の原稿を昨晩11時半まで読む。午前中の仕事を終え、3回目を読む。自分の雑誌の編集にも取り掛かるので。と、いうよりも、23日の文学祭の現代詩部門のスピーチ原稿を整える。「中原中也と立原道造のソネット」を話そうと思う。この原稿の校正をして、エウメニデス44号に入れたい。詩も書かないと、、、。この2月は忙しい。

鈴木東海子詩集『草窓のかたち(思潮社)』について
「形の字」になっていくということ。

鈴木東海子さんの新詩集『草窓のかたち(思潮社)』の表紙画は、バーバラ・ヘップワース(イギリスの女性彫刻家)のスクリーン・プリント「オーキッド」。ヘップワースの彫刻を巡って、ロンドンからケント州のセント・アイヴイズへの旅であり、これと並行して小説の中の主人公の手紙なども出てくる。詩の中の物語が始まる「詩旅行」を楽しみたいと思う。入沢氏の栞文から引用すると、それに加えて、中世のチョーサー著すところの『カンタベリー物語』をなぞるようになされた、現代のカンタベリー巡礼であるのだ。ということ。作品中には、バーバラ・ヘッブワースの彫刻作品が次々と出てくる。作品はPC.でネット検索すると見ることができる。また、カンタベリー物語について、読んでいない読者は、(註)を参照してください。私は、一つの詩句に導かれて次々と現れる、物質としての言葉に大いに興味がある。入沢氏が帯文で言う「複数の次元」がなまなましく読者の現前に現象されてくる。「彫刻が現れる詩集」ということもできるだろう。
*(註)バーバラ・ヘッブワースは、イギリスの女性彫刻家。ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートに学び、そこではヘンリー・ムーアと同窓でした。人間の胴体を意味する「トルソ」と題されたこの作品も、金属で造られ、抽象的・構成的なかたちをしていますが、そこには生命感が満ちあふれ、人間のぬくもりさえ感じられます。(安達一樹「文化の森から・収蔵品紹介」讀賣新聞一九九〇年六月十三日掲載より引用)
*(註)『カンタベリー物語;The Canterbury Tales』とは、十四世紀にイングランドの詩人ジェフリー・チョーサーによって書かれた物語集である。当時の教会用語であったラテン語、当時イングランドの支配 者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中英語で物語を書いた。(引用wiki)

 鈴木東海子さん自身が、彫刻の制作をされていたので、それで、九十年代には列車を乗り継いでカンタベリーに行ったということだ。バーバラ・ヘッブワースの彫刻と、「カンタベリー物語」を歩く旅が、詩の中で始まるのです。ワクワクしますね。いったい幾つの物語が詩篇のなかに出てくるのでしょうか。それでは、詩のページを開いてゆきましょう。 作品は、「みどりの序章」から始まって、「窓の第1章」、「窓の第2章」、「窓の第3章」、「窓の第4章」、「草窓の結章」までの作品数は二一篇、これに続いてプロフィールや註も作品世界に深く浸ることができるもので、おもしろい構成。この詩物語のなかへ、カンタベリー物語を歩ませながら、鈴木さんの歩行を「草兎」の目で楽しんでいくことになる。
1 
「みどりの序章」
アヴヵ丸で過ごす薄暗いロンドン生活から、彫刻家の手紙を読み解いていく。小さな文字で真っ黒に塗りつぶされているようなノートを開けて。みどりの藻の匂いがする苦い液体を飲んで。ここに出てくる書名は『アラビアのロレンス』。懐かしいですね。トーマス・エドワード・ロレンスの自伝『知恵の七柱』からロバート・ボルトが脚色し、「戦場にかける橋」のデイヴィッド・リーンが監督した七〇ミリスペクタクルです。この序章には、こんなふうに書かれています。『アラビアのロレンス』は毎週一万冊も印刷されて読者の目に届きます。吐く息も揺れて眠りの髪まで揺れて爪に力が入ります。〈草のみどり、ポプラのみどり、月桂樹のみどり、エメラルドのみどり〉と詩人が牧歌的に歌っている。この序章の後半で、詩人は眼差しの方向をこんなふうに書きます。〈視ているものを。〉〈遠くのものを。〉この眼差しの歩行を探っていきます。
 ロンドン大橋を渡りきると「サザーク大聖堂の時計が見える」。サザークはカンタベリー巡礼のロンドンの地名で宿屋タバルトから出発する。《うずくまる人のようで《人であるが人であることなく《人形であるが人形であることなく・・・ヘップワースの「一つのかたち」が立っています。火力発電所であった吹き抜け空間をもつ美術館のスロープ。そして、「風景の成長のなかでこえるのだ」
「穴のある形(1931)」、そもそもこれがヘッブワースの」彫刻の作品タイトルなのだとわかると、この詩集の読み方がわかってくる。「三つの形(1935)」。これらの作品を通過して、街の真中のヒースに踏み込んでゆくと、子どもの影が喋りだす。《ぼくはここで/草兎になるよ。ヘップワースの作品「三つの形」のなかから生まれた卵。卵から生まれた子どもが、草兎になる。草色になって隠れているから「草兎」。「穴のある形」の抽象から、兎の足で蹴られた具象。「トルソ? ワイルドの背中」とあるように、オスカーワイルドの家は不在で、旅の人とすれ違う。さっき、すれ違ったの「トルソ?.ユリシリーズ」から抜け出した男のようだ。「ぼく」が再び詩人に語りかける。《ぼくに/血をかけて。/もう一度。もういちど。ここまでが作品の場所を尋ね、作品と出会い「ぼく」に出会う、「みどりの序章」だった。なんて魅惑的な「草兎」と「ぼく」だったろうか。

2.
「窓の第一章」
骨董市の路上に並べられていた古い絵から始まる。絵からの手紙。「朝食のテーブル」絵と、東の国の詩人の言葉。ここにあるリンゴの絵と窓の外に飛び出した詩人。「草の形見函」。この詩はかなり長い。〈干し草山殺人事件〉十月の土曜日の骨董市から始まる。沈み彫りの文体で小説をかくつもりだった、という「沈み彫り」とは何か。そして、セント・アイヴスへ。ヘッブワーズ美術館へ。1968年と1934年の彫刻作品を詩で見ながら通過する。バリー列車に乗って野兎の丘へ。〈草の駅〉〈鐘の駅〉〈橋の駅〉そして大西洋を飛び越える。

3.
「窓の第二章」から一気に「草窓の結章」へ
お兄様(=ベン・ニコルソン)にあてた手紙のあたりから散文詩風なスタイルになるとともに、この詩旅行は最終段階へと向かう。ようやく詩集のなかの複数の次元から浮き上がってくる。レリーフのような物質がはっきりと心に描かれてくる。言葉でその輪郭が現象される。「見えて」くる。詩篇「形・断章」の後半に「水の眠りのように。細かく細かく細かい字に。/形の字になって。」のように、ここに現れてくる。「音信の庭」でそれはますますはっきりとした詩人の思いと、ヘッブワースの彫刻を刻んだ指が触れあっていく。花が声を出し、感情が色になって、指をつつむ、その先に立つ「煙」。記憶の煙景として。セント・アイヴスの彫刻家のアトリエの庭で。そしてさらに、「犬のいる場所=カンタベリー街道」で中世の笛吹き男と灰色の犬を見る。「朗読の人」のなかでは、シルビア・プラスの「親切」が吉原幸子訳で書かれる。さまざまな次元の朗読の「声」が高揚して、沈黙へ歩行する。「野を歩く女達は/母であったかもしれない/少女であったかもしれない/沈黙することは/全部であったかもしれない/朗読するように/歩くのであった。「水分」を」最終章詩篇は「海のかたち」=ボーツミア海岸へと続く。「海の形(1958)」の彫刻作品のうえに詩人の「海のかたち」が被さっていく。《待っているよ。/めぐっているね。/くずれてしまいやすい砂の/くたれてしまいやすい草の/青いくぼみに形の重みもゆだねて/草の眼に虹がかかる。

倉田良成詩集『横浜エスキス(ワーズアウト刊)』について
倉田良成の「幻想的体験」詩集。

昨年の夏に発行された『グラベア樹林篇』は、おもしろかった。そのことは、夏に書いたので、その前の『小倉風体抄(ミッドナイトプレス)』についても少し書こうと思う。そうでないと、この詩人について理解することができないように思う。この詩集が、昨年の夏に届けられたときは感想を書いている時間がなかったからだ。今年の正月に再読。詩集で扱われる小倉百人一首は、三五篇、こうして読んでみると全部知っていた。十四ページに「龍田の川の」がある。『永承四年内裏歌合によめる  あらし吹三室の山のもみぢばゝ龍田の川のにしきなりけり  能因法師』これが、冒頭にあり、散文詩が一文字空けで行替え無しで三三行続く。初めの一行は「その秋、彼女と私は都内で唯一残る路面電車に乗って休日を過ごす計画を立て、まず深い青空にさらされてある早稲田の乗車場から二両連結の小さな電車に乗り込んだ。」で始まり最終行は「わたしたちはいったいどこへ還るべきなのか。筑波まで行く、ユリカモメよ。」で終わるという具合なのだ。このように、この詩集のスタイルは、まず冒頭に小倉百人一首の歌を引く。そのあとを、散文で現代の倉田良成の分身が、歌の中を歌とは関係なく「旅」をする。時空を超えた詩情漲る魂の浮遊、とでも呼べばいいだろう。ロマンチックで、残酷で、悲しくて、最後にはこんなさびしい人間の生命自体を愛おしく思う、そんな終わり方になっている。寂しさや悲しみ、苦しみや痛み、その哀れな人間の姿の滅びていくさまと、「はかなさ」という花の花びらを一枚一枚剥がして、詩という紙の上に文字起こししてゆく。というのが、倉田良成のスタイルのような気がする。これは、「魂の浮遊」を扱った詩的な体験記録なのだろう。「詩的な」という意味は倉田にとっては「幻想的な=夢遊病的な」体験であり、よく言われる「非現実的な=現実」を意味する。だからこの幻想的体験は「詩」なのだと思う。
さて。「横浜エスキス」の表紙は群青の海。詩人が暮らす横浜沿岸の暮らしが語られているかと思えば、登場人物は日本人だけれども特定できない外国の情景が浮かび上がってきたりもする。作品は巻頭の「水の女」のトリニダード・トバコからやってきた男のパフォーマンスの音楽について「無窮動なリズムのうちに、悦ばしいような悲しいような、無限の明るさの中で涙が出る」に始まって「青空で鳴らされる鐘」まで、三四篇。「青空で鳴らされる鐘」だけが自作詩のみで引用詩はない。あとは全作品が見開き一ページ内に収まるという構成。右の半ページで詩論詩風な詩を書き、左の半ページで引用作品を載せる。これを「詩」というには強引かもしれないが「詩論詩」と呼べば右のページの散文は詩としての抒情を滾らせている。「詩」へ向かう、「詩」を想いだす、「詩」が立ち上がる、その瞬間の神の美技(みわざ)がある。自己脱出の寸前の気配、手繰り寄せる糸が血流になるとき、そんな詩的世界の時空がここにはある。読者は限りない純粋な抒情を受け取る。掌と指になじむ冊子の紙という物質が急にそこに存在する人間の影となって支えきれなくなる。夜には湿気を帯びてくるペーパーバックスの柔らかな紙が、まるで詩篇のなかの人々の吐息のように悲しみの涙のように、しっとりと落ちてくるのだ。「本牧へ」では「われわれ」と「わたし」を登場させ、船の職場で「わたし」がパイプの詰まりを修理してみせる。そこで見る、冷たい宝石のような笑顔。「嵐は数えることをしないが/運命は一瞬の光でおまえたちを数える/待ち遠しいぞ 世界の終りが/(省略)」と鮎川信夫「戦友」を引用する。この左半分にある散文と引用詩を繋ぐ物質は、「運命は一瞬の光でおまえたちを数える」の「光」を連想させる「冷たい宝石のような笑顔」だ。連想と連想を繋ぐときに現れる言葉の物質の「核心」が、群青色の海の色とともに立ち上がる、倉田良成の「横浜エスキス」だった。

第88回「詩客」自由詩時評へ「冬の詩集」を書きました。お読みいただければ嬉しいです。
★現代詩手手帖2月号。特集は「吉原幸子の世界 没後10年」。柴田千晶さんと宮尾節子さんの文章を読み終えた。「ラ・メール」という雑誌が当時の女性詩人たちを育てた、その現在に至るまでの影響などを思った。吉原幸子さんの詩を初めて読んだのは、「ああ こんなよる たってゐるのね 木」だった。独りで暮らしていたころの夜だった。
★芸術新潮2月号。特集は「小林秀雄 美を見つめ続けた巨人」。小林秀雄の写真が何枚も掲載されているが、そのたたずまいが美しいなあと思う。

2月のお知らせ - ポイエーシス

★2月24日(日)に長野県佐久市生涯学習センター1階の「ハートカフェ」で小島きみ子の「現代詩朗読会」を開くことになりました。同時にドライフラワーの作品展も開催します。新聞社へイベントのお知らせを記事にしてくれるように依頼に行ったり、チラシを作って発送したり、なかなか忙しい1週間でした。
★前日の2月23日は、同じ場所で「佐久市短詩型文学祭」が開催されます。文学祭会場は2階会議室で、現代詩、短歌、俳句、川柳に分かれて座談会。午後は講演会。それぞれの部門の選者と主催者との座談会です。。

本気体という文体 - ポイエーシス

冬の朝の空が明るくまぶしいので。
もう、世間体などというものを捨てなくてはならないだろうと思う。
★この年になると、 いやでも本気のことを言っちまいますよ。 嘘をつくなんて、とてもめんどうくさくて。     アルベール・カミュ『ペスト』

きょうの月を見に庭へ出たら、綺麗だった。たくさんの星が輝いていて、あまりに静かで、かなしくなった。

★堀内敬三訳詞・ヘイス作曲

木枯らしとだえて
さゆる空より
地上に降りしく
奇(くす)しき光よ
ものみないこえる
しじまの中に
きらめき揺れつつ
星座はめぐる

ほのぼの明かりて
流るる銀河
オリオン舞い立ち
スバルはさざめく
無窮(むきゅう)をゆびさす
北斗の針と
きらめき揺れつつ
星座はめぐる

●3月の「詩客」詩時評は、同人雑誌を中心に書こうと思っているので、送付されてきた同人誌はできる限り、目を通してメモを残している。こうして、詩集や雑誌のことは「詩客」へ書いてきたが、年齢の高い人々の仕事を若い詩人たちに知らせたいと思うのだが、逆に年齢の高い人々は私の記事をまったく読んでいないという淋しい現象がおきている。その人々は、紙に出さないと駄目なので、これらをエウメニデスにまとめるしかないか、と思う。エウメニデスも発行部数を減らしているので、雑誌への返礼と、購入希望者分の紙版印刷となる。以前のようにお送りはできないので、あしからず。

 ●読書計画が、ようやく進みだした。「日本人と宗教」というようなところに興味が集中しているので、それに触れてくる書物を読んで、考えをまとめて行こうと思う。「空海」と「マンダラ」をたんきゅうしつつ、ユダヤ教についても考えを広めていきたたい。密教は難しいと、書いてある本を読み始めた。昨日から要約をメモしているが、ちくま学芸文庫とちくま文庫の2冊を月末までに読破する。2冊で600P.になるけれども、内容が難しいので手ごわい。仏教のことも全集18巻のうち、興味のある唯識についての3冊を読んだに過ぎない。が、準備をしつつ、進めていかないと理解する能力と、読むという体力が失せていく気がしている。

●氷点下2度。晴れ。まぶしい太陽の日差しがでてきました。きょうは、長野県詩人協会の役員会議。1時間の高速バスの旅です。すでに、メール便が届いている。雑誌3冊と、リーフレツト。帰宅したら読む。
●長野県庁行きの高速バスに乗って、長野駅前で下車。駅前のブックカフェでお昼ごはん。ふわふわたまごのオムレツとドリンクのセット。夕方まで、今年のイベント事業について会議。帰りは、バスが無いので長野新幹線で3駅。駅構内でアツアツの信州そばを食べる人たち。長野県詩人協会の10月のイベントは、日本現代詩人会との共催によるゼミナールです。信州へ来てくださいね。
●病んでいるのかと、とても心配していた若い詩人は、健康そうなので安心した。女性だと思っていた人は男性だった。きょう、女性用トイレに駆け込んできて「なんだよう」って言った人は男性だった。・・・読書に戻ろう。よい夜を。

これから読む本 - ポイエーシス

?橋爪大三郎著『世界がわかる宗教社会学入門(ちくま文庫)』・・・308P宗教社会学とはなにか。
マックスウェーバーの宗教社会学。プロテスタント.に特有の「禁欲」の考え方が、資本主義経済の成立に不可欠だったという驚くべき認識を示した。欲望を否定したことによって、反対に利潤追求を目的とする資本主義が生まれた。宗教はその国の社会構造。「神道は宗教でない」のアイデアを考えたのは、東大哲学科の井上哲次郎。これにより、キリスト教徒にも仏教徒にも天皇崇拝を強要できることになった。軍人勅諭も教育勅語も可能になり、国家全体が宗教化、兵営化する可能性が整った。つまり、大東亜戦争の可能性ができたのです。江戸時代までは、日本人は神仏混淆でした。神道が宗教になったのは、戦争に負けてGHQが日本に命令したからです。憲法にも政教分離の原則がうたわれた。日本人が宗教を軽蔑しているのは江戸幕府の政策のせいであった。僧侶を堕落させた。明治政府は、檀家制度を温存する一方神道を強要した。
地球交際会議におけるstewardship(管理責任)・・・神が世界を創造したあと、その管理を人間に任せたという聖書の記事が背景にある。人間が自由に自然を利用、改造していい、だから責任もあるという考え方。ここから品種改良や、捕鯨禁止、生物の多様性保護という考え方がでてくる。日本人は、人間も自然の一部と考えるので、ヨーロッパの人々とは考え方が違う。

エホバとは、being(ありてあるもの)。アッラー(神)という普通名詞で名前ではない。キリスト教=我らの父。*この3つ神は同一人物。◎エホバ=アッラー=父なる神
キリスト教は、イスラム教、ユダヤ教との比較で考える宗教。
神の国は、生きた人間の行くところで、神も生きている。死んでしまった人間は復活して、最後の審判を受けて、神を許しを受けたものだけが神の国に入る。これがキリスト教の死生観。
日本の神は死者の神。日本人は神々の祖先。日本の神々は自然と、日本人を「産み」ました。一方、一神教の神々は、宇宙と人間をつくりました。神の命令で人間は死ぬのですが、アツラーもヤハゥエも生きています。


?正木晃著『密教』ちくま学芸文庫・301P・・・・興味があるから買ったのだが、著者が「密教はむずかしい」と、初めに書いている煮で、かなりむずかしいらしい。密教はすべてを統合しようとする。仏教を精神や心と呼ばれる領域に閉じ込めず、霊肉一如の理論を主張する。身体性と精神性を不可分の関係にあるととらえ、修行や儀礼においては身体の領域から働きかけて、精神の領域の変革を試みようとする。真理を伝えるときも文字だけによらず、マンダラなどの視覚表現を用いる。象徴をしきりと用いて儀礼をとおして真理を獲得しようとする。音声にも特別な意味を見出し、神秘的な呪文を駆使する。おまけに梵字や読むのも困難な漢字熟語が頻出する。と、まあ。たいへんに難しいので、こころしてはいれ、ということであるらしい。●「密教の定義」・・・密教とは、インド大乗仏教の最終段階において展開された神秘主義的、象徴主義的、儀礼主義的な傾向の強い仏教である。また、密教には、性行為を導入したヨーガ:性瑜伽ならびに血、骨、皮、の儀礼を必須要素とするタイプとそうでないタイプがあり、前者をタントリズムと呼ぶ。日本の密教は、性的要素を含まない。チベツト、ネパールにおいても性的ヨーガはもはや実践されない。

?バルガス=リョサ著『密林の語り部』岩波文庫・359P.・・・2010年、バルガス=リョサは、ノーベル文学賞を74歳で受賞した。ユダヤ人であった民俗学の一人の学徒のアマゾンを守る闘いをテーマにした。主人公が選んだのは、未開の部族に自己を同化させるという、いわば文明から野蛮への旋回だった。この物語の魅力は、平穏で明日を約束日常から脱却し、激しく理想を求めて殉教に突き進んでいく、そういう狂気である。

?松岡和子著『「もの」で読む入門シェイクスピア』ちくま文庫.270P・・・・おもしろい!これ、おもしろいです。すでに読んで知っている物語がさらにおもしろくなります。それに、どうしてかな、思っていたことも何故かわかります。最初は、ロミオとジュリエットのロミオのインクと紙です。著者が学生時代に疑問に思ったことが後年の劇作家としての翻訳で明らかになるというもの。ロミオとジュリエットを書くにあたり、アーサー・ブルック訳による、16世紀イタリアの物語を下敷きにしたことは知られている。作者はマテオ・バンデッロ。タイトルは「ロミウスとジュリエットの悲劇物語」。ロミウスとジュリエットでは、著者が疑問の「インクと紙」のこともしっかり書かれている。
 著者がシェイクスピアの「もの」に興味をひかれたきっかけは、1994年に上演された「ロミオとジュリエット」がきっかけだったという。演出で「無対象」という手法を使ったことだった。具体的な実際の小道具は使わず、ジェスチャーでやるという方法だった。表紙カヴァーのシェイクスピア、かわいいと思ったら安野光雅さんの絵だった。よく見たら解説文も安野さんでした。シェイクスピア劇に登場するさまざまな「もの」から、400年前に書かれた37作品の意図が克明に見えてくる。彩の国さいたま芸術劇場の蜷川幸雄演出による「シェイクピアシリーズ」の翻訳を一人で手掛けた著者ならではの、シェイクスピアの楽しみ方を紹介している。

?今野真二著『百年前の日本語(岩波新書最新刊)』・・・表紙の見返しもテキスト。「漱石が自筆原稿で用いた字体や言葉の中には、すでに日本語から「消えて」しまったものがある?」・・・・漱石の時代は原稿用紙に行頭の句読点があるのは普通で、現在のように行末に来るような配慮はされていない。自筆原稿も行頭に句点が来ている。手で書くように印刷されていること。小書きされた仮名については、「坊ちゃん」と書かれているが、当時はなるべく小書きで、ぜひそうするわけではなかったということ。「イ」と「エ」の交替。室町期には、現代日本語「蛙」は、「カイル」という語形が存在していた。などなど、サッと読めておもしろかった。

 ある季刊雑誌の「新人 発表」を見たら、私より3歳年下の方の詩だった。今年のある雑誌の東京での新年会も新人賞の発表であった。昨年の新人賞の人に会場で会った。彼女は、私より2歳年上であった。今年の新人は、30代後半と思われる若い方で、詩も新鮮だった。いい詩だった。

 
★朗読会のDM.を考える。ハガキではなくチラシにする。
★DM.ができたので、ハート・カフェへ行こうと思ったら、あそこは週末はクローズ。なぜなら、近所の事務所の人々のカフェで週末は、依頼があればオープン。
★電話連絡する。Sさんはスタッフで手伝ってもらう。もちろん参加者で朗読もする。
★あわただしいので、S先生たちに電話する。あらー、きょうはスケート大会でした。寒冷地へ転勤したからな。お疲れさまです。ともだち、頭文字Sがおおいな。S子先生、S井先生、S塚さん。一人連絡つかない。彼女は重要な一人リカさん。B画伯にもぜひ、来て欲しいな。

★(新しくできたローソンは歩いて3分。郵便ポストも店内にありますから散歩がてらに、もう少ししたら、行こう。きょうは、風があります。帽子が必要です。と、朝は考えていたのですが、御本の感想を書いて、住所を書こうとしたら、現代詩手帳年鑑号にも日本現代詩人会の住所録にも載っていなかったので、出版社に電話して教えていただいた。そういうこともある。・・・行けないかもしれない。

「最後の親鸞」吉本隆明著
親鸞の「教行信証」に親鸞の思想が体系的にこめられているという考え方はなかなか信じ難い。「教行信証」は、内外の浄土門の経典から必要な抄出をやり、それに親鸞の注釈をくわえたものである。〈知識〉にとって最後の課題は、頂を極め、その頂に人々を誘って蒙をひらくことではない。そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地できればいい。どんな自力の計らいもすてよ。〈知〉よりも〈愚〉のほうが、〈善〉よりも〈悪〉のほうが弥陀の本願に近づきやすい、と説いた。愚者にとって愚はそれ自体であるが、知者にとって(愚)は近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。「未燈鈔」は親鸞の言葉をこう伝える。〈知〉にとって、〈無知〉と合一することは、最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無知〉の間に紙一重の〈無知〉を持っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念によって近づこうとする。

★佐々木賢二評論集「宮澤賢治の五輪峠 文語詩稿五十篇を読み解く(コールサック社)」・・・・後書きまで559P,のずしりと重い上製本。序文に「文語詩をとおして賢治が述べたかったことを探り、賢治の人生と向き合うことは、宮沢賢治とは何なのかとの謎に、すこしでも近づく手がかりとなるのではないかと思われます」とあります。50篇のうちの1は、病床で聞いた高麗太鼓の音「いたつきてゆめみなやみし、(冬なりき)だれとも知らず、」という重い象徴的な言葉から始まります。理想と現実の狭間で揺れ動く心を、内科医でもある著書が、落ち着いた静かな口調で読み解いてゆきます。


・・・それから、薔薇。夏薔薇。秋薔薇。冬薔薇。薔薇は、ほんとうにいろいろなことを教えてくれた。そして、違う形と違う香りで、こころにやってきては、去っていった。

大寒の夜。 - ポイエーシス

★星の王子さまのbotをフォローしたが、こころにしみるので、短詩を書いた。

かわいくて。 さびしい子どもで。 ときどき大人の腐敗を、 ヒイラギの剣で鋭く抉るのだ。 雪を掘ると、 ぱっちりした、 黒い瞳が現れて絶句するのだ。

創刊号。 - ポイエーシス

★川口晴美さんと紺野ともさんの「フロルベリチェリ社」からFurouru創刊号が届きました。定型封筒80円で送付できて美しさと聡明さが気持ちよく掌に乗る雑誌です。創刊おめでとう。
自分の作品を発表する場所として、仲間とお金を出し合って雑誌を発行するのですが、編集し、印刷所へ回し、製本された雑誌を、発送する。というここまでの経費を参加する人数で均等割りするわけです。雑誌+送料=経費 これをいかに安価に持っていくかが編集発行人の技術です。「フロル」創刊号、とても良い出来栄えです。二人の作品は、紺野ともさんが「環」、「NOJESS」、川口晴美さんが「こゆびの思いで」。二つ折の紙片は、あいさつ文と紺野さんの「現代詩赤文字系」という付録の文章。

★★詩の同人誌は、かなり遅れて届くものもあって、web公開の詩客の詩時評には間に合わないときが多い。それで、ほとんど詩集評になります。1月25日に公開されます。3人の詩人の詩集について書きました。
★★★「鹿首」3号が届きました。発行は昨年11月のようです。表紙も美しいです。

2012年のアルバム - ポイエーシス

★低温の日が続いて体力が落ちた。ようやく回復。
2012年の懐かしい写真が出てきたので、忘れないように整理した。
1、平林敏彦先生を励ます集い

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2、清水茂先生が描いてくださったプルーンの画(1号の大きさ、お手紙と)
*いろいろな資料のコピーも失くさないようにした。
3、親友にもらったオレンジ色の小鳥のブローチ
  黄薔薇のサシェとメッセージカードを作った。
  慣れてきて、1時間くらいで制作できるようになってきた。

選評原稿 - ポイエーシス

詩は、凝縮されたものだから、長い詩を読むと疲れると仰る方がいる。全体につまらない内容なのだろう。つまらない短い詩をたくさん読むのも疲れるという経験がないのだろう。と、ふと、思った。
短いものであろうと、長いものであろうと、言葉が対象とするその「物」の輪郭をいかに捉えて、紙の上に現象させているかということだ。人称とは、脱出した後、外側から輪郭を捉えなおすことで、詩はそこから生起する。

1月14日
「詩と思想」の新年会で、第21回「詩と思想新人賞」永方ゆかさんの贈呈式でした。相沢史郎氏、高良留美子氏、森田進氏の選評は、惜しくも受賞を逃した人たちにも、大いに参考になるものではなかっただろうか。懇親会では、久しぶりにお会いした詩人たちとお話しできて楽しかった。帰りの東京駅は、長野新幹線は15分遅れで無事に帰れました。信州佐久は、おそらく20センチの積雪。佐久平駅前は、雪かきがされていましたが、市内は車のハンドルがとられて大変でした。

1月15日
夕食の汁に酒粕の「粕汁」を作りました。体が温まります。信州佐久は、浅間おろしの風が寒いので日本酒は「辛口」です。雪の多い北信の長野市は温かいので「甘口」です。それで、造り酒屋も多いのですが、きょうは蓼科山の見える蓼科町にある大澤酒造の「酒粕」を使いました。濃厚です。具材は、大根、人参、白菜、下仁田ネギです。

★昨年から、何回も修正を施していた詩「仮面の湖」をようやく「まー、いいか」と思えるようになったので、2月初めの地元の朗読会で朗読することにしました。きょう、事務局へ郵送します。昨年、秋に行った北八ヶ岳の手前にある1800メートル付近の美しい湖。キャンプ場に隣接している人造湖ですが、このたたずまいは自然そのもので、心を奪われました。今、見ても、いいと思う。

★★?1月4日に、facebookで平井弘之さんとお話していて、「薔薇の精霊、不死身」という言葉が降りてきたのを思い出して制作したのがこちら。『薔薇の精霊、不死身』。この紅薔薇の蕾は、12月に雪が降ってくる日の前に摘んで、ドライフラワーにしたもの。葉っぱが、寒さでチョコレート色に変色していますが、葉裏は緑です。写真はfacebookにアップしてあります。

仮面の湖       小島きみ子

たゆたう湖の聖なる水鏡
剥がれ落ちる表層の上に付加される仮想の仮面をもって
変革していく「私」という人格の人称

空だけが知っている空
「私」は木に変身することだってできる
けれど、翻す光自身は
色彩言語の意味を知っているのだろうか
神はほんとうに「光、あれ」と言ったのだろうか
神もまた人のペルソナの下に
その仮面を隠したのではないのか
人とともに在るために

木を映す湖の冷ややかな水面には
空の青さも、雲のかたちも、私という「もの」の姿も
私が見ているように「彼ら」に見えているわけではなかったが
「彼ら」のなかに私は混ざっていたし
「私」は彼らのなかに溶けていた

忙しくなる。 - ポイエーシス

気温、6度上昇して3度。快晴。部屋に差し込む日差しが温かい。2時まで。さっき、待っていた原稿がきた。読みたいと思っていた本もきた。きのう、記事をアップしたばかりだったので、びっくり。忙しくなる。先に、原稿読み。では、午後も、がんばりましょう。

三年前の夏に書いたエッセイです。
どこにもアップできないので、facebookの「ノート」へ入れましたが、紛失しないためにメモしておきます。

遅れてやってきた時間の効果・雑誌「詩論」について

● きょうの休日は「海の日」です。海の無い信州でも「海の日」のおかげで三連休。週末は祇園でしたが、きょうはほんとうに静かです。梅雨があけて暑いですから、通りに人の声がしません。犬も鳴きません。もちろんネコだって暑くて散歩になんて出歩きません。朝から鳴いていたのは「鳥」。夕ぐれに四本の電線にビッシリとまって鳴いていたのは椋鳥。うるさい。うっとおしい。怖い。どかへ行ってー。と、思っていると、道路をはさんだ電線から移動してくる鳥の群れがある。けれども既に止まっている鳥は「あっちへ行け」という仕草。上の電線から、け落とされて、だんだん下へ落下してくる。それでも「あっち行け」の仕草で、列の最後尾にくっつく。なるほど。集団で何かをしたいわけではなく、「きょうね」「あのね」というぐらいのことらしい。隣会う二羽は仲良しで、この間へ割って入ろうとすると「あっちへ行け」と攻撃される。羽ばたく程度ですが、なかなかおもしろい。人間に対して鳴いているわけではなく、「鳥同士の話」らしい。
 しかし、うるさい。家で夕食のメニューなどを考えていると「ナニ?」と思う。人も通らない静かな通りですから、「あの騒ぎは、ナ、ナニ?」と思う。
● 表に出ると、きょうの午後郵便受けに入っていたメール便があった。一つは先日出会った石垣島の詩人からで六月三十日に発行になったばかりの詩集だった。「八重洋一郎詩集  白い声(澪漂)」を一気に読んで、電線に止まっている恐ろしげな鳥の声を聞きながら、葉書をポストへ出しに行った。
● メール便はもう一つあって、鳥の声を聞きながら没頭する。 一九九四年に終刊となった「詩論」という雑誌を読んでいた。山田兼士さんの《「ロートレアモン伯」への序》という論考の初めに、デュカス青年の最大の課題は、(詩の、ではなく)詩人の創出にあった。というところ。山田さんの昨年の第一詩集「微光と煙」は詩論詩というよりも詩人論詩であったかもしれない。けれども詩論が背景にあることには違いなかった。金堀則夫さんの個人誌「交野が原」で山田さんの「微光と煙」について、誰だったか?思い出せないが、書いていた書評で、「山田兼士という存在が詩」として立ち上がっている詩集である、とあったように思う。あの詩集は「八島賢太 」という山田兼士が創作した名によって書かれていた「詩」だった。詩集を刊行するにあたって八島は葬られたのだけれど。
 七月四日に私は、東京の詩人と新幹線で大阪に向かった。彼女は「山田さんは詩に必要な人」と言った。その夜、パーティが閉会となって梅田へ向かうため駅に向かって歩いている途中で詩人のDさんが「現代詩と詩人のために必要な人」と言った。(ふうむ、二人の著名な詩人が言うのだから間違いないだろう)
 いま、「詩への愛。」という言葉を思い出している。「詩を愛してやってください」と言ったのは、二一歳のときに出会った、今は亡き大阪の女性詩人、福中都生子さんだった。彼女は小野十三郎を心から尊敬し慕っている人だった。 そんな大阪の人たちは、「詩」を「=人」のように語った。
ところで、この論文の続きです。「虚構としてのロートレアモン伯」は「八島賢太」とダブル存在ではないのか?葬ってしまってよかったのか? 八島は詩と詩人の間を「壁抜け男」のように出入りし、日本の現在の時空に呼び寄せ、自身の詩を語りさえした。この八島をもっと成長させるべきではなかったのか? この論の七ページにあること「語っている自己と語られている自己が全く不分明で朦朧としているこのような心的状態、記憶の中の出来事と書いている現在の状況がぶつかりあい軋みを生じているこのような心的状態にあって、詩人の筆は繰り返し自らを説得するかのように「ぼく自身」の肖像を描き出そうと苦闘する」・・・・それとも、この他者の「声」を成長させるとき、八島は山田兼士になるのか。
 デュカスが創造したロートレアモン伯論であるのだけれど、重なって見えるのは八島賢太と山田兼士の過去の物語が、一九九四年の詩論の遅れてやってきた時間の効果が「いま・ここ」に蘇る虚構の完成、詩と詩人論を生きること「詩論詩」を切り開くこととして。一冊の詩集と二冊の散文集の出版記念会のあとに遅れて届いた一九九四年に終刊した雑誌「詩論」だった。どうしても最後に付け加えておきたいのは、三好美千代さんの「ランボーとプラトニスム」が、すばらしくおもしろかったのだ。

『倉田良成詩集 小倉風体抄(ミッドナイトプレス)』について
昨年の夏に送付されたとき、じっくり読んだが、書いている時間がなかったので、付箋だけびっしり貼ってあるのが、2011年1月発行の『倉田良成詩集 小倉風体抄(ミッドナイトプレス)』。再読。おもしろいな。こういう詩のスタイルは。小倉百人一首は、三五篇、こうして読んでみると全部知っていた。14ページに「龍田の川の」がある。『永承四年内裏歌合によめる  あらし吹三室の山のもみぢばゝ龍田の川のにしきなりけり  能因法師』これが、冒頭にあり、散文詩が一文字空けで行替え無しで三三行続く。初めの一行は「その秋、彼女と私は都内で唯一残る路面電車に乗って休日を過ごす計画を立て、まず深い青空にさらされてある早稲田の乗車場から二両連結の小さな電車に乗り込んだ。」で始まり最終行は「わたしたちはいったいどこへ還るべきなのか。筑波まで行く、ユリカモメよ。」で終わるという具合なのだ。このように、この詩集のスタイルは、まず冒頭に小倉百人一首の歌を引く。そのあとを、散文で現代の倉田良成の分身が、歌の中を歌とは関係なく「旅」をする。時空を超えた詩情漲る魂の浮遊、とでも呼べばいいだろう。ロマンチックで、残酷で、悲しくて、最後にはこんなさびしい人間の生命自体を愛おしく思う、そんなふうな終わり方になっている。寂しさや悲しみ、苦しみや痛み、その哀れな人間の姿の滅びていくさまと、「はかなさ」というものの花びらを一枚一枚剥がして、詩という紙の上に文字起こししてゆく。というのが、倉田良成のスタイルのような気がする。これは、「魂の浮遊」を扱った詩的な体験記録なのだろう。「詩的な」という意味は倉田にとっては「幻想的な=夢遊病的な」体験であり、よく言われる「非現実的な=現実」を意味する。だからこの幻想的体験は「詩」なのだ。

氷点下10度 - ポイエーシス

氷点下10度。曇り。さすがに息をすると気道が凍えます。雪は降りませんが低温。昨日は、母のお見舞いに行き、林太郎(りんたろう)と散歩。 喜んで庭を駆け回り、明けまして林太郎です。 (写真が無いので変な文章です)
★坂口安吾の「わたしは海を抱きしめていたい」のページを開けてみた。書き始めから、散文詩のようですね。「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。」・・・きょうは、いい文書が書ける感じがしてきた。
★★↑そんな感じで、一気に終わりまでいきたいと思っている書評がある。頑張って書こう。誰のためにこんな苦労を?自分のためです。探す自分はもういませんが、棄てる自分はいます。結局、学ぶということは、棄てるということです。

★午前中は、「詩と花」展の「花」を制作する。A3の大きさで、黒松、カラマツの球果を中心としたもの1枚。ホットボンドで危うく右人差し指を火傷しそうになるも水道水で冷やして事なきを得る。薔薇、センニチコウを中心としたもの2枚を補修する。朝から初めて2時までかかる。郵便受けに年賀状6通。思いもよらぬ人々からであった。facebookフレンドさんたちだった。結局年賀状は、80枚は必要ということかー、と思う。今年はメール賀状は1枚だけであった。
★★きょう、届いた雑誌と読むべき本。
雑誌?ピエvol7.(海東セラ)
全体に今までの雰囲気と趣が変わったような気がしなくもない。1日おいて「見て」みると、初めてゲスト作品が掲載された。2枚の水彩画が挿入された。左に水彩画で右に彼女の横書きの詩。コラボレーションと言ってもよくビジュアルな作品で、気持ちよくまとまっている。「気持ちよさ」の快感の落とし穴にはまらないことだと思う。表紙も今回は「写真」に変わった。個人誌で自分の詩を何篇か書くことはとても大切で、ゲストは自分の詩の主張を補う「物質」と私は考えている。自分のやりたいことが主体。企画と編集があっての個人誌。どの雑誌にも言える。
?ロシア文化通信群GUN(たなかあきみつ)・・・たなかさんのヨシフ・ブロツキの訳詩「一八六七」を読む。


★★★昨年の夏に送付されたとき、じっくり読んだが、メモもないので、付箋だけびっしり貼ってあるのが、2011年1月発行の『倉田良成詩集 小倉風体抄(ミッドナイトプレス)』いま、再読。おもしろいな。こういう詩のスタイルはやってみたいが、深い理解は難しい。小倉百人一首は、三五篇、こうして読んでみると全部知っている。14P.に「龍田の川の」がある。『永承四年内裏歌合によめる  あらし吹三室の山のもみぢばば龍田の川のにしきなりけり  能因法師』これが、冒頭にあり、散文詩が一文字空けで行替え無しで三三行続く。初めの一行は「その秋、彼女と私は都内で唯一残る路面電車に乗って休日を過ごす計画を立て、まず深い青空にさらされてある早稲田の乗車場から二両連結の小さな電車に乗り込んだ。」で始まり最終行は「わたしたちはいったいどこへ還るべきなのか。筑波まで行く、ユリカモメよ。」で終わるという具合なのだ。このように、この詩集のスタイルは、まず冒頭に小倉百人一首の歌を引く。そのあとを、散文で現代の倉田良成の分身が、歌の中を歌とは関係なく「旅」をする。時空を超えた詩情漲る魂の浮遊、とでも呼べばいいだろう。ロマンチックで残酷で、悲しくて、最後にはこんなさびしい人間の生命自体を愛おしく思う、そんなふうな終わり方になっている。寂しさや悲しみ、苦しみや痛み、その哀れな人間の姿の滅びていくさまと、「はかなさ」というものの花びらを一枚一枚剥がして、詩という紙の上に文字起こししてゆく。というのが、倉田良成のスタイルのような気がする。これは、「魂の浮遊」を扱った詩的な体験記録なのだろう。「詩的な」という意味は倉田にとっては「幻想的な=夢遊病的な」体験であり、よく言われる「非現実的な=現実」を意味する。だからこの幻想的体験は「=詩」なのだ。

★★★★、、、このごろ送られてきたものを読んでいて思うのは、私は、12・13歳ころから親しんだのはギリシヤ神話だったので、精霊が出てくるものが好きだった。それから、14・15歳のころは、英米文学が好きだった。けれども、人間の心や精神と向き合う方法の入り口を教えたのは、ヘッセやリルケ、ロマン・ロランで、日本文学とは多感なころに出会うことがなかった。
 ・・・本を読む速度が、私はとても速いと自分でも思う。ある評論家が500Pくらいのもは、2日で読めなくては、物が書けないと書いていた。くまなく読む必要はなく、自分が考えていること、そして書こうとしているものに必要な部分に集中して読めばいいのだと思う。著者に対していつも批評の目を持っていること。だから読むのが早い。
 その当時、全15冊の全集の読破に取り組んでいたので、5日間の夏期厚生休暇中に図書館に朝から通い、朝9時から夕方6時まで読み通して、書いたのが、『謡曲蝉丸からの順逆のメッセージ』だった。資料を調べるだけで5か月かかった。ある大学の国文学の先生に褒めてもらったが、あの方は今、どうしておられるのだろう。福祉事務所の職場の職業研修もあって働くことが忙しかったので、その先の興味が続かなかったのが惜しかった。

それがこちらへ来るだけだ

1・それを成果だと思ったのは、大いなる錯覚であり、ひとりで視た幻想だったのか。
だとすれば、振り回されただけの夏だった。
戦う武器は妖精のネックレス。
あなたの夢のなかへ侵入していく。


2・それがなんであろうと、
もうそこに来ているので、
導く手を差し出してやりさえすればいい。
私が脱出するのではなく、それがこちらへ来るだけだ。
「手」を。

3・黒薔薇のサシェと妖精のネックレス。
美の角度を測るときの武器。
押し寄せてくる邪悪なものと戦う。


★★★「あのときの王子くん」とっても素敵だった。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupery 大久保ゆう訳http://www.alz.jp/221b/aozora/le_petit_prince.html

★★★★冷え込んでいるので、さらに「妖精術」を高めて、書く。ロシアのバレエダンサー、ニジンスキーの薔薇の精が来るといいなあ。リボンと薔薇のシュシュは強力な武器となる。夢見る力という意味。

きょうも快晴。強風。風は昨晩から。日差しが出ていると、過ごしやすい。郵便局は今日は「休み」ですが、メール便で届いた、新年の詩集・雑誌など。、、、読まなくてはならない本が多すぎる。どうなるんだろう。ここへ選評作品が入ってくるということになるのは、もうすぐだ。「来た本は(雑誌は)一応全部読むよー」でも「書くかどうかは別問題」ここへ挙げてない本もあるし、2回挙げてる本もあるのは、仕方ないこと。いい詩集、いい作品に出会いたい。それは、「才能」に出会いたいということで、もうどこからどう見ても読んでも私は「新人」ではないので、「才能」に出会いたい。詩の言葉の素晴らしさに出会って、いい評論を書きたいと思う。


★評論集佐々木賢二評論集「宮澤賢治の五輪峠 文語詩稿五十篇を読み解く(コールサック社)」・・・・後書きまで559P,のずしりと重い上製本。著者は内科小児科クリニックを開業している。おそろくは長年の研究成果をここで一挙に評論集にされたのだと思う。筑摩書房の宮澤賢治全集を若いときに購入して持っているけれど全部を読んだことはない。ボーナスで支払ったと思う。5万円くらいだったのかな。ノートに書いて消しゴムで消したものまで「読み解く」という分析の方法が気に入らんかったので、読まなかったと思う。詩人が「駄目」と思って「消した」ものをなんで透かして読まないかんの?と思ったのだ。・・・佐々木さんの評論集はこれから読む。内科の先生が、読み解く賢治はどうなんだろう。とても興味がわく。・・・読んだところで書き足していくつもり。解説は鈴木比佐雄氏。 「きょう届きました。ありがとう」

★★雑誌?回游2013年初春号(南川隆雄)詩集書評が、同人によって書かれているが、芳賀省内さんの詩集評を南川さんが書かれていて参考になる。芳賀さん、詩論と詩集発行に頑張った年だった。?歴程no.252.特集は「2012年歴程祭〈未来を語れ〉電車に乗ると眩暈がするころで、参加しなかったが、野村喜夫さんが「歴程賞」を受賞された会のことなど。?詩と音楽の雑誌「洪水」特集:「諸井誠の饗宴」。季刊誌ですが、豪華な執筆陣。諸井誠と安藤元雄の往復書簡がとても興味深い。諸井誠さんを知らないのだが、編集人の池田康さんのエッセイ「ハガキが語る構築と分析の情熱」に詳しい。すこし驚いたのは、「ヴァレリーのドガ・ダンス・デッサン」を読んで作曲家になろうとしたというところ。詩では、たなかあきみつさんの翻訳詩(視線は失われたか?・・・・・)ほかがものすごく素敵だ。、(視線は失われたか?・・・・・・)ほか
を読みました。1963年生まれの人かー。と思いました。若い人々の詩は、日本語で読むと、
あまり国境を感じませんね。「鏡すらもつねに遅れてくるカーヴにすぎない。」とか、「もっぱら視線からはもろもろの新語が出現する」など、(光は掌を貫通する・・・・・・)のタイトルもひどく身近に聞こえる声でした。詩人の吉田義昭さんによる『「アメージング・グレース」と父母の思い出』もいい文章。機会があればお読みください。


☆買い物に行って帰ってきたら、郵便受けにお年賀状が届いていた。facebookのお友達や、「詩客」へtwitterで、短い書評を書かせていただいた詩人の方からだった。恐縮です。

2013年1月 2日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「わたくし小説」陽羅義光】
 デザイン会社を経営する鷹野司郎という男の愛人が、鷹野の死をきっかけにして起きた彼女をとりまく人間関係を語る。肩の力を抜いた筆遣いで、読ませる。が、タイトルを考えると意味が広いらしい。連載になるようである。リズム感がよく作者が気分良く筆を運ぶ感じがあることからすると、本来の作風なのかも知れない。ニヒリズムと隣合わせの感性のエネルギーが良く出ていると感じた。
【「田中正造と幸徳秋水」崎村裕】
 史実であるが、足を使ってよく調べたことをそのままぶっつけるのではなく、こなれていて分かりやすく、散文精神が発揮されたもの。史実的にも勉強になった。以前は論文調の文章の作家という印象を受けたが、印象は変わって感心させられた。田中正造の実直さや幸徳秋水のイメージを変えるような視点もあって、重要な資料となりそう。
【「虫と花と人」畠山拓】
 散文精神による散文で、東西の文学作品に対する趣向を活かしながら、70歳の文学的な感性で世間を語る。伊藤桂一氏の小説作法にある手法からすると、現在と小過去、中過去、大過去を出し入れ自由にして、のびのびとした筆が読ませる。散文に徹してどうでもよいような話を、ひきまわして作者が読者と勝負する気概も見えて、なかなか面白かった。
【「織田作之助を訪ねて(二)」藤田愛子】
 オダサクの生前の交流を描いて、つややかな筆運びが興味深い。とくに肺を悪くしているらしいオダサクの胸骨の出た姿が、なにやら格好よく見えるのが不思議な筆力が魅力的。
発行所=〒389?0504長野県東御市海善寺854?96、「構想の会」
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

謹賀新年 - ポイエーシス

★新年、明けましておめでとうございます!今年もどうぞよろしくお願いいたします。すべての人々にとって、健康で明るい年でありますように。信州佐久の野沢成田山へ初詣に行ってきました。晴天なので、とても混んでいました。
★★大晦日に届いていた嬉しい詩の雑誌。
鈴木ユリイカさんが『somethinng16』の「something blue 6P.」で小島きみ子の作品「ひそやかな星のように」についての解説を書いてくださいました。ありがとうございました。


ひそやかな星のように



いつの間にか雨が止んで、灰色の岸辺では、春の初めに咲く花の木がそよぎ始めた。その蕾は次第に膨らんで、ひそやかな星のようだった。冬を連れ去っていく風の音を聞きながら、枯れ草の上を歩く時、白い雲に流された影を、私は、鳥が獲物を追う目になって、影のなかを見つめる。私たちは、見えるような愛を求めていたのか。空は、泣きじゃくる子の波打つ髪の毛のように揺れていた。

ふと、懐かしくて、影のなかに向かってなまえを呼ぶとき、きっと言うのだ。それも明るいきっぱりとした声で。(僕)はあ
ひそやかな星のように
なたの思う通りにはならない。(僕)は(僕)を守るよ。それでも、どうか元気でいてください。(僕のmama)と。私は、再び影のなかの、草の種のような、小鳥の目になって言うのだ。私の母へ。(mama私は、あなたの思う通りにはならない。それでもどうか元気でいてください)

かつての私たちが暮らした、キッズクラブのその家では、放課後の子どもたちが、ボランティアの青年と遊んでいた。黒い髪の少年たちのなかに、ブラウンの髪の少年が混ざっていて、彼は誰よりも速く野芝の上を、カラマツの木々の間を、走り抜けて行くのだった。その枯芝のなかに、小さな札と囲いがあった。「花の種が(芽)を出します。踏まないでください」私の影の上に重なる芽の、青い影を踏んだのはだれ。

森の小道を、別れてゆく人と散歩する。まだ花の咲かない桜の樹皮は、夕べの雨で濡れて、新しく生まれてきた子どものように、光った息をしていた。私たちは、樹にもたれて、苦しめられた仕事のいろいろなことを思い出す。あなたは、また再び言ったのだ。きっと戻ってくる、また一緒にやろうって。その時、つややかに光る木の枝を折るように、白い雲の間を渡って行ったのは小さな獣、それとも辛夷のはなびらだったのか。

★榎本櫻湖の挑戦。
朝の9時40分。メール便で榎本櫻湖が編集・発行する「漆あるいは金属アレルギー」創刊号が届いた。執筆者は総勢9名。91P。装丁は金澤一志。巻頭詩は小笠原鳥類。「水槽の水を交換する。そこに人形も現れる」。榎本櫻湖の挑戦が次々と展開される。まだ読んでない雑誌もあるので、新年の休暇に読むつもり。
★★手を抜いていたのに、腕が筋肉疲労なのはなぜなのか。目が疲労しているのはわかるけれども。いつだって材料を探す目だからね。そして、無意識で作業をする腕だからね。日差しが雨のように疲労に降り注ぐ。
★★★?月刊詩誌「柵」2013・1月号、?プリズム15、?ジャンクション85、?榛名団、?Deep DeepBlue(秋に届いたが本のなかに紛れ、大掃除で発見。すみません)?poetic wknder 30(ツイート連詩30人集、再読。)?きょうは詩人?詩と思想11月号、1.2月号。?コールサック74号?かおす130?樹氷創刊60周年記念号166号?学術通信101号、2012図書目録


★★★★?北村真詩集『ひくく さらに ひくく』?伊達悦子詩集『色鉛筆』?高塚謙太郎詩集『カメリアジャポニカ』?阿部嘉昭詩集『みんなを、屋根に。』?芳賀稔幸詩集『広野まで』?『福永武彦を語る2009-20012』(シンポジウムと講演記録)

「虚の筏」3号 - ポイエーシス

★洪水企画の池田康さんが主宰する、「虚の筏」3号が完成しました。「そのなかに小島さんからもらったリースの写真をいれさせていただきました。」そうです。ご覧下さい。http://www.kozui.net/soranoikada3.pdf
★だんだん、大晦日と新年の準備ができた。昆布と鰹のダシは、お節料理には重要。明日は、息子が帰省するので、彼には年越しそばを。鴨肉も買ったので。信州蕎麦を夫が手打ちで。茶わん蒸しが好きなので、昆布ダシで。あとは、蓼科牛を。疾風のように来て疾風のように去っていくのだが。

自戒を込めて。 - ポイエーシス

★自戒を込めて。「詩」と思ったもの。それはまだ、手がかりにすぎない。踏破してはいない。言葉を軽々しく扱う者は、必ず言葉から復讐される。己の言葉に酔ってはならない。冷かな批評者であることだ。
★★この1年を振り返って、『夏の思い出のアルバム』より。北爪満喜、宮尾節子、小島きみ子のツイート連詩pw3.が始まったころに作った、四葉のクローバーとシロツメクサのブレスレッド。こんなの作ったの久し振りだったな
★★★北爪満喜・宮尾節子・小島きみ子によるツイート連詩・マイガール完全版★自分の詩風を超えた妖精同盟(SMK)の2012年だった。 http://togetter.com/li/319407
★★★★季刊の「コールサック」74号届く。特集は「脱原発自然エネルギー218人詩集出版記念会」・・・このごろ、自民党が勝ちすぎた選挙の結果、これから変わるであろう日本の姿を考えると愕然とする。「原発推進」の気配を、自民党に票を入れた人はそれでいいのか、と思う。どんどん、日本は、生活と命が脅かされてゆく。そんななかで「脱原発」を直球で投げる「コールサック」の挑戦は、凄まじいと感じる。日本の現在は、危機的状況だ。国民はよく我慢している。自民党で日本はよくならない。「予算」は「税金」。政治家の好きなように使っていいわけない。国民の命を守るために使われる。「広域瓦礫焼却」は国民の命を脅かすことになるだろう。・・・こうした社会事象のなかで、不当逮捕もでているなかで、「特集」に「脱原発・・・」を掲げること自体が、ある意味で「覚悟」を思わせるのだ。

●昨日は、隣町の公民館(XXミュージアム)へ行って、1週間で7万円という高額な施設借用料なんてムリー。と落胆したが、当市の中央公民館へ行ってみたら、1時間300円だった。これでいいや。と思う。「詩と花展」、やってみることにした。
●次々と届く詩集や雑誌を読みながら。
?昨年6月と12月に発行した、私の詩集と評論集も、もう一度。
?それから、エウメニデス43号も、参加してくださった方々、どうもありがとうございました。
★エウメニデス?.43号。思い出に残る「タッチ」。「ブルーとスノウの二人によろしく」とお手紙までもらった。ありがとうございました
?きょう、届いた詩誌。群馬県の富沢智さんが発行する『榛名団 5号』です。FB,のフレンド平井弘之さんが詩「われいるゆえにわれいる」を書いています。巻頭詩は八木忠栄さんの「めいれい」。編集後書きまで90Pあります。
●★山田兼士さんより『福永武彦を語る 2009-2012』をいただきました。はじめのシンポジウム1「福永文学の新しい可能性をめぐって」の書き出しを読んでびっくりしてしまった。1946年に信州で発行された『高原』のことが書かれている。片山敏彦、山室静、堀辰雄の三人の編集で作られた。この雑誌に福永武彦の「塔」が掲載されたのだ。はじめの6行までのこと。粟津則雄さんの講演記録もおもしろいですよ。・・・あとはこれからです。9ポイントだけれどもとても読みやすい字体。

作品を書こう。 - ポイエーシス

それで、ギャラリーのほかに、午前中はイベント会場を探しに行ってガッカリ。公共の施設なのに、どうしてあんなに高額で、光熱費は別で、町外の人は1.5倍です、なんて当然なのかな。「現代詩」って、「生涯学習」の分野で、「教育」ではないって知っていました?
 市の短詩型文学祭も教育委員会生涯学習係の仕事ではあったけれど。短歌・俳句の教室は、たくさんありますが、「現代詩」の教室はないので、目に見える「詩展」をやりたいなー、と考えて先ずは会場探しに、私の詩の作品の舞台でもある、隣町の公民館へ行ってみたのでした。
 駄目でしたが、気を取り直して、作品を書こう。回復、早いので。

★長野県の評論誌「溯行」が届いて読んでいる。立岡和子さんが主宰する雑誌で130号。原田奈緒さんの論考「The Ghost Road ある兵士の変身物語」がおもしろかった。ギリシャ神話、ナルキッソスのイメージとの共通点が書かれていて、さらにはポーの「ウィリアム・ウィルソン」までに及んでいる。

2012年12月25日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「迷羊(ストレイ シープ)」渡辺勝彦】
 東日本大震災のボランティアを福祉大学のゼミでやることになった小川三四郎が、関西から被災地に出かける。地道な話かと思わせておいて、現地で突然タイムスリップし、明治時代の三陸津波大災害のあった次元に行ってしまう。意外な展開でSF小説になっていく。それが面白い。半村良を思わせる。その時代のずれのなかでの物語としてのつじつま合わせが自然でよい。常に謎を残して話を意外な展開にもっていき、2弾、3弾の仕掛けもあって、面白く読んだ。調べたことがよく消化されていて、大変感心した。「匠」の手腕である。
【「最短三話(赤紙)」富士君枝】
 60歳になると召集令状がくる。何かと思うと、原発事故のメルトダウンした原子炉の始末に300年かかっているが、それで治まらず、ひと手不足で召集される話。「60歳以上の人は現場に行って欲しい」といった菅元総理の話の延長である。菅直人氏は、日本の政治家で権限で原発を稼働停止にしたただ一人の人物だが、現在は反菅勢力にけなされているようだ。
【「牢獄の魔鳥」萩田峰旭】
 夢とタロット占いのオカルトの世界を描く。小説的には明瞭さに不足があるが、感性が独自なので面白く読んだ。なにかすでにあるものをつぎはぎしたような感じがする。それも時代に合ったセンスがあるからできるので、資質を活かして、細部に磨きをかけるといいように思う。ただ、講師がおられるのに自分がこんな自己流の感想を言っていいのかしら、とも思う。
発行所=〒480?1179長久手市上井堀82?1、渡辺方。
紹介者「詩人回廊」伊藤昭一

Noel、Noel。 - ポイエーシス

夜空、すばらしい。満点の星。きらめき。ささやき。凍りつくような、やさしさの、それぞれの位置を保って、移動していく。
かなしいひと、さびしいひと、つらいひと、くるしいひと、あなたのこころに、星になって届けるよ。きれいな星空でありますように。

★そして、
幸せを祈る日。
みなさまの上に
幸いあれ!

★「詩と思想 1・2月号」と「同時代」が届いたので、読んでいる。自分の作品の掲載されない雑誌を読むことほどつまらないことはない、とつくづく思う。「詩と思想」はアンケートに回答してはいますが。

 昨年の夏には、3冊目の詩集「その人の唇を襲った火は(洪水企画)」を発行したのだった。12月は、初めての評論集「人への愛のあるところに(洪水企画)」が発行されて忙しくしていたのだった。今年は、書評、詩時評、と散文ばかりで、「詩」は、自分の雑誌「エウメニデス」42号、43号へ書いただけだった。「もう1つの詩」は、夏のtwitterでの連詩は1か月かかりきりであったが、電子空間に存在する「電子文字」として光り輝いている。
 いま、やっていることは、佐久市短詩型文学祭の選考と選評。と、いうことで、詩集を発行しても次々と新しい詩集が発行されるので、すぐに忘れられていくのかもしれない。淋しー。
 それでは、仕事の続きに戻ろう。

2012年12月22日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は、栄中日文化センター「小説を創る」教室編集とある。年に1回の発行だが、みっちり詰まった作品集。それぞれ自由闊達に書いてあるので、ぱらぱらと目についたものを拾い読み。このとき目が止まるものを自分は字面でよむと称している。以前は、商業読み物雑誌で人気作家の書いたものは、字面の感じでわかったものだが、最近は読者世代のちがいから、その見分けがつかなくなった。読者層が多様化したので、全体的な共通性はみつけづらいようだ。
【掌編「わら団子」本興寺更】
 「食うものはわら団子」しかなかったと苦労話をする父親に連れられ10歳で料理屋に奉公に出される。つらいからと言って家に戻っても追い返させられるだけだ。しかし、父親はその息子に影ながら支援の手をさし述べていた。短いなかで人情話にまとめているのに感心した。
【掌編「ゲームメーカー」卯月蓉】
 大学生がアルバイトでゲームのプログラムを請け負っている。そこに戦争のシミュレーションの依頼があったので、力作をものにして満足して送る。ある日、テレビのニュースを見ると、どこかの国で戦争が起きた。みると、自分の作ったシュミュレーション戦場がそこにあった。いかにもありそうで、(ありえないか)面白い。
【掌編「ゴミ屋敷」辻井まゆみ】
ゴミをためる人の性癖とそれを片づけに来る善意の隣人がいて、ゴミをめぐる話が続く。結局ゴミを片付ける人が行方不明になってみると、その人の家がゴミの山であった。人間のゴミを出す存在として描き、その矛盾した本質に迫りそうな奇妙な傑作。
【「運命と作為」伊藤良彦】
 年金生活者の夫婦の病気の話からはじまり、夫妻の病気の入院、手術の過程がだらだらと長く書いてある。このだらだらとしながら読ませるのが不思議な手法と言うか味で、こんな書き方もあったかと驚かせられる効果的表現。ヘタウマの漫画があるが、ヘタウマの文芸作品のようだ
発行所=〒458?0833名古屋市緑区青山2?71、安藤方。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭

冬薔薇 - ポイエーシス

★豊かな感受性と豊かな知識があって、「センス」って練磨されていくんだな、と思う。生命のあるものの命の変容って、薔薇1本でも春には春の、夏には夏の、秋には秋の、そして冬には、惜しげなくその植物の生命の最期を限りなく儚げに見せてくれた。
★詩集への返礼をようやく書いて、ポストに投函した。やれやれ。長野県の詩人は、どうしてもっと若いときに詩集を発行しないのだろうか。喜寿をきねんしてとか、それでは遅すぎる。80歳を過ぎて、冥途の土産にとか、そんなのだめ。もう進歩しないとは言わないけれども、詩集は自分の仕事を振り返るためにある。自分の詩形を振り返らずに歩むなんて、病気を隠して働き続けるようなもののように思う。組織の構成を見れば、40代がいないんじゃない?いつまでも私のようなものが「若い」なんて言われていてはだめ。だから、老詩人協会なんて言われてしまう。どーすれば、いいのだろうね。
★2冊、読破。
★書評、むずかしい。
★話題の本、読みながら、年末大掃除。大掃除だけ終了。
★雑誌、読んでないの1冊。
★年賀状、明日から。
★本、読めない。最悪の状態。
★1月の児相の研修会、無理無理行けない。
★Yさんに、電話しなくちゃ。
★新作新作。
●忙しいけど、寝よう。目がだめ。筋肉疲労。お掃除完璧。

2012年12月20日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「政治と文学に向き合って」外狩雅巳】
 総選挙の後で時流に合うので、目を惹いた。わたしは毎回投票に行くが、その度に結果的には、一度も当選者が出ていない。それでもすべて死に票なのかどうかは、判断が難しい。それと似たようなものが、政治と文学の関係にあるのかも知れない。外狩氏は、本誌24号に「偽りの日々」という短編小説を書いており、それとの創作上の関連が、過去の労働運動生活にあるという。
「偽りの日々」という作品は、全学連活動かなにかの反体制運動で負傷し、身体不自由者となって地下にもぐる男の話である。それを支える愛人、道子の視点から描いたもので、思想的な芯を失った潜伏生活の破綻までを描いたものと記憶している。たまたま今年、潜伏していたオーム信者が自首する事件があったので、それと重ね合わせたタイムリーな作品という読み方もできて、よくまとまっていた。ところがこのエッセイによると、同人雑誌の印刷を依頼した会社の経営者が丹治孝子さんで、「婦人民主クラブ」の代表者であったという。そうした関係で社会運動家としての交流があった話や、女性活動家の姿をみてきたという。
 少なくとも「偽りの日々」には、体験を有効に活かしたものとはいえない。また、活かせばもっと良くなるとも思えない。そのことを自ら記して、次回作に意欲を示している。小説にはスタイルというのがあって、それにうまく沿っていることで完成度が上がっていることもある。
【「ぐうたら野郎たちの挽歌」野田栄二】
 湾岸京浜工業地帯の海岸にある自動車工場労働者の情況を描く。時期はオイルショックでトイレットペーパーがスーパーで品不足になった時期らしい。溶鉱炉の煙突、運河の廃船、クレーン、喫水の高い貨物船、強風に飛ばされる新聞紙。どれもドライハードな詩的情景に読める。そこに豊満でエネルギーに満ちた中年女性が出てくる。中味は郷愁に満ち、文学的で見事な叙事詩として読める。自由な散文精神によるこのような作品は、同人誌ではエッセイとするらしいが、詩的散文のジャンルがあっても良いような気がする。このようなものは幾つも乱発できるものではないと思う。
 発行所=相模原市南区古渕4?13?1、岡田方「相模文芸クラブ」。
紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一

●ふゆスミレ
初夏に咲いて、秋のあいだ休眠していたスミレ、黄薔薇の根元で、冬に咲きました。実生の種子から始まった美しい冬。

話題のオンデマンド出版。アマゾンへ注文していた、高塚謙太郎詩集『カメリアジポニカ』、阿部嘉昭詩集『みんなを、屋根に。』が届いた。
2冊をアマゾンで注文して3日目。高塚さんの詩は今まで、読んできたのですが、阿部さんの詩集は初めて。FB.では読んでいますけれど。これからしっかり読みますよ。高塚詩集の巻末の「思い出」いいです。「鱗粉で縫合された息づかひ」という場所へ誘われている。もちろん、初めに戻って読みなおす。阿部さんの詩集も。それで、また忙しい。

★冬の空から - ポイエーシス

★冬の空から、市の広報係の声が、さざなみのように、枯葉の庭にたどりつく。「A町の行方不明の男性は、見つかりました。ご協力ありがとうございました。」凍える道のどこで、草のように倒れていたのだろうか。
★文学祭選評と新作原稿を仕上げる。冬バラのポプリが仕上がるように原稿も仕上がるだろう。枯れているように見えるはなびらの奥は香りが深いのとおなじようになまだということ。
★母のお見舞いに行き、ひさしぶりに、林太郎(りんたろう:柴犬:本名は森林太郎)と散歩したら、ひどく疲れて、、目が駄目なので、寝ます。
★それでも、目標ぐらいは挙げておこう。
●●12月の読書
?松岡和子著『「もの」で読む入門シェイクスピア(ちくま文庫)』・・なかなかよいと。
?橋爪大三郎著『世界がわかる宗教社会学入門(ちくま文庫)』
?正木晃著『密教(ちくま学芸文庫)』・・・表紙のマンダラ図に惹きこまれた。
?ランボオ作・小林秀雄訳『地獄の季節(岩波文庫)』・・・いまさら、と言う感じで読むのもいいだろう。
?バルガス=リョサ作・西村英一郎役『密林の語り部(岩波文庫)』・・・これが結構おもしろいのだ。
?宮下真著・山崎龍明監修『親鸞(永岡書店)』・・・これから。
?今野真二著『百年前の日本語(岩波新書)』・・・195P.ほぼ読了。
?中村桃子『女ことばと日本語(岩波新書)』・・・238P.ほぼ読了。
?大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ(岩波新書)』・・・あと少し。
?橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教(講談社現代新書)』・・・あと少し。

クロマツとアカマツの松ぼっくりのリース。
材料:フジ蔓。伊吹杉。
ヘクソカズラ;[学名:Paederia scandens (Lour.) Merr.] アカネ科の藤本(とうほん)(つる植物)。ヤイトバナ(灸花)、サオトメバナ(早乙女花)ともいう。乾くと全草黒っぽくなる。

材料;伊吹杉。クロマツとアカマツの松ぼっくり。ヘクソカズラ。

★うえのようなxmasリース3個。壁掛け1個制作。


★文学祭選評と新作原稿を仕上げる。冬バラのポプリが仕上がるように原稿も仕上がるだろう。枯れているように見えるはなびらの奥は香りが深いのとおなじようになまだということ。

2012年12月12日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌の後記によると、編集者の勝呂奏氏は、作家・小川国夫が亡くなって本誌に連載していた「評伝 小川国夫」を刊行し、「新潮」9月号に「作家修業時代の小川国夫」を執筆したとあり多忙のようだ。
【「冬になると赤い実をつける木」安倍七家】
 文章には読む上で、スピードのあるものと速度の緩いものがあるが、これはゆっくりとした速度で読ます、いわゆる行間を味う傾向の作風であった。連載的なつながりを意識せずに部分読みでも楽しめる。今回は、イギリス生活が非日常性を感じさせる描き方がされていてそれが面白く読めた。
【「小川国夫『心臓』論」勝呂奏】
小川国夫の短編「心臓」(原稿用紙27枚)が、名作として各種のテーマ別短編文学集に収録されていという。その元となった17枚の原稿が現存しており、そこからどのように小川国夫が「心臓」という形にまとめたかの過程を検証している。
文章はそのままではただの文であるが、それをある方向性をもって、簡潔化し省略することで、多言を要さずに多くの意味を含蓄させるか、または、多くの装飾を加えることで、語る意味付けを深めるかという相反するような手法がある。
小川国夫は志賀直哉の影響をうけたらしく簡潔性を重視したようだ。ここでは、省略の仕方が極端で、そこに独自の技法が存在することがわかり、より含蓄の深まる方向に推敲してきた経過がよくわかる。これを読んだ自分の感じだが、小川国夫という人は、当初の表現の源は閃きであって漠然としか把握していなかったものを推敲しながら焦点を明確にしてゆく作風のようだ。
 わたしは伊藤桂一氏の指導のなかで、雑誌社からテーマを与えられ原稿依頼を受けた時に、下書きをつくり、それを推敲していく過程を知らされた。その時の作家としてはテーマについて格別に関心があったわけではない。下書きはテーマに必要な素材をならべた、まさに作文に毛の生えたぼんやりとした凡作であった。とことが、それを推敲しながら文芸的な含蓄のある短編に仕上げてしまった。
 それにくらべ小川国夫には、自分の書きたいことに全力を尽くす、まさに純文学作家ならではの発想が見える。
紹介者( 「詩人回廊」伊藤昭一)

森の命 - ポイエーシス

あんなたかい、首が折れてしまいそうな、枝から、落ちてきた、まつぼっくり。*松脂のすがすがしい香りは、森の息吹。私の髪は、なんの色?てんてんと松脂に染められてグレイの色が風になびく。おいで、森の命。森の息吹。ゆびさきから、まつぼっくりの色に染まってゆく。12月の氷点下の風の日だった。


★松脂の香りとは。
松脂(まつやに、しょうし、 英語: pine resin)は、マツ属の木から分泌される天然樹脂のこと。 フランスには松脂 の香りのキャンディーもある。
★テレピン油について。
松脂を蒸留して得られる揮発性の油。油絵の具の溶剤 として使われるが、光沢がなく画面への絵の具の固着性もないため、単独で用いること は少ない。通常は、リンシードオイルやポピーオイルなどの乾性油と混合して使用する。

★ 芳賀稔幸詩集『広野原まで(コールサック)』について・・・・たくさんの本が送られてきますので、なかなか一気に感想を書けません。継ぎ足しでメモっています。放射能汚染されたガレキが復興予算によって日本各地で焼却されようとしている。このことは、狭い日本の国のすべてが、汚染されていくことになります。「安全地帯」が無くなっていきます。国外へ移住できる人はいいですが、日本で生きていくためには、広域の瓦礫償却を止めなければなりません。日本の国と人間の「命」を守るために必要なことです。
 原発事故は、業務上過失致死傷罪に問われるべき犯罪ではないのか。なぜ、誰も訴えないのかと思っていました。12月9日の信濃毎日新聞第一社会面に「東京電力福島第1原発事故をめぐり、業務上過失致死傷容疑などの刑事告発を受理した検察当局が、東電幹部ら告発対象者を含む関係者を広範囲で任意に事情聴取していることがわかった」とありました。そうですよね。やっとですね。

 3・11以後の雑誌に発表した作品、この詩集ための書き下し作品で構成される、3章からなる110P.の上製本。裏表紙カヴァーの見返し部分にある文章に「「ひろのはら・・」とうたわれている辺りは、広野火力発電所の白い巨塔が望める旧警戒区域の検問所があった。解除されたとはいえ、北上が許されるのは、国道6号線で6?足らず。」とあります。小学校の音楽の「みんなの歌」という副教材に「汽車」という歌があって、そこに歌われている場所がこの「広野原」です。詩は、32Pに「広野原まで」があります。2の後半部分を引用します。「忘れるな、福島原発は第一だけではない/いまだ廃炉が見込まれてはいない/若しも第二が冷温停止を成せなかったならばー/いずれにしてもヨウ素131被曝は免れなったのだ/どれほどの被曝線量だったかさえ不明なままだ/東電は自主避難の賠償金の名目にすりかえて知らぬ顔だ/(省略)」

*注;再度、芳賀稔幸詩集『広野原まで(コールサック)』紹介します。本の写真が無くて重要なことが伝えられませんでした。表紙カヴァーの裏の写真に注目してしてください。この場所は、童謡「汽車」に歌われている「ひろのはら」のことです。裏表紙の見返しに書かれている文章です。「ひろのはら」とうたわれている辺りは広野火力発電所の白い巨塔が望める旧警戒区域の検問所があった。解除されたとはいえ、北上が許されるのは、国道6号線で6?足らず。」なのです。*あとがきには、「楢葉の警戒区域が解除された。はたしてどこまで行けるか。国道6号線のJビレッジへ右折する辺りが旧警戒区域検問所があったところだ。警官が大勢交替で常駐していて、パトカーや、車窓に鉄線を網のように張り巡らせた大型車が、車道を塞ぐように並べられていて、バリケードのさらに奥で行く手を遮っていたものだ。・・・」 詩篇:神様へ「寝たきりの布団は海水で濡れて冷たすぎます/どうか、ふかふかで温かで真っ白い布団のなかへ/くるんでは下さいませんでしょうか」2連目を引用。
facebookにこの部分をアップしたら、エウメニデス43号へ、シェリーの論考をお寄せいただいた京谷裕彰さんより『竹村正人監督『反歌・急行東歌篇』の上映会FBイベントページ、およびDVDパッケージに使われている写真は広野火力発電所を臨む検問所前で藤井貞和さんが撮影したものです。芳賀さんの詩集のこと、竹村に伝えておきますね。というメッセージがあったので、忘れないようにメモをしておく。

光りに見惚れた。 - ポイエーシス

☆12月の壁掛け。朝の陽ざしが緑の伊吹杉に差し込んでその部分だけ明るい緑に変化した。生の葉は枯れるから美しい。自然がそこに有るように光を受けていた。光りに見惚れた。
画像の確認

2012年12月 5日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌には感想を書くための編集部宛先の私製はがきが挟んである。一つの方策ではある。同人雑誌の作者は、一人の読者が心を動かしてくれたら、それでいいというような気持で書ける場所でもある。もしかしたら自分を理解してくれる人がどこかにいるかも知れない、その人を求めて書こうという動機であれば、それはロマンである。
【「春風の人 人見幸次」国府正昭】
本誌の編集発行者であった人見幸次氏が70歳で亡くなって、友人の国府氏による作品解説と、人生のかかわり合いと回顧である。これを読むと執筆に根拠があるものを書いていて、デザイン創作など多彩に活躍した作家であったようだ。年譜もあって、後日に大変貴重な資料になるかも知れない。四日市市であるというから、作家・伊藤桂一氏とも面識があったかも知れない。ものを書く人の人生は有名であろうが、地域的な作家であろうが、その活躍の足跡には大変興味深いものがある。実生活のディテールの上に作品が重なる様子が、外側から見えるのは小説以上の感銘があるからだ。
発行所=〒511?0284いなべ市大安町梅戸2321?1、遠藤方。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

★もう、このブログを読んでいる人は、ほとんどいないと思っていたが、読んでいた方からお葉書がきて驚いた。それで、facebookはしばらくやめて、ブログをできるだけ書いていくことにした。

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*「存在は裸形をおそれて、幻影をまとうのだ」とは、(市川浩・「精神 としての身体」の扉の言葉) そして*「存在とは、われわれが経験しようとすれば、「創作する」こと を要求する。」(メルロ= ポンティ) それから*「精神の身体は、さまざまな『思い出』とか、獲得した観念とか 名前とか『期待』といったものの広さないし量である。おおざっぱにいえば、この身体は「記憶」=「期待」のシステムによって かたちづくられている。」(ヴァレリーの「精神の身体」に見られる言葉) *「精神の完成は精神が何であるかを、つまり精神の実体を完全に知ることであるから、この知は精神が自分のなかに行くことであ り、そのとき精神は自らの定住をすて自らの精神を『思い出』に 委ねるのである。」とは、(ヘーゲル「精神現象学」の「絶対知」の章)です。


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詩集『Dying Summer』より。区切らずに書いてみる。もともと散文詩というか、冬の図書館で出会った老紳士との会話がこの詩始まりだったのだから。

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あなたの「故郷」はどこですか?
えっ?
あなたの「故郷」です。 この街ですけれど。
そんなはずはない。あなたは、ぜったいに私と同じ「故郷」の人だと思っていたのに。
どうしてそんなふうに思ったのですか?
この冬の間、あなたは土曜日の午後と、日曜日の朝に、この図書館にやって来て、『普遍的無意識論』と『メタモルフォーゼ論』を読んでいた。
どうしてそんなことを知っているのですか?
あなたをずっと見ていたからです。そして、それは私が書いた本なのです。私は私が書いた本をこの図書館へ寄贈したのです。ですが、この五年間、一人も読んでくれなかった。それらの本はH大で教えていたころに書いたのです。だから、私はあなたが『H』から来た人だと確信して、いつかあなたと話をしたいと、あなたが来るのをずっと待っていたんです。そして今日、あなたは私の机にやって来た。老人は、「記憶」について語った。遠い北国の「故郷」について。そして何故、この街に住むようになったかについて。わたしを待っていた本当の理由について。あなたは、現在の現代詩を美しいと思いますか。私は、とてもじゃないが読めない。美しい「故郷」が見えない詩なんて詩じゃないですよ。現実の世界で絶望しているのに、詩を読んで再び絶望させられるのが、現代詩ですよ。あなたはどう思うのですか?私は先月、新しい本を出しました。それを『H』に住む友人に送ろうと思って手紙を書いたのですが、どうしても思い出せない事柄があるのです。毎日、ここへ来て調べているのですが、見つからないのです。の詩の一行が誰の言葉であるのか。あなたなら知っている、そう思ってずっと待っていたんです。あなたを。
「故郷」は傷心を癒してくれるものだと思いますが、それは果たして『美』と呼んでいいものなのでしょうか。あなたが美しいと思うものを、私が美しいとは思わないことはいくつもあるはずです。あなたのように分別のある方なら、そのような簡単な事柄は、すでにお分かりのはずでしょう。
あなたには、「故郷」が無いからそんな風に言うのです。「故郷」と郷土は違うのです。現在の居場所は「故郷」ではないのです。失われた居場所、生まれた土地で死ねない、その切なさが「故郷」なのです。私の命を両手で包んでくれる仄かなあたたかい、雪解けの小川の水の音。あの音こそが「故郷」の「記憶」なのです。
ああ、わかりましたよ。わたしも知っていますよ。人生は坂道を登る靴底の石ころのようなものだ、だったかな。サン= テグジュペリの本のなかへ「シオカラトンボ」を閉じ込めたのはあなただったのですね。ほら、ここにある。 トンボのシッポのページにね。あなたの名前が、書いてあるでしょう。『存在は裸形をおそれ、記憶の幻影を創作することを要求する』って。

 久しぶりに、とても嬉しい手紙が届いた。ハガキや本に挟んだ一筆箋はよくあるけれども、手紙は久し振り。短くても長くても、80円切手を貼った封書にはそれなりの「こころづかい」があって嬉しい。内容も良かった。昨日から、また新しい本が届き始めた。とりあえず書名だけ。読んだらメモっていきます。

●12月に届いた本
☆武田肇句集:『フィロゾフたちの囘歸(銅林社)』
☆青木善保著「良寛さんのひとり遊び 言語思想の世界(文芸社)』
☆くにさだ」きみ詩集『死の雲、水の国籍(コールサック社)』・・・岡山の詩人。エッセイも書いておられる。14P.「外臓」を印象深く読んだ。「この地方では/「鳥肌が たつ」といわないで/「サブサブガ ウク」みたな/へんないいかたをするのです。/(省略)わたしの場合/詩は/サブサノ ウク/ー皮膚で 書きます。」そういえば、信州佐久地方では、鳥肌のことを「サブサブエボ(疣)」って言っていた。いまは、あまり聞かない。方言だと思う。いちばん最後に置かれた、追悼詩「多田聡さんへ」は心に深くしみる。清流のように。〈詩〉はコトバのテラという言葉もしみとおる。
☆和田文雄詩集『高田の松(土曜美術社出版販売)』・・・表紙が「高田の松」で、あー。と思ったが、さすがに和田さん、目で見た事実をしっかり「詩」にされている。
☆大原勝人詩集『泪を集めて(コールサック社)』・・・広島の詩人の第2詩集。
☆北川道雄詩集『へのへのくくく』(私家版)
☆北村真詩集「ひくく さらに ひくく(ジャンクションハーベスト)」
☆酒見直子詩集『空へ落ちる』(洪水企画)
★オンデマンド出版・高塚謙太郎詩集『カメリアジャポニカ』(思潮社)・・・抒情小曲集、いいね。no.36までで終わっている。
★オンデマンド出版・阿部嘉昭詩集『みんなを、屋根に』(思潮社)

●雑誌
★季刊 「ココア共和国」vol11.封筒も雑誌の表紙もクリスマスプレゼントみたいに可愛らしい。みなさん、とても気合の入った号。38P.からの秋さんのエッセイ温かい。
★ガニメデ56 たなかさんが送ってくださったのだけれど、ほんとうにおもしろい。後書きはおもしろい。たなかあきみつさんのヨシフボロツキイの翻訳「スペインのダンサーほか」の「五周年記念日」は、これに限らずロシアの詩は、自然が豊かで植物の名前がとてもたくさん出てくる。そのことが好きだ。なざかというと、その詩が書かれた風景が目のなかに現れるからだ。植物の名前。重要。あ、この詩では少ない。別なのでは、10種類以上あった。鳥類さんの望月遊馬詩集論もおもしろけれどね。自由に好きなようにのびのび書いている、それでいて温かいまなざしの文章だ。
★プリズム15 詩と評論(小野ちとせ)
★藍玉11(水野信政)
★かおす130(柳沢さつき)

★郵便局へ行って帰ってくると、我が家のポストにも郵便がきていました。美しい薔薇のレースと木の葉だった。郵便で届いたレース刺繍の薔薇。友情って心が熱くなる。
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★きょうの雪の中の薔薇は、葉っぱがね、ハートの形しています。もう眠らなくてはいけないのに新しい蕾もついている。

★日本画家の須藤友丹(すどうともに)さんの作品展を見に行ってきました。スミレ色がふんだんに使われたやさしい画でした。http://takahashibiwa.web.fc2.com/tomoni.html
★クリスマスツリー、なかなかの出来栄えです。自画自賛

 現代詩手帖の「現代詩年鑑2013」アンケートを見ながら、今年、読んだ詩集のことなどを考えた。「エウメニデス」という個人の雑誌を発行しているので、詩誌評を読むために、また、年間購読の購読料を払い込んだばかり。今年は、宮尾節子さんの企画した「pw30の連詩の仲間たち」の詩が一番好きだったな、と思っている。先月後半は、土曜美術社の「詩と思想」の年間購読料も払い込んだので、2誌で27,400円となる。かなりな出費であった。
 ・・・読まなくてはならない本の購入もあるので、ほかの詩の雑誌を購読する余裕は、なくなった。12月は、クリスマス、お歳暮、お正月の用意と忙しい。依頼原稿はサッサと済ませたほうがよいので、きょうは、長野県詩人協会の会報原稿をポストへ投函してきた。詩集感想は、FB.及びtwitterで書いたもの、「詩客」詩時評で書いたもの、以外はハガキでお礼状を書いたと思うが、落ちがあればもうどうしようもない。私自身も、「お礼状」はそれほど貰ってないのですし。そんなわけで、気分転換に、新しい息吹杉のリースを2日がかりで制作しました。


★伊吹杉のクリスマスツリー。材料がたくさん必要。
材料:伊吹杉。マロニエの実。赤松のマツカサ。黄バラのドライフラワー。薔薇のドライリーフ。紙粘土の赤いリンゴ。ゴールドのリボン。ベル。

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11月30日掲載「詩客」自由詩時評
小島きみ子
死を想え、そして「生きよ」。
 
ラテン語のメメント・モリとは、「死を想え」という警句。東日本における震災と原発事故からずっと、何でもないような貌をして生きているのだが、「いま・ここ」で、自分の現実をしっかり生きることによって、死を想え、そして「生きよ」。という新たな感受性を立ち上げることができたらいいと思う。子どものいじめや、虐待、国土と人体への夥しい危機的状況。今の日本と日本の社会に大切なことは「命」という視座に立つということに尽きると思う。
 1968年に出版された吉本隆明の『共同幻想論』が何故、当時の学生に熱狂的に支持されたのか。その時代を生きた人々は、団塊の世代と呼ばれた人々だった。彼らの魂に与えた影響は何だったのか。1968年という年は、5月10日に勃発したパリ5月革命に言及しなくてはならないだろう。(注:フランスのパリで行われたゼネストを主体とする民衆の反体制運動と、それに伴う政府の政策転換を指す)パリ5月革命から世界中に学生の騒乱が起こり、日本においても全国の都市で大学紛争が広がっていった。それは人間の「魂」と「精神」の生成への挑戦だったと思う。西洋哲学とキリスト教ゲルマン語圏の視点に立つ「愛」と、日本の土着の神と仏教との融合から生まれた日本の「信」というものは、どこまで密接に現在の日本人の生活と日本語のなかに棲みついているのだろうか。考えを深めていきたいと思う。

 *

2012年10月から11月の詩集について
植村勝明詩集『王国記(土曜美術社出版販売)』「王国記」と「わが神学」の二つが合わさった詩集。個人的には、「王国」や「神話」が好きな人にはたまらなくおもしろいけれど、なんのことかわからない人もいるかもしれない。帯文には、ちょっと怖いことが書いてある。気にせずに、どんどん読んでしまった。後書きも、詩篇の続きのようで実におもしろい。詩人はすでに「失望」も「絶望」もやりつくして、「このあと王の政治は国民からその血を取り戻すことである」と巻頭の最終行で記したのだと思う。心して、読み進みたまえ、ということかな。詩篇「ゼラニウム」14P.4行目を引用。「先の王が戦場で深手を負って倒れたとき、牧童出身の兵士がその傷口を見慣れない草の葉で覆った。蠅がたかるのを防ぐためである。王は、結局助からなかったが、終わりに臨んでその植物を故国に持ち帰るように命じ、「通りが花でいっぱいだ」と言うや息絶えた。」

野村喜和夫詩集『難解な自転車(書肆山田刊)』32篇、200P.詩人の旺盛な創作力と意欲的な詩活動に敬意を表したい。なかでも「探求」という作品に戦慄する。(1932年9月12日、ロンドンのとある十字路でのこと、)そのことに戦慄する。《奴らを高く吊るせ》このフレーズが、7回出てくる。中性子の核分裂の様子が描写される。3.11にリンクする渾身の作品。

小川三郎詩集『象とY字路(思潮社)』21篇の作品を収録。本を作るという技術も凄いと思う。右からページが始まって、目次が左から始まる。作品タイトルが左ページに入って、捲ると右ページから作品が始まる。ページに1枚の無駄もないデザイン。墨の流れを思わせる表紙デザインのソフトカバー。渋い装丁の1冊。作品の始まりから、生きていることが冷たく淋しい私が居て、いまの現実は疾うに終わってしまった世界なのに、詩人以外は誰も気がつかずに暮らしている、そんな世界。幸福とか希望とかを求めていくと、やっと出会えたその場所は、ポッカリ虚無の穴があいていて、吸い込まれていくように思う。そんなイメージが沸いてくる詩集。

柴田千晶詩集『生家へ(思潮社)』
作品は2章に分かれ、17篇を所収するソフトカバーの125P。巻頭の「春の闇」から。「春の闇バケツ一杯鶏の首」の句に導かれていく散文詩。「鶏の首」も「赤い鶏冠」も血なまぐさく怖い。立ちすくみつつ進んでいくと、「雁風呂」の中に、「海問へば「ものみの塔」が日傘より」の句。この句、好きですね。夏は、日傘の「ものみの塔」が歩いている。でも、ここに出てくるのは、「拝島さん」という男性。「ものみの塔」と「拝島さん」は関係ないらしい。感情の連鎖みたいものがあるのだろう、きっと。冒頭に掲げる俳句が、鮮明な印象を先ず与えて、詩的な物語が繋がっていく。「恐怖」という感情の連鎖が導く「詩情」。そこからふいに立ち上がってくる「詩」。「ゆめ」や「まぼろし」を強烈なイメージでつないでいるのは、詩篇ごとの冒頭に掲げられる「俳句」という定型の言葉の強いイメージ。これによって、ぐいぐい物語が引っ張られ、ここはどこだ、と周囲を見渡すと、「生前の世界」らしい。生きていたときの記憶だと気が付くのだ。いまは、もう死んでいるのですよ、わたしたち。生きていた現実って、怖いことばかりでしたね。そんなふうに思った。

ブリングル詩集『、そうして迷子になりました(思潮社)』読みやすい。これは、大人の絵本だな、と思う。落ち着いている。ユーモアがあって知的だ。倉橋由美子の『大人のための残酷童話』を思いだした。現実世界では、3人の子のお母さんだが、とてもかわいらしい感覚があちらこちらに出ていて、それがとてもみずみずしく新鮮。新鮮ということは生々しいことなのだが、「現実」が気持ちよく書かれていて、大人のための文字だけの絵本だなと。「ほらかあさんもうこんなになまくび/朝一番かりたてのなまくびほげた/最前列のなまくび/ぼくのたいせつなサックをはめた/こんもうの大改革/なまくびだいはっせい/鳩も群がった/ぼくのたいせつなサックやぶけた/なまくびにわらわれた」(なまくびスローモー64P)なんて、迷子さんのなまなましい現実であった。

疋田龍之介詩集『歯車VS丙午(思潮社)』疋田さんの詩は、大阪芸術大学の「別冊・詩の発見」の雑誌で初めて読んでから何年かが経つ。その当時、涼しい言葉使いで、いい感覚していると思った。今回の詩集の中では「豆腐滋雨」などは、可笑しさと悲しみが最初からあって、いちばん好きな作品。表紙と表紙カヴァーの関係もおもしろい。表紙カヴァーの裏面と表紙の波線模様がなかなか「いき」であった。

ヤリタミサコ詩集『私は母を産まなかった/ALEEENとMAKOTOと肛門へ(水声社)』視覚的にすばらしい本。表紙カヴァーは写真家の萩原義弘さん。ブックデザインは四釜裕子(しかまひろこ)さん。もちろん、詩という作品があっての詩集だが、詩篇に挟まれて登場する写真が、言葉と文字をさらにその言葉の肉の襞へいざなってゆく。現象とはイメージである。といえば当然すぎるが、言葉の襞、母を産まない、その肛門へと、言葉はいざなわれてゆくのだろう。そうした愛の襞を美しく贅沢に現象させて「見せた」詩集。

秋川久紫詩集『戦禍舞踏論(土曜美術社出版販売)』詩人の第3詩集。ブックデザインも和風で個性的。詩篇は「緋」「菫」「銀」「翠」の章から成る。散文詩もあるが比較的短いものがまとまった26篇。後書きまで92P.後書きは詩人による解説。詩篇ごとの内部ルールを作り、連ごとに文字数を制限し、相似形やシンメトリーといった視覚的な効果を狙ったとある。音楽性や絵画性、映像的、演劇的な側面を重視したいともある。意欲的な挑戦。各章ごとの扉は、装飾的なデザインであるけれど、文字が文字の規約を逃れていく感覚について、前半の「緋」はおもしろいと思う。後半の詩篇は観念的な部分も見受けた。

相沢正一郎詩集『プロスペローの庭(書肆山田)』21篇の作品を所収する71P.上製本。著者6冊目の詩集。シェイクスピアの『テンペスト』のプロスペローの言葉。「われわれ人間は夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ。」(小田島雄志訳)が、扉に置かれている。この、プロスペローのセリフは、私も詩集「その人の唇を襲った火は」に所収した長篇詩「JESUS LOVES ME」の中でも後半で用いた。「夢」に現れる経験も人間の知覚に刻まれていく。シェイクスピアの時代のイギリスの現実社会は労働者にはかなり厳しい生活の現実があった。そんな彼らに楽しい夢を見させたのがシェイクスピアの演劇だった。現実逃避ではないが、ファンタジーの場所で息を抜くことが、実際の厳しいリアルをやり過ごすものであった。今の日本もそうなのだと思う。
71P.「水は夢のように指のあいだから零れ落ちてしまう、しばらく手につめたい痕跡をのこしたまま・・・・。コップに歯ブラシを差し込んだまま、わたしは鏡の前から身を引く。」のだ。

岡野絵里子詩集『陽の仕事(思潮社)』2007年からの詩篇25篇をまとめた詩集。全体が穏やかな温かさに満ちていて、恢復していくこころのように、その言葉を受け取った。68P.から「恢復期」の部分を引用する。「朝ごとに/私たちは砕かれ/そしてまた満たされる/焼きたてのパンと共に/鮮やかに切り分けられる私たちの日//少しずつ/私たちは恢復していくだろう/まだ目覚めない者の夢/聴こえない声よ/だが/陽が止まる/新しい私たちの日に/気がつけば/夏になっている//」

細野豊詩集『女乗りの自転車と黒い診察鞄(土曜美術社出版販売)』助産師であった母との思い出の詩集。明るくて爽やかで、幸福な読後感がある。職業を持っていた母が、自転車に乗って颯爽と妊婦のところへ駆けつけていく。その暗い夜を弟と二人で待つのだが、母いつも明るく帰ってくるのだ。「へい、ただあいま」と。中上哲夫の帯文には「わたしはどこから来て、どこへ行くのか、数々の出会いと別れをくり返しつつ、世界を漂泊する魂の詩人」とある。詩篇の終わりの方の作品に「できることなら象のように」がある。「できることなら象のように/密林の奥の/だれにも知られていないところへ行って/ひそかにおれの軀を横たえたい」とあるのは、南米を漂白したこの詩人らしい呟きであると思う。

 親鸞の「人なきところに座す」「樹下に住む者」のように知の極まる場所、限りなく「非知」へと向かう場所に、道化の仮面を被って、現実と幻想を繋ぐ者となること。愚者にとって愚はそれ自体であるが、知者にとって愚は近づくのが不可能なほど遠い最後の課題である、という場所。仏道の「聖なる行為=遊び」に到達する場所は、詩という世界の場所でもあるだろうと思う。

第81回「詩客」自由詩時評・11月30日号が公開されました。小島きみ子は『死を想え、そして「生きよ」。』を書きました。夏から秋にかけて読んでいた吉本隆明の著作についての感想と、10月、11月に届いた詩集についての書評を書いています。親鸞の「信」については、考えを深めて稿を改めたいと思っています。お読みいただければ嬉しいです。http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_jiyushi/2012-11-30-12239.html

2012年11月30日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「フェリーツェの愛」牧草泉】
主人公は女性で、「私」は恋愛関係にあった男性から突然別れを言われ、別れたのだがその理由がわからない。すると彼女の友人がそれは、カフカにはフリーチェという婚約者がいて2度も婚約したのに結婚はしなかったという。そのように彼女の恋人がカフカ的だからそうなったという話になる。カフカの人生解説をするための小説のようだ。
【「鼠の告発」有森信二】
 これはまさにカフカや安倍公房の手法を彷彿させる良くできた小説。大学の准教授が学校に人権侵害されたと思いこむ。それで法務局に告訴したため、その筋からの調査を受ける。大学側ではそれに対応をするために事務局と教授連がいろいろ苦労をする。大学の組織を良く知る書き手の筆力で、いかにもありそうに書く。大学のあたふたする様子を、それが批判的でもなく、同情的でもなく冷静に描くので「そりゃ、大変だろう」と思い、なんとなくおかしい。
 もともと告訴した准教授がすこし自意識過剰で変らしいのだが、言うことがもっともらしいので、それに困らせられる様子が具体的で巧い。物語が終わらないで終わる円形回帰的結末でよく完成にこぎつている。なかなか、前衛味があってすすんでいる。こういう味を意識的の出せるには、相当作家的な腕力を身につけているようだ。同じ作者が「文芸漫遊記」(一)を掲載していて、それも面白く、いろいろな作家の講座を受けた経過が記されていて、書く意欲がにじみ出ている。こように書く題材によってスタイルが決められるというのは、学んだというより、努力か才能か、本人独自のもののようだ。器用なのかも知れない。未知数の可能性を感じさせて興味深い。こういうのを読むと自分は怠け者と思う。
【詩「盈」月岡祥郎】
 生活ではまず人に表現しない意識の流れ「何をしていても昔から」「漠然と遠くをみていたようだった」としながら、自意識のもう一つの精神軌跡を語る散文的詩で読ませされるる。
【詩「慟哭」「夢路」「旅愁」笹原由里】
 リズムがあって、ぬくもりも熱情も、ほのかな味で詩らしい詩作品。短詩だが、抒情があって長けりゃいいということではない。感性が詩人。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

★冬薔薇のドライフラワーを制作中。中段の黄薔薇、白薔薇、紅薔薇は完成。上の段のピンクの薔薇は、「気絶するくらいいい香り」がしています。こんな、いい香り初めて。夏も秋もこんなではなかった。花弁をバラしてポプリにしたせいか?日本の薔薇ですが名前がわかりません。下の段はまだまだです
★もうすぐ12月。伊吹杉のクリスマスツリーです。いい香りのバラも入れました。バラのドライフラワーはツリーの中で完全に仕上がります。これは、私のきょうの「詩」です。
★現代詩手帖「年鑑号」が昨日、届いた。いま、すこし読み始めた。詩を書くことについて、いまだに自分で答が見つからないが、福間健二氏の「震災以後の言葉」40P.下段、終わりから9行目以降に、深く、頷くものがあった。 40P.下段9行目以降を引用する。
「もっとも本質的なところで、詩は揺れたと僕は思う。日本のさまざまなものとともに詩は揺れ、いまも揺れている。前から腐っていた部分がとくに、である。それは、詩を書くだれのなかにもある。変化は以前からはじまっている。・・・・・」

伊吹杉を使って、壁掛けを作ることにしました。自然のものなので水洗してゴミを落としてから使います。黄土色の実はヘクソカズラという蔓。酷い名前ですが、*ヘクソカズラ (屁糞葛, Paederia scandens) とはアカネ科ヘクソカズラ属の植物の一種。別名ヤイトバナ、サオトメバナ。属名のPaederiaも悪臭という意味。日本各地、東アジアに分布する蔓性の多年草で、至る所に多い雑草。葉や茎に悪臭があることから屁屎葛といいます。万葉集にも1首しかありません。古名はクソカズラ(糞葛・屎葛)。「ざうけふに 延(は)ひおほとれる 屎葛(くそかづら) 絶ゆることなく 宮仕へせむ」高宮王(たかみやのおほきみ)フラワーデザインでは使い道はいろいろあります。

伊吹杉の生け花はこんな感じです。どの流派も基本は同じ。まんなか辺に伊吹杉があります。師範試験には必ずこの伊吹杉が出ます。幹を小刀で削って1本の木がそこに有るように筒に挿していきます。これが一番難しい。
http://www.niji.or.jp/home/white-river/seika1.html

★雑貨屋さんの駐車場に吹き寄せられていた大きな落ち葉。どこの木なのかわからないが、ドアが開くたび、風といっしょに舞い込む。入り口付近にはクリスマスツリーやリースがあるので、ツリーから舞い落ちたような錯覚に陥る。おもしろい形を拾ってきて、並べて見た。リボンをつけてみるとなかなか可愛い。

★外気温2度。晴れ。まぶしい朝。昨晩の木枯らしで庭が落ち葉でいっぱい。友人が送ってくれた「自由の女神の絵葉書」。フォトフレームに入れたらいい感じ。夏のよい思い出と記念。頑張ったね2012年の夏!・・・宮尾・北爪・小島の3人で行った、連詩をなんとかしないと、、と思うが。

★「詩と思想」12月号。特集は、「第21回 詩と思想新人賞」で、永方ゆかさんの「からくり」が受賞した。やわらかな言葉でリフレインが心地よい。選者は相沢史郎、高良留美子、森田進の3氏。★小島きみ子の書評2つ掲載。2冊とも新鋭叢書で手ごわい詩集だった。124P.に金子忠政詩集の書評。128Pに藍川外内美詩集の書評。お読みいただけると嬉しいです。
★ きょう購入したお菓子。ビスコとコアラのマーチ。ビスコは2.3歳のころの息子が大好きだったというか、食べやすいビスケットだった。クリームが食べられない子供でしたので、クリームを剥がしてビスケットだけ食べさせていた。パッと割ると片側にクリームがくっつくのです。ビスケツトはとけるような感じ。コアラのマーチは冬限定のを買ってみました。

★長野市の第一ホテルで、長野県詩人協会の「詩人祭」でした。四人の会員の詩の朗読と、二四年度長野県詩人賞の報告、講演、懇親会です。私も選考委員の一人で、選考委員長を務めさせていただいたのですが、今年度は該当作なし、ということを報告しました。講演は宮沢肇氏による「詩の行方を探るー忘己利他(もうこりた)の詩を求めて」でした。前半は井筒俊彦の「意識の形而上学」について。後半は鮎川信夫書簡→杉本春生詩集「冬の座標」の解説をされるという内容の濃い講演で、よい勉強をしました。
★講演の中で引用された井筒俊彦の「存在一性論」は興味深いものだった。3・11以後の詩の言葉は、今まで知っている文脈では語ることができない。自分を消去したところから、詩の感性は始まるという、有意義な内容だった。ともに探求していきたい世界だった。
★久し振りのバスの旅。疲れたので、帰りは新幹線で25分。料金は2.5倍。

 

仮装の森へ行こう

1.
恐るべき虚無と絶望の、新しい芸術の時代が始まるのだ、と言っていた傷痍軍人の叔父が脳に水を溜めたまま絶食をして逝った。移ろいゆく時代に抵抗し続けた人の最後の「下降」だった。そして、薔薇の聖母のように幼子を育てた銃後の未亡人であった叔母も、その日が終わろうとするとき、心臓が止まった。私と従兄は、彼女の内部に繋がっているあらゆるカテーテルを抜くことに同意したのだ。(第二次世界大戦の「悲哀」の、なにもかもが、一日のうちに終わった、そして私たちの「喪」が始まった)

2.
夜来の雨に打たれた白萩が一晩で散った朝、何の連絡もなく、一つ前の駅で降りてしまった講師のSを迎えに行きながら、モルト・ウイスキーの樽貯蔵庫を改装したM町の美術館へ、車を走らせていた。こんな日には、(天使の羽が毟られてこぼれてくるような)仮装の森へ行くのがいい。この美術館の 設計は、ジャン・ミシェル・ヴィルモット氏。広島市の平和の門も彼の設計で、《悪魔から世界を守る芸術表現》と言うのをどこかで読んだ。「悪魔から世界を守る芸術表現」と声に出して言ってみた。川沿いに霧が深まってきて、Sとの待ち合わせ場所が見えない。交差点を過ぎた桜並木で亡霊のようなSを発見する。

3.
叔父は死ぬ前に《日常的絶望は曲がりくねった千曲川(チューマガワ)に呑まれ、黒いユーモア詩集は、「移ろい行く相のもと」バロックな森の腐葉土に埋められた》と、手紙をよこした。そんなことをSとも話しながら、枯れ草のうえに舞い落ちた桜の葉っぱの写真を撮る。雑誌の表紙に使うのだ。彼と、ダンテの煉獄の話をする。研究の進み具合も尋ねる。近いの?あのニュースの場所。そうね、行ってみたい?…いや。内容があまりに猟奇的だったからね。でもね。川端康成の散文を読めば、安部定だって、すごく普通な人だったわけでしょ。純粋な愛情って、「単純な」って意味ではないもの。「詩」ってどこに在ったのだと思う?ねえ、S、黒いユーモア詩集のこと覚えている?ここはね、叔父の手紙を燃やした場所よ…あれは「詩」だったのかもしれないのに…腐葉土の下にいくつもの言葉を埋めた…叔母の薬指にはめられていた指輪も心臓に埋められていた小さな機械も。


★「詩の教室」。2階建ての建物は、昔は、西友のスーパーで、衣料品や家電製品も売っていたのが、クローズとなり、市が買い取り、改修工事をして、公民館活動と高校生の学習室として使われている。「詩の教室」は、12月までで研究会を終わる。毎月、新作を書いてきての合評。作品研究のテキストは2011年の「詩と思想」のアンソロジーを使ってきた。80歳を過ぎた高齢な女性の意欲はすばらしくて、「人ってこんなに成長できるんだ」と感慨深い。のびのびと自分のことを語ることができるようになって、人は何歳になっても、成長していくことができる存在なのだと教えられている。子育て中の若い女性もいて、若い人の感受性にも刺激される。年長の方の方言や、古語が詩の中で使われていると、それも成熟の感性として、そうした感情を知るよい機会だった。

10月後半から11月の詩集のメモ。雑誌は、中止の予定でしたが、注目する作品や雑誌もあるので、書かないわけにはいきませんね。


?翻訳詩集;ペドロ・シモセ詩集 細野豊訳「ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり」(現代企画室)・・・まず、「ペドロ・シモセ」という詩人について。帯の表文より。「キューバ革命を背景に、連帯を求める急進的知識人として出発し、軍政下で亡命を強いられ、「言葉を喪う」哀しみを経て、遥か遠くの異郷から、故国の風景と人びとを謳う。」ボリビア日系詩人の全軌跡の翻訳詩集。
?川島完詩集「森のガスパール」(本多企画)・・・後書きによると川島さんが親しんだ森は、江戸小伝馬町の牢破り高野長英を匿った森だった、とのことで興味深い森。
?ブリングル詩集「、そうして迷子になりました」(思潮社)・・・読みやすい。これは、大人の絵本だな、と思う。落ち着いている。ユーモアがあって知的だ。倉橋由美子の大人のための残酷童話、を思いだした。あんな感じ。現実世界では、3人の子の母。ですが、とてもかわいらしい感覚があちこちに出ていて、それはとてもみずみずしく新鮮。新鮮ということは生々しいことなのだが、「現実」が気持ちよく書かれていて、生々しい現実に惹きこまれる。大人のための文字だけの絵本だなと。風刺が効いていて、新鮮で生々しい。「ほらかあさんもうこんなになまくび」(なまくびスローモー64P)なんて、迷子のなまなましい現実です。
?疋田龍之介詩集「歯車vs丙午」(思潮社)・・・・・疋田さんの詩は、大阪芸術大学の「別冊・詩の発見」の雑誌で初めて読んだ。涼しい言葉使いで、いい感覚していると思った。詩集の中では「豆腐滋雨」などは、可笑しさと悲しみが最初からあって、いちばん好きかな作品。表紙と表紙カバーの関係もおもしろい。ヒョウシカヴァーの裏面と表紙の波線模様がなかなか「イキ」です。
?ヤリタミサコ詩集「私は母を産まなかった/ALEEENとMAKOTOと肛門へ」(水声社)・・・視覚的にすばらしい本。表紙カヴァーーは写真家の萩原義弘さん。ブックデザインは四釜裕子(しかまひろこ)さん。もちろん、詩という作品があっての詩集だが、詩篇に挟まれて登場する写真が、言葉と文字をさらにその言葉の肉の襞へいざなってゆく。現象とはイメージである。といえば当然すぎるが、言葉の襞、母を産まない、その肛門へと、言葉はいざなわれゆくのだろう。そうした愛の襞を美しく贅沢に現象させて「見せた」詩集。
?宮崎睦子詩集『美しい人生』(コールサック社)・・・鹿児島県種子島生まれ。現在福岡市在住の詩人。福岡県詩人会に所属している。
?北村朱美詩集『空の奥で誰か鼔を打つ』(東方社)・・・1945年生まれ。横浜在住の詩人。
?芳賀稔幸詩集『広野原まで(コールサック)』3・11以後の雑誌に発表した作品、この詩集ための書き下し作品で構成される、3章からなる110P.の上製本。「ひろのはら・・」とうたわれている辺りは、広野火力発電所の白い巨塔が望める旧警戒区域の検問所があった。解除されたとはいえ、北上が許されるのは、国道6号線で6?足らず。
*注;再度、芳賀稔幸詩集『広野原まで(コールサック)』紹介します。本の写真が無くて重要なことが伝えられませんでした。表紙カヴァーの裏の写真に注目してしてください。この場所は、童謡「汽車」に歌われている「ひろのはら」のことです。裏表紙の見返しに書かれている文章です。「ひろのはら」とうたわれている辺りは広野火力発電所の白い巨塔が望める旧警戒区域の検問所があった。解除されたとはいえ、北上が許されるのは、国道6号線で6?足らず。」なのです。*あとがきには、「楢葉の警戒区域が解除された。はたしてどこまで行けるか。国道6号線のJビレッジへ右折する辺りが旧警戒区域検問所があったところだ。警官が大勢交替で常駐していて、パトカーや、車窓に鉄線を網のように張り巡らせた大型車が、車道を塞ぐように並べられていて、バリケードのさらに奥で行く手を遮っていたものだ。・・・」 詩篇:神様へ「寝たきりの布団は海水で濡れて冷たすぎます/どうか、ふかふかで温かで真っ白い布団のなかへ/くるんでは下さいませんでしょうか」2連目を引用。
facebookにこの部分をアップしたら、エウメニデス43号へ、シェリーの論考をお寄せいただいた京谷裕彰さんより『竹村正人監督『反歌・急行東歌篇』の上映会FBイベントページ、およびDVDパッケージに使われている写真は広野火力発電所を臨む検問所前で藤井貞和さんが撮影したものです。芳賀さんの詩集のこと、竹村に伝えておきますね。というメッセージがあったので、忘れないようにメモをしておく。
?秋川久紫詩集『戦禍舞踏論(土曜美術社出版販売)』・・・2006年の第1詩集『花泥棒は象に乗り』で、第18回富田砕花賞を受賞した詩人の第3詩集。ブックデザインも和風で個性的。詩篇は「緋」「菫」「銀」「翠」の章から成る。散文詩もあるが比較的短いものがまとまった26篇。後書きまで92P.後書きは詩人による解説。詩篇ごとの内部ルールを作り、連ごとに文字数を制限したり、相似形やシンメトリーといった視覚的な効果を狙ったとある。音楽性や絵画性、映像的、演劇的な側面を重視したいともある。意欲的な挑戦。各章」ごとの扉は、装飾的なデザインであるけれど、文字が文字の規約を逃れていく感覚はあまり感じられないがどうなのだろう。前半の「緋」はおもしろいと思う。後半の詩篇は観念的な部分も見受ける。
?相沢正一郎詩集『プロスペローの庭』(書肆山田)・・・21篇の作品を所収する71P.上製本。著者6冊目の詩集。シェイクスピアの『テンペスト』のプロスペローの言葉。「われわれ人間は夢と同じもので織りなされている。はかない一生の仕上げをするのは眠りなのだ。」(小田島雄志訳)が、扉に置かれている。この、プロスペローのセリフは、私も詩集「その人の唇を襲った火は」に所収した長篇詩「JESUS LOVES ME」の中でも後半で用いた。シェイクスピアの時代のイギリスの現実社会は労働者にはかなり厳しい生活の現実があった。そんな彼らに楽しい夢を見させたのがシェイクスピアの演劇だった。現実逃避ではないが、ファンタジーの場所で息を抜くことが、実際の厳しいリアルをやり過ごすものであった。日本の現在の現実にあっても、見えないセシウムへの恐怖を1日中感じて生きる中で、いっときファンタジーが必要であると思う。その意味で、文学や音楽や絵画の芸術が果たす役割は、「神の御業」のようにあるのだと思う。
?岡野絵里子詩集「陽の仕事(思潮社)」・・・2007年からの詩篇25篇をまとめた詩集。全体が穏やかな温かさに満ちていて、恢復していくこころのように、その言葉を受け取った。68P.から「恢復期」の部分を引用する。
「朝ごとに/私たちは砕かれ/そしてまた満たされる/焼きたてのパンと共に/鮮やかに切り分けられる私たちの日//少しずつ/私たちは恢復していくだろう/まだ目覚めない者の夢/聴こえない声よ/だが/陽が止まる/新しい私たちの日に/気がつけば/夏になっている//」?細野豊詩集「女乗りの自転車と黒い診察鞄(土曜美術社出版販売)」・・・助産師であった母との思い出の詩集。明るくて爽やかで、幸福な読後感がある。職業を持っていた母が、自転車に乗って颯爽と妊婦のところへ駆けつけていく。その暗い夜を弟と二人で待つのだが、母いつも明るく帰ってくるのだ。「へい、ただあいま」と。中上哲夫の帯文には「わたしはどこから来て、どこへ行くのか、数々の出会いと別れをくり返しつつ、世界を漂泊する魂の詩人」とある。詩篇の終わりの方に「できることなら象のように」がある。「できることなら象のように/密林の奥の/だれにも知られていないところへ行って/ひそかにおれの軀を横たえたい」とある。
?八町敏男詩集『木の声(砂子屋書房』・・・34編、109Pのソフトカバー。2章に分かれていて、1章はほとんどのタイトルに「木」の文字が入る。著者5冊目の詩集。
?芳賀章内詩集『宙吊りの都市(土曜美術社出版販売)』・・・今年前半に詩論集も発行されている。作品、宙吊りから引用する。
「パンツが/空の端から/摺り落ちる先からしか/海はひろがらない/溺れている疾走/沸き立つ静止/貝殻が下へ下へ沈み/心音が はたはた/旗のように宙に翻り/それからゆつくり/海底に沈んでいく(省略)・・2章からなる、28篇の詩篇。東日本大震災以後の詩人の感受性が書かれている。後書きに「この天災と人災は、言葉の続く限り、人類・生物の課題となって消えることはないだろう」と述べられているが、私もそのように思う。絶望に襲われそうになる危機的状況の現在において、なおも言葉を繋いでゆくという作業によって、生きることができるように思う。
?新・日本現代詩文庫103「清水茂詩集(土曜美術社出版販売)」
?松井ひろか詩集「若い戦果(土曜美術社出版販売)」・・・1983年生まれ。「詩と思想」新人賞受賞の経験をもつ新人。詩集に挟まれていたメッセージに「8年ほど前より長谷川龍生氏のもとで詩をつくり続け、」とある。詩集タイトルの龍生氏によるもの。2章に分かれていて29篇の作品を所収。作品に「若い戦果」はない。表紙画に孔雀がいるので、「孔雀の家」という詩を引用する。「ひらめくスカートに隠れるようにして/ある日 やにわに わたしが消えてしまうまで/踊り続けてください/わたしのうちから 外へと/孔雀が一羽 飛び立っていくその日まで//」いろいろな趣のある作品が書かれていて、静かに爪先立って歩んでいるところがいい。スノッブであることは重要だ。深さはあとから追いついてくる、自分の個性や香りをつかんで走っていくことだ。
?為平澪詩集「割れたトマト(土曜美術社出版販売)」・・・表紙カヴァーのデザインがすごい、漫画本かと思った。新鋭、にふさわしい斬新で大胆な世界。?章に分かれていて、28篇を所収。後書きまで110P。タイトルの割れたトマトから。
「さんじゅうよんさいにもなって/母親にトマトをふたつ/おもいっきり なげつける//母は心臓が悪い/母は老化が早い/母は寝たきり//さんじゅうよんさいにもなって/母親にトマトをふたつ/おもいっきり なげつける//割れたトマトは/私の頭だったのか/母の心だったのか//先端から まっしぐらに/数々の ヒビが入り/ふたつとも/赤い涙を流していた//」
★雑誌・・・ほとんど備忘録。
?独合点第114号(金井雄二)
?DownBeat 創刊号(金井雄二)
?歴程no.581(歴程社)
?ぱぴるす 101(頼圭二郎)
?ガーネットvol68.(嵯峨恵子)
?耳空vol9.(北川透)・・・毛利一枝さんの写真にいつも惹かれる。
?そして。それから(大西美千代個人誌)2号。
?おもちゃ箱の午後 5(榎本櫻湖)・・・巻頭の田中勲の作品「物影論」読ませる。
?tab no.35(水島英己)・・・初めて読む雑誌。10人の同人。倉田良成さんの会。
?Loggia12ロッジア(時里二郎)・・・10月に送付されているので、1回は読んである。詩篇とは別な紙片が挟まれていて、「ロッジア」はベンヤミンの「ベルリンの幼年時代」のなかの一遍。それで、「内側でもなく外側でもない」というロッジアのような境界的なスタンスを詩に対してとってきたのだという。散文に「擬態」する詩。・・なるほどなあ、と感心。時里さんの長い長い散文に「擬態」する詩、を私はたいへんに興味深く思って読んでいる。この12は、名前のことから始まって、「人形の母がぼくを産んだ」という告白。「ぼくの名を埋めたような鳥の名を指す」鳥の声を調査している男。・・好きな世界。この詩を読んだ記憶が残っていて、私も新作の「とり屋」のことを考えていたのかもしれない。あー、あのころ長い詩を書いたことを忘れていた。エウメニデス44号に修正して掲載しよう。時里さんのホームページはこちら。http://loggia52.exblog.jp/i2/
?ガニメデ56(たなかあきみつ)・・・武田肇氏の後書きを読んでいて、楽しくて笑ってしまう。不謹慎とは思っていない。それから、たなかあきみつ氏のブロツキイの翻訳詩がまとまって読める。
?鹿129(埋田昇二)・・・129号と言う号数を重ねる、詩を何十年も書いて書きなれた集団の落ち着いた静岡の雑誌。
?ぶらんこのり14(中井ひさ子)・・・自分よりすこし年上の女性たちの、現実との過ごしかたや、」年齢を経ていくうえで変化し、成熟していく感受性というものについても学ばされることが多い。
?阿吽7号(たなかあきみつ)・・・北海道で発行される魅力的な雑誌。表紙が豪華。ガニメデについで、たなかあきみつ氏のブロツキイの翻訳詩がまとまって読める。
?「詩と思想」12月号。特集は、「第21回 詩と思想新人賞」で、永方ゆかさんの「からくり」が受賞した。やわらかな言葉でリフレインが心地よい。疲労している神経や傷ついた感受性の上に「そっと乗り、そっと降り、そっと触れ、そっと伏せる」ような気配を隠すような息遣い。いいと思う。ただ、最初から最後まで同じ場所にとどまって、この「そっと」が絡み付いてくるのは、わたしの感受性はあまり好まない。選者は相沢史郎、高良留美子、森田進の3氏。小島きみ子の書評が2つ掲載。2冊とも新鋭叢書で手ごわい詩集だった。124P.に金子忠政詩集の書評。128Pに藍川外内美詩集の書評。お読みいただけると嬉しいです。
?Griffon31(川野圭子)・・後書きに書かれている素晴らしい言葉。
「この国と地球の未来のために、黙ってはいられない。はあ歳じゃけえ、どうなってもええ。などとは口が裂けてもいうまい。」
?樹氷166(発行所)創刊60周年記念号

よい夜を。 - ポイエーシス

●詩集のお礼状を2枚書いた。夕方、急いでポストへ出しに行き、よく見たら1枚は80円切手を貼ってしまった。忙しいとこんなこともある。まだ、読んでいない詩集があって、読む。新しく届いた詩の雑誌がおもしろい。このごろ届く雑誌は、とてもおもしろい。いいと思う。紙に書いたメモを起こさないといけない。メモ、呆れるほど長い。読んでない本を読もう。・・・よい夜を。
詩集の感想は、11月30日にまとめて、アップします。

★さざ波のフォトフレーム。
★マジカルキャンドルのドライフラワーが完成したので、花束にして贈ります。手作り箱つき。これは、工作です。趣味;ギフトボックス制作です。
★「聖夜の羊」
★ローズサシェを綿レースで3個。
なかなかの数量。

Gazeとガザと。 - ポイエーシス

★イスラエルがガザ地上侵攻を準備か、7.5万人の予備役招集を承認、というニュース。「ガザ」はその昔、織物の都市だった。傷口を保護する「布」は、ドイツに輸出されて「ガーゼ」と呼ばれた。悲しい、名前。
★きょうじゅうに、原稿を2つ書き上げる。量が少ないほど難しい。
★秋の別れの菊。もう、咲き終わり。


(mama) 小島きみ子

けざやかな、光の舌を背中に感じる金曜日。ラナンキュラスの羽毛が舞い上がる、冬の幻。言葉の震えのように啓かれていく、あなたに啄ばまれた背中のGaze
《すみれいろの空だね》小鳥の声が、投げkissのように目に沁みるのは、病院の屋上から手を振るあなたの声が、聞こえてくるように感じるから。
白衣のうえを、翻るGazeのうえを、点々と飛んで、屋上から手を振る(mama)《ここから見送るから》手を振るあなたに手を振りながら、その夜に逝いたあなた。あなたの兄も、姉も、あなたと同じ病気でしたね(mama)桐の花が咲いたよ(mama)あたらしい糸を染めなくていいの?
夢のなかで糸を紡ぐあなた、機を織るあなた、一本の糸であなた自身を縫い上げた(mama)若いあなたを夢中にさせたもの。白い蚕たちが蛹をめざして透明に変体する、めくるめく夏の真昼。だれに知られることもなく、草のなかを歩く時は重なる罠のようだった指。指は、鳥の言葉で、二人の足に絡む草を結んだ。それは、創造される無限の網目のように、わたしたちの未来の、時間をも絡めとった。
《約束》という記憶。《約束》だよ、じゃんけんに負けたら、ずっと僕についてくるって。(ずっと僕についてくるって…)そんな《約束》をしたのは、勿忘草の咲く小川のほとり。そして、その人は。丘の上に立つサナトリウムの、白い林檎の花が咲く季節に。飛び交う紋白蝶のように、紋白蝶のように。この林檎の丘を白くまぶしく飛んで、それっきりでした。
なぎ倒された野の花の草いきれ。セピアいろの、無限の網目のなかへ落ちていったとき、窓ガラスに張り付いていた、黄色い鳥の羽。
あれは、鳥の王の墓に零れていた、ラナンキュラスの羽毛。鳥のことば。言語の網の目の《記憶》。樹の虚(うろ)の衷から、琥珀いろの慕わしい声でわたしを呼ぶのは、だれ? たくさんの鳥の声が、
聞こえるのは誰かを弔うため? 凍える、そらの震えが、冬のポプラにとどくとき、喪屋で眠るあなたの魂に新しい産着を着せる。great chain of beingの指の先。けざやかな、光の舌が背中のGazeを剥がす、羽毛の皮膚をそよがせる冬のまぼろし。うつくしい、千年の沈黙が、わたしの背中の羽毛を発情させる。(mama)わたしたちの子どもが生まれるためには、だれかが死ななくてはならなかったのですか。たとえそれがあなたであったとしても、わたしたちは愛し合わずにはいられなかった。
暁の、つる薔薇が匂う庭に、黄色の羽根を、徴のように落として行った(mama)鳥の遊びの日。奇蹟は、あなたを、再生するために。わたしはあなたを、わたしの子どもとして孕んだのですね。二人の足に絡む草を結んだ、great chain of beingの指の先。あなたがわたしにしかけた罠。言葉の震えのように啓かれていく、一枚のGaze白い林檎の花が咲く季節に、飛び交う紋白蝶のように。紋白蝶のように。


 クリスマス・ギフトの制作のために、昨日購入したものは「木箱とクリスマスリボンとキルト」だった。キルトは黄土色の生地に細かなモミの木。クリスマスカードと専用封筒の試作。いろいろなものをイメージして物を作ることは楽しい。自分のこの楽しさを誰かに贈って、その人が喜んでくれたら、もっと楽しい。高価なものではなく、高級品ではなく、身近にある自然を素材にして、「作る」ことができたらそれは暮らしを豊かにしていくことに繋がる。★マツカサ、木の実、などのセシウム汚染は大丈夫なのだろうか、と考え込む。野生のキノコが汚染されているとすれば、家の庭で栽培したものを使うしかないと思う。「自然」から生まれたもので、作れないとき、単純で素朴な喜びを奪うものが、3.11からの原発事故だ。そして、海の「もの」だけでなく、山の「もの」、日常生活のうえに今もなお、セシウムは降り続けているという現実は、絶望へと追い込んでゆく。この空しさのなかにあって、誰かの心に届く言葉を探してゆきたい。よい夢を。よい眠りを。

 ●リルケの「噴水」について
重要なことは、「わたしはただ噴水と自分とに起った一切のことを思い出せばいいのだ――」というところです。「水」と「自分」との間に起きた、輪郭のうえに侵入してきたものです。その時間は「やわらかな 期待にみちた夕暮れを背景としての」ときです。そして、「この下界は自分の思っていた世界ではないと言おうとしているような夕空が分るのだ」としています。ここは「瞬間」の入り口です。「彼等が孤独に泣くときに われわれの高さのあたりにいると思っている ひとりの神の隣人なのだ その神を彼等は信じたり 失ったりしている」という場所への。

噴水について(リルケ:富士川英郎訳)

突然わたしにはいろいろ噴水のことが分る
このガラス製の不可思議な樹々のことが。
巨大な夢にとらわれて
嘗てわたしが流し そして忘れた自分の涙のようにわたしはそれを語ることもできよう
では わたしは忘れたのだろうか 大空が両手を
多くの事物(もの)や 群衆の中へさしのべるのを?
わたしはいつも比類のない偉大さを見たのではないか?
やわらかな 期待にみちた夕暮れを背景としての
古い公園の上昇のうちに――見知らぬ少女たちの中から
立ちのぼる色あせた歌声のうちに。
その歌声は旋律からあふれ出て
現実のものとなり ひらかれた池に
自分の姿を映さないではいないかのようだ
わたしはただ噴水と自分とに起った
一切のことを思い出せばいいのだ――
そうすれば私は水を再びそのうちに見た
落下の重みを感じ
下へ向いてのびていた枝々や
小さな焔をたてて燃え上がった声や
岸辺の縁(ふち)どりだけを
たどたどしげに 歪んでくりかえして画いていた池や
炭のようになった西の森から
まったく疎遠になって立ちあらわれ
べつのを穹窿をつくって くれてゆき
この下界は自分の思っていた世界ではないと言おうとしているような夕空が分るのだ
わたしは忘れたのだろうか 星が一つ一つ石と化し
隣りの天体に対しておのれを閉ざしていることを。
さまざまの世界がただ泣きはらしたような眼で
空間のうちに互いを認め合っているのを?――たぶんわれわれは
夜毎にわれわれを見上げている
ほかの人間たちの上空に織りこまれているのだ たぶん彼等の
詩人たちがわれわれを讃えているのだ たぶん多くの者たちが
われわれを仰いで祈っているのだ たぶんわれわれは
われわれには決してとどかない見知らぬ呪いの的であり
彼等が孤独に泣くときに われわれの高さのあたりにいると思っている
ひとりの神の隣人なのだ
その神を彼等は信じたり 失ったりしている
その神の姿は彼等の探し求めるランプの中から
生まれた光りのように たまゆらに吹き消され
われわれの放心した顔のうえを掠めてゆく……

● リルケによる詩の美学「 造形美術の模倣ではなく手仕事から生まれくる現実を」
 二十七歳を前にしてリルケは、結婚して一年のクララの許から、パリにロダンを訪ねる。『ロダン』論執筆のためであった。一方、事物の正確さ、厳密さと真実を、どのように詩で表現すべきか。彫刻的な、書かれた事物ではなく、手仕事から生まれくる現実をです。素材の実体にはよらない具体的な表現手段を見つけださねばなりません」(ルー・アンドレアス?ザロメ宛)。 造形作家が石を刻むように、詩人は言葉を刻まなければならない。と考えていたのです。

農耕と生活。 - ポイエーシス

●おはようございます。外気温5度。曇り。先日、ダム湖へ行く途中の山間の村で高原野菜畑を発見。白菜を収穫、出荷した後です。白く見えるのは、切り捨てた白菜の下葉。1か所、青く見えているのは、「野沢菜」です。漬物工場へ出荷されていくと思います。山間の村の「畑」がどうなっているのか、とても関心があったので、よい勉強になりました。それは、自然と環境、農耕と生活、という文化を実際に見て、文章を書いていきたいと考えているからです。

冬の始まりの庭で - ポイエーシス

●冬の始まりの庭で、白薔薇が満開となりました。朽ちてゆくもののなかにあって白い光のような輝き。

●外気温9度。晴れ。無風。黄菊が満開となりました。よい1日を♪
●本来は夏の薔薇ですが、10月終わりから咲き始め、満開となりました。つる薔薇のレオナルド・ダ・ヴィンチです。秋薔薇はやわらかなピンクでかわいいです。11月の終わりには来春に備えて剪定していきます。
●外気温15度。今は曇りです。午前中、日差しが温かったので「冬の黄薔薇」満開となりました。紅葉が散る中で、咲く薔薇。美しくもたくましいです?
●ハヤトウリを初めて収穫しました。1本の木ですが、検索したら、1本の木でもものすごく実がつくみたいです。でも我が家はこのぐらいで十分です。
★ハヤトウリ(隼人瓜、学名:Sechium edule)は熱帯アメリカ原産のウリ科の植物。また、その果実のこと。果実を食用にする ... 日本では最初に鹿児島に渡って来たため隼人の瓜ということで、ハヤトウリという名前になった。
●実りの秋ですね。★カリンをいただきました。とってもいい香りがしています。去年はシロップ漬けにしたのですが。今年はジャムにします。風邪をひいたとき、咽の痛みを和らげてくれるようです。冬向きの食品ですね。*カリン(榠樝、学名:Chaenomeles sinensis)とはバラ科の落葉高木である。その果実 はカリン酒などの原料になる。

秋の別れ - ポイエーシス

*秋の別れ、とは「季語」であると、きょうのtwitterで知り、この言葉をきょうのタイトルとした。

●外気温8度。曇り。無風。きのう、きょうの朝の気温がこれでも高いです。秋薔薇の蕾が膨らんできました。
●物語のあらすじを考えたい。デンマークの古城がある。
http://www.wallpaperlink.com/images/wallpaper/2007/0709/03914x.jpg
●詩の雑誌・「エウメニデス?」43号のWeb版が発行されました。巻頭の論考は、京谷裕彰さんのシェリー論です。
●毎日毎日、冬に向かって、冬の準備をしている野生の動物たち。シマリスもそうです。近所の公園でも見かけますが、写真はなかなか撮影できません。シマリス(縞栗鼠)は、ネズミ目リス科シマリス属の動物の総称であり、日本ではその中でも特にアジアに分布し、日本国内にも生息するTamias sibiricus(シベリアシマリス)を指してシマリスと呼びます。

★エウメニデス43号、紙版の発行部数は少部数なので、Webでご覧くださいませ。
エウメニデス四三号目次
エッセイ
「詩は、幼児であれよ」とシェリーもさけぶ   京谷裕彰

オペラ、水族館            小笠原鳥類
禁猟区――ハンス・ベルメールの遊星  たなかあきみつ
(日々は汝が織りし布片をほどく……)ヨシフ・ブロツキイ/たなかあきみつ(訳)
あなたに               小島きみ子

エッセイ
逆説を生きる―For indeed, the kingdom of God is within you.(Luke 17)
    水島英己
荒野のおおかみの語り、あるいは騙り          廣田恵介

小島きみ子作品集
タッチ               

編集室

(合計12本です) - ポイエーシス

●7時の気温8度。無風。晴れ。土曜日の霜ですっかり傷んでしまったミニトマト2本とトウガラシ2本の木を生ごみで片づけました。長い間、楽しませてくれてありがとう。菊は、霜が降りても元気です。
●そんなわけで、早朝の庭の片づけと、唐辛子の木の片づけがなかなかなたいへんだった。枝を払って、木を引き抜く作業がなかなかのもの。自分と同じ背丈(163センチ)のトマト2本。庭の唐辛子、パセリ2+2本。夏、秋と巡ってきているので、根しっかり回っていてこの「根」の太さにビックリ。畑の中辛唐辛子3本も引き抜いて片づけ。ついでに、おでん用の大根を3本引き抜きました。★さて、何本の野菜の木を引き抜いたでしょうか。(合計12本です)・・・ロシアの昔話の「大きなカブ」知っていますか?あれくらいの力。知らない方はこちら→http://www.youtube.com/watch?v=0OzPozJREzg

たいへん、お待たせいたしました。
詩の雑誌エウメニデス第3期・43号、Web版公開しました。
http://eumenides.sakura.ne.jp/eu/ どうぞよろしくお願いいたします。
エウメニデス四三号目次
エッセイ
「詩は、幼児であれよ」とシェリーもさけぶ   京谷裕彰

オペラ、水族館            小笠原鳥類
禁猟区――ハンス・ベルメールの遊星  たなかあきみつ
(日々は汝が織りし布片をほどく……)ヨシフ・ブロツキイ/たなかあきみつ(訳)
あなたに               小島きみ子

エッセイ
逆説を生きる―For indeed, the kingdom of God is within you.(Luke 17)
    水島英己
荒野のおおかみの語り、あるいは騙り          廣田恵介

小島きみ子作品集
タッチ               

編集室

霜月。 - ポイエーシス

●家庭菜園の師匠から、落花生をいただいたので、「茹で落花生」を製造中です。冷凍保存します。だんだん自給自足の自然生活派になりつつあります。
●カラマツ林の中に1本だけ楓の木があり、紅葉に、足を狩られてしまった、霜月。
●新蕎麦の季節になりましたので、週末と日曜日だけ開店する山の中の蕎麦屋さんに、お蕎麦を食べに行ってきました。標高が800m位のところです。冬の服を着て行ってよかったです。お天気はいいのですが、山の中は寒いっ。

今朝6時の外気温、なんと3度。寒いっ。白から緑から変化していたマジカルキャンドルも冬の色に変わりました。

有島武郎の『一房の葡萄』をふと、思い出していました。「それにしても秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。(青空文庫)」紫色に色づいて美しく粉をふく葡萄は実家にありましたが、今はありません。あの葡萄の木は、いつ無くなったのだろうと思うのですが、思い出せません。『一房の葡萄』は小学生のとき、担任が読み聞かせしてくれました。写真は、信州の白ブドウ(生まれはアメリカ)ナイヤガラです。

箒もろこしで作る座敷箒のことを興味深く思っていたのですが、長野県松本市にも、職人がいました。良かった。信濃毎日新聞の新聞記事より。

誠文堂新光社・藤井旭著「月と暮らす。」を読む。写真が綺麗で、解説がわかりやすい。詩集が何冊かきているので、それも見る。大切な詩集を忘れている。

それで、久しぶりに本屋に行き、ようやく、水島英己さんが、エウメニデス43号のエッセイで述べている大澤真幸著『夢よりも深い覚醒へ(岩波新書)』を購入した。他に2冊。3.11以後、なんでもないような貌をして生きていますが、この日常はほんとうは、それ以前から空しいものです。それ以後は、この空しさを胸元に突き付けられたのだと思います。けれども、私たちの上にどんな災難や別れがこようとも「愛そのものが失われることはない」のです。
★もう1冊は、中公新書 村田奈々子著『物語 近現代ギリシャの歴史』は、帯の裏の「ヨーロッパ文明揺籃の地である古代ギリシャ文明の輝きは、神話の世界そのままに、人類史の栄光として今も憧憬の的であり続けている。」に惹きつけられました。7月ごろからヨーロッパの神話を読んできていましたので、先の2冊を手にしたあと、もう持っていました。ローマ人とギリシャ人の違いは以前から興味のあるところでした。facebookヘ、写真をアップしたら中公新書は、薦田さんの勤務先だった。
★橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書・・この新書の出来栄えはなかなかいいと思う。表紙カバーかと思ったら幅広の帯で、最後の晩餐の画。裏が5人の人々の解説短文。高橋源一郎さんが「ぼくのゼミの必読書に決定しました」と書いています。
★冬の月もいいけれど、信州の冬は寒いので。藤井旭著「月と暮らす」誠文堂新光社・・・写真がさすがにプロのカメラマンですから綺麗です。解説も丁寧でよいです。

2012年10月31日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「料理教室の日」堀井清】
 男の高齢者たちの料理教室に瀬川は通っている。家には90歳を超える父親がいて、奥さんが世話をしている。その奥さんとは朝、瀬川が家事の手伝いをしないということで喧嘩になり、離婚を口走ってしまう。というように話を紹介しても仕方がない。独特の静かで流れるような文体で、そのなかに激流も澱みもあるという、じつに音楽的な作風なのだ。そして考えさせる。高齢者の夫婦関係と孤独をテーマに登場人物に事件が起きるが、それがリアルさを象徴性に変える手法に舌をまくというか、感嘆させられる。この作風がいつも安定していて、繰り返し読んでもあきない。年代層にもよるであろうが、誰が読んでも興味深いであろう。文体スタイルに作者特有の美学がある。
 本誌に「ずいひつ・音楽を聴く」(61)も書いているが、オーディオマニアだった作家・五味康祐の時代からの愛好者とある。吉田秀和も長命であった。自分はメーカーの注文で、各地のオーディマニアを訪ねたことがある。懐かしさを感じる。
発行所=〒477?0031東海市加木屋町泡池11―318、三田村方、文芸中部の会。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

2012年10月30日 (火)、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本号の表紙には1968年の小樽―滝川間の電化開業の写真がある。電化製品の電化という言葉が、SLやジーゼル機動車などだった鉄道の電車化からきた電化であるという証拠であろう。同人が東京や埼玉にも存在するのが、鉄路のネットワークが見えるようだ。
 また第26回鉄道文学会全国大会が11月23日(金・祝日)に大阪市グランディア大阪で開催するとある。
【創作「粋・蝉・華を咲かせて」米田勉】
 68歳でがんで亡くなった本山徹という友人を偲ぶ話で、実話からとって創作にしたように思える。本山氏は役所を定年退職後、65歳で作詞、作曲、歌手になって上京した。奥さんは反対したが、「お母さんがいないとそばにいないと生きていけない」といわれ、一緒に上京するところは泣かせる。それがCDデビューをしてからがんで倒れた。11の章にわけてその人生を描く。亡くなった友人を偲ぶ話は自分も書いているが、これはこれで気持ちが出ていていい。いろいろなアプローチの仕方があるものである。
【随筆「妻の入院」松田静偲】
 昭和32年ころ、小さい子供がいて母親が突然病気で入院、手術することになった。母親に会いにくる子ども達も、寂しさに耐える。父親の立場から、妻の快復するまでを、思い入れ強く、ほのぼのとした雰囲気を淡々と描く。すでに亡くなった妻のへの思い出は永遠である。なによりも身近な出来事のなかに、これほ不変性のある題材があったかと、改めて日常の時間の大切さを感じさせる。
発行所=札幌市北区北三十四条西十一丁目4番11一209号、北海道鉄道文学会。
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

★さて、土曜、日曜とすこし忙しくて、郵便物を見ていなかったのですが、「詩と思想」11月号が届きました。特集は、「今日の名詩」です。それから、84P,に「来年度のお知らせ」があります。「読者投稿作品」を小川英晴氏と小島きみ子で選者をさせていただきます。良い読み手であるように頑張ります。どうぞよろしくお願いいたします。たくさんの投稿を期待しております?

飯能市の詩人、宮尾節子さんが企画したtwitter連詩「poetic wonder30」が冊子になりました。七尾旅人さんを先頭に、お題「身投げする音」の30人の連詩です。今日発送するエウメニデス43号と同封させていただきました。エウメニデスも本日で発送作業は終了しました。やれやれ、忙しかった。
twitter連詩「poetic wonder30」はこちら。http://togetter.com/li/356650

雑貨店へ入ると、もう店内は「クリスマス!」でした。クリスマスのアレンジメントを考えなくちゃね。で、モールのように可愛いミニトマトたち。ミドリちゃん、イエローミニ、オレンジパルチェ、トマトベリー、レッドミニ。緑?赤はクリスマスカラーですね。

昨日は、市の中央公民館で詩の教室でした。外へ出ると、ものすごい寒さで、冬のコートを着ている人が二人もいてびっくり。それで、私もアクリル毛の靴下を自分にプレゼントしました。でも、これを履くと、パンプスは履けません。スニーカーは履けます。


鳶と流体と(ソラ)と

そして、いつしか日が暮れた。熱射の青い布のなかでいくつもの唇が発する(ソラ)という音響に包まれて、(そらいろ)のソケットのその繋ぎ目にわたしはわたしの唇の影を押し当てて、ゆるやかに彼を覆う。彼は、疲れた翼状片の網膜のうえに、変形したその鉄族流体の(ソラ)を増殖させている。経験とは、変化を遂げることだ。(そらいろ)の流体は、次々と困難なものを連結する。壊れた街、壊れた感情、壊れた…壊れたものへの愛。

わたしと彼は、街の工場で流体の研究に熱中していた。作業服は機械油に塗れ、クリーニングに出すのに忙しかった。創造とは、触れ合うことだった。わたしたちは、愛が始まるときのように、新鮮な生き物としてあった。

火山の噴火のあと、十一月の恵比寿講の街はひどく傷んで、その景色が外国の芸術家によって、青い布で覆われた日。ブルークレストの巨木を超えて高い位置に張られた布の皺の
波模様から、(ソラ)と明るい音階が降って来た。(ソラ)とその音を真似して口笛を吹くと、「音」は、鳶の翼に乗って、わたしの肩に乗った。耳元で甘く「僕だよ、おいで」と言うので、わたしはその「音」の唇に唇を重ねた。表皮が剥がれるような冷たい鳶の息が舌の上に流れ込んだ。初めて知る動物の匂いが、気道から肺を満たして血流から脳のなかに(そらいろ)の鳶の像が描かれた。創造の第一段階だった。

かつては、古い鉄族であったわたしが、すべらかな震えの機械油で削られて、やわらかく輝いた。慣れ親しんだ恋人の気配をようやく察知したが、鳶の姿は今までの記憶には存在しないものだった。プラズマ溶射によって新しい皮膜が形成されたのだ。わたしは、彼の中にもいるし、わたしの中にも彼はいた。確かに波の揺れのなかにいて、波と呼ばれる流体そのものだった。わたしたちは創造のなかに閉じ込められようとしていた。

(ソラ)はわたしをも(ソラ)と呼び返し、その声は今までに無い深い愛撫でさえあった。これが電磁波というものの愛し方かもしれなかった。まさか。わたしたちが創造したものは、電磁波の愛?(わたしたちは)すっかり嬉しくなって、もっと優しくもっと美しくもっともっと…とさらに深い深い愛になろうとした。そんな満ち足りた気持ちを、ぐんぐん引っ張っていくものがあった。心の中に何かが生まれて、飛び出していくような。美しいものへ向かっていく気持ちがあった。口笛を吹いて(そらいろ)の高速流体になっていく像がすぐに描かれた。わたしたちは、冷たい獣の匂いで融合と拡散を繰り返しながらさらに激しい光沢を求めた。わたしたちは、金属として、どのような部分からも結合することができた。

…いつしか日が暮れた。熱射の青い布のなかでいくつもの唇が発する(ソラ)という音響に包まれて、(そらいろ)のソケットのその繋ぎ目にわたしはわたしの唇の影を押し当てて、ゆるやかに彼を覆う。彼は、疲れた翼状片の網膜のうえに、変形したその鉄族流体の(ソラ)を増殖させている。経験とは、変化を遂げることだ。(そらいろ)の流体は、次々と困難なものを連結する。壊れた街、壊れた感情、壊れた…壊れたものへの愛。

…それなのに、なぜだろう。壊れたものを修復するための流体であるのに、もう、わたしはヒリヒリするのだ。彼の充血した眼は、もはや、わたしを映すことができなかった。わたしたたちは、再び別の何かによって壊されるのだ。生きるものたちの世界の掟によって。結合している像に何かの力がかけられている。わたしたちの愛は、別の愛されるものへと向かうのだろうか。わたしたちが創造したものは、愛ではなかったのか。この苦しみは、愛であるがゆえの苦しみではないのか。

(ソラ)と名づけた、ブルーの波と光の流体。壊れたものの血流のなかに流れ込んで、その傷んで破壊された愛しいものを、あらたなる像へと回復し得る力に変化する連結器、高速気流の流体なのに。ああ、つないでいる手の指先が、たまらなくヒリヒリするのだ。愛しい、ということは、壊れやすいということだったのか。この喜びがこんなに苦しいなんて。わたしたちを引き離す別の波がもう押し寄せている。もっと強い、もっと高い位置の(そらいろ)の鳶の唇が必要なのか。新生とは、物質の変状を体内に取り込むことではなかったのか。ああ、マテリアルの手が、プラズマ溶射の皮膜を剥がそうとしている…。

エウメニデス第3期・43号の発送作業をしています。関東の方は、日、月あたりに。関西から先の方は火曜ぐらいでしょうか。クロネコは3?4日かかると思いますので。それでは、良い夜を♪
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★秋の手紙

寝たり起きたりしているち、
屋根の上に小鳥が来ている。
櫟の実を食べに来たキレンジャクかな。
秋菊が薫るベッドの上で葉書を六枚書いた。
御本を送ってくださってありがとう。
知っている人もいるけれども、
会ったこともない、
あなたに、
ありがとう。
休んで。
というけれども、
病気にでもならなければ、
おちついて手紙を書く時間がないのです。
物を書く、ということは、
その感覚を毎日養っていないと途切れる。
それこそが地獄。
生死をかけた熱地獄のなかへ、
自分から飛び込んでいけるのです。
それが果てしない喜びだなんて。


★奈落の底で生まれ変わるものよ     小島きみ子

奈落の底で生まれ変わるものよ。
夏よ。きみはいつのまにか過ぎていったね。
わたしのなかに熟さない言葉を残したまま。
シラカバの梢を抜けてシャラの茂みを揺らす風の向こう。
樫の木の下のベンチにオレンジ色の正午の光がきている。
プールから上がってきたばかりのきみは何の躊躇もなく
クローバーの上に寝転ぶ。FREAKSを読むわたしの足元で。
いくつものキスを投げる、きみ。照らされた産毛が光っていたね。
わたしの指にこぼれる木の葉のざわめきと。
腕に這う幾つもの嘆きの舌。すべらかなパスカルの言葉のように、
ポプラの葉がそよいでいたね。
風がひどく高鳴って。ああ。もう、本など読めなくて。
目を上げるときみはいなかった。
夏よ。あのとき。きみは満足そうにわたしの濡れた髪を乾かしてくれたね。
くめども尽きぬファンタジーを心に焼き付けて。
そして、秋の図書館の窓ガラスにきみのあのヒヤシンスヘアーの翳が
映っていたのだ。

★文化のなかの詩 昔、脱臼した左肩がまたイヤな感じで痛みだした。 夜、しばらくすると痛みで起きる。 明け方、死んだはずの人びとが心配そうにやってきて、やさしく微笑む。 「そっちのみずはあぶない」と言っているらしい。 セシウムのことだな、と思う。 ・・・こっちの水は苦いのかもしれない。 片づけをしながら、散文のための資料がたくさんそのままになって、 書きかけの大学ノートが何冊も見つかる。 労働に集中してきたからな、と思う。 「物を書く」ということに集中していくことができたらどんなに幸福だろう。 心にひっかかていた、本や雑誌、ノートが見つかってほっとした。 書いていこうと思う。 それはとりあえず「詩の精神のノート」としておこうと思う。 文学ではなく、労働から考えてきたことだ、それは、文化のなかの詩だと思う。

<2012年10月18日 (木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:納富>

和田信子さんの「洗面台」が秀作です。
環境が私とは全く違う家族の話ですが、身につまされて、身につまされて、読み終えたら、涙が。
頑固な義兄と弟嫁の暮らしの話ですが、余韻を残す小説でした。

白薔薇のアレンジメント
画像の確認

 寝たり起きたりしているうちに夜になってしまったので、しっかりしようと思う。・・・今月末締切の下書きを書く。文量は少ないけれど中身はたくさんだし、気を遣う。何事も早め早めの準備が肝心というもの。病院の薬のほかに、生薬人参エキスが効いてきた気がする。3・11以来、滅んでいく日本の国土と日本人の未来を考えれば、強いスピリットを持たなければ詩など書いてはいられない。新人詩人の詩集も、ただただ趣味や流行の行替えを使っただけのものは、つまらなくすぐ忘れ去られるだろう。言葉の前衛とは、あらゆる芸術言語の前線で書いていることをいうのだ。なにがしかの疾患の病的な告白は、表現とは言わない。それの区別は難しい。しずかなたたずまいの、深いことばを、つまりは知性ということだが、そうした言葉との幸福な出会いがあるといいと思う。
・・・今年も、もうわずかで終わる。きょうも、新・詩集が届いた。

★詩の雑誌・エウメニデス?.43号は、10月25日・発行の予定です。執筆者は、小笠原鳥類、たなかあきみつ、水島英己、京谷裕彰、廣田恵介の各氏と小島きみ子です。紙版とweb版を発行します。どうぞ、お楽しみにお待ちくださいませ。

★宮尾節子さんの呼びかけによるツィート連詩に参加しました。6日目の「おいしい水」を森山恵さんのあとに繋げました。すばらしい仲間たち。
☆同時多発ツイート連詩【おいしい水を 完全版】pw10スペシャル・自由参加式。 http://togetter.com/li/385569 まとめました。どうぞ、ごらんくださいませ!

★6日目のおいしい水
透明にかたむく秋の水。私の喉元にも野ぶどうにも注がれる。町へ行ってパンを買いましょう。素朴な田舎パンを買いましょう。青とオレンジ色のキノコを挟んで一緒に食べましょう。天のグラスが傾いて、森の奥の水源地を満たします。(おいしい水を6)森山恵さん

森の泉のほとりで、あなたは言った。O lieb, so lang du lieben kannst!(おお、愛しうる限り愛せ)と。水の妖精メリザンドの儚い運命を知りながら、あたかもそれのように禁断の恋の泉の水を飲んでしまったのだ。野葡萄の実も食べ尽くして。(おいしい水を6)小島きみ子

漏れがあると思いますが、ご容赦ください。その上、重複記事もあります。ご容赦ください。
時間の許す範囲で、記事にしてきました。お礼は、お手紙を書きましたが、すべてではありません。自分の思索、詩作を優先させていただいています。

★四月・最終週にとどいた詩集・詩論集・雑誌その他
詩集
里見静江詩集「雨のち晴れ(土曜美術社出版販売)」
詩論集
八重洋一郎著「詩学・解析ノート わがユリイカ(澪標発行)」・・・言語と宇宙の徹底的解析から詩の根源が探られる 全く新しい詩学誕生!(帯文より)

雑誌・その他
回遊第44集(南川隆雄)
4B 3号(南川隆雄・中井ひさ子)
2012 現代詩(日本現代詩人会)
日本現代詩歌文学館研究紀要<界>を歩む、富永太郎 (権田浩美)
石の詩 82号(渡辺正也)
CALSACK72号(コールサック社)・・・鈴木比佐久雄さんが285P.で書評を書いてくれた。しっかり読んでくださってあり、感謝。
★5月・順番が前後していますが、とりあえず。
詩集・詩書・雑誌
(最終)
1.岸田裕史詩集「メカニックコンピューター(澪漂)」
2.現代詩展望? 詩人の言語空間 中村不二夫(詩画工房)
3.詩誌・モーアシビ26号(北爪満喜)
4.詩誌・かねこと2号(北爪満喜)
5.月刊詩誌・柵no.306(志賀英夫)
6.寺井青詩集「チルトテイソグナ(土曜美術出版社出版販売)」タイトルの意味が?
7.詩誌・東国143(小林茂)
8.嶋岡晨詩集「終点オクシモロン(洪水企画)」これもタイトルの意味が?でも、すこしだけ読んだが、怖いことが書かれている。
(1週目)
?おもちゃ箱の午後 4 (小林坩堝)
?サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち 5(小林坩堝)
?きょうは詩人 21(万亀佳子)
★6月
*詩誌・ひょうたん46(小林弘明)/詩誌・ユルトラ・バルズ19(小林弘明)詩誌カラ12(小林弘明)
:詩集・コールサック詩文庫8「鳥巣郁美詩集」・高田真詩集「花族」RUE書房
:その他・広瀬大志「ぬきてらしる」・・・なんというジャンルに入るのかわからないけれども、おもしろいぞ。 そんなわけで、手紙を2通書いて、雑誌エウメニデスのバックナンバーを発送する。
★7月
*七月の詩集:
藪下明博詩集「卵屋のじっちゃの幽霊屋敷(アトリエOCTO)」・・・これもおもしろかった。著者は、詩学、詩手帳、詩と詩想、へ投稿していたという。そこでの佳作作品の改稿であるらしい。とてもエロチックだけれど、大人の書き方。若い人の詩のなかでのエロや怪奇と違って、体験?を踏まえた幻想なので、醜悪さはなくておもしろかった。
*七月の雑誌:モンマルトルの眼鏡創刊号(榎本櫻湖)・・櫻湖さん、充実しているなあ。創刊号「モンマルトルの眼鏡」では久石ソナさんの「ごみを拾う少年」がおもしろかった。どこかの国で、ごみを拾っていた少女がモデルになって成功していく話をふと思い出した。「ごみを拾う少年」は美しい。 臍帯血withペンタゴンず第弐号(榎本櫻湖)・・・・「臍帯血WITHペンタゴンず」第弐号では、野村龍さんの「トトリ」がおもしろかった。龍さんは「昔は 自家中毒 というものがあって 幼い頃 母はやさしくしてくれた」切ない。私は、昔はそういう病気に憧れたがならなかった。暁方ミセイさんのデトリタス見聞、44P.の括弧の中の言葉が、静かで深くて、求めているものがそこに在る。とてもいい。(黒庭。)のそこに。
●詩集
 『思想は散文の中に住むが、ポエジーを手伝い、監督し、またこれを導く』と(Paul Valéry )が言っている。                 
 倉田良成詩集「グラベア樹林篇」はおもしろい。このあと、詩集のなかに誤りがあったとかで正誤表と、「小倉風体抄」と具体性の詩学「椨的思考」をお送りいただいて、自分の勉強の合間に取り出しては読んでいる。散文詩、なのだけれどもヴァレリーの上の言葉に重なると思っている。「椨的思考」はまだ、ぱらぱらと捲っている段階で読めてはいない。7月の初めにお送りいただいてひと月も経過するので、読了しなくてはと思う。具体性の詩学、A4版2段組であとがきまで、151P.ある。文語文の豊かさというのは、日本の季節感と文字で表す言葉が一体となっていることだと思う。古代について言えば、神話というものが現実と平行して人々の日常生活に在ったということ。あらゆる「物」に神が宿っていて、人々は物の神を敬って生きていた。自然を征服しようなどという考えではなく、「自然とともに在る」暮らしだった。それは、おそらく「敵を殺す」という必要が、部族が統合されていくまでは必要のないことだったと思う。「統合」とは、婚姻と言語に関わることになるので、このくらいにしておく。船田崇詩集「旅するペンギン(書肆侃侃房)」もおもしろい。6月に発行されていますが、ブログでは書かなかったので。「人間堀り」とか「老婆」などは、現実ではない非日常の「詩の世界」が表現されている。まだ、ほかにも書かなくてはならないかもしれないが、本人に書いたとおもうので、省略します。(風邪のための頭痛が続いていますので)

雑誌
孔雀船vol.80. (文屋順)小柳玲子さんの「絵に住む日々」ボッシュの絵。これが夢に現われたことの述懐。興味深い。                 
★8月
先輩女性詩人の全詩集・選詩集
?下村和子全詩集(コールサック社:509p.5,000円)・・・1932年兵庫県生れ。 ?池谷敦子選詩集「合図」(美研インターナショナル:285p.1800円・・・1929年静岡県生れ。
今週、お送り頂いた雑誌など。
写真のアップでお礼といたします。・・・8月の写真みてね!
雑誌:?ハリマオ?独合点?ピエ?仙人掌?プリズム?アダムサイト
★9月
望月遊馬詩集「焼け跡」と秋亜綺羅詩集「透明海岸から鳥の島まで」という、この二冊の詩集に共通しているのは、この二人が久しぶりな「好青年」だということかもしれない。望月さんは「現在の」、秋さんは「今もなお」。それから、青トマトのカレーピクルスを作ったり、吉本隆明「家族のゆくえ」を読んでいました。文庫ですからすぐ読めます。思潮社現代詩文庫「中本道代詩集」197.も、セレクトされたいい詩集だと思う。中本さんの魅力的な詩と散文が、さらにさらに美しい。光がつけた疵から声が漏れてくる
雑誌では。
?まどえふ第19号(水出みどり)?石の詩83号(編集発行:渡辺正也)?観覧第95号(編集発行:日原正彦)・・・・表紙が日本画に変わった。?しある49号(編集発行:丸山貞子)?ユルトラ・バルズvol19(中本道代)?ぱぴるす創刊100号記念号(頼圭二郎)・・・・100号記念号!100という数字はここまでの苦労は並大抵ではない。?侃侃no.18.(編集発行:田島安江)
雑誌では、「Aa 」5号、編集がおもしろい。「ニコニコした魚の起源に浮かぶ酒のはなびら」、このタイトルで5人のメンバーがつなげる1篇の詩という編集なのか。1回、読んだところ。読み込んでいきます。・・・「湖畔」の始まり2行は特に美しく、18Pの1行目はおもしろく、20Pの1行目も惹きつけられます。32P.「いつも紐といていた姉さんのノート」にはいろいろ連想させられ、「おだやかな寝すがたで息をもつ」は穏やかないいものが伝わってきます。
●先輩女性詩人の詩文庫2冊。
?コールサック詩文庫vol8.鳥巣郁美(1930年広島県生まれ)詩選集142篇。詩と散文詩とエッセイによる、充実の詩選集。特に1959年刊の第一詩集「距離」のタイトル詩「距離」は、当時の時代背景から見ても、ひとりの女性の自立した主体が表現されていて優れている。散文詩では「蓮池から」が文字から香り立つ蓮池の周辺を表している。
鳥巣郁美さんの詩の言葉の中に「凝結した心/それはひとつのしたたりを生むのだ」というのがあります。長い詩篇で引用しませんが、「黒蝶」という作品です。黒蝶というのは詩篇のなかでは「空洞」と受け止められますが、これは「虚無」を意味しています。「時間のすき間で/びっしりと埋まった菜種畠の上を/とおく一匹の黒蝶が舞い上がってゆく」。存在のありように向かってすすんでいく、いい詩です。
?コールサック詩文庫vol.9市川つた(1933年静岡県生まれ)詩選集158篇。大塚欽一氏の解説がこの詩人の全体像を豊かに述べている。初期詩篇の「白い墓標」「自殺者の墓」などが優れていて、この詩人の目標とする核がすでに在ったと思う。

●植村勝明詩集「王国記(土曜美術社出版販売)」・・・これは「王国」と「わが神学」の2つが合わさった詩集。個人的には、とても興味深い。好きな人はたまらなくおもしろいけれど、なんのことかわからない人もいるかもしれない。帯文には、ちょっと怖いことが書いてある。気にせずに、どんどん読んでしまった。後書きも、詩篇の続きのようで実におもしろい。詩人はすでに「失望」も「絶望」もやりつくして、「このあと王の政治は国民からその血を取り戻すことである」と巻頭の最終行で記したのだと思う。心して、読み進みたまえ、ということかな。
「ゼラニウム」14P.4行目を引用。「先の王が戦場で深手を負って倒れたとき、牧童出身の兵士がその傷口を見慣れない草の葉で覆った。蠅がたかるのを防ぐためである。王は、結局助からなかったが、終わりに臨んでその植物を故国に持ち帰るように命じ、「通りが花でいっぱいだ」と言うや息絶えた。
★10月に届いた充実の詩集、3冊。
●佐川亜紀詩集「押し花(土曜美術出版販売)」・・すべて既発表作品に手を入れたもので、?章からなる32篇。2004年の詩集発行から5冊目の詩集。東日本大震災と原発事故の作品を含める。
●みくも年子詩集「癌・無期限治験ワクチン(土曜美術出版販売)」・・タイトルに先ず、ドキリとする。みくも年子さんが大腸癌の告知を受けてから、開腹手術を拒み、丸山ワクチンの治験対象とした、闘いのすべてが詩として差し出された。記録詩。もし、「癌」の告知を受けた読者がいたとしたら、その病への心構えというか、対峙の在り方というか、そんな心配ごとのいろいろが、リアルに科学的に、共感しながら読めると思う。癌克服への挑戦が、詩を書くということと並行してなされたことに感動する。
●中村不二夫詩集「House(土曜美術出版販売)」・・・まず、司修氏の装丁デザインの美しさに惹きこまれる。著者5年ぶりの詩集で、「この詩集では、東日本大震災を経て、何があっても前向きに生きるという意味で、希望の家というものをキーワードに置いてみた」と後書きにある。巻頭の作品は「希望の家」つぎに「光の家」。そして荒野を行く者。一色真理さんの帯文にあるように「顔をあげて、前を向こう」と思う。 詩集は3章に分かれていて、2008年から2012年4月までの作品がセレクトされている.
★10月の雑誌
repure15(たなかあきみつ)ADAMSITE22(横山徹也)ピエ(海東セラ)柵no.311(志賀工房)

 山室静先生は、鳥取で生まれたが、7歳の時に父母の出身地である佐久市岩村田に転居した。
第二次世界大戦の終了時に私の母校、県立野沢南高等学校で国語を教えていた。敗戦と同時に職を辞して東京へ戻ったと聞いている。私の、第1詩集「Dying Summer」は第19回山室静・佐久文化賞を受賞しました。佐久市立図書館には、山室先生の記念文庫があり、先生の専門分野である北欧文学の翻訳書をはじめ、多数の文学書が寄贈されています。そのなかから借りてきた1冊の読書メモ。

聖書物語・山室静著(社会思想社)290P
.・・・聖書は西洋文明を支えるキリスト教の聖典であり、人類最大の古典と言われている。旧約聖書はユダヤの古代史であるが、そこには神話や感動的な人間の記録や素朴な小説があり、また美しい詩歌が生き生きと歌われている。キリストの一生とその教えを説いた新約聖書にもキリストばかりではなく様々な人間像が浮き彫りにされて、自愛に満ちた教えが身近な人生教訓となっている。十字架にかけられたイエスの死は苦しいものだった。正午前には十字架にかけられ、槍で突き刺され、息を引き取ったのは3時ころとなっている。その間、太陽は光を失い、全地は暗くなったといわれる。最後にイエスは声高く、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ伝二三)と叫んだ。あるいは「わが神、わが神。なぜにわたしをお見捨てになるのですか」(マルコ伝十五)と叫んだとされる。後者だとすると、イエスはついに神に絶望と反抗の叫びをあげたように解されるが、この「わが神」の言葉は、かねてイエスの愛誦していたダビデの詩、(詩篇22)の起句であり、この詩は最後は神の賛美に終わっているので、イエスの真意もそこにあったとするのが通説。だが、なお疑問は残る。エマオという町に現れた見知らぬ人のことば。256P.「イエスはやっぱり聖書の中の救い主のとおりに生きたのです。その愛と苦しみは、預言者の言葉のとおりではありませんか。もしイエスを信じる人々が、イエスから愛されたと同じようにお互いに愛し、イエスと同じように自分を犠牲にするときこそ、平和と喜びがおとずれるにちがいありません。」12使徒。ペテロ(岩の意。本名シモン)、アンデレ(ペテロの弟)、ヤコブ(イエスのいとこで、ヨハネの兄)、ヨハネ(ヤコブの弟)ピリポ、バルトロマイ(本名ナタナエル)、マタイ(本名レビ)、トマス(本名ユダ)、ヤコブ(前のヤコブとは区別するため、小ヤコブという、マタイの弟)、タダイ(本名ユダ、ヤコブの弟か、あるいはむすこ)、ユダ(イスカリオテの)。この順序は、新約の「マタイ伝」や「ルカ伝」に書いてあるもので、大体弟子としてイエスに重んじられていた順序だったらしい。
さいごのユダは師を裏切って、イエスを十字架の上で死なせ、自分もそのあとで首をくくったから別だが、あとの十一人は忠実に師の後をついで教えをひろめた。
 パリサイ人のパウロは、はじめはイエスの教えを根絶やしにするために、イエスが死んだ後に迫害をけしかけた。のちにパウロは国外でイエスの教えを広めた。「我はわがうち、即ちわが肉のうちに、善の宿らぬを知。善を欲すること我にあれど、これを行うことなければなり。」(ロマ書七)「わが欲するところの善はこれをなさず、かえって欲せぬところの悪はこれをなすなり。」(ロマ書)「すべての人、罪を犯したれば神の栄光を浮くるに足らず。いさおしなくして神の恵みにより、イエス・キリストによる贖いによって義とせらるるなり。」(ロマ書三)「われら生くるも主のために生き、死ぬるも主のために死ぬ。されば、生くるも死ぬるも我らは主のものなり」(ロマ書14)「すべてのことを愛をもて行え」(コリント前書)罪深い人間が救われるのは、人間の努力によってでなしに、ひたすらイエスの贖いの行為によるとするのが、彼の考えの根本だった。
パウロは皇帝ネロのためにペテロと同じく死刑になる。

*山室静とは。山室 静(やまむろ しずか、男性、
1906年(明治39年)12月15日 - 2000年(平成12年)3 月23日)は、
日本の詩人、文芸評論家、翻訳家。
昭和11年本多秋五らと「批評」を,21年 平野謙,埴谷雄高らと「近代文学」を創刊した。
日本で初めて北欧文学を体系的に紹介。翻訳多数。
明治以降戦時中までの翻訳は、単発のものがほとんどですが、戦後の早い時期から、
「北欧文学」を体系的に紹介し始め、その対象は、アイスランド・サガから同時代の児童文学まで、
多岐にわたります。昭和和初期にマルクス主義運動に深く関わり、3度の拘留を経て転向した経歴の持ち主で、戦後の文壇をリードした雑誌『近代文学』の創刊同人でもありました。
 山室は、一九〇六年、鳥取県生まれ。一九二四年、長野県で小学校の代用教員となりますが、当時は関東大震災後の不況期にあたり、教え子やその家族を通じて農村の疲弊をつぶさに見た山室は、マルクス主義に傾倒します。一九三三年以降、三回にわたって拘留された後、転向し、戦後、同じ経歴を持つ荒正人、小田切秀雄、平野謙、本多秋五、埴谷雄高、佐々木基一とともに、雑誌『近代文学』(一九四六?六四)を創刊し、終刊号では編集を担当するなど、「言わば「近代文学」と生死を共にしたとも言える密接な関係をもった一人」でした 。山室自身は、自らの同人活動を、「北欧文学の研究などにあまり他人のやらない道を開くことにつとめたが、結局埋め草的存在に終始した」 と回想しています。  『北欧文学の世界』は、北欧文学の通史。古代から山室の同時代までの北欧文学が、通史的・網羅的に紹介されているほか、主要作家に関しては、ここに詳しい説明があります。『北欧文学ノート』は、もう少し軽めのエッセイ集です。 中世の北欧文学を紹介したものとしては、『サガとエッダの世界―アイスランドの歴史と文化』や、グレンベック『北欧神話と伝説』の翻訳があります。
 児童文学の翻訳も多数手がけています。リンドグレーン『ロッタちゃんの引っ越し』、『小さいロッタちゃん』などの『ロッタちゃん』シリーズ、ヤンソン『たのしいムーミン一家』、『ムーミン谷の仲間たち』、『ムーミン谷の冬』の『ムーミン』シリーズなどです。アンデルセンに関しては、偕成社文庫と新潮文庫の全集の一部を訳しているほか、伝記『アンデルセンの生涯』を書いています。
ヤコブセン『ニイルス・リーネ』は、山室が北欧文学を志すきっかけになった作品。

「鳥や」 - ポイエーシス

「鳥や」 小島きみ子

鳥の羽、というのは落ちているようでいてありません。カラスとかキジバトの羽はたまに落ちているのですが。いろいろな鳥の羽を木片に射したインスタレーションを見てから、鳥の羽、見つけたいのです。小鳥を売っている店とかに行くと、その辺に落ちていないかな、と思うのですが。どうでしょうか。


在来線に乗っていて、何気に外をみると田圃のなかに「鳥や」の看板がありました。ほんとうにびっくりして、「あー。あの彼女の家だ!」と思ったのは、職場に訪問してくる「生協」の貴金属販売員の女性のことです。真珠のイヤリングが欲しかったので買ったのでした。


そのとき、「わたしの家は、鳥やです。」と言ったのです。どういういきさつで、そのような会話をしたのか記憶にありませんが、「鳥や、って何?」と聞くと「インコを孵して売っているのよ」と答えたのです。「へー、そんな職業知らなかった」と思っていたのです。


それで、あれは、県境の都市で詩のイベントがあり、久しぶりに高原のハイブリットカーに乗車したところ、「鳥や」と書いた看板が線路に向かって、掲げられていたのです。あの家には、行きつくことができません。私は、当時の職場を去りましたし、あの場所がどこだったのかもわかりません。


黄金色の田圃のなかに「鳥や」の看板。「鳥はいらないのですが、鳥の羽だけください」なんて、そんなのありかな。それにもっと重要なことは、あのときの真珠のイヤリング、どこを探しても無いのです。あの「生協」の彼女は、「わたしの家は、鳥やです」と言ったきり、名前も言いませんでした。
鳥の羽、探しています

鳥の羽、探しています。小島きみ子

鳥の羽、探しています。
渡り鳥の水鳥は、
鳥インフルエンザが怖いので、
日本に居る鳥の羽がいいのです。
鳥の羽を見つけたい理由があります。
私が書いた詩を引用しておきます。
表現の最後の目的は、
行為することだ、という考えにたどり着いたとき
絶望したのです。



鳥の羽を探しています。
小島きみ子

鳥の羽を探しています(((((白い空、それはぎっしりと空に敷き詰められた アイスバーグの白だった(((((ショパンの革命のエチュードを 聴いた朝。神のやさしい吐息のように((((( 天使と見紛う水鳥の羽がこぼれ落ちてくる。

 詩の雑誌は、折りたたまれただけの極薄のものから、商業誌と見まがうような極厚のものまで各種とどくので、薄いものは、封筒と封筒の間に挟まっていたり、厚いものは全部を読みきれず、忙しい資料の読書中は読んでアップすることが、もうほとんど不可能な状態です。自分の勉強のための読書が今後は中心となりますので、詩の雑誌のアップは今月で終了させていただきます。詩集については、できるだけ紹介しますが、漏れるものもあると思います。ご容赦ください。
 感想や、読書メモ、日々の暮らしのあれこれが中心となっていくと思います。

                         *

★10月の詩の雑誌;?回遊第45号(南川隆雄)?すいかずら8号(熊井紀江)?榛名団4号(富沢智)?ジャンクション84号?未開75号(川口昌男)?』宇宙詩人no.17

★10月5日web公開誌「詩客」に、「第73回・自由詩時評・女性詩人たちの夏」を書きました。
お読みいただけると嬉しいです。
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_jiyushi/2012-10-05-11324.html

★2012年9月・10月の詩・詩集を中心にしていますが記事は追加していきます。
★植村勝明詩集「王国記(土曜美術社出版販売)」・・・これは「王国」と「わが神学」の2つが合わさった詩集。個人的には、とても興味深い。好きな人はたまらなくおもしろいけれど、なんのことかわからない人もいるかもしれない。帯文には、ちょっと怖いことが書いてある。気にせずに、どんどん読んでしまった。後書きも、詩篇の続きのようで実におもしろい。詩人はすでに「失望」も「絶望」もやりつくして、「このあと王の政治は国民からその血を取り戻すことである」と巻頭の最終行で記したのだと思う。心して、読み進みたまえ、ということかな。
「ゼラニウム」14P.4行目を引用。「先の王が戦場で深手を負って倒れたとき、牧童出身の兵士がその傷口を見慣れない草の葉で覆った。蠅がたかるのを防ぐためである。王は、結局助からなかったが、終わりに臨んでその植物を故国に持ち帰るように命じ、「通りが花でいっぱいだ」と言うや息絶えた。


★野村喜和夫さんの新詩集「難解な自転車(書肆山田刊)」
エウメニデスに寄稿していただいた作品が、2編含まれる。
32篇、200P.の旺盛な創作力。意欲的な詩活動。
「探求」という作品に戦慄する。(1932年9月12日、
ロンドンのとある十字路でのこと、)そのことに戦慄する。
《奴らを高く吊るせ》このフレーズが、7回出てくる。
中性子の核分裂の様子が描写される。3.11にリンクする渾身の作品。

★植木信子さんの新詩集「雲をつかむ人(思潮社)」
すこし忙しくて読めなくて、白薔薇を挟んでおいた。薔薇はちょうどよい押し花になって、甘く薫っている。28篇。後書きまで101P.『何も持たずにいくつもり/お出で 永遠のようにほほえむなら』(ほほえみより)

★小川三郎詩集「象とY字路(思潮社)」
21篇の作品を収録。106P.右からページが始まって、目次が左から始まる。作品タイトルが左ページに入って、捲ると右ページから作品が始まる。ページに1枚の無駄もないデザイン。墨の流れを思わせる表紙デザインのソフトカバー。渋い装丁の1冊。・・・作品のはじまりから、生きていることが冷たく淋しいわたしが居て、いまの現実はとうに終わってしまった世界なのに、わたし以外は誰も気づかに暮らしている、そんな世界。私自身が、幸福とか希望とかを求めていくと、やっと出会えたその場所は、ポッカリ虚無の穴があいていて、吸い込まれていくように思う。この詩集もそんなイメージが沸いてきた。

★柴田千晶詩集「生家へ(思潮社)
帯文から。俳句の深淵に、散文詩の官能で挑む。『二つの詩型の響きあいが提示する、さらなるエロスの世界。俳句作家としても活躍する詩人の、挑戦の第5詩集。作品は2章に分かれ、17篇を所収するソフトカバーの125P。巻頭の「春の闇」から。「春の闇バケツ一杯鶏の首」の句に導かれていく散文詩。「鶏の首」も「赤い鶏冠」も血なまぐさく怖い。立ちすくみつつ進んでいくと、「雁風呂」の中に、「海問へば「ものみの塔」が日傘より」の句。この句、好きですねぇ。夏は、日傘の「ものみの塔」が歩いています。でも、ここに出てくるのは、「拝島さん」という男性です。「ものみの塔」と「拝島さん」は関係ないらしい。感情の連鎖みたいものがあるのだろう、きっと。冒頭に掲げる俳句が、鮮明な印象を先ず与えて、詩的な物語が繋がっていく。「恐怖」という感情の連鎖が導く「詩情」。そこからふいに立ち上がってくる「詩」。「ゆめ」や「まぼろし」を強烈なイメージでつないでいるのは、詩篇ごとの冒頭に掲げられる「俳句」という定型の言葉の強いイメージ。これによって、ぐいぐい物語が引っ張られ、ここはどこだ、と周囲を見渡すと、「生前の世界」らしい。生きていたときの記憶だと気が付くのです。いまは、もう死んでいるのですよ、わたしたち。生きていた現実って、怖いことばかりでしたね。そんなふうに思った。・・・まだ、途中です。
★岡田ユアン詩集「トットリッチ 詩と思想新人賞叢書6 (土曜美術社出版販売)」2010年第19回詩と思想新人賞受賞の著者の第2詩集。18篇

★藍川外内美詩集・「あなたが風に吹かれて立っているとき(土曜美術社出版販売)」詩と思想、1・2月号の書評になる。

★10月16日までの読書計画。
聖書のこととヨーロッパの神話と思想をできるだけ読んでいこうという目標。
?聖書物語・山室静著(社会思想社)290P.・・・119P ダビデ、王となる。サウル王が死んだので、ダビデはイスラエルの正式な王となった。彼はほぼ40年にわたって王位にあって、りっぱに国を収めた。イスラエルの国はおかげでたいそう栄えた。ダビデが王になってから、イスラエル(ユダヤ王国)ははっきりした王国として、地中海から、アラビア砂漠にかけての細長い土地を(いまのパレスチナ)を支配するようになった。ダビデはシロにあった「契約の箱」を国の中心のエルサレムに移し、ここをイスラエルの都にした。やがて、ダビデの子のソロモンン王がここにすばらしい神殿と王宮を築くことになる。
?使徒パウロ・佐竹明(NHKブックス)242P.
?メシアと受難の秘密・シュワイツェル著・波木居斉二訳(新教出版社)229P
?聖書の植物・H&A・モルデンケ著・奥本裕昭訳(八坂書房刊)189P
☆神話と思想など。
?暴力と聖なるもの・ルネ・ジラール著・古田幸男訳(ウニベルシタス叢書)605P
?古代オリエントの神話と思想 哲学以前・H・Aフランクフォート/ジョン・A・ウィルソントーキルド・ヤコブセン共著 山室静・田中明訳(社会思想社)335P
?ギリシアの神話 英雄の時代 ・カール・ケレーニイ著高橋英夫・植田兼義訳(中央公論社)462P.
?愛と生の苦悩・ショーペンハウエル著・片山泰雄訳(人文書院刊)260P
?ニーチェ・ジルドゥルーズ著・湯浅博雄訳(朝日出版社)216P
?経験と超越 日本近代の思考 ・饗庭孝男著(小沢書店)428P
★★これから読もうと思うのは、スペインの詩人。フェデリコ・ガルシア・ロルカ全集のうちの2巻。牧神社の1973年の初版本で、翻訳は荒井正道ほか。とても若いときに小さな「ロルカ詩集」を読んで以来。

 日本語で表現することは、日本語で現象させることですが、言葉の記号はこの現象を表象させると同時に隠蔽してもいるのです。見て聞いて触れて感じたものは、ほんとうにその現象の輪郭であったのか。実は幻影ではなかったのか。幻影とは真実の姿ではないのか。脳が感じた記憶を語らせたものは、表現ではないのか。

 「経験」ということは、どういう方向から、「経験」を知るのか。「詩」の世界ではどのように表現するのか。カントやフッサールの時代の「自然」と現代の「人工的自然」は異なっている。人間は現実に経験しないことも「経験する」世界を持てるようになった。「人工的自然」が人間のそれまでの自然を変革したのだ。それでも以下のことを知っている必要がある。

 ア・プリオリ(a priori)とは、(1) 経験に対して、論理的に先立つ認識・概念 (カントの用法)(2) 経験的検証のいらない演繹的命題ア・ポステリオリ(a posteriori)とは、「生得的でない、経験のなかで得られる」「経験的検証のなかで成立する認識・概念」という意味となる。アビダルマ・中観・唯識のモメントから、カントのヘーゲル批判を考えてみます。カント:「悟性の対象は有限で制約されたものであり、理性のそれは無限で制約されぬものである」をヘーゲル:「単に経験にのみ依存する悟性の認識の有限性を主張し、その内容を現象とよんだということは、カント哲学の非常に重要な成果であるけれども、しかしわれわれはこのような消極的な成果に立ち止まってはならない。

 と、いうのは、真に無限なるものは有限なるものの単なる彼岸ではなくて、有限なるものを仕揚されたものとして自己のうちに含むものであるからである」と批判する。次に、形式論理学(演繹的論理学)と弁証法論理学の二つの論理の違い。形式論理学では、矛盾は生じてはならないものとされている。だが、弁証法論理学では、矛盾はかならず生じるべきものと考えられている。形式論理学では、論理学の想定している論理の世界=言語の世界において、構成要素の変化が禁止されている。弁証法論理学では、想定している論理の世界において、構成要素の変化が容認されている。思想の発展は、構成要素の量の増大を意味する。だが、一定の情報量の水準においては、命題の真理値は真かぎ偽かのどちらかに特定される。どちらでもよいということはない。ここが重要だと思う。ここで矛盾律の要請がみとめられていなければ、情報量の水準の変化に伴う命題の真理値の変化を確認することはできない。

 これは、形式論理学が一つの世界を前提としているのに対して、弁証法論理学は二つ以上の世界を前提としているからである。「唯識」を考える過程において、この二つの論理学の構造の対比は「倶舎論」において整理されていくのです。真理は一つですが、論理学における真理表というものもあるようです。ヘーゲルの思想は「意識の発展、遍歴する魂の歴史であり、精神の(発見の航海)」です。

 ブーバーは「我」それ自体というものはありえないというところから出発しました。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのです。存在するのは根元語の「我?汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがあるだけというのです。これが交互性(Wecheselseitgkeit)もしくは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものです。「何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とはわれわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。」では、どのようにすればこの「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのでしょうか。「私」という「我」の中に「汝」を見出すべきなのです。そのことによって「私」の「我」は「汝」のさまざまなものごとによって成立している光景に出会うでしょう。ですから、「経験」とは「我」から遠ざかることであって、それが了解できれば、「私」の「我」が「汝」からの「遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に出会うことができるはずなのです。

 「私」が「我」と汝に出会うのは、「私」が根元語を「私」の中の「汝」に問うことによって受け取る、人間の輪郭と言語の輪郭が融合する言語の辺縁のようなところから「やってくるもの」つまり「送付されてくるもの」であると思う。裂かれることによって、開かれ溶け合うことによって知る、言語の輪郭です。言葉が生まれる場所に、私のなかの「あなた=汝」は生まれる。それでも、とにかくここには「発話する主体」がある。


★新詩集の詩人たち。

?★野村喜和夫さんの新詩集「難解な自転車(書肆山田刊)」
エウメニデスに寄稿していただいた作品が、2編含まれる。
32篇、200P.の旺盛な創作力。意欲的な詩活動。
「探求」という作品に戦慄する。(1932年9月12日、
ロンドンのとある十字路でのこと、)そのことに戦慄する。
《奴らを高く吊るせ》このフレーズが、7回出てくる。
中性子の核分裂の様子が描写される。3.11にリンクする渾身の作品。

?★植木信子さんの新詩集「雲をつかむ人(思潮社)」
すこし忙しくて読めなくて、白薔薇を挟んでおいた。薔薇はちょうどよい押し花になって、甘く薫っている。28篇。後書きまで101P.『何も持たずにいくつもり/お出で 永遠のようにほほえむなら』(ほほえみより)

?★小川三郎詩集「象とY字路(思潮社)」
21篇の作品を収録。106P.右からページが始まって、目次が左から始まる。作品タイトルが左ページに入って、捲ると右ページから作品が始まる。ページに1枚の無駄のもいデザイン。墨の流れを思わせる表紙デザインのソフトカバー。渋い装丁の1冊。・・・

?★柴田千晶詩集「生家へ(思潮社)
帯分から。俳句の深淵に、散文詩の官能で挑む。『二つの詩型の響きあいが提示する、さらなるエロスの世界。俳句作家としても活躍する詩人の、挑戦の第5詩集。作品は2章に分かれ、17篇を所収するソフトカバーの125P.
?★岡田ユアン詩集「トットリッチ 詩と思想新人賞叢書6 (土曜美術社出版販売)」2010年第19回詩と思想新人賞受賞の著者の第2詩集。18篇を所収する。ハードカバーの93P.

ペルソナの湖 - ポイエーシス

 エウメニデス43号の編集と次号の書きかけ長編詩に集中するため、ブログ記事はしばらく休みます。もう一歩。集中集中。では。

ペルソナの湖  小島きみ子

神は、ほんとうに「光、あれ」と言ったのだろうか。
神もまた人のペルソナの下にその仮面を隠したのではないのか。
人とともに在るために。
木を映す湖の冷ややかな水面には、
空の青さも、雲のかたちも、私という(もの)の姿も
私が見ているように「彼ら」に見えているわけではなかったが、
「彼ら」のなかに私は混ざっていたし、
「私」は彼らのなかに溶けていた。
水の鏡に映される、
それぞれの仮面のペルソナと呼ばれる人称。
空は水の中に(青)という光を隠している。
雲は漣のうえにその形を歪ませている。
木は私という(もの)の中に木を隠す。
私は無情のものを映す水鏡の面の奥に、
さらなる私を隠蔽すると同時に、
水面に自我という実装の仮面を剥がしてゆく。


★きょうは朝からお天気が良いので、急に思い立ち、長野県八千穂高原にある標高2,115mの
白駒池へ行ってきました。車で往復2時間。駐車場から歩いて15分くらいで池に到着します。
原生林の中に生えている「苔」の種類の多さで有名です。また、途中の美しい白樺林も撮影できました。後日、写真をアップしていきます。
★帰宅すると、新しい詩集が届いていたので、これからまた読んでいきます。
★エウメニデス第三期・四三号の編集に入ります。

 長野県詩人協会のアンソロジーの著者校正がきたので、急いで目を通して投函してきた。雑誌の返礼、先輩女性詩人の詩文庫への返礼。返礼用ハガキと切手を購入。文庫は、全詩集のようなものだから、セレクトには気合が入っていると思う。

●先輩女性詩人の詩文庫2冊。
?コールサック詩文庫vol8.鳥巣郁美(1930年広島県生まれ)詩選集142篇。詩と散文詩とエッセイによる、充実の詩選集。特に1959年刊の第一詩集「距離」のタイトル詩「距離」は、当時の時代背景から見ても、ひとりの女性の自立した主体が表現されていて優れている。散文詩では「蓮池から」が文字から香り立つ蓮池の周辺を表している。
鳥巣郁美さんの詩の言葉の中に「凝結した心/それはひとつのしたたりを生むのだ」というのがあります。長い詩篇で引用しませんが、「黒蝶」という作品です。黒蝶というのは詩篇のなかでは「空洞」と受け止められますが、これは「虚無」を意味しています。「時間のすき間で/びっしりと埋まった菜種畠の上を/とおく一匹の黒蝶が舞い上がってゆく」。存在のありように向かってすすんでいく、いい詩です。
?コールサック詩文庫vol.9市川つた(1933年静岡県生まれ)詩選集158篇。大塚欽一氏の解説がこの詩人の全体像を豊かに述べている。初期詩篇の「白い墓標」「自殺者の墓」などが優れていて、この詩人の目標とする核がすでに在ったと思う。

●植村勝明詩集「王国記(土曜美術社出版販売)」・・・これは「王国」と「わが神学」の2つが合わさった詩集。個人的には、とても興味深い。好きな人はたまらなくおもしろいけれど、なんのことかわからない人もいるかもしれない。帯文には、ちょっと怖いことが書いてある。気にせずに、どんどん読んでしまった。後書きも、詩篇の続きのようで実におもしろい。詩人はすでに「失望」も「絶望」もやりつくして、「このあと王の政治は国民からその血を取り戻すことである」と巻頭の最終行で記したのだと思う。心して、読み進みたまえ、ということかな。
「ゼラニウム」14P.4行目を引用。「先の王が戦場で深手を負って倒れたとき、牧童出身の兵士がその傷口を見慣れない草の葉で覆った。蠅がたかるのを防ぐためである。王は、結局助からなかったが、終わりに臨んでその植物を故国に持ち帰るように命じ、「通りが花でいっぱいだ」と言うや息絶えた。

 鳥の羽、というのは落ちているようでいてありません。カラスとかキジバトの羽はたまに落ちているのですが。鳥の羽を木片に射したインスタレーションを見て、鳥の羽、見つけたいです。小鳥を売っている店とかに行くと、その辺に落ちていないかな、と思うのですが。どうでしょうか。
 在来線に乗っていて、何気に外をみると田圃のなかに「鳥や」の看板がありました。ほんとうにびっくりして、「あー。あの彼女の家だ!」と思ったのは、職場に訪問してくる「生協」の貴金属販売員の女性のことです。真珠のイヤリングが欲しかったので買ったのでした。そのとき、「わたしの家は、鳥やです。」と言ったのです。どういういきさつで、そのような会話をしたのか記憶にありませんが、「鳥や、って何?」と聞くと「カナリヤやインコを売っているのよ」と答えたのです。「へー、そんな職業知らなかった」と思っていたのです。それで、あれは、県境の都市で詩のイベントがあり、久しぶりに高原のハイブリットカーに乗車したところ、「鳥や」と書いた看板が線路に向かって、掲げられていたのです。あの家には、行きつくことができません。私は、当時の職場を去りましたし、あの場所がどこだったのかもわかりません。黄金色の田圃のなかに「鳥や」の看板。「鳥はいらないのですが、鳥の羽だけください」なんて、そんなのありかな。それにもっと重要なことは、あのときの真珠のイヤリング、どこを探しても無いのです。20年まえの春には、確かにありましたがその後は見つかりません。あの「生協」の彼女は、「家は、鳥やです」と言ったきり、名前も言いませんでした。

 鳥の羽、探しています。水鳥は、鳥インフルエンザが怖いので、日本に居る鳥の羽がいいです。
私の詩を引用しておきます。詩編((おお天使の羽がこぼれてくる))の5に、鳥の羽を見つけたい理由があります。アイスバーグは、白バラの名前です。

((白い空、…苦悶の煌きの、…それはぎっしりと空に敷き詰められたアイスバーグの白だった、ショパンの革命のエチュードを聴いた朝。神の、やさしい吐息のように、天使と見紛う水鳥の羽がこぼれ落ちてくる))
((思い出そう、指先が薔薇の香で充ちる日、レースの手袋をして薔薇を摘んだ日のことを思い出そう、思い出そう、小さな蜜蜂の魂が、白い薔薇のなかで眠っていた姿を、あのときの眩むような白い薔薇の襞を))

★ツイート連詩pw30【身投げする音 完全版】宮尾節子さんより。
☆ツイート連詩pw30【身投げする音 完全版】
七尾旅人を先頭に30人でつなぐミステリー連詩ツアー☆スペシャル企画
★5000viewに向かっています。連詩の旅が♪
ウエブ版はこちらhttp://togetter.com/li/356650  
★そしてめちゃくちゃかっこいい冊子版『pw30 The sounds of dive』も出来つつあります。
お楽しみに!

●ヒオウギの花はとてもかわいいオレンジいろの花ですが、このヒオウギの種子が万葉集などで歌われている「ヌバタマ」です。ヌバタマの実がついた枝のドライフラワーをずっと保存していたのですが、実と茎と葉に分けて保存することにしました。ヒオウギが「種子をつけたらあげるね」と約束した友人との思い出です。写真は3つの部分に分けたもの。(写真は後日掲載)ヨーロッパのリースはお嫁に行く娘に乾燥させたハーブ(薬草)のリースを持たせました。病気になったらリースの薬草を抜いて、ハーブティーにしたのだそうです。日本でしたら「センブリ(胃薬)」「ゲンノショウコ(整腸剤)」とかでしょうか。実用的でした。

とおい日の声がして       小島きみ子

  ぐんじょういろの空に夕陽が混ざっていて
  彼女がもう一度 笑っている声がして
  振り返った・・・


ヌバタマのことを訊ねると
  (忘れてはいないよ)(まだなの)
  掠れた彼女の声は うつくしかった
  (万葉集にあるよね)(あるある)

  ゆうがた
  彼女は 花瓶の水をとりかえる
  葉を茂らせたアスパラがスチールの上に種をこぼしている
  古風な鶏頭を見ていると
  ふたたび彼女は振り返って言った
  (これはね 姑(はは)の趣味)
  わたしたちは笑いあった

  わたしたちは守衛さんに挨拶して
  また少し笑って分かれた
  久しぶりに まだ 空は明るかった

★少し、メモをしながらブログ記事を書いていきます。
★夏は、美しい草花がたくさん咲いたので、写真をアップしてきましたが、これからは、文字言語に徹していく予定です。しばらくは、写真も載せます。下の、記事についての写真は後日です。
★豊饒な夏が逝き、見事な秩序で成熟していく、美しい種子たち。
ほおずきの枝は、下から実が成長して成熟していきます。上になっている実が一番小さい。色がついていくのは、上からで、尖っている先はいちばん最後です。黄緑のほおずきトマトは(学名 Physalis pruinosa・ 和 名 : 食用ほおずき・ 英 名 : dwarf Cape gooseberry(ドワルフ ケープ グーズベリー)スケルトンになって地面に降りて種子が割れて土と混ざり、春の発芽を夢見るのです。庭で真っ赤に色づいた、劇辛いナンバンは、緑のさや全体がうっすらと色づいていく、きがつくと「真っ赤」になっています。
★「ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木( ひさぎ)生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く」 山部赤人
ぬばたま、ヒオウギの実。万葉集には、黒髪の喩や、夜の闇の喩に「ぬばたま」が18首でてくる。ヒオウギの花が咲いて、だんだんその実が成熟して種子ができる。漢方薬の「御嶽百草丸」にそっくりな種子。豊饒の夏を過ぎて、草花の美しい種子に見入る季節。


☆詩作品の無断転載を禁止します。

夜中にモネと話をした                小島きみ子


1.
あなたの睡蓮は、
あなた自身でも
遠くから見たくなるでしょう?


2.
あの
睡蓮の
池は
新たな地平の開示でもあったのでしょうか?

3.
色彩を、
光の表現の追求に透徹すること。
輪郭を
瓦解させ、
かたちの再構成をすること。
しかし。
しかし?
しかし。

楓の小枝を立てて 小島きみ子

 
春が来ると子どもたちは楓の木の下に、楓の小枝を立てた。
堕ちて死んだ小鳥のために。
すでに別の物質になってしまった硬い羽毛をさすりながら、
「死」は「冷たく固まる」のだと掌で覚えた。
 
小さな、小さな。
穴を掘って、穴を掘って。
土をかけて、土をかけて。
楓の小枝を立てた。
 
楓の木の下には、小さな楓が芽を吹いて、
小さな楓の森ができた。
枯れるものも、成長するものも、
それぞれの掟にしたがって命を育んできた。
「土は偉大だね」
形はなくなるけれど、別の命にして返してくれるのだもの。
薔薇が咲き、百合が咲き、豆の蔓が伸びて、
紫蘇の葉が茂り、葱も芽を出す。
 
 
朝の空が明るくなった。
 
 
小鳥の声が甲高く早口になって。
(卵を生んだのだ、きっと。)
明るくて、少しヒステリックで。
(雛が孵ったのだろう。)
陽が昇るのが待ち切れずに騒ぎ始める。
(餌を運んでいるんだ。)
もうじきだね。
子どもたちが屋根のうえから飛び立つ。
 
 
もうじきだ。
わたしの子どもたちも巣立って行く。 
春は逝きながら。
春は新しく生まれる。
小枝を立てて。
小枝を立てて。
楓の木の下に楓の小さな森をつくる。
新しい春を受けとるために。
 

郵便受けに、郵便やメール便が入りきらないことがあるので、新しい郵便受けを、ネットで注文したら自分で組み立てるのだった。それを(夫)が組み立てて使用していたら、お向かいさんが同じの「欲しい」と言うので、注文して、それを(夫)組み立ててあげたら、お礼に「鰹節(削節)」貰った。
●残暑でしたが、久しぶりに小雨から、しとしと雨を過ぎて、土砂降り。
きょうもたくさん郵便やメール便がきた。
新しい詩集は、3冊。午前中は、ローソンへカラーコピーをとりに行ったり、郵便を出しに行ったり、「青トマトのカレーピクルス」を製造していて忙しく。
?野村喜和夫詩集「難解な自転車(書肆山田)」。重厚な1冊で驚いた。まだ、読めていないので、後日。
?植村勝明詩集「王国記(土曜美術社出版販売)」・・・「王国」と「神学」の2つが合わさった詩集。個人的な興味深い。好きな人はたまらなくおもしろいけれど、なんのことかわからない人も多いかもしれない。
?箕輪田初江詩集「午後の光(自然社)」・・ピンクの表紙にカタクリの線描画。日常の出来事を端正につづる。

詩の雑誌:?まどえふ第19号(水出みどり)?石の詩83号(編集発行:渡辺正也)?観覧第95号(編集発行:日原正彦)・・・・表紙が日本画に変わった。?しある49号(編集発行:丸山貞子)?ユルトラ・バルズvol19(中本道代)?ぱぴるす創刊100号記念号(頼圭二郎)・・・・100号記念号!100という数字はここまでの苦労は並大抵ではない。?侃侃no.18.(編集発行:田島安江?4B 4号(中井ひさ子)?月刊詩誌柵no.310(志賀英夫)

雑誌では、「Aa 」5号、編集がおもしろい。「ニコニコした魚の起源に浮かぶ酒のはなびら」、このタイトルで5人のメンバーがつなげる1篇の詩という編集なのか。1回、読んだところ。読み込んでいきます。・・・「湖畔」の始まり2行は特に美しく、18Pの1行目はおもしろく、20Pの1行目も惹きつけられます。32P.「いつも紐といていた姉さんのノート」にはいろいろ連想させられ、「おだやかな寝すがたで息をもつ」は穏やかないいものが伝わってきます。

●*1月からの詩集など。
2011年は忙しすぎた。エウメニデス3号を発行して、詩集と評論を発行して、疲労がひどかった。それで2012年1月から現在までに届いている詩集については、ブログで記事にできなかった。直接、著者へお手紙やはがきを差し上げたように思う。書くと記憶が薄れる。考えていると、考えに到達した瞬間のことしか覚えていない。求道者の悟りの境地みたいになってきた。探求している、精神のありようについて。そのことを書けないと、どこまでたどり着いたのかがわからない。だから、散文を詩と同時に書いていくことが私には必要なことで、私の「詩法」だと思う。これについて、今年の夏の終わりのある現代詩セミナーで異議を唱えた年配のよく知らない男性詩人がいた。この人が、大きな賞の受賞者であろうとなかろうと、私の詩法についての異議は却下するしかない。あなたの「散文を書いていくことは詩に悪く影響する」は誰が聞いても(おかしい)と思う。詩だけ、書いていて評論や詩論を書かずに、現在まできてしまっている、その人の詩を私は読んだことがないし、永久に読まないだろう。
●再読する評論集、詩集など。
*南川隆雄評論集・詩誌「新詩人」の軌跡と戦後現代詩(思潮社・2011年11月)*嶋岡晨詩集「終点オクシモロン(洪水企画)」*八覚正大詩集「朝一の獲物(洪水企画)」・・・詩と思想に書評掲載。
*松岡正則詩集「口福台湾食堂気候(思潮社)」・・・まだありますが、とりあえず。
●充実した現代詩文庫。
充実している、それぞれの現代詩文庫。
中本道代詩集、松尾真由美詩集(思潮社)。鈴木孝詩集、馬場晴世詩集(土曜美術社出版販売)。松尾真由美詩集では、小島きみ子評論集「人への愛のあるところに(洪水企画)」からの松尾真由美論が転載されています。馬場晴世詩集については、「詩と思想」11月号で書評が掲載されます。現代詩の言葉の香りがあふれて、それぞれに魅力的な詩集と詩人たち。


●天国と地獄に到達する「通路」
求めていると、求めているものが過去から送付されてくると感じるのは、「偶然」という時間も過去からの効果の現われのような気がするのです。「詩」のことをもっと知りたいと思って、詩を読み、詩を書いてきました。それは、「考える自分」を発見していく過程でもあり、それこそが「詩への通路」であると今は思えるのです。詩への通路とは、自分のなかに「考える自分」を発見すること。それが、ランボーのいう「見者」です。見者をも超えた人が、スーパーヒューマンであると思いますね。あなたはどう思いますか?アルチュール・ランボーが、ポール・ドムネーに宛てた『見者の手紙(1871/5/15)』はとても魅力的な文章です。「彼は未知に到達するからだ」とは、芸術を志す者、それを夢見る者の限りなく憧れの天国と地獄であるでしょう。
『詩人が見者となるがためには、自己の一切の官能の、長期間の、深刻な、そして理論的な紊乱によらなくてはならない。あらゆる種類の恋愛を、苦悩を、狂気を、彼は自らの内に探求し、自らの内に一切の毒を味わいつくして、その精華のみを保有しなければならない。深い信念と超人間的努力とをもって初めて耐えうるのみの言語に絶した苦痛を忍んで、初めて彼はあらゆる人間中の偉大な病人に、偉大な罪人に、偉大な呪われ人に、???そして絶大の知者になる!???なぜなら、彼は未知に到達するからだ!???すでに自らの霊魂の錬磨を完了したこととて、誰よりも豊富な存在になっているからだ。すなわち彼は、未知に到達したわけだ。だから、万一彼が狂うて、自分が見てきた幻影の認識を喪失するにいたるとしても、少なくとも彼はすでに一度それを見たのだ!彼が見たおびただしい前代未聞の事物の中に没し去って、彼が一身を終わったとしても嘆くにはあたらない。なぜかというに、他の厭うべき努力者どもがつづいて現れるはずだから。彼らが先に彼が没し去ったその地平線のあたりから踏み出して、詩を進めるから!」(アルチュール・ランボー『ランボー詩集』堀口大學訳、1951年)
 ランボーがあらゆる種類の恋愛と苦悩と狂気をこの身に引き受けるには、「アフリカの砂漠」が必要だった。「詩」が誕生するであろう憧れの天国と地獄に到達する「通路」が一瞬見えたように思えてもまたすぐに、自己を脱出するために裂いた背中の疵は閉じられている。それは千に裂けた目と手を獲得するために。「光錐(Light cone)」という過去の光の光沢を見る目であるだろう。遅れてやってきた光をこの手で受け止めるには、裂けた手が必要であった。ランボーはパリの詩人を放棄して砂漠の人なったとき、こうした「光錐(Light cone)」のような、過去の光の光沢にたどり着いたのではなかったのか。「偉大な呪われ人に」なったのではなかったのか。

★フランス文学者で詩人の渋沢孝輔さんは((しぶさわ たかすけ) 1930?1998) 小県郡 長 ( おさ ) 村横尾(現上田市真田町長)の養蚕農家の四男として生まれました。長野県諏訪市に長野日報という新聞社があり、ここが主催する長野文学賞の現代詩部門の最終選考をされていた。私も応募して佳作となったのが、詩集「Dying Summer」に所収の「さくらぶろっさむの丘で」だった。この賞を計画した新聞社の彼がM大出身であったのでその縁によるらしかった。この作品の構成は褒めてくださったけれど、渋沢さんは、ここで「白いワイシャツの背を」追いかけていくわたしは、「夫の背を追いかけていくわたし」であると思ったらしいが、「先生の背を追いかけて行く小学生のわたし」であった。この思いでのなかで、桜は追いかけて行くものと追いかけられるものの背中を、暗くつつみながら舞うのだ。はらはらと散る桜。ひらひらと舞い上がる、こどもの手足。

渋沢孝輔選による長野文学賞現代詩部門・佳作作品。詩集「dyingSummer」巻頭詩。 さくらぶろっさむの丘で    小島きみ子         


               あなたを追いかけて走って来た
                  薄紅色の花が香る並木を

                     あなたの背後には
               たくさんの子どもが走っていて
       あなたの白いワイシャツの背を見つめて走るのに
               わたしは あなたの姿を見失う

             子どもたちの影に溶けている恐怖が
                    わたしの足を食べて
      わたしは子どもたちを追い越す越すことができない

          あなたは笑いながら わたしとすれちがう
           あなたの声だけが わたしの背中を押す
              早く 桜の樹にタッチして来い!

   あなたのうしろにつづく白い運動着の子どもたちの手足が
              ひらひらと丘のうえに舞い上がり
                      空と地面の間に
                  仄暗い緑の森を形づくる

           さくらさくら、さくらぶろっさむの丘で
              あなたの透きとおったまなざしが
                  わたしの唇にはりついて
      わたしは追いかけてきたものが何であったかを知る

           さくらさくら、さくらぶろっさむの丘で
           わたしもまた仄暗い緑の森に隠蔽される
     わたしの姿を知らぬままわたしを追いかけて来る者の
               どこまでも不確かな愛のように


★ササユリ
ササユリ;ユリ科ユリ属の多年草. 『学 名』Lilium.japonicum(日本特産のユリという意味). 『名前の由来』葉の形が笹の葉に似ているため。

★アリとアリマキの関係。
正常な江戸朝顔の隣に、変化朝顔のように花弁が細く裂けたものが2輪。よく観察すると、虫に喰われたように裂けているのです。花弁の奥に向かってアリが出入りしていて、どうみてもアリマキのような粒粒があります。普通は緑ですが、赤い粒粒です。アリマキはメスがメスを生み育てる単為生殖ですが、これはオスが生まれているのかもしれません。秋口はメスとメスがオスの遺伝子を持つ、オスを生む季節です。ですから、これは「虫喰い朝顔」で「変化朝顔」ではありません。明日の朝、牛乳で駆除します。裏側は、水色の美しい江戸朝顔が咲いています。

● 平成16年に雑誌「詩学」に書いた論考を無くして探していたら、ようやくどこにあるか見つかった。『論題;『身体感覚の言語が現した「雑草(あらくさ)」のpassion 』著者・小島 きみ子.特集等。特集 日本現代詩人会平成16年度詩集賞・先達詩人顕彰 ; 第五十四回H氏賞 で、国立国会図書館にあることがわかった。あのころは、「詩学」が日本現代詩人会の詩賞の特集をやっていたのだった。気になっていた論だった。第五十四回H氏賞受賞者の詩集解説をしたのだ。

●「Lesson」について。
この作品を「ERA」という同人雑誌へ書いたのは2年前のような気がするが、忘れていた。これを修正して、「ガニメデ」へ載せた。そしてすっかり忘れた。パソコンが新しくなって移動したフォルダを確認していたら「発見」した。facebookへ先日、載せた。それで、思い出してみると、『 一つの方法としてわたしは水底を求めた。水はわたしを引いて道を開けた。Ekstaseだった。何故ならそれは(わたしはわたしじしんからぬけだす)というギリシャ語のekstasis由来するので。』というこの書き出し部分がいちばん重要なことだった。これは、ニジンスキーのことだ。ニジンスキーのバレエは1年間くらいユーチューブで見ていた。「飛ぶ」ということにかかる、エクスタシーを知るためだった。バレエの本もたくさん読んだ。けれども、最近になってある間違いに気が付いた。それで、また修正をしなくてはいけない、と思っている。これも忘れそうだけれども、意識の底ではきっと生きているはず。

Lesson 小島きみ子


 さて、

 一つの方法としてわたしは水底を求めた。水はわたしを引いて道を開けた。Ekstaseだった。何故ならそれは(わたしはわたしじしんからぬけだす)というギリシャ語のekstasis由来するので。

 淵ではわたしより先に来ていたバロツク的な装いの「方」がいらしたのでフロイト的サイコセラピー的な自己紹介をしなくてはならなかった。(現実の破壊と生の起源とは無への帰還でしたので。)その「方」は(フーン)と言った。閉じていた二枚の頭の翼を広げながらここでの過ごし方として、琴の音が聞こえても上昇してはいけないと念をおされた。それは精霊に恋をすると再びの死を遣りなおさなくてはならないのだという。もはや。外部ではなく世界の内部だった。それを忘れたらわたしはこの世からもあの世からも消えて無くなるのだ。


 それゆえに、

 飛ぶこと飛び上がることを練習させられた。魂の身体からの離れ方。つま先で立って歩けるようになってからは人類であったときの感受性が失せた。飛び上がることは空虚になることだった。肉体に日々課せられる筋肉の痛みは苦しみから苦しみを経てわたしに変容を起こさせ我を忘れさせた。そして一気に何かがわたしに襲いかかり言葉無き叫び声をあげてわたしはあの「方」と踊っていた。

 ペルソナの原型的行為として、

 わたしを覗き込む「貌」があった。(知っちゃいないさ)とその「貌」が言った。とりあえずは形而上学的なパ・ドウ・ドウを遣りぬくことが肝心だった。それから。水はさらに底へとわたしを引き込んで行った。

9月になってもまだまだ暑い日が続いて、夏の名残の花と、秋の花が混じって咲いています。センニチコウが盛りなのですが、これは季節の境界の花かもしれません。露草は、wikiでは地面に這って咲き、茎は立ち上がらないとありますが、茎はミズヒキソウの草丈ぐらに伸びて枝がはり、朝の7時半ころの水遣りの時間には、いくつも咲いて、青い星が地上に降りたようです。東京朝顔会の種から蒔いて育てた「江戸朝顔」も、まだまだ元気で、毎日綺麗な花を咲かせてくれます。江戸朝顔については、日にちが経つにしたがって、なるほど、と思うことがたくさんです。朝顔日記をつけるべきでした。3支柱、3輪の鉢植えですが、この支柱の高さをもっと長くする必要であったかもしれません。横枝がどんどん伸びて、まさに植物の内的環境の「流れる意識」となって地面を伸びていきます。

★写真はあとでアップします。
*センニチコウ;(千日紅、学名 Gomphrena globosa)は、ヒユ科の春播き一年草。
*センンニチコウと蝶
*露草とミズヒキソウ;(露草、Commelina communis)は、ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。* *ミズヒキ:学名:Polygonum filiforme 別名:ミズヒキソウ(水引草) 科属名:タデ科タデ属原産地: インド草丈:40〜80cm 花色:赤白2色 開花期:8〜10月 総状花序長:30cm 花径0.4cm
*マツボボタン;マツバボタン スベリヒユ科 学名:Portulaca grandiflora


*朝顔の流れる意識
;地面の暗い影のなかに咲いていますが、この影は、私です。上半身のちょうど心臓の辺りに花が咲いています。明日の朝には咲く予定の朝顔の蕾が1つあります。蕾のうちはまだ赤紫で、青い花になる決意をどこでするのでしょうか。太陽の光が当たると青くなるのでしょうか。蕾はツルや葉に当たりながら、朝風に吹かれながら、その微妙な衝撃で、シフォンのように薄い花弁を蕾の状態から開花にもっていくのでしょう。約9センチの薄いプリーツの塊がツルに挟まって開けない花を救出するのですが、指に触れると溶けるように裂けてしまうのです。息を吹きかけるのいちばんです。傷つかずに開いていきます。

●薔薇の名前
「初めに(原初に)、言葉があった( In principio erat verbum.)」(『ヨハネ福音書』1章1節)。「原初の薔薇(rosa pristina)」とは何で、「裸の名前(nomina nuda)」とは何か。薔薇の名前とは何か。

たいへん読み応えのある、手ごわい詩集書評を、電子ファイルで送信したので、やれやれ。まつすぐで、誠実。怒りや悲しみを沈めて、きれぎれの息で、母が子に伝えるような息の声で、書いた詩集だった。「詩と思想」12月号に掲載される。

自分の勉強と作品まとめと、エウメニデスの原稿編集作業に入る。
原稿、あと一人が届かない。頑張って欲しい。締切は厳守。そうでないと、この個人誌はあらゆる作業が停滞するのです。と、厳しいことを書いておきます。

現代詩文庫。 - ポイエーシス

充実している、それぞれの現代詩文庫。
中本道代詩集、松尾真由美詩集(思潮社)。鈴木孝詩集、馬場晴世詩集(土曜美術社出版販売)。松尾真由美詩集では、小島きみ子評論集「人への愛のあるところに(洪水企画)」からの松尾真由美論が転載されています。馬場晴世詩集については、「詩と思想」11月号で書評が掲載されます。現代詩の言葉の香りがあふれて、それぞれに魅力的な詩集と詩人たち。


●本日までにお送りいただいた詩の雑誌。どうもありがとうございます。機会あるごとにfacebookでも、写真をアップしています。登録されている方は、そちらもご覧くださいませ。
?まどえふ第19号(水出みどり)?石の詩83号(編集発行:渡辺正也)?観覧第95号(編集発行:日原正彦)・・・・表紙が日本画に変わった。?しある49号(編集発行:丸山貞子)?ユルトラ・バルズvol19(中本道代)?ぱぴるす創刊100号記念号(頼圭二郎)・・・・100号記念号!100という数字はここまでの苦労は並大抵ではない。?侃侃no.18.(編集発行:田島安江)
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●詩集
金恵英詩集「あなたという記号(書肆侃侃房)

怒りで詩を書く。 - ポイエーシス

野生のキノコから、セシウムが検出されていますね。 私の中に居る、「森の小人は」悲しんでいる。「森の小人」の記憶が、失われていきそうなので、詩を書く。怒りで詩を書く。精神に佇んでいる精霊が死ぬとき、人も死ぬのだから。

甥がハウス栽培で、いろいろなミニトマトを作ってくれたので、収穫に行ってきました。手が花粉だらけになって、ミツバチマーヤになった気分です。でも、これが最後の収穫で、トマトの木は抜かれて、秋・冬野菜の種が蒔かれます。ホウレンソウとか冬菜とかの葉もの野菜。
現代詩文庫や詩集が来ているので、それもこれから読んでいきます。

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夜も深まって、今夜も虫の声が澄んできました。金星は出ています?が、月は雲に隠れています。あまり夜空を見上げていたら、眩暈が?するので、やめときます。詩の雑誌「エウメニデス:Eumeni?des(恵の女神たち)」43号は、10月発行を目指しています?。FB.のお友達が何人か書いてくださいます。紙版とweb版を?同時発行していきます。どうぞ、お楽しみに。

                            ●

雑誌や詩集をお送りいただいていますが、なかなかご紹介することができません。facebookに登録されている方、あるいはtwitterをなさっている方は、そちらも見てくださると、詩集や雑誌に触れることがあります。いろいろと勉強しなくてはならないことがあり、ご容赦くださいませ。


空が高くなって
秋の気配がする小道
コスモスが大きな瞳をあげて
見つめ返してくれました
やあ。
ことしも元気だね。

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●散文的な詩と、詩的な散文を往復すること


散文的な詩と、詩的な散文を往復することは、現代の抒情とは何かを考えることになると思う。以前に書いた詩論、「抒情の深化・その「フィジオノミー(physiognomy)」の世界へ」は、読者を(physiognomy)の世界へ誘うことが目標であったけれど、フォン・ユクスキュルの“Umwelt” すなわち「環境世界」のこともあわせて考えてきました。「環境世界」とは、わたしたちは「自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていないのだ」ということにある。「自然(ピュシス)」と「being〈存在〉」の存在連関を考える過程にそれはある。〈我:わたし〉を語ることがすなわち〈汝:他者〉を語ることになるという、自己を認識することは他者を知ることになるという〈それ〉を強く感じる。本を読んでいて、「どうして私が考えて書きたいと思っていることがここで既に文章になっているのだろう」と思うことがある。それは「魂」の取り扱いのこと。私は、言葉が外界と一つになるときは、虚妄の衣服を脱ぎ捨てて、(physiognomy)の世界に言葉と詩人は存在している。と思っている。
【註】ヤーコプ・ヨハン・ユクスキュル男爵(一八六四年?一九四四年) はエストニア出身のドイツの生物学者。それぞれの動物が知覚し、作用する世界の相対が、その動物にとっての環境であるとし、環世界を提唱した。簡単に言うと、生物たちが持つそれぞれ独自の世界で、何を考え、行動しているのか。 また生物行動においては目的追求性を強調し、機械論的な説明を排除した。かつて「新しい生物学の開拓者」と呼ばれた。Umweltは知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同でつくりあげている「半自然=半人工」の世界像である。

いま、読んでいる詩の雑誌は、次の3冊。特集記事を中心に先ずは飛ばしながら読む。次に作品を読む。?詩と思想(土曜美術社出版販売)9月号・特集「戦後社会派の系譜」?現代詩手帳(思潮社)9月号・特集?「嵯峨信之」特集?「杉山平一」?CALSACK73号(コールサック社)特集「脱原発・自然エネルギー218人詩集・刊行記者会見収録」と、会員の作品と書評などの361P.
きょう、とどいているお送りいただいた雑誌は、また後日に雑誌名を紹介していきます。

先週よりいろいろな方から詩詩集が届けられ、できるかがりお返事を書いたつもりですが、自分の勉強もあり、なかなか書けません。

メモですが、ここへ書いておきます。

望月遊馬詩集「焼け跡」と秋亜綺羅詩集「透明海岸から鳥の島まで」という、この二冊の詩集に共通しているのは、この二人が久しぶりな「好青年」だということかもしれない。望月さんは「現在の」、秋さんは「今もなお」。
それから、青トマトのカレーピクルスを作ったり、吉本隆明「家族のゆくえ」を読んでいました。文庫ですからすぐ読めます。
思潮社現代詩文庫「中本道代詩集」197.も、セレクトされたいい詩集だと思う。中本さんの魅力的な詩と散文が、さらにさらに美しい。光がつけた疵から声が漏れてくる。

★30人が繋いで行くツイート連詩『pw30』(ポエティック・?ワンダーサーティ)が8月16日から始まりました。きょう、9月?3日は、小島きみ子の「当番」です。小島の前は、須永紀子さんで?す。続けて、きのう、きょうをお読みください。明日の当番は北爪?満喜さんです。興味のある方は、twitterをごらんください?ませ。
★須永紀子『銀の針を飲み込み、涙をこぼす魚のように囁くことに?疲れ、夜が明ける。いくつもの朝の後、口を閉ざした耳に、ひとの?ものではないことばが聞こえてくる。やせた木、夢にうなされる鳥?と風。移動することのない石。(身投げする音18)#pw30』
★小島きみ子『銀の針で雲と風を編んだ夏休み。夜が明けると郵便?受けにシアン色の封筒が届いた。白い便箋にワープロの文字で「い?つかまた会おう」と声の聞こえない永遠の嘘が一行。(身投げする?音19)#pw30』

詩の教室 - ポイエーシス

久しぶりの雨の日曜日です。
昨年から始めた、会員の自作詩合評を中心とした詩の教室で使っているテキストです。昨年は、参加者に一部負担していただいて配布したのですが、今年はコピーして使います。詩の初心者が、現在の日本語で書かれた、様々な分野の人々の詩を読むのに適したテキストでもあります。詩に深く関わってきた人々にとっても、大勢のアンソロジー参加者の中で、自分の詩の姿を振り返る、よい場所です。

*詩の教室で使用しているテキストは土曜美術社出版販売が発行?した、『詩と思想 詩人集2011』と『詩と思想 詩人?集 2012』です。

MOA美術館 - ポイエーシス

                        
●8月31日に行った熱海のMOA美術館で、いちばんおもしろかったのは、展示室へ着くためには、7基のエスカレーターを乗り継ぐというところです。これはまるで、神曲の煉獄への道行きだな、と思ってしまった。

思潮社より現代詩文庫195「松尾真由美詩集」が届きました。5人の解説文の1つが小島きみ子の「松尾真由美というマテリアル」です。松尾さん自身の「私的詩論」がとても美しい文体で、詩という表現を選んだ詩人の孤高の姿に触れるものと思います。濃密な1冊の詩集が読者のもとに届けられることでしょう。

小島きみ子詩論 『抒情の深化』より。 ●
 言葉というマテリアルは、光を伴っているのか、ただ光そのものなのか、言葉の行為が光なのか、あるいはそれらすべてなのか、言の葉は事物(もの)の陰影を纏っていながら、青葉茂る夏の盛りにそれを虚妄の衣服のように脱ぎ捨てるのです。そこには、存在の明るみに立った、醜から始まった異形の美の存在があるのです。白い紙の上に記法される黒い文字。紙という白い《光》の上に記法される黒い文字という《闇》。言葉は人間の《闇》を脱出しながら、再び文字という《闇》を纏うのです。

 電子文字によるWeb Siteの現代詩の言葉は、時間と空間の軸がゼロになる地点での、外部の他者との繋がりによる抒情のリアルです。バーチャリティの表現世界を通して拡大される「内なる自己(self)の現実」は、超現実のなかで外部の「他者の内なる自己(self)」を呼び込んで実現されるリテラチュールの変革の始まりでありましょう。

トマトジュースを飲んで「トマトな読書計画」を進行中。残暑きびしいこのごろは「トマトジュース」おすすめ。それで、、、読書もきびしい。
親鸞の大地 津曲淳三著(弥生書房)*親鸞 親鸞講義 増谷文雄+遠藤周作(朝日出版社)を読了して、*神の仮面 西洋神話の構造[上・下] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)読了。「最後の親鸞 吉本隆明著(春秋社)」と」「原始仏教 中村元(NHKブックス)」を交互に読んでもうじき終わる。今回は「仏教倫理思想史 和辻哲郎著 (岩波書店)」は無理かもしれない。今夜から「トリックスター ポール・ラデイン著皆河宗一訳 カール・ケレーニイ著高橋英夫訳」へ向かう。・・・・ところで、『きみは、きみが「自己」と呼ぶさまざまな秘密に満ちている。きみは、きみにある未知なるものの声だ。 』って誰だったんだろう。、、、秋の虫の声がそこらじゅうから響いてくる。

6月と7月に咲き。8月は、花の数、花の大きさも3分の1になった。
?見事なつる薔薇の花の重なりを見せてくれた「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

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                ●
『知るとは知ることではなく、知らないことが知ること(インドのケーナ・ウパニシャッド2章3節)『おお、なんじ、行ける者よ、なんじは行けるなり、彼方の岸に行ける者よ、彼方の岸から船出せる者よ、悟り!ようこそ!(般若波羅蜜多心経)』

夕べから、PC.新しくなりました。時々、アクセスできなくなるのは、よくわかりません。写真のアップはまだできません。朝、5時半の庭の気温は18度でした。これ以上は早く起きれなかったのですが、江戸朝顔は、17個咲いていました。今の気温は26度です。夜の9時には、まだ蕾でしたから、やはり、明け方からひらくのかもしれない。「裂け方」は?花弁の途中で裂けるもの、?花弁の初めから裂けているものがあり、シフォンの花弁は「朝風を利用して」細かなプリーツを開いてゆくらしい。開かない花弁にフウフウと息を吹きかけると裂けずに開きますからね。花弁は薄くて触ると指にくっついてしまいます。・・・ああ、細く弱いシフォンの息を、ずっと吐いていたので、息が苦しいので休憩です。

夜の9時です。PC.新しくなりました。花の写真がとてもきれいに見えます。ブログもfacebookもtwitterも無事に移せてよかった。
きょうは、「松の雪」17個咲いたので、最多記念!

2012年8月24日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「二の糸 三番」吉井惠璃子】
 吉岡村という過疎化する現状に抵抗して、伝統と地域を守ろうとする大人たちと、その子供(中学生たち)の成長物語である。これは第55回農民文学賞の最終候補作品であるが、本作品が受賞してもまったくおかしくないものがある。
 農業は都会ではできない。いわゆる田舎の産業である。高校の進学も地域の学校よりも、外の大きな学校に進学したくなる。それも無理はない。
 そうした状況の田舎村意識から、いつしか卑屈になり、自己嫌悪にとらわれていた中学生の主人公が、神社のお祭りのイベントに三味線の伝統芸を急場で身につけ披露、村に活気を呼び起こす。地域住民と自己の存在に確信に目覚めて成長する。生徒と家族の物語がライトノベル風に書きあげられている。
 ライトノベルでも、書き方が軽いだけで、文芸であるので、テーマの重みがあれば通常の文学作品と変わらないことを示している。題材はこれまでに幾度も取り上げられてきたものだが、どのように書くかで、これだけ面白く読ませるという事例でもある。
【「九月二十四日の花束」林 俊】
 平凡に結婚して、平凡な家族関係で、特に情熱をもって結ばれたとは思っていない夫についての、深い愛情を表現したもの。普通に書けば、「私はどこにでも見られるありふれた家庭の主婦です」で終わってしまう話。これを意識の流れを追うというひとひねりした手法で、ディテールが光った心温まる作品。こういうのを読むと、同人誌って手法的に面白いのが載っている、と思わざるを得ない。これもどもように書くかで読ませる作品である。

【「野良の昆虫記その(十七)初蝶」飯塚清治】
 連載しているうちに「あれは面白くていいよね」という評判が高まって耳に入るようになった隠れた人気シリーズである。作者は「1日1行の農事日記を付けているが、それにツバメやジョービタキの初見や辛夷や木犀の開花などは記してあるが、初蝶をしるした覚えがない。今年からそれを書こうと、春への期待が高まった」と記す。こちらは都会人でまったく知らない昆虫の世界を知って驚く。また、知っていれば知っているで、改めて昆虫と人間との関係を発見させるに違いない。生き物との関係の再発見を促す。農業詩人の精神とはまさにこれである。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

きょうは、木曜日。たしか月曜日頃に、たくさん郵便物が届いたような気がする。雑誌と会報と、詩集。書評用が1冊。その前の書評を書かなくては。詩集は、5冊。毎年参加している土曜美術社のアンソロジーも届いている。パラパラ読んだ。散文のための資料も読まなくてはいけないのに、新刊を1冊と、古典を1冊購入してしまった。「読む」という力が試されているのだ。読むぞ。


限りなく野薔薇に近づいてゆく
白ばら
紅薔薇
(今年3回目の開花)


白薔薇。
今年は小さく咲いたのだけれども、
ほとんど野薔薇の大きさ。
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紅薔薇。
白薔薇と同じ大きさ。
六月。七月の最盛期の3分の1。
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虫に齧られた桔梗。
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8月の休眠のあと、再び咲き始めた「すみれ」
種が零れたのか????
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毎朝、元気に咲く「松の雪」
二つのタイプがある。
水色に青の縞が入るもの。
青に水色の縞が入るもの。
*花びらが裂けるものは、色は2通りでる。


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夏が終わる。
ミズヒキソウが咲き出すと「庭の夏」が終わる。
草花が枯れていく。
ツユクサが茎を伸ばして青い花を咲かせている。
ツユクサは、初夏の花と思うけれども、
涼しくなってきているので、六月を思い出して、
もう一度咲く。
大輪の黒真珠もミニバラのように残りの夏を惜しんで咲いている。
白いアイスバーグも、まるで野薔薇の風情で咲いている。
暑さで枯れてはいけないけれども、
咲くために必要なこと、
二度、三度と、
何度もその条件を人工的に作ることはいいことなのか。
花の陰はどんどん小さくなっていく。

         ●

江戸朝顔「松の雪」17個咲く。感動の朝の始まり。
朝の気温26度。
いま、1度上昇。すでに萎れてきているのもあります。
朝、たくさん咲かせるには、夕方の水遣りが大切。
とは言っても、蕾の数は決まっているのだから、、
朝、起きたとき「おはよう」の声がリフレインする。
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きのう、葦が生い茂っていた荒地へ行ってみました。春、野焼きがあって、また草が茂っていました。背の高い葦は、あまり見ることができませんでした。私が「若葉のころ」という詩を書いた中で、出てくる「葦の原っぱ」はこの場所です。


葦の荒地。野焼きの跡は、宅地になっていた。その半分は背丈を越す、ヨモギ。側溝の蓋の下を流れる清流の隙間から芹が伸びている。また空地。高速バスの駐車場だ。そして本屋。J.キャンベル「神の仮面」を読む夏の逝く日。
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子どもたちの
秘密基地がたくさんあった
草の小道の名残。
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詩:若葉のころ 小島きみ子

わたしの声に被さる声はいったい誰の声なのだろう。わたしが口籠もるとき、誰かがわたしの喉に来ているのだ。そして、誰にも聞こえない声で、わたしに囁くのだ。(だれとも話したくないときは、(頭の上に(葦の原っぱを茂らせていること)さ。)ほら、そうやって。奇遇です、FIRST OF MAYきょうはわたしの誕生日です。そう言ったからか。あなたは、いつ、どこからわたしに来たのですか?

裏町では老いた人々が次々と亡くなって、空き家になって行く。産み立ての鶏卵を取りに行って、植木の根元で死んだ人、白鳥を見に行って、川に...落ちてショック死した人、玄関で転んでそのまま起きられずに凍死した人、こうして人々のいなくなった町に新しい人々は移り住んでくるのだろうか、都会の詩人から届いた詩集への返信を横断歩道の手前で、ポストに入れて、東西に開いた新しい道を走って工業地帯へ向かう。広い歩道と、川の上に架かった新しい橋とベンチ、新しい町を散歩する新しい夫婦、ジョギングする陸上部の高校生、開業したばかりのクリニックのピンクの外壁。紫の文字で「夢」と書かれた公民館の看板を通り抜けて、工業地帯の交差点に出る。市議選候補者が幟旗を持って演説している。暮らしやすい社会とはなにか、労働者の《希望》とは、この朝の意味の分からない雑音に心拍数を合わせること、かもしれない。余計な脂肪を燃焼させるエクササイズの要領で、さ。そして、農家の人がぽきぽきと血を吹くように、野菜を棄てる映像が映し出された。人々は波のようにくず折れていく。(葦の原っぱが見たい)と思う、旧い町の外れの荒地は、授業をサボる中学生たちが逃げ込む場所だった。あそこへ行けば、失った声に辿りつけるのだろうか、あのとき、言えなかったことが言えるのだろうか。あなたは、突然に歌いだす。(But you and I, our love will never die, But guess who cried come first of May)

今朝の「松の雪」
水色と青が美しい。
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読書。
毎朝、朝顔に感動していますが、それなりに考えを進めてはいます。いつも考えていないと、その考えの方向で目的地に到達できるのか、を確認するために読書と手仕事があります。それで、*親鸞の大地 津曲淳三著(弥生書房)*親鸞 親鸞講義 増谷文雄+遠藤周作(朝日出版社)を読了して、いま読んでいるのは*神の仮面 西洋神話の構造[上・下] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)819P.です。あと、夜の朝顔も気になるので見に行ってきますけれどもね。アジアとヨーロッパの神話がぶつかった場所と時代が星のように煌いている。

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<2012年 8月18日(土)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

 遠近のkitaohiです。KORN1号を頂き、納富様の作品だけ読みましたので、読後感を送ります。例によって的外れだと思いますが、その点はご容赦ください。

【「帰郷」納富泰子】
 祖父の遺産相続(資産価値の少ない山林)の関係で、叔父が良子もとに訪ねてきて、叔父の話から異母姉妹である涼子が、同じ福岡県の博多区でスナックを経営していることが分かる。
 涼子(47歳)と良子(42歳)(ともに「リョウコ」と読む。)は、電話で連絡を取り合って涼子のスナック「粋族館」で会うことになる。小説の主人公は良子(私)である。涼子は表情が生き生きとし、声は嗄れているが、カラオケは、声量があり情緒もありうまい。私は、顔だちも地味で蒼白く貧相なので、「ミス幽霊」あだ名がつくような女だ。2人は週に1度ぐらいの間隔で「粋族館」で会った。涼子の母親と父親が別れた理由なども分かった。「粋族館」で涼子に会っているうちに、九州に単身赴任している「しろちゃん」と恋仲であることも分かる。しろちゃんは一回りも年下である。
 涼子は自分の家(家は春日市にあるマンションらしい。)には私を招待しなかったが、私は家に招待した。母も挨拶に離れから来た。
 その後涼子から書留郵便で書類を送るので店の保証人になって欲しいといわれ、保証人になるが、いつの間にか、その店を処分し、しろちゃんの家のある大阪に移ったという。なお、しろちゃんの留守宅は埼玉だったが、大阪に転居したことはこの作品の中では触れられていない。しばらく年賀状のやり取りはするも、印刷された平凡な挨拶だけになる。
 更に年月が経ち、宮城県の消印で、祖母の家の近くで「入江」という一杯飲み屋を開いたが、肝臓の病気で入院してしまったというハガキが届く。入退院を繰り返しているが、店には常連客もでき親切だと書いてくるようなはがきのやり取りを少し続く。が、また、間遠になる。そんな時に東日本大震災が来る。テレビにベッドに横たわって流される姉に似た老女が数秒間写る。
 作品全体はよく計算されたいい作品と思う。ただ、祖母の家が宮城県というのは、ありえないわけではないが、九州の男性と東北の宮城県出身の女性の結婚は、特別の事情がない限り考えられない。東京とか大阪の専門学校、大学といった接点でも恋愛結婚が滅多に認められなかった時代だ。祖母の話の中に伏線が欲しい。また、埼玉から単身赴任のしろちゃんが大阪住まいになったこともどこかに説明があるとよかったと思う。
 いい作品だと思うが、終わりの部分は強引に東日本大震災を入れ、結論に引っ張りまわされているような感じがした。こういった部分を除くと素晴らしい作品だと思う。

【「噴き出物」納富泰子)】
 面白い作品だが、以前に読んだ漫画本のブラック・ジャックに、背中など身体から葉が生えてくるのがあり、それを思い出してしまった。老夫婦の独特な世界でもあり、私たちもこのような幻想と現実が入り混じった世界に入ると考えたら、ちょっと怖くなった。

【ヤマカガシ納富泰子】
 私(kitaohi)は、人間が死んだらまたすぐに人間に生まれ変わるなんてことはないと思っている。地球上には膨大な生物がいるのだ。人は死ぬと、1回は魚や鳥、昆虫など別の生物になり、その生物が生命を終えたら人間になるという思いを捨てきれない。作者がこの作品で書こうと思ったこととは違うが、この作品を読みながら、私に取り付いている死後の生まれ変わりに思いがいってしまい、集中できなかった。それだけ人間の死、死後の生まれ変わりといったことを読者に考えさせる作品といっていいのかもしれない。

「江戸朝顔」の観察をしていたのですが花びらが裂けたり、縮れたりするのは、江戸時代の、劣性の江戸朝顔が現象しているのではないかとも考えられます。「変形朝顔」の細かなプリーツ。

*1.縮れと裂け。
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*2.縮れ。
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*3.大きな裂け。
葉が、薄い花びらに当たって裂けているのでは、
とも思われますが、どうも違いますね。
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*4.裂け。
ほとんど、正常に見えますが上の部分が細かく裂けています。
花の大きさは、申し分のない大きさで、綺麗です。
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「after many summers いくたびかの夏が過ぎて・・・・」
高熱が出たりして、さんざんな夏だったのですが、それでも夏が好きですね。夏は「豊穣な季節」だからです。子どものころ夏休みに経験した「麻疹」や「押し花」や「登山」や大人になって経験した「夏休み・○○○全集読破」の記憶が、現在の生活環境の風景と重なり、美しく成長したものが滅んでいく美を発見させてくれています。・・・・庭の角で成熟ししていく「激辛ナンバン」と枯れていく草花は、小さな土の上の「豊穣な季節」です。

?浅間山・晩夏
もくもく雲が画面からはみ出しそうです。
市内のスキー場バラダへ向かう途中の小高い、桃畑の団地から撮影。

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?蓼科山・北八ヶ岳
佐久平パーキングエリアの駐車場から撮影。
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?佐久平サービスエリアパラダの展望台
ベンジャミンの木陰から、サルビアの花畑、そして遠くに北八ヶ岳連峰を望む。夏山の青い連なりが、空に蔭を作っています。
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?晩夏の庭。
激辛ナンバン
庭の角で成熟していく。
クリスマス・リースのために植えたのです。
赤くなってから収穫です。
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?種子をつけて枯れていく「ききょう」
今年は、種になって枯れるまでを見ています。
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?江戸朝顔6時の開花の様子
今朝は水遣りの必要がありません。朝6時の「朝顔」です。どんどん成長して昨日から花がたくさん咲くようになりました。鉢からはみ出そう。
だんだんプロポーションを整えて、ちじれた花びらがきれいに仕上がっていきます。
リングにツルを絡ませているのですが、まだ上に伸びます。「江戸朝顔」は普通の朝顔よりも、花も葉も大きいです。白と水色と青の配色がすばらしいです。江戸時代からの純粋種ということで、感動の毎日。FB.のお友達、粟飯原さんに送っていただいた東京朝顔会の種子です。この鉢には芽吹いた3本を植えてあります。

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*すぴんくすvol.17とhotel第2章no.30 届きました。どうもありがとう。これから読みますね。たんぼ池、ぐるぐる池のこと、、最後いいですねえ。「パパはねえ、死にたいよ。」「じゃあ蛇苺あげる」


                    ●

終戦の日(敗戦の記念日)
8月15日は終戦の日(敗戦記念日)・・正午に黙祷。
52歳で死んだ父のお墓参りに行き、しばらくぶりに車を運転。夏ばてから快復。母のお見舞いにも行く。外出はやはり疲労する。お盆休暇で、園芸店もお休みの甥のトマトハウスで、珍しいトマトを収穫。すこしだけ貰って帰る。
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名前も珍しいので、メモとともに記念撮影。
そんなわけけで、明日からまた、新しいトマトを食べながら読書に没頭する。
モノを書くための資料なんですけれどもね。
ミニトマトは食べ易いし、果物と違って糖分が少ないので、とてもヘルシーだと思う。


??から?は甥が栽培しているトマトハウス。
?ぷよ姫
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?ベリー・グランド
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?たくさん実が付いているミニトマトたち。
名前と形が不明。赤と黄色の丸いトマト。
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2012年8月15日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌発行元の「仙台文学の会」(〒981?3102仙台市泉区向陽台4?3?2、牛島方)では、宮城県芸術祭参加「文学散歩」を9月25日?26日にかけて行うという。1泊で、栃木・茨城地方へでかける。「奥の細道7」をたどる意図と、福島の中山義秀記念館や白河の関、南湖公園に寄る予定だという。一般参加歓迎とのこと。10月27日には文芸祭があり、「言葉のクロッキー」に同人の佐々木邦子氏が出場するとある。
 作品は地元の歴史を題材にした小説が多く、調べた資料をもとに、各同人が作家的な手腕を発揮している。東京にも各地域に郷土史研究家が存在するが、資料をもとに評論にしたらり、あとは童話的な郷土昔話風のものが多い。本誌は、本格長編連載小説にしているものが多くあるのがひとつの特性である。
【「『削り』の文章術」石川繁】
 珠玉の短編といわれる井伏鱒二の「山椒魚」の推敲ぶりを具体的に示し接続詞の使い方までを、工夫している研鑽ぶりを語る。っこで面白いのは、和辻哲郎の全集への推敲した散文の比較で、よくみつけたものだと、感心させられた。ここでは削ることが推敲のポイントになってるが、若いときに書いたものは、削るとたしかに引き締まるが、当時の気分が消えると話があるのは、同感である。
【「米岡西野館」近江静雄】
 70歳を過ぎて、前立腺肥大かがんに向かうのか、など年齢相応の事情を語りに射れ、登米伊達氏の祖白石宗直の歴史を調べるドライブ旅行を語る。現在進行形をもって歴史の知識が身につく。手法のひとつであるが、わかりやすく読ませる工夫がある。
【「詩序論?今を生きるゲーテの詩と言葉?ゲーテ的存在の意義」酒谷博之】
 古典的ロマン主義の代表としてゲーテの詩を対象に試論がはじまるらしい。ゲーテいわく「ポエジーの実質は自らの生命の実質である」とあるらしい。なるほど...。今後の展開が楽しみである。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

とまと。 - ポイエーシス

*庭に2本植えたミニトマトの「あいこ」。
詩人のサイトウリンさんに教えてもらった「トマトのマリネ」が美味しい。
だんだん熟していきます。
とても綺麗な実のつきかた。
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*一度収穫して、3日ほどでもう新しい実が成長している。
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*激辛トウガラシ
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*とまとな読書計画。
?親鸞の大地 津曲淳三著(弥生書房)
?最後の親鸞 吉本隆明著(春秋社)
?親鸞 親鸞講義 増谷文雄+遠藤周作(朝日出版社)
?原始仏教 中村元(NHKブックス)
?神の仮面 西洋神話の構造[上] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)
?神の仮面 西洋神話の構造[下] J.キャンベル著 山室静訳(青土社)
?原始仏教の実践哲学 和辻哲郎著 (岩波書店)
?仏教倫理思想史 和辻哲郎著 (岩波書店)
?北欧の神々と妖精たち 山室静著(民族民芸双書)
?トリックスター ポール・ラデイン著皆河宗一訳 カール・ケレーニイ著高橋英夫訳
 カール・グスタフ・ユング著河合隼雄訳 解説山口昌男

週末から日曜日にかけて届いた詩集と雑誌。
どうもありがとう。
いろいろな雑誌や、詩集が届くので、以前のようにブログへ感想を書いている余裕がありません。感想を求められているわけでもありませんので、書名の紹介はしていきます。

詩集:?川奈静詩集「いのちの重み(コールサック社)」?阿部堅盤詩集「円 (土曜美術社出版販売)」
雑誌:?かおす(柳沢さつき)?ロシア文化通信「群」(たなかあきみつ)

待っていたよー。 - ポイエーシス

おはようございます。気温25度。晴れ。FB.のお友達が送ってくださった「朝顔」が咲きました!東京朝顔会の「紫紺紫(だったと思う)」という種子でした。待っていたよー。咲いてくれました。5粒蒔いて3粒発芽しました。今朝、三輪咲きました。ありがとう!!!


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8月10日公開の『詩客』自由詩時評・第65回に小島きみ子は、『現実と幻想の境界を跨ぐ「モノ」』を書きました。お時間のあるとき、お読みいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_jiyushi/2012-08-10-10055.html

*未確認飛行物体だった。
こんばんは。きょう、お勝手のドアから家の中に舞ってきて机の上に止まった、フワフワちゃん。種子は?ついていませんでした。少し休んで、また外へ出て行きました。かわいいですね。ドアから出してあげると舞っていきましたよ。ケサランパサランはもっと大きな塊ですしね。
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*白いペチュニアが咲いていた。
白いペチュニアが咲いていたのは、アルプスあずみの公園の玄関だったね。もう2週間前になるんだ。夏ばては長かった。

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*ところで、急いで返却する本。
これ、書いておくとあとで役立つ。
?句読点、記号●符号活用辞典。(小学館辞典編集部編)
?悪の哲学(筑摩書房)
?メタファー思考 瀬戸賢一(講談社現代新書)
?言語学を学ぶ人のために(西田龍雄編 世界思想社)
?意味論とは何か(G.ムーナン著 福井芳雄・伊藤晃・丸山圭三郎訳)
?鮎川信夫詩論集(思潮社)
このなかで、??は一度読んである。前回、読んだときの付箋が貼ってあって、あわてて剥がした。誰も読んでいないということで、ほっとした。

きのうは、立秋でした。でも、これから残暑が厳しくなりますね。朝、夕の庭の植物の水遣りに出ますが、あとは外出しません。涼しくなってから、スーパーに行きます。先日、お知らせしましたweb公開詩誌「虚(そら)の筏」の紙版、手許にあるだけ、FBのお友達に送付しました。A3のリーフレットです。お送りできなかった方はすみません

高円の、野辺の秋萩、な散りそね、君が形見に、見つつ偲はむ(万葉集第二巻 作者不詳)

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*それから、この夏の楽しくも、苦しかった思い出は、宮尾節子、北爪満喜、小島きみ子のtwitter連詩♯pw3(http://togetter.com/li/324533)でしたが、もう1つ「白くまアイス」があります。ご存知でしたか?アイスバーに小豆、黄桃、パイナップルが入っています。この夏、初めて食べてファンになりました。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120616-00000062-


今週、お送り頂いた雑誌など。
写真のアップでお礼といたします。
雑誌:?ハリマオ?独合点?ピエ?仙人掌?プリズム?アダムサイト暑中お見舞いの珍しい団扇や、外国旅行のお土産など、四季のお料理の本など、嬉しいお便りは、高熱を出していたころに届き、たいへん励まされました。どうもありがとうございました。
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先輩女性詩人の全詩集・選詩集
?下村和子全詩集(コールサック社:509p.5,000円)・・・1932年兵庫県生れ。 ?池谷敦子選詩集「合図」(美研インターナショナル:285p.1800円・・・1929年静岡県生れ。

*この写真の背景は、きょう午前中に制作したA4.オリジナル封筒。
それぞれの暮らしのなかで、自分の人生の楽しみを発見していくこと。
モノを書く事は、熱病のなかで夢のなかで、モノを書いていて呆れた。
苦しみのなかに、喜びと安らぎが存在する。

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*10個咲いてくれたカサブランカ
今年は猛暑でしたので、葉っぱが枯れ始めています。水遣りが足りなかったかもしれません。「カサブランカは強い花です。蕾はきっと咲きます」と言ってくれたのは、twitterのフォロワーの女性です。咲きましたよ、全部の蕾。
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2012年8月 6日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「小川国夫『枯木』『あじさしの洲』草稿考」勝呂奏】
 小川国夫の原稿の推敲のあとを丹念に追って、短編小説の完成度を高める手順が示されている。島尾敏雄に取り上げられて世に出る元になった私家版「アポロンの島」に収録した「枯木」の前段階の元原稿が藤枝市文学館にあるらしい。「枯木」のモチーフになっている聖書の逸話はよく知らないが、「あじさしの洲」の河岸の風景描写の根気のよい推敲の繰り返しには、感服するしかない。
 同人誌にはよく使われ、わたしもよく使用するもので、このテキストにないもの。推敲では、「そして」などの接続詞を削除し、ほとんど使わない方向にもっていく。また、「その」という代名詞的なものも使わない。それから「など」と「それもなどの」の「も」。いずれも、冗長でイメージを散漫にする。
 本編では、文章の品格のあがらないような表現を削り、格調高くするための変更などが散見できる。このへんは時代の感覚ではあるが、現在でも納得がいくところである。
 「あじさしの洲」では、結局4稿までの推敲が示されているが、ただの風景描写でなく、死にゆく者の眼がどう見るかの選択で、風景として描くものを選んでゆく。小川の亡き後、こういう作家は、まだどこかにいるのであろうか。こういうのを検証して書く人も相当の文体追求マニアだが、小説はどう書いてもいいのだ、などといわれて迷う人などには、お勧めである。
発行所=〒420-0881静岡市葵区北安東1?9?12、勝呂方。
 たまたま、新聞の記事に次のようなものがあった。
 小川恵氏(78)『銀色の月』(岩波書店)は、2008年に80歳で死去した作家の小川国夫を妻の目から追想したエッセーだ。ファクスが普及する以前、静岡県に住む作家のところへは編集者が原稿を取りに来た。作品の完成を待つ彼らのため、魚の乾物やするめ、ねぎなどを七輪で焼き、もてなしたという。昼間は眠り、夜中に執筆をする夫を気遣い、日中は息子2人を連れて散歩もした。『アポロンの島』『ハシッシ・ギャング』などの名作は、静かな月光のような妻の献身により、陰影を深めた。(2012年7月31日 読売新聞)

詩時評の原稿を送信したので、ヤレヤレ。web公開は8月10日。涼しい風が吹いてくる。信州人は気温が30度を超えるとダウンする。きょうは28度、ようやく快適。

美しいカサブランカ!
8月1日に一輪咲いて、10個咲く予定。
なかなか、あと3個が開かない。
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「わたしのカサブランカ」

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紙版「虚(そら)の筏」について
洪水企画の池田康さんが編集する、電子版(PDF)の詩誌「虚の筏」1号・2号を、A3用紙に裏表印刷した紙版が発行されました。小島きみ子は1号に参加しています。ついでのときにお送りいたします。第1号の執筆者は、伊武トーマ、藤原ジュンの各氏と池田康氏、小島きみ子です。pdfは少し時間がかかりますが、下記のURLからご覧下さい:
http://www.kozui.net/soranoikada1.pdf

もし、ご希望があれば80円切手を貼付した定型封筒に住所・氏名・宛名をご記入いただいて小島までお送りいただけましたら、封筒に同封してお送りいたします。メッセージでご連絡くださいませ。縦長の定型封筒に4つ折で同封できます。

2012年7月30日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「東北王国を夢見た男」石塚邦夫】
 徳川幕藩体制が崩壊し、薩摩・長州藩主導の尊皇攘夷の流れの中で、会津、伊達藩のなかで、中央集権体制からの独立を志した人々の意気と挫折を描く。よく調べてあり、講釈師の話を聞くようで面白い。
 背景には、生産性のよさで封建制度のなのに、東北各藩が財力をつけていたことが各藩の石高比較に示されている。
 それが、時代の流れの中で中央集権体制への馴染み深さか、あるいは経済的な負担の多きい戦争を避けたいという心理なのか、徹底抗戦にもっていけず挫折する。徳川幕藩体制時代の方が、現在の都道府県より財政的に自由なものがあった様子がうかがえる。現在の中央集権制度での、税金を(自分の金でもあるがごとく)お上が与えるという体制が悪い。地方で生活のための働き場所、金欲しさに、命がけで原発を誘致させるという状況を作り出している。東北地方は徳川時代よりも現在のほうが悪政なのではないか、と考えるヒントであるかも。

【「インド逍遙(三)」須貝光男】
 副題に―デカン高原の諸院・緒窟・諸文化―とあるように、インドの風土と人間模様が詳しく、しかも系統的に語られて、以前も今回も興味深く読んだ。長いので、時間をかけて読んでいたら、紹介記事を書くのを忘れてしまったので、現在、新鮮な感動を受けたところで、紹介しておきたい。
 インドはとてつもなく多彩で奥深いと聞いてはいるが、偏向して物知らずのせいか旅行記で、これほど具体的に書かれたものを私は知らない。人生経験とインド文化への知見が深く、社会的な制度による人心の機微の観察力、宗教精神の深さを感じさる。隠居状況でインドを再訪したらしいが、これを読むと若い時代にインドに行っても、社会的な知恵が得られるか疑問である。それを具体的に示すような日本の若者の現地での事情などが的確に語られている。
 また、旅行記としてこのような形に纏め上げることのできる手腕に畏敬の念を抱かざるを得ない。社会人として相当の事業をしてきたと思われる人もまた、同人雑誌活動をしてきているのだな、と妙な感銘を受けた。今は亡き中村元氏の書の話がでるのも懐かしい。
発行所=〒001?0911札幌市北区新琴似十一条7?2?8、コブタン文学会
(紹介者「詩人回廊」伊藤昭一)

2012年7月29日 (日)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「異形のものたち」畠山拓】
 幻想小説でありながら詩的散文でもある。東京・城南のあたり武蔵小山商店街や澁澤龍彦などの実在性を生かし、リアルなイメージと幻想的な出来ごとを巧くつなげて面白く読ませる。「生首」「金魚」「小鬼」に共通した語り手は老人で麻子が変容する。都会的センス自在にイメージをふくらませている。東西の作家がでてきて、よく知らないものもあるが、なんとなく恰好がよく感じる。

2012年7月27日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 暑いのは身体と頭に応える。ぼんやりしながら、つんどくになった同人誌からなるべく薄いのを選ぶと、本誌が出てきた。
【「全身昭和」木戸博子】【「めくるめく一日」同】まず、自らの入歯の話題から2作とも父親の晩年と死を描く。題材は以前の号と同じだが、角度を変えている。よく追体験できると、娘としてのこだわりに感心する。介護保険のない頃らしく、私の介護生活時代と重なるものがある。このころは、老化による感情爆発、感情失禁症状や認知症について、家族も病院関係者もよくわかっておらず、介護をめぐるトラブルは多く、そうした時代ならではの家族の感情や親への観察描写が冴えている。
 あの時代のどたばた劇は、そのものが親との貴重な交流であったことが作品に示されている。現在のような制度では、粘着度や密着度が異なるのではないか。いずれにしても、親の死を直視することは、自らの死にゆく道の風景を見つめることになるのだな、と思わせる。
 それはそれで良いのだが、書く立場からすると普遍性が不足しているのではないか。父親の娘としての立場からしか書いていない。自己表現の域である。きっと、読者は巧いとか、デテールに身につまされるとか褒めるでしょう。身につまされれば良いのか。老いて孤独で死んでゆく親と自分と民衆への俯瞰精神につながるものが欲しい。

【「懐かしのシネマ・ストーリー」高雄雄平】
 そのままで、ほんとうに懐かしい話である。日活映画なのに大作映画の思い出があり、スチーブ・マックイーン「拳銃無宿」など、短編ドラマなのに充実感。とにかく当時はなぜか時間が沢山あった。

きょう、午前中に制作した薔薇ポプリを詰めたサシェ2種類。ピンクの綿レース120センチ使用。1つには、飯能市の「飯能レース」を縫い付けてあります。小ぶりですから、バッグなどに入れます。飯能市の詩友、宮尾節子さんから、twitter連詩の記念にいただいた3枚の飯能レース(レース刺繍)でサシェを3袋作りました。綿レースは手芸店で購入したもの。ポプリは白薔薇、黄薔薇、真紅の黒真珠、ピンクの薔薇2種類を混ぜてあります。どんなに下手くそでも「手作り」っていいですね。「手料理」、「手縫い」、手仕事のなかにある「手」がつくものは、人を幸せにするような気がします。

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 暑いときは、きょうもまた手仕事でした。きょうは、33度ありました。図書館から新たに8冊の参考図書を借りてきたので、読書計画をたてます。

                ●

twitter連詩で美しい「青の詩」を見かけたので。
山田兼士さんの今日の連詩から。

『入道雲に誘われて海辺の墓地を訪れた夏。志摩の夏それともセートの夏。少年は習いたての自転車に乗って坂道をひたすら上ったり下ったり。少女は父の自転車に乗せられて遅れてくる母を励ましている。遠くそびえる灯台は墓標ではない。そんな家族が疾走する真夏の夜空に。(夏のコラージュ1)』

*(解説)これは、フランスの詩人ポール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valéry, 1871年? 1945年)の詩「Le Cimetière marin 海辺の墓地」の映像に重なりますね。この墓地は地中海を望む( セートSète )の町の海辺にあり、ヴァレリーの墓もそこにあります。自転車習いたてのとても幼い少年少女のいる志摩の海辺の青です。
**ヴァレリーの「海辺の墓地」はとても有名な長い詩です。
日本では、堀辰雄の「風立ちぬ」の本の扉裏にヴァレリーの詩の一節が引用されています。「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」作品の中で、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と、翻訳されていることは、多くの人が知っていると思います。
 ここでは、「青の詩」のイメージに繋がるものとして、第6連目を引用しておきます。

門司邦雄氏の翻訳です。夏の海辺の情景が美しい第6連。「美」とは「滅びゆくもの」を含んでいることです。輝く夏の陽射しのなかに、死者が見えること。見えてしまうこと。夏は、ヨーロッパでは豊穣の夏です。

晴れた空よ、真の空よ、変わりゆく私を見よ!
多くの驕りの後に、力に満ちながらも
多くの不可思議な怠惰の後に、
私はこの輝く空間に身を任せる、
死者たちの家々の上を私の影が過ぎて行く
そのかすかな動きを私に馴染ませながら。

                ●


さて、詩と思想8月号と現代詩手帳8月号が同時に届きました。
*「詩と思想」8月号。特集は「脱原発の詩と思想」です。160Pの書評欄で、八覚正大詩集「朝一の獲物(洪水企画)」について書きました。お読みいただけると嬉しいです。人の命、自然界の命の「在る」に気づかせる詩集です。

*「現代詩手帳」8月号。詩誌月評の182P。下段。宮尾節子さんの呼びかけで始まった「ツイート連詩」について、河野聡子さんが書いてくださいました。宮尾節子、北爪満喜、小島きみ子の(SMK・妖精同盟)のツイート連詩の出来事は、PC.画面上において「見知らぬ自分」を書いてしまった快楽の始まりだった・・よね。

信州の夏休み - ポイエーシス

水辺で遊ぶ少女
*国営アルプスあずみの公園で。

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ミズスマシが泳いでいる池
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ノカンゾウ。
田圃の土手に生えているのと違ってオレンジが鮮やか。
同じユリ科のキスゲも黄色とオレンジがあるのでキスゲ?
どうもよくわからない。
感覚としてはノカンゾウ。
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きょうは、長野県の中部地方へ早朝から出かけました。午前中で用件が終了したので、「国営アルプスあづみの公園」へ立ち寄り公園内で昼食をとりました。公園内の高原の花々はもう、すっかり「晩夏」の風情。ヤナギランはもう終わりでした。桔梗とオミナエシは今が盛り。ヤマジサイはとても元気でいたるとこに、ブルーと白が咲いていました。水辺の水しぶきがとても涼しい。でも、二つの峠を越えての往復4時間のドライブで腕がすっかり日焼けしました。


*水しぶき。

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*オミナエシ
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紫陽花のバリエーション。
青。
1・
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2・
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白。
1・
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2・
白い細い花びらのノリウツギ
とても美しい。
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庭のミニトマト・アイコ・・・私が作っているトマトはこの1種類だけです。
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園芸店に勤める甥が栽培しているミニトマト
以下は、甥がビニールハウスで栽培しているトマトです。
熟したら往復50キロを車で収穫に行きます。

*1.フルーツトマト
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*2.ベリートマト
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*3.1と同じ種類の「イエローミニトマト」
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*4.大玉トマト
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庭の野菜
今朝、気がついたら、実がついていてびっくり。
普通な形を想像していたので、眼が形を追えていませんでした。
1.劇辛ナンバンです。今は青いですが熟すと赤くなります。
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気温22度。曇り。寒冷地では「涼しい」と表現する。長野県伊那谷の裏側は日本列島を縦断するフォッサマグナが走っている。この地溝は明治八年にナウマンが発見した。ナウマンはこれをフォッサマグナ(大いなる窪み)とラテン語で命名したのです。大母神、生命の谷へ通じる考えに到る。・・・でも、高齢な人々は「寒い」って。義母の風邪に感染したように思う。

すべてのものの命は一つであり、それは「大いなる窪み」から誕生した。人を愛することも、ものを愛することも、一つの母からの命を愛することになるのだという考えなのですが、老子の「谷神は死せず」という原典の解釈です。参考までに、原文と翻訳。拙著「人への愛のあるところに」より。「 谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地之根 緜緜若存 用之不動」(谷神ハ死セズ。是ヲ玄牝ト謂ウ。玄牝ノ門、是ヲ天地ノ根ト謂ウ。緜緜トシテ存スル若ク、之ヲ用イテ勧レズ) 」『谷神不死・加島祥造 訳 ・タオの谷は/けっして死にたえない。だからそれを「最初の母」とか/「すべてのものの母」と呼んでいいだろう.。/この母の門からなかに入ると/地の根っこに達するわけさ。/そこから湧きでるものは/滾々として尽きない。まったく/いくら汲んでも/いくら汲んでも尽きないんだ。』


                ●

昨晩の大雨が朝にはあがって気温25度。涼しい。午前中、母のお見舞い。母は、暑い日に草むしりをして体調を壊して入院。庭、いろいろな植物が生えているので、気になるの無理もない。義母も母も同じ年齢で、この二人が同時に病気になったら、怖い。老人介護保険制度と老人医療のことを、調べないとわからないことがたくさん出てきた。庭にカラスウリの花が咲いていた。この場所は、昔は井戸のあった所。子どもは成長していく。親は老いて行く。そして、自然の風景はすこしづつ変化している。同じと見えて同じでない。庭の植木もずいぶんと成長して大きくなった。「家と庭と」+「その環境に暮らす人」=???

カラスウリ
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桔梗
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樹木
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梅雨戻り - ポイエーシス

朝は27度。きのうより5度低い。3時ごろから雨。夜になって7時ごろから強く降り、8時半ごろ小止み。9時半からまた降り始めた。


               ●

薔薇のドライフラワー、ポプリ40個分相当が完成。


*サシェを制作。精油は使わず、薔薇だけの甘くてやさしい香り。
オーガンジーのリボンテープを15本、木綿糸で縫う。
ランニングステッチで繋げて袋を作り、リボンもお揃いのもので綴じる。
白糸が模様のように仕上がる。


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リボンと綿レースの組み合わせ。
ここまででオーガンジーリボン3メートルを使用。

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*ドライフラワーの小箱には、シロツメクサを入れた。


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詩集
 『思想は散文の中に住むが、ポエジーを手伝い、監督し、またこれを導く』と(Paul Valéry )が言っている。                 
 倉田良成詩集「グラベア樹林篇」はおもしろい。このあと、詩集のなかに誤りがあったとかで正誤表と、「小倉風体抄」と具体性の詩学「椨的思考」をお送りいただいて、自分の勉強の合間に取り出しては読んでいる。散文詩、なのだけれどもヴァレリーの上の言葉に重なると思っている。「椨的思考」はまだ、ぱらぱらと捲っている段階で読めてはいない。7月の初めにお送りいただいてひと月も経過するので、読了しなくてはと思う。具体性の詩学、A4版2段組であとがきまで、151P.ある。文語文の豊かさというのは、日本の季節感と文字で表す言葉が一体となっていることだと思う。古代について言えば、神話というものが現実と平行して人々の日常生活に在ったということ。あらゆる「物」に神が宿っていて、人々は物の神を敬って生きていた。自然を征服しようなどという考えではなく、「自然とともに在る」暮らしだった。それは、おそらく「敵を殺す」という必要が、部族が統合されていくまでは必要のないことだったと思う。「統合」とは、婚姻と言語に関わることになるので、このくらいにしておく。船田崇詩集「旅するペンギン(書肆侃侃房)」もおもしろい。6月に発行されていますが、ブログでは書かなかったので。「人間堀り」とか「老婆」などは、現実ではない非日常の「詩の世界」が表現されている。まだ、ほかにも書かなくてはならないかもしれないが、本人に書いたとおもうので、省略します。(風邪のための頭痛が続いていますので)

雑誌
孔雀船vol.80. (文屋順)小柳玲子さんの「絵に住む日々」ボッシュの絵。これが夢に現われたことの述懐。興味深い。                 

                  ●


紫陽花という花の色のきまぐれ。
その種類のいろいろ。
とりあえず、2種類。
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2012年7月16日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「私のジャン・クリストフ(前編)」大澤和代】
 ロマン・ロランの長編小説「ジャン・クリストフ」の概要をというか抄録をつくることになるらしい。そういうことをよく思いついたものだと、まず感銘をうけた。自分にとっても忘れられぬ小説である。工場に働いていて、夏になると日曜日には、独りで湘南の海水浴場に行った。社会人になって、周囲になじめず、世界文学を読み続けていて、その夏に「ジャン・クルストフ」を海水浴場にまでもってゆき、夏の間に読了した。
 ベートーベンの伝記みたいだと思いながら、自分の孤独な心に、この少年の孤独がひしひしと伝わってきた。いま、この抄録を読むと、不思議なことに小説を読んでいた頃の、忘れていた自分の過去を思い出してならない。江ノ島、逗子海岸、鵠沼海岸、油壺と毎週場所を変えていた。「ジャン・クリストフ」の何巻かを携えて。葉山ヨットハーバーでは、馴染みのメンバーのような顔をして、テラスで読書をした。
 どれだけ世界に人が居ようとも、孤独の質は、自分だけのもの、ということを教わったような気がする。とにかく、孤独なクリストフはいろいろな女性と恋をする。登場する女性の深みというか、思想性というか、そういうものに影響されてか、自分は現実の彼女をつくる遊びがばからしくなり、そこから脱け出し、会社をやめてアルバイトに切り替え大学受験をするきっかけになったのではないかーー。これを読んで、そんな自己回顧をさせられた。
 本編は次は中篇にしても、これは序の口で、相当な長さになるのではないか。
 もし、これを機に、ロマン・ロランを読もうとする人がいたら、忠告をしておきたい。彼の小説に出てくるような、深みのある女性には、平凡な人生を送る人は出会うことはないでしょう。身近にいる平凡な女性を大切にすべき。クリストフ「のような才能のある人は別でしょうけれど。
 なお、本誌の編集者の河崎紀美子さんは、84歳で肋骨を折る交通事故に見舞われ再起したという。敬意を感じます。

2012年7月14日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌は地域色が作品に色濃く反映した作品もあり、地域文化の熟成を感じさせる。
【「ユダヤ難民二万人を救った男(四)樋口季一郎・伝」木内是壽】
 太平洋戦争と樋口参謀本部第二部長の立場がわかりやすく整理解説されている。当時の状況で、終戦になってから、ソ連スターリンが日本の弱っている状況を読んで、北海道を占領しようと「日ソ友好条約」を一方的に破棄、戦線布告するという、世界の歴史に稀な卑怯な行動をとった経緯が語れている。敗戦のなかで、必死に北海道侵略を食い止めた日本側の防衛により、ソ連は多大な損害を受け、邪心を果たさなかった。ひと昔前のアフガン侵略戦争をみてもわかる通り、口先ばかりで、もともと戦争に勝ったことがない国である。
 北方領土問題を論じるにあたって、世代によっては、この事実を知らないのではないかと思わせる。自分には、ソ連は政治的な約束を守らない。裏切りを何とも思わない無知厚顔の人々であり、契約や約束をするべき相手ではない、という認識がある。相手にしてはいけない国である。欲に目がくらんで、ロシアと商売をしても、結局は食い物にされる。これからの世代は改めてそれを知ることになるであろうと自分は予測する。メディアで働くひとたちは、国連で日本が敵国条項対象であることを知らないらしい。周囲の国から敵とされている。拉致問題が起きるのも不思議ではない。相手が敵国だとしている国には警戒心をもつべきだ。
 これは戦争に自力で勝ったことのない国は、姑息な手段をとるようになるーーという歴史的なセオリーを認識すればわかる。アジアの中で日本とベトナムは異端的な存在である。

【「同級生の縁」岡田安弘】
 ミステリー小説の部類だが、それが地域に密着して書けるのが素晴らしい。題材も、孤独死が増えて「遺品整理」業をはじめた男が主人公で、いじめ問題をからめて時流を使うのがうまい。事件に巻き込まれる。なかなか才気のある人だ。話の進め方に意外性があり面白い。相模原市は地元のミステリー作家の作品集として出版をしたら地域振興になるのではないか。陣馬山ブームが来るかもしれない。

【「偽りの日々」外狩雅巳】
 プロレタリア文学の手法を使って、相変わらず上手い。学生運動の活動から、いまだに潜伏している活動家の現在を描く。この手法がいまだに効果的なのは、リアリズム詩に近い文章の凝縮力が文学性を失わないからである。この作品では、組織人としての退廃ぶりが、描写力で表現されている。状況を描いて、理屈を述べないことが、登場人物への無言の批判になっている。
 作者がどう考えているかは問題でなく、的確な描写がすべてを物語る。
 最終章で登場人物のもつトラベルウォッチが、地に落ちて壊れる。作者が文学的効果として選んだ上手いところだが、それはすでに、彼らの精神が破壊されたものであることを暗示している。
 本当は、現代的なテーマなら、壊れた時計を拾って、再び時を刻ませるまでの困難な人生を描かねばならないのだが、作者はそこに気づいているのだろうか。
(紹介者・伊藤昭一「詩人回廊」編集人)

*七月の詩集:藪下明博詩集「卵屋のじっちゃの幽霊屋敷(アトリエOCTO)」・・・これもおもしろかった。著者は、詩学、詩手帳、詩と詩想、へ投稿していたという。そこでの佳作作品の改稿であるらしい。とてもエロチックだけれど、大人の書き方。若い人の詩のなかでのエロや怪奇と違って、体験?を踏まえた幻想なので、醜悪さはなくておもしろかった。
*七月の雑誌:モンマルトルの眼鏡創刊号(榎本櫻湖)・・櫻湖さん、充実しているなあ。創刊号「モンマルトルの眼鏡」では久石ソナさんの「ごみを拾う少年」がおもしろかった。どこかの国で、ごみを拾っていた少女がモデルになって成功していく話をふと思い出した。「ごみを拾う少年」は美しい。 臍帯血withペンタゴンず第弐号(榎本櫻湖)・・・・「臍帯血WITHペンタゴンず」第弐号では、野村龍さんの「トトリ」がおもしろかった。龍さんは「昔は 自家中毒 というものがあって 幼い頃 母はやさしくしてくれた」切ない。私は、昔はそういう病気に憧れたがならなかった。暁方ミセイさんのデトリタス見聞、44P.の括弧の中の言葉が、静かで深くて、求めているものがそこに在る。とてもいい。(黒庭。)のそこに。

             ●

*七月の信州の自然1・
草地のなかの小さなはな。


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2・
緑の葉むらのなかを浮かぶヒルガオの花。

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3.甘く薫るシロツメクサ。
この丘のうえを、
白蝶のように舞っていけたら、
いいだろうな!


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4.すずやかな笑い声が響くトウカエデの緑!
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5・桂の木のまあるい葉っぱ。
緑の光りの明るい歌声が聞こえてきませんか?
そして、
七月の豊穣な青葉の繁みから飛び立つのは、
山鳩の鳴き声。


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日本にくらす一人の14歳の子どもが自殺したそのことを巡るイジメ行為について、ようやく真実究明のために警察の捜査が入り、今朝のテレビの市長のコメントでは教育委員会を入れない、文科省を含む専門家による調査委員会を立ち上げるという。真実が究明されることによって、救われるのは自殺した生徒の無念と両親の子どもを守り通せなかった無念が晴れる。それと同時に、この子どもを見殺しにした学校と教育委員会の教育の過ちが明らかになる。

 人間の心に潜む底知れない「悪意」と「敵意」、「憎悪」それらは、愛されないものの報復として「標的」に向けられたのかもしれない。子どもの愛し方を知らない親の子は、憎しみ方の方法によって、さまざまな悪事を成し遂げる。自分が手を下さずに、その対象を死においやる。その卑劣な方法。人は人の暗い事実を知らなくてはいけない。愛や正義は、悪を知り、悪を徹底的に悔悛させることだ。

 散文を纏めていくために、資料の確認などに午前中を図書館で過ごして帰宅。と、言っても公園の散策1時間。普段は時間が無くて、まわれない市民プールの並木道から総合運動場まで歩いてみた。牧場の牧草地と松の並木で接触しているので、緑の樹木が豊か。少年野球とか、高校生の弓道班とか、マレットゴルフの高齢者とかの人々に会うことなく、ゆっくり樹木を見ることができてリフレッシュした。

橡の木(マロニエ)の下でであったホタルブクロ。
緑の草地の上に燈る桃色の光。
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クローバーの丘でシロツメクサを摘む。

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四葉のクローバーもゲット。
幸運が舞い込むかも。
良い日。

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シジミ蝶に遭遇。
シロツメクサに止まる。
翅を閉じたところは、花の上にもう一輪の花。
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翅を開いたところ。
グレイの翅。
木陰を飛ぶときは、この翅の暗さで
見失うかもしれない。

*名前が萩原健次郎さんが調べてくださって判った。
『ツバメシジミ』

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桂並木。
美しい緑の葉の丸さ。
たくさんの緑の瞳に見つめられる。

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そのまま
空に舞う。
ふたたび別の蝶に出会う。
幸運。
*この蝶の名も判明。
FB.の友達、萩原健次郎さんから。
『ホシミスジ』

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枝垂れ柳の並木道の角を曲がり、
子どもたちと遊んだアスレチックの遊具のところまで行くと、
取り外されて使用禁止。
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アカシヤの木下の毒キノコが生えていた。

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続けて蛇苺も。
野生が存在している公園。

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そして最後に出会ったのは、
ケサランパサランであった。
白いフワフワを追いかけていくと、
地面に着床。

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冷涼な高原地方ですが暑くなってきましたね。気温26度。晴れ。郵便局へ定型外郵便を10通出してきました。「なんですかこれ。つぶれてもいいですか」とか言われてしまった。1センチの厚さを越えると定型外であるらしい。ローズカード、受け取ってくだされ。これでお仕舞い。
前職場で、同僚からもらったフウキランが咲いた。名前は「雪山」。ゴツゴツした根の広がりから、ひょろっと伸びた花茎に白い小さな花が見えますか?名前だけ涼しい「雪山」です。
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ピンク系の薔薇はすべて散り、
やはり、どこまでもりりしい黄薔薇。

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クルマユリとスカシユリが散って、
カサブランカが咲くのが待ち遠しい。
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去年のパセリが芽を出してぐんぐん伸びている。
花が咲くのを見るのは初めて。
レースフラワーみたいになるかな。
楽しみ。

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12時49分頃、震度5弱の地震がありました。震源地は長野県北部木島平村です。新潟県寄り。震源の深さ20キロ。20秒くらい?かなり長く揺れました。棚から物が落ちたりすることはありませんでした。大丈夫です。


『ギンドロヤナギが白く波打つ雨の並木道で「少女たちには古い道が残されている」と枝にあなたからのメモがあった(マイボーイ7)』

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昨日の夕方から9時ごろまでは、大雨警報で激しい雨。美しく咲いたレオナルド・ダ・ヴィンチとアイスバーグは全て散りました。土曜日から今日まで、薔薇のカード制作に熱中。これまた激しい疲労感。今晩からは散文に集中しよう。今年の薔薇の思い出。
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薔薇の思い出。ローズカード。花びらの重なりが葉書のなかに収まる程度に収縮する。新しい美へと向かう。
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詩と音楽についての雑誌「洪水」第10号が発行されました。詩人の萩原健次郎さんが、小島きみ子評論集「人への愛のあるところに(洪水企画発行2011・12・10)」の書評を書いてくださいました。109P.「詩へ近づき詩と成ること」です。機会がありましたらご覧いただけると嬉しいです。
雑誌の注文はこちらのサイトから→http://www.kozui.net/frame-top.htm
どうぞ、よろしくお願いいたします。

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金曜日までの30日間、ツイート連詩にかかりきりであったので、なんだか緊張が解けてボンヤリした日曜日だった。午前中は薔薇のポプリカードの制作で終わり、午後は新しいポプリの環境を整えて終わった。カードに使う色画用紙、サテンリボン、封筒などを新たに購入して、出来栄えは良いと思う。
詩集や雑誌のお礼に用いているけれども、また返信がきて、さてどんなカードをお送りしたっけ、と忘れているのできょうから写真を撮影することにした。レオナルド・ダ・ヴィンチはこれまでに80個ほど咲いたことになる。現在、20個はポプリ、20個はドライフラワーにしていえる。いままだ30個ほど咲いているのは、咲かせて自然に散らせて終わりにする。
アイスバーグの白薔薇は思いのほか、花をつけなかった。せいぜい8個ほど。このあと2回目がどの程度咲くのかまったくわからない。黄薔薇は5本あり、二年めのミニバラだけれど、長く咲いて花の色が落ちない。ビロードのようなつややかな黒真珠は、2回目が咲き始まり、1回目よりたくさん花がついてブーケのように咲いてくれた。これのドライフラワーやポプリはあまり美しくないので製造中止。真紅の色は、乾燥するとシミが現われてどうも感心しない。咲いて散るのが良い。
ミニバラのレンゲローズは1回目が終わり、あとどうなるか見当がつかない。様子見。

               ●

この週末からきょうまでは六月の薔薇のドライフラワーとポプリの制作に熱中していました。3分の2が完成。薔薇、30個分を使用。薔薇熱、薔薇狂いは当分の間続きそう。明日は早朝より出かけます。さ、詩集を読んでから寝よう。


                 ●

クルマユリの7月。
二年めの実生の苗。
色が鮮やか。
雨に当たると、どんどん散る。
これは咲いたばかりなので、もちこたえている。
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鉢植えのクルマユリ。
こちらは3年目
花のつき方が違う。
多すぎる。
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七夕ですね。
でも1日中、小雨模様で夕方は激しいスコールでした。
このような夜は、音楽を聞いたり、詩の本をよんだりしましょう。

☆★☆ツイート連詩pw3(ポエティック・ワンダースリー) 北爪満喜・小島きみ子・宮尾節子篇 全まとめ

【マイガール】http://togetter.com/li/319407
【マイボーイ】http://togetter.com/li/324533  
【解放区】http://togetter.com/li/328860  お楽しみ下さい♪

昨日で終了したツイート連詩の全編です。1回目タイトル「マイガール」(10日間)、2回目タイトル「マイボーイ」(10日間)、3回目タイトル「解放区」(10日間)です。では、どうぞよろしくお願いいたします。

*ローズポプリの小箱
 レオナルド・ダ・ヴィンチ/アイスバーグ/黄薔薇/シロツメクサのドライフラワー

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*ポプリカードの制作
 封筒つき。

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*ローズポプリ

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*今朝、
 小雨の中で、
 田圃の土手で脱皮したばかりのオニヤンマ。
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北爪満喜・宮尾節子・小島きみ子 によるtweet連詩pw3v 【解放区 完全版】です。ごらんいただけると嬉しいです。
http://togetter.com/li/328860

ツイート連詩、気楽に始めましたが、途中からそれぞれの頭文字による(SMK)という妖精同盟を結成しました。真剣のツルギで駆け抜けた、少女時代の10日間、少年時代の10日間、さらに解放区の10日間でした。「詩」のおもしろさと苦しみを、PC.画面を通して「なま」で感じ取っていきました。詩熱・六月の薔薇熱。どうぞ、この熱を感じ取ってくださいませ。


                  ●

いろづく夏野菜の美しさよ
?赤いミニトマト

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?クルマユリ(午前中まで名前がわからないので紅ユリでしたが、午後なって雨を見ているうちに「クルマユリ」と思いだした!おそらく、花びらが外に反っている感じが、車に見えるのでクルマユリではなかろうか。)
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?ブーケみたいな黒真珠
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?気高くて美しい黄薔薇
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?もうじき咲くだろう、フウキラン。
これは、7年前、福祉事務所勤務のときに
同僚から譲り受けた「雪山」というフウキラン。
思い出したときに水道水をシャワーでかけるだけ。
タケウチくん、今年もまた咲くよ。

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?成長している。
ハナカエデ。
実生で芽を出して、ここまで背が伸びました!

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             ●


*詩集:倉田良成詩集「グラベア樹林篇」
きのうの午後、届いた詩集はレザックの簡易な装丁だが、内容はたいへんにすばらしくて、感動した。久しぶりに味わう「知の興奮」であった。
18篇の作品、1つ1つに作者の(註)がついて、繋がっていく。
このスタイル、意識の底で私自身がやってみたいことの1つだった。
古代の文化に対する知識が豊富で、その記述だけでも魅了される。すばらしい。おもしろい。もうすこし読み込んでいく。


*雑誌
同時代 第3次第32号黒の会発行。特集は「手紙」

青葉の美しい薔薇の葉と枯れ草色のシロツメクサのドライフラワーが完成したところへ、詩の雑誌「something15」が届いた。お世話になっている方々へお送りさせていただきます。よろしくお願いします。

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小島きみ子担当:「解放区」ツイート連詩I NEED TO BE IN LOVE.今まで経験してきたことのなかで一番難しかったのは信じ続けること。真実の愛に至るには必ず大きな危険をくぐり抜けねばならなかった。誕生日の花束が届いた日。現実は一瞬に変容し化学変化が起きた!(解放区9)#pw3v

*I NEED TO BE IN LOVEは1976年にカーペンターズが発表した楽曲。The hardest thing I’ve ever done Is keep believing.誕生日に恋人ベラから花束が届いて化学変化が起きたのはシャガールでした。何時の時代も真実の愛に至るには危険なことが存在するものです。


*シャガールの「誕生日」・・・これ、絵葉書があるので、あとで探して写真をアップしますね。


*天使が窓から部屋のなかの恋人に花束を届ける画もあります。
誕生日」シャガールはこの作品について、『1915年のわたしの誕生日に、花束を持ってベラが来てくれた。この現実はわたしの中でたちまち変容し、化学変化が行われた。・・・わたしは具体的で精神的な最初の衝動・明確な事物から出発し、そして何かもっと抽象的なものに向かった』
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*季節は薔薇からユリへ。
うすいオレンジ。
花はとても大きいので鉢植え。


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スカシユリ。
紅色の2年目。
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上と同じ種類ですが、すこし花が大きい。
色がさらに鮮やかです。
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6月下旬から7月4日までの雑誌と詩集を先ずは写真で。書名や雑誌名をすでに挙げたものもありますが、書くという行為にいそがしく、ブログ記事は写真中心であるかもしれません。写真も思い出になりますしね。


*小林弘明さんが送付してくれた雑誌。
それぞれに違う「F.ヨーゼフ」がでてきておもしろい。
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*6月下旬から7月4日までの雑誌と詩集。
書名が見えないとお叱りを受けそうですが、ご容赦ください。
できるだけ、お手紙を書きました。
手紙の手紙がきて、恐縮です。
返書、って嬉しいものでした。
ありがとうございました。
書けなった図書は、これからメールします。
狭い我家ゆえ、箱にしまい忘れてしまっていたら、お許しください。


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*web公開の自由詩時評、おもしろいのでお時間のある方は、行ってみてください。
こちら。小島きみ子は6月15日に書いています。
http://shiika.sakura.ne.jp/category/jihyo/jihyo_jiyushi

2012年7月 4日 (水)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「武士でもなく皇軍でもなく」逆井三三】
 新撰組のとくに近藤勇を中心にした物語である。時代小説及び歴史小説は、語り口が重要でこれは充分面白く読んだ。かなり長いので、時間をかけてぼちぼち読み進むのが適しているようだ。現在は時代小説に人気があるようで、かなりつまらないものまでが文庫本になっている。いわゆる暇つぶし読み物に徹していて、読者もそれでいいらしい。そういうものに比べたら、これなどは出版しても読者に不満を持たせることはないと思う。とくに、新撰組の当初に掲げた旗印が、芹沢、近藤とリダーシップの変遷が、解釈を多様化させ矛盾と解離を内包してゆく過程なかで、土方、山南などが対立してゆく事情などはよく筆が行き届いている。組織内の変質と対立は、大義を忘れさせ偏狭なものにしていく。
 組織が変質するときに、日本では組織内にそれに抵抗する人間は、空気を読まない勢力として排撃する傾向がある。そのために、悲惨な結果を招くことがある。太平洋戦争での官僚と軍部の癒着がそうだ。戦後の安保反対の過激派の日本赤軍派の愚行、オーム真理教の暴走など、組織内で空気を読まないことで排撃されるのを恐れての仲間同調の結果である。東京裁判で戦犯として糾弾された日本人軍部は、誰もが「本心は戦争に反対だった」と答えたという。告発した国連軍は驚いて「戦争に反対なのになぜ戦争したのか」と、彼らをとんでもないウソつきと軽蔑したという。
 この作品では、たまたま、新鮮組は自尊心が強く、滅びの美学を知っていたので暴走しきれず消滅したのだな、と思わせるものがある。
 世相を読み取る編集者が、時代の流れにあわせて書き増しや章建てなどを再編成すれば、売れそうな感じがする。ただ、出版社は継続してシリーズ化できるのを望むので、それに対応できるような書き方が求められるかも知れない。たまたま先月、近藤勇が大名家に資金を無心する手紙が発見されたというニュースがあった。この作品を読むと、さもあらんと思わせるものがある。
【「斜面の町」難波田節子】
 定年後も職について満足している夫、年頃を過ぎてまだ結婚しない二人の娘たち。主婦と母親の視点で世間話的な題材を扱う。家で夫に書斎を作ったら、そこで書き物をしないという話には思わず笑ってしまう。近所の家が火事なってしまう出来事をめぐる話。ありふれてはいるが、どこか傾いているような日本的な生活の在り方を淡々と描く。相変わらず巧い。こういう女性の細部の鋭い視線には。男は勝てない。問題がないような生活のなかの問題意識が顔をのぞかせている。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

【「穴」渡邊眞美】
病室の描写で始まる。入院しているのは、かなり重篤な老人ばかりだ。日常の欠片も見出せない特殊な場の空気が生なましく伝わってきた。
この作品には判りにくい部分があり、当初、主人公が見舞っている「むっこさん」がどのような関係の人かがはっきりしなかった。読み進むうちに「おかあさん」という呼びかけがあり、更に読んで行き義母と判った。各章もいきなり場面描写で始まる場合があり、時間の経過がつかめずに内容を味わうより理解に気を取られてしまった。描写に説得力があり、主人公の思いもよく伝わって来るので残念な気がした。

【「ひつじ団地のこと」権野宏子】
還暦間近の美奈子が高校の同窓会案内状を受け取る場面から始まる。差出人は当時、気になっていた男性だった。そこから「ひつじ団地」での30年にわたる回想になる。内容の要素がとても多い。団地管理について、そこでできた友人達との読書会、いじめや引きこもり、主人公の仕事と教育現場の変化、環境問題、夫との関係などなど。原稿用紙50枚ほどにこれだけ盛り込めば筋をたどるだけになりそうだが、そのような印象は持たなかった。主人公の柔らかい人間性が一貫してぶれずに綴られているからだろう。
「かもしれない」、「気もしていた」、「ようだった」、「だろうか」、「と思う」などの多用が読んでいて気になった。もっと言い切ってもよいのではないだろうか。

【「断片集(2)」小島義徳】
俳句を散文仕立てにしたような7編が並んでいる。
私は小説を書くとき、いくつかの場面が浮かぶ。それらは強くイメージできるのだが、その場面だけを書き連ねても作品にはならない。イメージとイメージの間をつなぐ作業を面倒に思う。そうか、こういう書き方もあったんだ。私もやってみたい誘惑に駆られるが、「では書いてごらんなさい」と言われたら、それも難しい。7編それぞれが人というものの哀しさや儚さが漂っていて、全体として同じ空気が流れている。

【「高円寺へ(三)」後藤みな子】
連載の3回目を迎え、展開が気になるというより「作品世界を味わいたい、浸りたい」と思いながら本を開いた。作者がずっと追求し続けているテーマである母が、立ちのぼるように浮かび上がって来る。主人公の朝子は夫の隼と別れたが、これといった明確な理由があるわけではない。そこのところが、朝子の独白を書き連ねるのではなく、母の記憶や隼の手紙でみごとに書かれている。花崎老人やゆきさんと佐方先生、蒲団屋での一件など細部までこちらの感覚にするりと入り込むような実感を抱いた。

おはようございます。夜中の雨が上がって薔薇月曜日。気温20度。曇り。
きょうのtwitter連詩・小島きみ子担当
『王子のキスで眠れる森の王女の魔法が解けたその一瞬。王女は百歳の美女。魔女の魔法は百一歳から始まるスーパーヒューマンの華麗なる夢見る野茨の人生。時間の存在のエレガントな宇宙へようこそ!(解放区6)#pw3v』

ツイート連詩「解放区」が現在進行中です。宮尾節子・北爪満喜・小島きみ子 http://togetter.com/li/328860

*「平林敏彦を励ます集い」 昨日は、横浜のブリーズベイホテルで、「平林敏彦を励ます集い」でした。平林さんは、長野県松本市に移住して10年間、さまざまな詩活動を通して長野県在住の詩人たちに刺激を与えました。私が発行する雑誌「エウメニデス」にも何度か寄稿してくださいました。日本現代詩人会の「現代詩人賞」受賞の際にお会いしてから3年ぶりの再会。柔らかで深みのある声は、若々しくみずみずしく、変わりがなかった。長野では、「青猫座」を立ち上げ 1998年に詩集「月あかりの村で」を発行された。赤松の樹皮の美しい松茸林での「松茸パーティー」は楽しかったなぁ、、、。
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奥様の平林洋子さんと。


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井川博年さんとの対談。
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twitter連詩(解放区)6月29日の小島きみ子作品。

六月の緑のなかを帰ってきた。否定と肯定の情念のコードを解いて。暗黒の解放区。あなたの魂の深みの中へ舞い落ちる。あなたは溶ける。世界で一番愛らしいもの。薔薇の精の踊り。薔薇の花びら。跳躍の薔薇。飛ぶナイフ。魂の深淵から舞い上がる瞬間。(解放区3)#pw3v


今朝より、ひどい偏頭痛で左目を開けることができなかったが、鎮痛剤イブの効果でようやく目が使い物になってきた。詩集、雑誌等届いていますが目を通すこと不可能。
論考の校正を、FAXで送信してひとまず安心。一休み。まだまだ忙しい日々は続く。
これは普通のことなり。みなさん、そうだと思う。

六月の薔薇熱 - ポイエーシス

1.白つる薔薇:アイスバーグ(国産)
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2.白ミニ薔薇:レンゲローズ(国産)

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3.花びらの形状:レオナルド・ダ・ヴィンチ(フランス)

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4.花びらの形状:黄色ミニ薔薇

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5.レオナルド・ダ・ヴィンチのグラデーション(1)

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6.レオナルド・ダ・ヴィンチのグラデーション(2)

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7.国産・ピンクローズ

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2012年6月28日 (木)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「祈りから作品に」豊田一郎の編集後記から】
 豊田一郎氏の小説「電動人間」が「詩人回廊」で連載修了。その連作の「白い花が咲くころ」の連載に入った。
「電動人間」は、豊田一郎個人誌「孤愁」(8号)に収録されたもの。本来は次の「孤愁」(9号)があるのだが、連作としはては、同10号の「白い花が咲くころ」が良いというので、連作であることを付記した。
 たまたま、「季刊文科」第56号2012年5月25日発行「同人雑誌季評」の勝又浩氏の評で、『豊田一郎の個人誌「孤愁」(10号、横浜市)より「編集後記」・「白い花が咲く頃」』がとりあげられている。
 個人誌「孤愁」には、毎号編集後記がある。作品よりそれが興味を惹いたというのは、それなりに強いメーッセージ力を発揮しているということでしょう。
 なお、豊田氏は個人誌「孤愁」10号の在庫がまだあるという。評論された編集後記を読みたい方は、文芸同志会あてに40円切手4枚200円分を送付していただければ、転送します。前回の8号「電動人間」の分は1人いました。
 8号の編集後記にも、なかなか興味深いことが書かれています。その一部を引用します。
 「(前略)作品は面白くなければならない。読者に伝わらなければならにという努力を放棄してしまった。だから私の小説は面白くない。そして、また、私の作品からは癒しがえられないともいわれている。
 そうだろう。私は誰かのために書いているのではない。自分の想念を纏め上げているだけである。(後略)」
 つまり、これは、小説と銘打って、自己表現をしている産物であるかも知れない、と自覚しているのだ。そして、
「(前略)それは私自身への祈りであるからと言うしかなかろう。(後略)」
 さて、祈りは文芸作品であり得るのであろうか? このような考えがうまれるのも、この「孤愁」というものが個人誌で、それを義理でも読むであろう同人誌仲間を持たないからであろう。
 前にも述べたが、同人誌仲間というのは、自分の作品を掲載する媒体をつくるために寄り集まったのであって、その根底には、読んで欲しいのは、自分の作品のみなのである。それでも、義理で読むから、仲間の作品を正し良き理解者であるとは限らない。擬似読者なのである。豊田氏は自作のの作品が面白くないと評価されたとしているが、それが正しいとは限らない。
 ただ、いえることは「電動人間」は、「詩人回廊」に掲載することで、「祈り」から「作品」としての足場を確保した、と私は考えたい。豊田氏は「それは我田引水すぎる」いうのであろうか。
 ただし、この引用部は、わたしの発想の資料として役立つところのみですので、豊田氏の述べようとしたこととは離れるところがあるかも知れません。全文を読んで確かめたい方は、切手200円分で申し込んでみてください。

その日こそ、怒りの日。地球で生まれてから1億5千万年の時間が過ぎた。毒蛇は誰が卵を生み誰がそれを孵したか。失われた空き地へ通じる古道。都市は何でできているか。(SMK)よ、ドクダミーよ、急げ!中世の精霊の剣をかざして。詩獣の眼は開く。(マイボーイ10)#pw3u

*「その日こそ、怒りの日」とはモーツアルト・レクイエム「ディアス イッレ」の歌いだし。
 ヨーロッパ中世は、宗教改革が興りました。『「運命は、何か偉大なことをなそうとする時、運命の与える好機に気づき、それを活用する気概にあふれ、才能にも恵まれた人物を選ぶものである」「弱体な国家は常に優柔不断である。そして決断に手間取ることは常に有害である。」(マキャヴェリ語録より)』
 緑茂れる、六月の最後の週。首相官邸を取り囲むデモ:報道されない:twitterでは呟きや写真が出ている。暗く潜む不安は、原発の再稼動と消費税増税のことなど。
詩の言葉を、この国の社会から、掬いとることはもちろんだが、いつも広い世界の動きと、歴史の動きのなかで、日本語で表現することを目ざしていたい。

*空き地のドクダミとカレンダーに潜む白い薔薇
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*アイスバーグ、どこに居るかわかりますか?
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今年の6月は、白い野ばらを追いかけて、森と川辺の写真を撮影できた。楽しかった。
twitter連詩が、30回のうち、6月26日で20回目になる。宮尾節子・北爪満喜・小島きみ子の妖精同盟の言葉の力の熱の渦がものすごい迫力で。迫っている。焦げそう。


ところで、なぜ白い野茨か。
芭蕉は、元禄二年(1869)6月7日、白河の関(福島県)で「卯の花に茨の花を咲きそひて、雪にもこゆるここちぞする」と書いている。この白河の関の写真とメモがあって、それから野茨か。
白い野ばら、美しい。・・・・・

*きょう、お送りいただいて読んだ本は、広島の詩人・井野口慧子さんのエッセイ「ウジェーヌ・カリエールへの旅(メディクス発行)」だった。「魂と魂」が出会い、導かれてゆくエッセイ。


1.薔薇のグラデーションとリボン。
  色彩のイメージ。

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*このイメージでカードの制作をする。
 カードは白いミラーコート紙と
 灰色の厚紙をハガキ大にカットしたものの2種類を用意する。
 先に薔薇の花びらを2種類貼り、その上に白いラメ入りのリボンを貼る。

 花瓶の薔薇はミニ薔薇。
 このままドライフラワーまで持って行く。
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2.薔薇のグラデーション
  花びらの重なりと、色彩の微妙な変化を引き出す。
  同じ薔薇なのに咲いた時と天候により、こんなに色が違う。


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*青色リボンのカード「湖の漣」を表にして、内側に水面で揺れる花びらを
 張り合わせて、二つ折にしてリボンで止めて出来上がり。


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**乾燥させる。
 シリカゲル、あるいは乾燥剤(おせんべいの袋に入っている)などを
 花びらの下に敷いて室内乾燥させる。最初は窓辺、次に部屋の涼しい場所で。

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嵐の跡. - ポイエーシス

嵐の跡
1.四葉のクローバーを発見。
  シロツメクサを摘んできたが腕輪には少し足りない。
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2.庭から避難していたミニバラ
  白の中心がピンクなかわいいバラ。
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3.初めての黄色のバラ。
  4鉢のうち2鉢が咲き始める。
  花びらの数がどのくらいだろう。
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4.湖の漣のなかに芍薬のポプリを閉じ込める。

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5.湖の漣のなかに広がる光りの波紋。
  花びらが漂う。

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twitter連詩の担当部分を挿入していく。


1.レオナルド・ダ・ヴィンチ。
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月夜の野辺でアカシヤの花を摘みその木の下でキンポウゲを摘みその下でワスレナグサを摘みその花束を水色のリボンで結んで彼に届けました。彼は昔少女の私の髪の上に花の冠をかけてくれた人です。ゆかしいひとよ愛しいひとよあなたの白い腕に花のブレスレッドを巻いてあげよう(マイガール2)♯pw3t

2.ウェーブが整う。
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噴水の上がる公園のカロライナジャスミンの繁みで、いま、生まれたひとがいる、それはだれ?なまえのないあなたよ、もう瞳をあげて、水のなかを駆け抜けていく。水の精霊よ、少女よ。キラキラ光る産毛に、熱い熱い息がかかって。(マイガール5)#pw3t

3.横からの重なり。

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ロシア皇女姉妹オリガタチアナマリアアナスタシアの結束を象徴するOTMAサインのように、電光掲示板に現われるSMKは連続する私たちのイニシヤル妖精同盟。文字が声が降りてくる木曜日の朝、横断歩道を渡るあなたたちの背中に愛の羽を投げようもっともっと熱い愛を(マイガール8)#pw3t


4.全体がまとまって美しい襞となる。


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千年経ったら蘇ってきっと会いましょう、金の時計塔の前で。目印は鳥の羽のイヤリング。誘われて家を出ようとしたそのとき行っては駄目と呟いたのは誰?(マイボーイ1)#pw3u


5.はなびらを乾燥させる。

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ギンドロヤナギが白く波打つ雨の並木道で「少女たちには古い道が残されている」と枝にあなたからのメモがあったので、噴水の水の上がらない公園へ行くと四葉のクローバーを5枚見つけた。SとMとKとあなたと彼に。緑色の幸運。ギンドロヤナギが白く波打つ日に。(マイボーイ7)#pw3u


6.カードに貼る。形と香りが残っているうちに仕上げる。(1週間)

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燃え尽きた手紙を土に埋めたあとに青いツユクサが咲きました。ツユクサの汁の文字であたらしい手紙を書きました。かすかにあまくさわやかに香る香水を添えて。(The Great Gatsby)文字は消えてもいつも心に香る人よ。(マイボーイ4)#pw3u
*ジャガイモ(男爵)の花
 うす紫の気品。
 ヨーロッパでジャガイモが食用として栽培されるのは17世紀。
 それまでは観賞用。女性の夜会服のコサージュにもなりました。

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*紫色が美しい、菖蒲。

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*ブルー矢車草。

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きょうは(6月17日)長野市で長野県詩人協会の「第21回長野県現代詩ゼミナール」でした。東信州から北信州へ行くには、高速バスで1時間、新幹線で25分。なので、新幹線利用。夜明けから激しい雨でしたが、快晴。

*昨年までの会場は松本でしたから、長野は素通りしてました。それで、久しぶりに駅前の平安堂書店へ寄り、本を見たり読んだりして、書店内のカフェでお昼ご飯。「ふわふわ卵のオムレツ+ドリンクで750円。お手ごろ価格。本もゆっくり読めて、静かでよいな、と思う。経営がT産業の子会社に入ったが、雰囲気は変わらずで、よかった。
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前半は、会員の朗読で、私もfacebookへも紹介させていただいた「しまわれた、愛」を朗読しました。

講演は、横浜の詩人・南川隆雄さんの『詩誌「新詩人」の四十九年、そして今』でした。長野で発行されていた詩誌「新詩人」は今は廃刊となっていますが、当時の同人も長野市内に住んでおり、よい交流の場となりました。
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**昨年までは、長野県詩人協会の理事をしていましたが、今年は詩人賞の選考委員をします。会場が松本市から長野市に移ったので、すこし楽になりました。以前は在来線と新幹線を乗り継いで1時間半でしたが、今度は新幹線で25分。高速バスも利用できます。・・・近くなってよかった。

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●6月18日の受贈誌
*詩誌・ひょうたん46(小林弘明)/詩誌・ユルトラ・バルズ19(小林弘明)詩誌カラ12(小林弘明)
:詩集・コールサック詩文庫8「鳥巣郁美詩集」・高田真詩集「花族」RUE書房

:その他・広瀬大志「ぬきてらしる」・・・なんというジャンルに入るのかわからないけれども、おもしろいぞ。


そんなわけで、手紙を2通書いて、雑誌エウメニデスのバックナンバーを発送する。

色の鮮やかさを蘇らせるために、
シャワーを浴びる。
水ではなく温水。

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1日で、変化する。
満開となり、散る。
はらはらと零れるので、
紙のうえに並べる。
紙に映る、
滅びていくものの、陰り。

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批評とは、滅びの陰影を写し取ることだ。
官邸を取り囲むデモも。
芸術も。
精神の芯の危機を知ればこそ。
自分の方法で批評に向かうだろう。

薔薇は、湖の風に揺れていた。
そして、流れて行った。
散りながら。
歌いながら。
オフィーリアのように。

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散る。
いつから散ろうとしていたのか。


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さぁ。
眠ろう。

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*芍薬。
 花びらの先が、さけている。
 なぜだろう。


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*うまれたて。
 そしてすぐにほろんでいく花の命のはかなさ。
 ならべる。
 はなびらの、そとがわから。
 そとがわから、濃いいろ。
 中心は薄いいろ。

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*何枚の花びらで花になるのか。


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1.光りの小箱
  散り逝く薔薇たち。
 *材料:白薔薇・ピンクの薔薇・スミレ・カーネーション・シロツメクサの花綱。
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2.滅びゆくものの影。
 *紅薔薇のドライフラワー。4日目の状態。
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3.森へ白い野茨を探しに行く。
  光りの塊。
 *ギボシ・日本ミツバ・コゴミのシダ・カタバミ(全部葉っぱです。花はついていません)いくつわかりますか?

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  *森の入り口の野茨。

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  *あまく咲き零れる。
   ものすごく高い土手で、土手から落ちそうになる。
   ピントがボケている。
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*野生のワスレナグサ
まさか、森の小道でであうとは!

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*千曲川の土手の野ばら。
 意外と近い場所に生えていた。
 花の塊はちいさい。
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*この土手を一気に下る。
 野茨がちらほら見える。

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*愛犬、林太郎(りんたろう)に阻止される。
 「あんなところいくのあぶない」
 見慣れない「黄色の花」にしばし立ち止まる。


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*やはり。
 光りは咲きながら滅ぶもの。
 咲きこぼれるとき、その瞬間に散るという運命がやってくる。

2012年6月15日 (金)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 55号は時代に対応したものが多く充実。東日本大震災と福島原発事故を題材にしたもので、文芸的な詠嘆精神を越えて社会性を強く反映している。
【「望郷」(二)海鳴りの春」もえぎ ゆう】
 同人誌というのは、読者が同人仲間という前提が意識にあるためか、三人称を使っていても一人称的効果のものが多い。しかし、ここでは、3・11以降の夫沢海岸の現場の状況をリアリズム手法で再現したためか、住民のそれぞれの多勢的な動向を的確に表現しており、優れたドキュメント風の表現力である。同人誌で意識的に群衆を描くことに心を配る人は少ないが、これはその少ない事例のような気がする。わたしはこういうところに、ここに文藝表現力の肝があると思うのだが、最近はこうした表現力をもたなくても、ライトノベルなどのプロ作家になれるようだ。
 そのせいか、読む面白みが薄っぺらであるため、文章芸術のファンが減るのだ。たとえば4人の若者がデズニーシーに行ったとする。その場合、その4人の性格を表現させるのに、具体的な会話をさせ、それで読者に伝えるにはどのような工夫をするかなど...。現在はA優しい、Bは気が強い、Cは人見知りとか、直接説明して話を進める。どのようにしたかを省略してしまう。ストーリーだけになる。TV番組の事件報道バラエティのほうが、内容がないのに、話のつくりが巧い。こんな話は旧い文学老人の価値観ではあるが。
それはともかく、本作品のなかに、こうある。
『東京電力を恨む気持ちではなかった。/原子力の恐ろしさを感じていても知識力がなかった悲しみ、安全だと主張し揺るがない東電の説明、政府の意向を断れなかった悲しみだった。いや、安全という観念に負けたのだ。そしてその「安全」がいかに無能な対策でしかなかったかという、「安全」という言葉だけが魂を持っていただけだったかという事実の発見だった。
 具体的な対策を確認したわけではない、共に学び検討していくという事実に向かうこともない、ただ「安全」の言霊の魔術にかかっていたのかを、今現実として剥き出しになって初めて実感させられた悲しみだった。
 それは道造にとって第二次世界大戦中「日本は神の国だから勝つ」と信じ込まされてきた苦く苦しい言霊の体験と同じだった』
 まさに実感のこもった独自の表現で、説得力がある。新聞テレビのメディアは、今もまた言霊の悪霊の役目を果たす。1度あることは、2度、3度あるというジンクス。原爆も広島の後、長崎にも落とされた。そのことをメディアは語らない。おそらくメディア当事者には、戦前と同じで、ものを考える頭がないのであろう。ほかにも原発事故の当事者の手記があるが、それは次に紹介したい。優れたドキュメンタリーになっているので...。

 発行所=〒352ー0032新座市新堀1?13?31、竹森方、小説芸術社。
 編集人の竹森仁之介氏にPRした方がいいと、一時期でも当会のサイトを利用したらと進めたが、その気はないようだ。原発事故のドキュメントは同人誌的なところを越えて、被害者の心情や現状が参考になる。興味のある方にはお勧めである。
紹介者・伊藤昭一(詩人回廊・編集人)

滅びと光り。 - ポイエーシス

きょうの高地の気温は13度。青葉のすがすがしい樹木の波を追う。輝く緑は新しい今年の若葉。輝きと暗さが、木をいっそうひきたてる。暗さと若やぎが、どんな美にも必要な条件。滅びと光りが同時に存在するから美しいのだ。

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*ヤマボウシ(山法師、山帽子、学名 Benthamidia japonica )はミズキ科ミズキ属 ヤマボウシ亜属の落葉高木。


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花も樹形も美しくて、造園用に自然の中ですくすく成長しています。いつまでも見とれてしまう美しさ。

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ヤギ牧場
短いシッポを振ってごきげんなヤギ。

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ハコベ。
緑の塊。
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 雑誌:橄欖・94号(日原正彦)/現代詩図鑑2012年・春/個人誌・ののめ
(早矢仕典子)藍玉9号(水野信政) グリフォン30号(川野圭子) 詩人のエッセイシリーズ門田照子エッセイ集「ローランサンの橋(コールサック社)」

*受贈誌お礼・表紙写真。最近の雑誌はできるだけお返事をだしましたが、とどかない雑誌は書名の紹介にてあしからず。

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*6月11日の薔薇は、アイスバーグ。
優雅に咲きました。
ありがとう。

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*薔薇の小箱。
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*形状を保存する。
そして変身へ向かう。
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*うつくしさとともにほろびゆけ!
散る薔薇。
ビロードの皮膚。
つややかな息をまだのこしている。


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*直販所で芍薬を購入。
しかし、開きすぎであった。

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*デルフィニュームの花束
なんと100円の花束、お買い得。
カーネーションもついて、、、。

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*美しい、ダ・ヴィンチ。


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6月9日の薔薇。
レオナルド・ダ・ヴィンチです。
つる薔薇。
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紅薔薇。
咲き零れる。
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朝、小雨。
梅雨に入る。
シダの森へ小人を探しに行く。

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山桜。
青い種子が鈴なりについている。
小鳥が食べにくるだろう。


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シダの森から連れてきた小人。
虫に変身してる。
名前がまだわからない。
星が2つついているテントウムシみたい。


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心のように息をしている。
みどりのシダ。
みどりの皮膚。
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きのうから、twitter連詩をはじめました。詩人の宮尾節子さん、北爪満喜さん、小島きみ子です。見てくださいね。お題は「マイガール」です。よろしくお願いいたします。
今朝の私の作品です。

月夜の野辺でアカシヤの花を摘みその木の下でキンポウゲを摘みその下でワスレナグサを摘みその花束を水色のリボンで結んで彼に届けました。彼は昔少女の私の髪の上に花の冠をかけてくれた人です。ゆかしいひとよ愛しいひとよあなたの白い腕に花のブレスレッドを巻いてあげよう(マイガール2)


6月8日の薔薇。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
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咲き零れる紅薔薇。
蜜蜂がきて花にもぐっています。

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?6個目のアマリリスが咲きました。机の上に飾っています。週末は森へ野外観察に出かけます。
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遊歩道を登って行くと、白いアヤメが咲いていました。この辺りの標高は700メートルくらいです。坂道を登りつめたところで「花が咲いている」と嬉しいものです。
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白い野茨が見たいと思って遊歩道を歩いていくと、頂上のあたりに小さな野茨の固まりが咲いていました。きょう、見たいと思っていた「白い野茨」に出会えて嬉しかったです。

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6月7日の薔薇は、つる薔薇の「アイスバーグ」です。まだ、蕾です。咲き出すとすばらしい「白」です。きょうも1日がよい日でありますように。
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クローバーの茂みで、みんなにいいことがあるようにお祈りした。
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きょうの午前中、嬉しかったことは、我家の近くの保育園の年長組さんがお散歩してるとき、私と出合い、そのなかの男の子に花束をプレゼントされました。「ハルジョン、シロツメクサ、ヤブタビラコ、もうひつは?不明」です。たくさんの子どもとハイタッチして楽しかった。・・(このハルジョンがあとで役に立ちました)


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午後、母のお見舞いに行くときに川べりにアカシヤの花が咲いていてお土産に摘みました。その木の下にピンクのヒメジョンが咲いていたのです。それからシロツメクサ。シロツメクサは茎が長かったので「花綱」にしました。・・・母は、懐かしがってとても喜んでくれました。・・それから、ヒメジョン。茎に産毛が生えていなくて茎の中が空洞です。白いハルジョンは茎に産毛が生えていて、茎の中が空洞ではありません。「ハルジョンとヒメジョン」の疑問が氷解しましたよ。みなさん、どうもありがとう。保育園のボク、きみのお陰だよ、ありがとう。


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いつも、かわいいと思うマーガレット。

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咲き零れて。
シードに向かう。
矢車草。

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雑誌
花・第54号(待望社)
ピエ4号(海東セラ)

詩集
頼圭二郎詩集「葛橋異聞(土曜美術出版販売)」


その他
中日詩人会会報no147

雨が上がって、庭でスズメの声が幾つもするので、行ってみると大きな2羽が飛び立つ。近づくと、あらっ。小雀が、います。訓練飛行中に落下したのです。親らしき2羽が励ますのですが、飛べません。羽が濡れてしまって瞬発力がないのです。倒れた黄色のアイリスの茎の下。石の上に後ろ向きで隠れています。しばらく家に入ってそっとしておきましょう。元気が出ると飛びたてます。がんばれっ!

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6月6日の薔薇。
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満開の薔薇。
見飽きない。
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咲き零れる。
ヒメウツギ。

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成長する。
楓の森。
いつのまにか、カモミールの芽が出ていた。
土の中に種子が混ざっていたのだかれど、いつのカモミールだろう。
去年は作らなかったので、土の中で眠っていて、今年、芽を出した!

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
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ピーマンのかわいくて美しい白い花。
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ビューレッド・メロン
果肉がオレンジノメロン
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「おどりこ」という名前のトマト。
うつむきかげんで咲く。

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種子をどんどん飛ばしながら、上へ立ち上がっていくスミレ。
タチツボスミレはもう咲き終わってしまったが、さらに咲き続ける。

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ながく楽しませてくれるピンクの小花。
芝生のような草のなかから、長い茎をのばして咲く。

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野生のホップはつる性ですが、北海道だけに自生しています。
これは川辺に生えている15メートルくらいの高木。
「クマシデ」と思われる。
ホップのような花序がたくさん下っています。
とても珍しい木。
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イワタバコ。
高山植物ですが、園芸店に売られています。
たくさん花をつけました。
紫のたいへん、気品のある花です。

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しばらくは、その日の朝に七部咲きとなる薔薇をおとどけできると思います。
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雑誌や詩集が届いていますが、引き続き、長詩・散文に取り組んでいます。
しばらく、コメントをブログでは書きません。
雑誌名の紹介にとどめます。
時間があれば、facebookやtwitterで触れます。
そちらを見ていただければと思います。
ブログは記念の写真を掲載しています。

雑誌耳空vol.8(北川透)
国学院雑誌第4号(権田浩美)

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6月1日。午後の雨のあとの薔薇。
きょう、よく咲いてくれたね。
子どもの小学校の入学祝いに植えた薔薇。
一時、枯れかけましたが、復活しました。
8個くらいは咲きそうです。

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水色のデルフィニュームの朔果。
雨で花が散ると、子房がふくらんで、朔ができています。
実がぎっしり熟すと弾け飛びます。



6月2日。
東京、現代詩人会の「日本の詩祭」
第30回現代詩人賞は、五月十九日に97歳で逝去された、故・杉山平一さん。
ご子息が代わりに、朗読された。
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こころに沁みる、朗読でした。
会場で比留間一成さんと記念撮影。
よい、1日でした。

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自分でさえ把握できない流動する意識というものにであって、たじろぐ。
オリジナル・カード。A4封筒3枚を制作する。


エウメニデス初期のころに依頼した、表紙デザイン。
3枚。一枚採用。2枚没。やなぎさおりさんの作品。
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「詩と思想6月号」155Pで坂井ルツ子さんが、小島きみ子評論集「人への愛のあるところに」の書評を書いてくださいました。ありがとうございました。同じ号の156Pで、小島きみ子は、宮田小夜子詩論集「詩とは何か」の書評を書きました。お読みいただけると嬉しいです。宜しくお願いいたします。

東信州の初夏は花と緑!でいっぱい。

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しろつつじも今が満開。
蜜蜂もいそがしい。

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藤棚も蜂が群れ飛ぶ。
甘い香りに。

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花が落ちた梨の枝。
これから、子房の部分がふくらんで種子へむかう。
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カラスノエンドウ。
今年初めての花。
発見。

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桑の切り株から新しい枝。
そして桑の実。
ラズベリーのような実がつきます。
譲ってもらえたらジャムにしたい。


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胡桃林の胡桃の葉むら!
胡桃は佃煮や、お菓子の材料になります。
お菓子屋さんと契約している胡桃畑。


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初夏の千曲川。 - ポイエーシス

母のお見舞いに行き、柴犬の林太郎と千曲川の川べりを散歩した。
季節に白蝶、黄蝶に遭遇するが、林太郎が私と逆方向に走るので、すべての蝶に逃げられた。緑がやわらかく目にしみる。すぐに雷と激しい雨。林太郎は自分のおうちに入って出てこない。林太郎に「蝶」のことを教えておこう。

★まず。横顔が得意な林太郎
3月の林太郎。
きょうは、撮影できなかったので。
カメラのほうを向かないので。
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千曲川の白い水しぶき。
周囲のみどりのやわらかさ。
木立はすべて、アカシヤです。
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白蝶に逃げられたヨシキリの草地。
ヨシキリの塊をみるのもほんとうにひさしぶり。
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黄蝶に逃げられた、河川敷のアカシヤの林。

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スカシユリを15本植え替えしました。去年、3本いただいて、あちこちに実生の苗が生えたのを、整列させてみたのですが、咲いてみないとこれが良かったのか悪かったのかは、まだ判断できません、、、、。実生の苗は1箇所に3個くらい芽が出るのです。それを「自然」と呼ぶのかな。整列させると、自分が求める「感性」の一つが現われるのでは、などと思うのだけれども。整備は整美なのかもとか。探していた本の1つは、「芸術創造の心理学」です。.

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いろいろな嬉しいことがあった。


facebookでお友達の方から、朝顔の種子が届いた。

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擬態美術協会の個展のDM.


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お気に入りのカレンダーでビニール袋を制作!

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ポストカードを2枚制作!

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食べきれないレタスだった!
ここに4個のレタスがあります。この塊があと4個あります。
それから。
成長する植物たち!
つまり、花が咲き花が散る。

シードへ向かうということ。

イエスのパッションと違うのは、
植物の変化は、
人間のために差し出すのだけれども
犠牲ではないということだ。
血液を持たぬ生き物の違い。


「アスパラ菜」という名前の「菜」
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「ナス」
夕方のナスは、夕闇のなかで、ムラサキが輝いている。
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画家の東郷青児が翻訳したコクトーの「怖るべき子供たち(角川文庫)」の表紙カヴァーは池田満寿夫で、いまごろになって、ワンピースのすそから出ている2本の脚に気がついた。『そして歌われるのは―天使であり、眠りであり、夢であり、鏡であり、非情なミューズであり、眠りを破る雄鶏であり、あえてひとつのイメージに収斂すれば、虚空の中を綱渡りする夢遊病者、すなわち、夢遊病者のように生と死のあいだを往き来する詩人である(160ページ・精神の軽業師から)』そして情念は象徴に仮装されるのだと。
・・・・ほんとうに、そうおもうよ。まだ、はやいけれども、おやすみなさい、良い眠りを良い夢を、夢のなかでまた話そう!


夢の中で、この花について話そう!
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思考を行為する。 - ポイエーシス

きのう、嬉しい手紙がきたので、電話して、あしたお返事します、と言って、ポストまで行けなかった。考えていると、すでに行為したような、頭になっている。考えが進んでいると、進んでいるのに止まっている。それは、深化していないのかもしれない。
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思考を深化させる。
言葉を深化させる。
雨を感じている。
「トリスタンとイゾルデ」を聴いている。
まだ、感覚が浅い。
パタッと音がして、ベゴニアの花が散る。
触れるとき、花の重さの音がするんだ。
カサでもコソでもなく、パタッだった。
花は花の重さを深化させたんだな。


あの美しく咲いていた「ガラスの花」。触るとまだとても柔らかくて、緑のシードは、その輝きをさらに美しく変容させたのです。

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ちいさなピンク。
ちいさなみどり。
ちいさなふたつのかたまり。
雨の午後を和ませる。

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今週の詩集・詩書・雑誌

1.岸田裕史詩集「メカニックコンピューター(澪漂)」
2.現代詩展望? 詩人の言語空間 中村不二夫(詩画工房)
3.詩誌・モーアシビ26号(北爪満喜)
4.詩誌・かねこと2号(北爪満喜)
5.月刊詩誌・柵no.306(志賀英夫)
6.寺井青詩集「チルトテイソグナ(土曜美術出版社出版販売)」タイトルの意味が?
7.詩誌・東国143(小林茂)
8.嶋岡晨詩集「終点オクシモロン(洪水企画)」これもタイトルの意味が?でも、すこしだけ読んだが、怖いことが書かれている。


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★テキスト
1回、読んではあるが小論のために読み込んでいく。

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★『現代』という時代、それに加えて、「同時代性」というものを考える。
詩とは何か、と多くの人がいうが、言葉はすでにあるもの。


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1.母の日だったね。

都会で暮らす息子より、母の日のプレゼント。

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2.緑の花楓から学ぶことばかり。
うつくしいやわらかな緑の風が、この葉むらのなかから緑のスピリットがわきあげる。

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3.新しく発芽した楓の森。
いまは雑木林。


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4.すずらん。
一群れのなかで1本だけ咲いた。
「川原の砂は白くして、すずらんのはな、思わずや・・」とは、女子高校の校歌の一節だった。


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5.2回目に咲いた、妹の株のアマリリス。

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 感想が遅くなりました。

「渓と釣りを巡る短編? 隠れ沢」桑村勝史
 これまで黙っていたが、この作者の渓流釣り小説をひそかに愛読してきている。
 小説というのは人間を描くものだと思っている者から見ると、この「渓と釣りを巡る短編」では、渓流や岩魚や滝つぼやらの自然を描くことに精力が費やされていて、人間はその背景のように書かれている。最初はそのことに違和感を感じていた。
 しかし、小説が必ずしも人間のみに焦点を合わせる必要はない。人間も岩魚も渓流も滝つぼも民宿のおじさんも、存在としては等価なのである。むしろ人間描写だけに囚われずに存在するものを並べて描こうとする作者の姿勢をよしとし、渓流のせせらぎ、岩魚の魚影を楽しめばよいのだと気づいた。この作者の才能は狭い視野の中に見える人間を描くことより、世界全体として、あるいはその一部としての渓流や釣りをみごとに描くことにあった。と、今回の「?」でようやく思い知った。

「女子会をいたしましょう」 ひわきゆりこ
 日帰りバスツアーで知り合った、珠代、萌絵、私の三人が、その後集まって食事会をする、すなわち「女子会」をする様子が描かれている。その内容自体はいかにも現代風でよくある話になってしまうのだが、この作品の語り手というか視点となっている「私」だけでなく、珠代、萌絵の個性や生の来歴、そして今後をもきちんと提示するように描かれており、それがこの小説をしっかりと支えている。三人はもう多分二度と「女子会」で会うことはないだろうし、それぞれが個々の生を生きてゆく。
 先に評した桑村さんは、渓流や岩魚を描写することで逆に人間とは何か考えさせる。ひわきさんはその反対で人間そのものに視点を置いて直截的に描こうとしている。それも肯定的視点からである。

2012年5月14日 (月)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

【「赤い陽」有森信二】
 世界の文明国による第3次世界大戦と、大自然災害という二つの破局要素の中で、日本民族らしき男と異なる国の女性の恋人を描く。3・11の自然災害とそれをめぐる世界各国の対応をイメージの基礎に置いたのかも知れない。創造力をフルに発動させようという意欲が見られて、面白く読ませる。
 世界の情勢と国の社会体制の混乱、それと人間的な家族関係に絞って破局に陥る運命を描く。同人誌作品としては長いほうだが、この類の小説としてはエッセンスを集約した短編的なものにしかならない、破局小説として完成させるには長編にしなければならないことがわかる。
 たまたま、当会員の山川豊太郎氏が、暴動などで破壊された都市を漂流する長編小説(現在のタイトルは「繭(コクーン)version2」)執筆中で、その作品解説を予定していたので、比較文学的に読んだので興味深かった。

ヒヨドリが鳴いている。
ピーヨと鳴くので、
あれは
ピヨ鳥!

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向きを変えてまた
ピーヨ
と鳴く

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とうめいなしずく。
雨と雷。
雨があがって
びしょぬれ。
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五月の緑のなか。
もうすぐ
白い
うつぎが咲くだろう。
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わたしが二十歳のとき、美大生の小倉さん(女性)が制作してくれた像。
紙粘土でできている。
私の詩「風」からイメージして創作してくれた。


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大好きな青。
デルフィニューム。
恋愛詩を書いたむかし。


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きんぎょそう。
かわいい。
夏の草花。
種子がこぼれて来年もきっと芽を出して咲いてくれるだろう。
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失くした妖精のサンダルの片方を発見。
よかった。
額にいれてリボンで止めておこう!


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農業高校の少年たちがリヤカーで花売りをしていたので、1鉢購入。
ファンシーゼラニューム。

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書評を2本書く!!!!!
がんばろう!!!!!!!

「レテの川」 - ポイエーシス

物語を創らないと、物のなかへ入ってゆけないので、まずは興味のあるもので、簡単なものを創ってみる。ものとものをつなげてみる。きょうは、仕事の合間に「カード」を制作してみたのですが、、、ハートのリボンは、誰かに贈ろう。


本の片づけで、銀色夏生がでてきて、

「二人の決心がさっきかたまったようにこの川の中の葉もかたまっていておのずから輝く」という「葉っぱ」の帯文。

銀色さんは女性で、若い頃は著者は男性だと思ってすっかり騙されて、憧れて読んでしまった、この本のころは女性だと知っていましたけれど。
それで、きょうは「レテの川」を意識していたのでした。

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雨があがりに散歩すると、ひび割れたアスファルトの隙間からスミレが芽を出して咲いていました。スミレ、元気だね。

 ここは裏通りなので、なかなか改修工事の手がはいりません。でもこれでいいような気がします。人が歩く道で、車が走る道ではないのですから、ほんとうはアスファルト舗装ではなく「土の道」でいいのかもしれません。ひび割れていてもスミレが咲いていたほうがいいです。

 いくつもいくつもの坂道は子どもたちの遊び場でした。車が入ってこないので、子供用自転車の練習もしました。坂の石垣を下から登ったりしました。石垣もコンクリートで固められていました。宅地が整備されて新しい住宅が立ち並び、道を間違えてしまいそうです。

今はもう、路地で遊ぶ子どもはいません。
スミレ、元気だね!明日の朝もまた

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2012年5月 5日 (土)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本号では特集「震災・戦争と文学」がある。どれも読みでがあって、読み終わらない。もともと「戦争と文学」をテーマにしてきたものが、たまたま大震災があったので時代性を盛り込んだものであろう。昨年春の蒲田の「文学フリマ」で大塚英志氏が、震災が起きたからといって文学精神や役割のような問題が、どうこうということはない、と話っていた。基本的にはそうだが、それぞれの視点からの現代と絡みあわせた評論は、ふうん。そうなんだと、どれも勉強になる。高校生時代の生徒として、切り口と料理法の手腕で読ませた昔の文芸雑誌の風情を残している。
 評論を読んでいると、日本の現代文学がこのような状況を見せている前にはこのようなことがあった、と羽織の裏生地を見せるようなところがある。裏生地のほうが立派で、お洒落に見えるのは、元禄時代に似ているかも。
【『文芸誌とメディアに観る「3・11」と過去の大災害』永野悟】
 災害や核の不安について、文学では表現されていて、読まれていないだけだ、という視点と、表現の価値が小説的なものからエッセイ的なものまで拡げた説を展開させている。自分はそれらを散文として包摂する案をもっているので、なるほどそうですかと、意を強くする。
【『伊藤桂一の「黄土の記憶」』野寄勉】
 最初は、これがあるから送られてきたのかな、と思って読んだ。じつに優れた解説で勉強になった。伊藤桂一氏は今年で95歳になると思う。いくばくかの薫陶をうけてきた自分なりに、文章を書くポイントを学んできたが、そのなかに物事を「詳しく書くと面白いのだよ」ということがある。これは外の物を詳しく書く精密デッサンが芸術になるという意味に取れるが、それだけではない。心のありさまを精密に描くと言葉の芸術になるという意味もあると思う。
 本欄の紹介でも、そこがあると良い作品として紹介する基準のひとつにしている。この評論では、その心の様子を描いたところを戦場における人間観に結び付けていて、ためになった。基本には精神の最高峰を求めて登りつつも、ニヒリズムの谷間に落ちずにいる世界観というか、そういうところにあるようだ。
【「シャーキャ・ノオト(1)?原始仏教残影―」古谷恭介】
 いまどきの新書の仏教案内本の浅薄なところを見るにつけ、こういうのを読むと懐かしくほっとする。「もう生まれか変わりたくない」というニヒリズムと、道を求めるロマンチズムの融合の原点がありそうだ。
 つぎはできるなら小説3篇についても触れたい。
        (紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

きょうは、子どもの日!そして今夜はスーパームーン!
スーパームーンとは、通常の満月より大きく明るい満月のことですね。
画像は撮影できませんでした。
チューリップとその影。
おもしろい写真が撮れました。


どうしてそんなに横を向いているの?
どうしても影さんと話をしたかったの。
きれいね影のおはなさん。
きれいね影の花瓶さん。


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五月の風に揺れる「うつぎ」
もうじき、しろい花がさきます。
まわりじゅうが緑のなかの「しろ」は美しい!
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五月の雑誌・詩集 - ポイエーシス

坂道を上るとヤマブキが満開だった。
雨上がりの朝。
夜中には激しい雨と雷が鳴っていたのですが、ヤマブキの花は満開で迎えてくれた坂道。リラの木のうえで灰色のヒヨドリが鳴いています。

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5月第一週に届いた雑誌・どうもありがとう!
?おもちゃ箱の午後 4 (小林坩堝)
?サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち 5(小林坩堝)
?きょうは詩人 21(万亀佳子)

ヤマブキの木の下に群生する「野カンゾウ」
カンゾウはユリ科の植物。
花はユリににて、野生ですからキスゲのような花が咲きます。
今は葉の群れ。


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<2012年 5月 3日(木)付、「文芸同人誌案内」掲示板より転載・投稿者:kitaohi>

「照葉樹」が生まれ変わって「照葉樹二期」となった。水木怜さんが中心のようだ。随筆や詩も載せるという。創刊号(通巻12号)からいい作品が載っている。私は水木さんの作品を読んだだけだが、追って他の作品も読んでみたい。今回はまた的外れな感想かも知れないが、ここに載せることにした。

【「甘いリングの向こうに側に」水木怜】
 ベルサイユ通販のオペレーターの姫子(杉野姫子)を指名してくるクレーマーの小坂トヨは、クレーマーのブラックリストに載っており、「トヨばあさん」という有名人だ。そのトヨが今日も姫子に通販で購入した衣類の色でクレームをつけてきた。対応に苦労していると、主任の安藤が替わってくれた。安藤は36歳で姫子より8歳年上だ。安藤は簡単にカタを付け、姫子にその旨を連絡してくる。

 姫子が帰宅途中、博多駅近くのミスドの喫煙席でアイスコーヒーを飲んで一服していると、姫子の後ろの席で店員にクレームをつけている客がいる。トヨだった。姫子は、トヨに気付かれるのが嫌で帰ろうとしたとき、トヨがドーナツを気管にに詰まらせたらしく、苦しがる。姫子は急いで「トヨさん大丈夫ですか」と声をかけてしまった。結局、そのままトヨに誘われてトヨの家に行く。トヨの家は博多駅1丁目のビル街の裏の戸建て街にあった。古い建物だがいい家である。トヨは独り暮らしらしい。リビングの自分の居場所の周りにいろいろなものが置いてある。孫もいたらしい。

 安藤は、登山が好きで姫子を登山に連れて行く。大学時代は山岳部に所属していたという。下山途中に姫子は安藤に、ひょんなことからトヨに会い、自宅まで行ったこと、トヨは何か寂しさを感じさせる事情を抱えているらしいことを話した。安藤も何となくそれを感じていたという。

 トヨは相変わらず10日にあげず姫子に電話をかけてきたが、クレームではなく相談が多くなった。そのトヨが12月に入って電話で嬉しそうに孫の話をしたあと、姫子と買い物に行く約束をしたが、こなかった。2週間過ぎても電話もない。姫子は不吉な予感が閃き、心配になってトヨの家を訪ねる。トヨはいたが化粧っ気もない。、電気も点けていない暗いテーブルの隅には、小さなツリーが飾ってある。聞くと、娘の奈緒が冬馬を産んで1年もたたないうちに夫の正樹が亡くなり、夫の友人と深い関係になる。しかし、この男はチョッとしたことで暴力男に変身する。奈緒は、冬馬を連れて逃げてくるが、連れ戻されてしまう。弁護士などを使って別れることにしたが、その男は、今度は冬馬を連れて行ってしまい、結局奈緒も男のところに帰ることになる。

 姫子は、そんな話を聞いた後、帰るときにトヨさんから通販で購入した鍋セットを貰う。鍋料理なので安藤を自分のアパートに誘う。その話を安藤にする。その安藤の母の訃報を2月になってか聞く。
そんな時にトヨから姫子に電話があり、奈緒が男のDVにあい、怪我をしたという。姫子は安藤にトヨと奈緒のところに行って貰う。

 長い作品だが、読み易く、一気に読んだ。トヨを通して親、子、孫といった関係の難しい面、複雑な部分などいろいろ考えさせられた。DVの奥の部分が、この作品のように簡単に解決されるとは思わないが、しかし、このようなパターンもあり得るかもしれない。DV,、男女間の関係、家族などこの作品を読みながらいろいろ考えさせられた。とてもいい作品だと思う。

  季刊「遠近」kitaohiさん(「文芸同人誌案内」掲示板より転載

 題名を見たとき、霞が関や丸の内のキャリア女性の女子会が頭に浮かんだ。ところが読んでみたら全く違う。

 珠代さん(亀田珠代、67歳)、萌絵ちゃん(南萌絵、20歳)、私(岩倉千沙、43歳)の3人は、商店街の福引の景品で当選した日帰りバスツアーで、偶然一緒になった1人参加の仲間で、昼食の焼き肉を食べたり、バスが案内する貸工場などで試食したりしているうちに打ち解けて親しくなる。帰り際に珠代さんから、よかったらこれからまた会わないか、という提案があった。3人は、お互いの携帯に名前、番号、アドレスを登録する。私は携帯に登録したが、彼女たちから連絡が来ない確率が高いと思っていた。

 私は、旅行社に勤務しており、父、母と住んでいるが、最近は母も結婚を勧めなくなった。そんな時、旅行社の客で、建築デザイン会社を経営している佐野さんと知り合う。彼は、奥さんと高校生、中学生の4人家族だ。私も彼も、お互い「都合のいい相手」として付き合っている感じだ。

 今まで携帯にメールや電話が入るのは佐野貴之だけだったが、珠代さんから初めてメールが入ってきた。萌絵ちゃんも来るので珠代さんの家に来ないかという。珠代さんに案内された家は、正面玄関の両開きガラスドアに擦れた金文字で「亀田醫院」と書かれているお化け屋敷のような家だった。珠代さんの家はお父さんが医者だったが心筋梗塞で亡くなり、母親も10年前に亡くなったという。珠代さんは、食事を用意しながら、こんなのが女子会っていうんでしょうと、とても嬉しそうだ。萌絵ちゃんは酔うと「努力しなくちゃ」と繰り返す。

 萌絵ちゃんは、高校生の時、バイト先の30歳の男性と付き合うようになり、妊娠する。彼の家に住むようになったが、DVで階段から蹴り落とされて流産し、家を追い出される。現在はコンビニの店員で、ワンルームマンションに住んでいる。萌絵ちゃんは、自分が人並でないので男ともうまくいかなかったと思い込んでいる。

 3人が打ち解けて親しくなったころ、萌絵ちゃんから、遠い街に彼と一緒に行くからというメールを最後に携帯が繋がらなくなった。萌絵ちゃんの新しい彼氏は、サラ金で借金をしているので、温泉旅館に住み込んで返すことにしたらしい。

 萌絵ちゃんは努力家だから大丈夫だと信じ、これからは珠代さんと2人で女子会をしながら萌絵ちゃんが帰ってくるのを待つことにする。私は佐野さんの電話を携帯に受信拒否の設定をした。

 この作者の作品を多く読んでいるが、どれも全く違う感じの作品で、作者の発想の豊かさ、才能の奥行の深さを感じさせられる。構成もしっかりしており、読後感がいい。題名の現代性から受ける感じと作品の内容の意外性がうまく溶け合っている。珠代さんは、神社の前で手を合わせる女性だと本人にいわせ、ガンに罹っているとしているが、作者が一番書きたかった女性ではないか。若い萌絵ちゃんが古い考え方の女性として書かれているのも面白い。「私」は傍観者だが、珠代さんの生き方に共鳴している感じだ。この作者の作品は、いつ読んでもいい。私の好きな作者だ。これからもどんどん作品を発表してほしい。

昨日は1日中雨。きょうは朝のうちは雨。11時ごろにはあがって、さわやかな1日。庭の花楓の花が咲いて季節は、初夏。


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パセリを植える。
もちろん、タルタルソースを作るためさ。


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ルバーブの畑でコゴミを摘んできました。
コゴミとはクサソテツのことです。


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信州の春の野鳥たち
*ここで使用している写真は『丸山隆写真集 安曇平 四季の鳥』より
言葉は、わたしが適当に会話させています。安曇平の鳥たち、かわいいです。丸山さんは長野県詩人協会の会員です。

1.メスに虫をプレゼントするオス。
僕と付き合ってください!  ええ、いいわよ!

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2.おもいきり歌う。
もちろん「恋の歌」


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3.なんてったってmamaさ。
mamaがいなければ雛は生きていけない。
がんばれmama!

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4.僕のこと好き?

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きょうは誕生日。 - ポイエーシス

若葉のころ(FIRST OF MAY) 小島きみ子

わたしの声に被さる声はいったい誰の声なのだろう。わたしが口籠もるとき、誰かがわたしの喉に来ているのだ。そして、誰にも聞こえない声で、わたしに囁くのだ。(だれとも話したくないときは、(頭の上に(葦の原っぱを茂らせていること)さ。)ほら、そうやって。奇遇です、FIRST OF MAYきょうはわたしの誕生日です。そう言ったからか。あなたは、いつ、どこからわたしに来たのですか?

裏町では老いた人々が次々と亡くなって、空き家になって行く。産み立ての鶏卵を取りに行って、植木の根元で死んだ人、白鳥を見に行って、川に落ちてショック死した人、玄関で転んでそのまま起きられずに凍死した人、こうして人々のいなくなった町に新しい人々は移り住んでくるのだろうか、都会の詩人から届いた詩集への返信を横断歩道の手前で、ポストに入れて、東西に開いた新しい道を走って工業地...帯へ向かう。広い歩道と、川の上に架かった新しい橋とベンチ、新しい町を散歩する新しい夫婦、ジョギングする陸上部の高校生、開業したばかりのクリニックのピンクの外壁。紫の文字で「夢」と書かれた公民館の看板を通り抜けて、工業地帯の交差点に出る。市議選候補者が幟旗を持って演説している。暮らしやすい社会とはなにか、労働者の《希望》とは、この朝の意味の分からない雑音に心拍数を合わせること、かもしれない。余計な脂肪を燃焼させるエクササイズの要領で、さ。そして、農家の人がぽきぽきと血を吹くように、野菜を棄てる映像が映し出された。人々は波のようにくず折れていく。(葦の原っぱが見たい)と思う、旧い町の外れの荒地は、授業をサボる中学生たちが逃げ込む場所だった。あそこへ行けば、失った声に辿りつけるのだろうか、あのとき、言えなかったことが言えるのだろうか。あなたは、突然に歌いだす。(But you and I, our love will never die, But guess who cried come first of May)

注「FIRST OF MAY(若葉のころ)」はザ・ビージーズの一九六九年のアルバム「Odessa:オデッサ」に収録された歌


坂道を登っていくと、石の割れ目から、オドリコソウが咲いて、上り詰めると、電線で、黒いヒヨドリが鳴いていた。嘴がおしゃべりしている形で開いている。


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きょは誕生日。
なので、チューリップをアレンジメントして自分にお祝い!!!!!
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2,011年12月10日に洪水企画より発行した小島きみ子の評論集です。表紙と表紙カヴァーの蝶(デザイン:巌谷純介氏)がとても美しくて気に入っています。この本の書評は、だんだんと書いてくださる方がいてうれしいです。


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詩の雑誌「COAL SACK」72号で鈴木比佐雄さんが、小島きみ子の評論集「人への愛のあるところに」の書評を285Pで書いてくださいました。


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これから考えを深めていくための資料となるものの1つ。

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眠りの淵で、叔父や叔母が心配そうにやってきて、やさしく微笑む。「そっちのみずはあぶない」と言っているらしい。こっちの水は苦いのかもしれない。けれどそっちへ行くわけにはいかないのです。ここで、この場所で、やり遂げなければならいのです。

四月・最終週にとどいた詩集・詩論集・雑誌その他

詩集
里見静江詩集「雨のち晴れ(土曜美術社出版販売)」

詩論集
八重洋一郎著「詩学・解析ノート わがユリイカ(澪標発行)」・・・言語と宇宙の徹底的解析から詩の根源が探られる 全く新しい詩学誕生!(帯文より)

雑誌・その他
回遊第44集(南川隆雄)
4B 3号(南川隆雄・中井ひさ子)
2012 現代詩(日本現代詩人会)
日本現代詩歌文学館研究紀要<界>を歩む、富永太郎 (権田浩美)
石の詩 82号(渡辺正也)
CALSACK72号(コールサック社)・・・鈴木比佐久雄さんが285P.で書評を書いてくれた。しっかり読んでくださってあり、感謝。

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相変わらず、ダンボール箱にたまった雑誌や本の片づけをセッセと行う。2階から重い本を持って下へ降り、仕分けする作業が3月より続いている。昔、脱臼した左肩がまたイヤな感じで痛みだした。夜、しばらくすると痛みで起きる。明け方、死んだはずの人びとが心配そうにやってきて、やさしく微笑む。「そっちのみずはあぶない」と言っているらしい。セシウムのことだな、と思う。・・・こっちの水は苦いのかもしれない。
片づけをしながら、散文のための資料がたくさんそのままになって、書きかけの大学ノートが何冊も見つかる。労働に集中してきたからな、と思う。「物を書く」ということに集中していくことができたらどんなに幸福だろう。心にひっかかていた、本や雑誌、ノートが見つかってほっとした。書いていこうと思う。それはとりあえず「詩の精神のノート」としておこうと思う。文学ではなく、労働から考えてきたことだ、それは、文化のなかの詩だと思う。
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良い本がダンボール箱から発見される!こんな人が庭に現われたら怖いと思う。
「大野一雄」(書肆青樹社 1997年発行)著者:大野一雄・大野慶人・細江英公・
遠丸立・白石かずこ・丸地守・馬渕晃)

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もう1冊発見。
網野善彦著「女性の社会的地位再考」・・・・これは探していたブックレット。もう1冊あるはず。探そう。


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ユクスキュルが最初に発表したのは、1892年から1905年にかけておこなった調査をまとめた『動物の環境世界と内的世界』(Umwelt und Innenwelt der Tiere)。ユクスキュルの探求と推理はやむことなく続き、研究生活の後半では「トーン」(ton)という概念を駆使するにいたっている。トーンとは、知覚と世界の「あいだ」を占めている調子フィルターなのである。いまならトーンといわずに、志向姿勢とか統合的クオリアとか言ってもいいだろう。ユクスキュルはこのトーンとしての調子フィルターを「意味」ともよんでいる。ユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである。そのために「知覚標識の担い手」(Merkmatrager)という概念や「補体」(Komplement)という概念もつくった。そういう概念想定にはつねに勇気をもってあたった生物学者だった。ドイツ語では、小さな鏡をたくさん並べて合わせ鏡とする子供の遊びのことをグロッケンシュピールというので、ユクスキュルはこのような見方で世界との関係を眺めることを「グロッケンシュピールの問題」というふうに名付けた
われわれの知覚が世界を認識したのではなくて、環境世界が「知覚標識の担い手」をわれわれに送りこんで、動物や人間の知覚フィルターをつくったのではないか。そのようにユクスキュルは見方を逆転させたのだ。
 そうだとすると、いろいろ大胆な仮定が次々に提出できるようになる。たとえば、仮に “動物的自分” だとか “本能的自分” だとか “無意識的自分” などというものがあるとしても、それは環境世界によって「負の型」として形成されたものだということになるわけなのである。「私」というトーンは “Umwelt” がつくっているということなのである。 ユクスキュルはこの「負の型」ことを「抜き型」(Hohlform)とよんでいる。 これまたなかなか、うまい言い方だ。“Umwelt” はすべての動物たちの仕立て屋さんである。その仕立て屋によって「抜き型」されたものが、われわれ生物の知覚装置なのである。問題の解決をはるかなる過去に求めるのはやめなさい。問題の解決をはるかなる将来に期待するのもやめなさい。すべてのデザインと、そして「意味の編集」は、目の前にこそころがっている。ユクスキュルはそう断言したのだ。

お気に入りの遊歩道で。
思索にふける。
でも、この坂道は蛇がでてきそうで怖い。
イヌノフグリやヒメオドリコソウなどがたくさん咲いている。
仏の座は見かけない。
紫キケマンと区別がつかないが、キケマンのような花もある。


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でも、
ここには、
四葉のクローバーはない。
それでもいいし、あればもっといい。
鶯がどこかの枝で鳴いている。
あの山桜か。
カラマツか。
どこだろう。


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みどりに芽吹いたね!
からまつ!

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ハート型のツツジの刈り込み。
どんな花が咲くかな?
楽しみ!

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●●●ところで、あなたは、いま、どんな本を読んでいますか?
中学生も高校生もこの連休が終わるとテスト!が待っていますよ、ってね。
あなたが送ってくださった「ブックカバー」とても重宝しています。
電車で異動するときはいつもこのカバーをかけて読書します。
ありがとう、K子さん。

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赤松の種子とまつかさ。
これは赤松です。2010年にクリスマス・リース制作のために採集したものの残りです。松笠の襞の間に羽のような薄いプロペラが入っています。乾燥して時季がきて笠が開くと、プロペラの種子は風に乗って飛び立ちます。条件のよい所に着地すると、発芽して見事に「木」に生長していきます。⇔上の芽吹きの写真を見てね!


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「咲いたね!ヤマブキ!」美しい「やまぶき色」だった。

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植物にとっての「野生」ということは、崖っぷちだったり、石垣の隙間だったり、人間に邪魔されたくない「生き方」なのかな、、。咲いたよスミレ!石の隙間で!


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『「感性の修行」をする連休!』と、いうことでもう夜8時。
読書しよう。勉強もしなくてはね。それから、趣味の園芸も頑張りたいです!


●●●散文を書いている途中で、調べたいことがあって、ブラックの画集を二十二日の夜に注文したら二十三日に届いた。(ジョルジュ・ブラック(Georges Braque, 1882年5月13日 - 1963年8月31日は、フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとり。) 画家の言葉として:「変容と神秘」 を確かめたいことがあった。文章からは、学ぶことがあったけれども、ブラックの画にはあまり興味がわかなかった。困ったことだった。見方が違うのかと思ったが、時間が無いのでまたあとで考えることにした。
 桃の花が咲き出して満開。ローズピンクっていえばいいのか、ピーチ・ピンクっていえばいいのか、昔に流行ったショッキングピンクですね。霙や雨の中で、「果敢に」咲いている。いい感じのピンクの木。窓から見ると、「ピンクは、頑張っている」と思う。春だというのに冷たい雨や霙のなかで桃の花のピンクこそはジョルジュ・ブラックの文章、「変容と神秘」のなかにある「韻」に匹敵すると思う。ポエジーとは日常のなかに「韻」を見つけることだ。

●●●●春は、大胆不敵な鳥語でにぎわっている
 きょうは、たくさんのグリーテイングカードを製作しました。考えたことを形にする練習。桜に来たメジロを大急ぎで同僚が撮影してくれた写真をもらって帰宅して、それがどこかへ置き忘れてしまったので、土曜日から探してやっと出てきました。体長は桜の花びら三枚くらいです。羽毛はウグイス色。目の周りが白くて目はマーブルチョコみたいに茶色です。オモチャの鳥が止まっているみたい。桜が咲いていた、三日間くらい遊びに来て、さかんに花を食べていましたが、今の桜は青葉なので来ません。もう鳥は何も来ません。がっかり。けれども昨日の土曜日から、我が家の庭の花楓に、なんとまあ山鳩の夫婦がやってきて、巣をつくり始めました。びっくり。葉むらにそれらしき小枝があって、メスが座っています。オスは少し離れたところから私たちを観察しています。あんまり見ていると、二人はどこかへ行ってしまって夕方まで帰ってきません。昨日も今日も夕方には帰ってきます。この木を二人の塒にしたのでしょう。朝には、オスが小枝を運んできてそれをメスに渡し、メスはくちばしを器用に使って形を整えて巣の形にしていきます。これでほぼ完成なのかな? いつも一人で庭にきて、デデポポと歌っていたのがメスなのかオスなのか、恋人を連れてきて、花楓に巣を作ったなんて、すこし嬉しいです。私たち家族を信頼してくれたのでしょうから。隣の家にはツバメが五月の連休にやってきて玄関に巣を作りましたし。門のあたりが騒々しかったのは、早い朝にこれらの鳥たちが、家作りにいそしんでいたからでしょう。なにせ、カラスまでがやってきて、隣の家のむきだしになったヒバの木の樹皮を剥いでいるのを見たのですから。彼らも器用にくちばしで皮を剥いていましたから、どこかに巣をかけたのでしょう。鳥の春は、朝四時くらいから、目をさましていそがしく働いています。人間にはわからない鳥語であんなに大声で堂々と愛を告白しあっているのですから、鳥って大胆不敵。

●●●●うつくしとは、奇しだったのか
 いそがしい、には違いないけれども、野外観察に行くと自然は常に変化していておもしろい。職場の敷地内で「おとしぶみ」の「ユリカゴ」を見つけた人がいて、そのゆかしい名前にしばし聞きほれる。葉に産み付けた卵をくるくると葉巻のように巻いて、葉にぶらさげるか、地面に落とすか(おとしぶみ)する。葉を食べて出てきた幼虫はさらに付近の新鮮な葉を食べて成長して舞い立つという、虫の一生。くるくる巻かれた葉の精巧さと、昔の人が恋する人に手紙を送るとき、巻紙を地面にさりげなく落としてそれをかの人が拾う、というその仕草から、この虫の葉に巻かれた葉巻がやがて虫に成長するまでを「おとしぶみのユリカゴ」と呼ぶ慣わしはなんとも美しく、奇しな、神秘な名前。興味のある人は、オトシブミで検索してみてください。観察記録がヒットしますよ。
 日本の中世の色彩言語は「黒」「赤」「しろ」「青」だった。あお、の語源は「あはし:淡し」 「あはい」ということばで、微妙な、色の配合と違いを表現した、らしい。それで、「うつ」の漢字はいろいろあるが、「空、虚、鬱」「美しい」はさきほどの野外観察でも使用した「奇し(くすし:うつくし)」へつながっていく。美のなかに含まれる「空(くう・うつ):虚(むなし・うつろ):欝(うつ)」 ・・・うつくしとはめづらしで、「美し=奇し」となる。「美」の拡大はドストエフスキイに言及されるけれども、日本語の語源をさかのぼると、「美」が「奇」へ連結されるとなると、美はやはりファンタジーであったと思う。と、いうことで、野外観察は楽しい。オトシブミから「奇し」な虫が出てくるのが楽しみです。

? 咲いたねチューリップ

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?牧場の桜、満開。
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?山桜も満開。


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?みどりのネギは美しい。